第4話 宿営地
播磨と吉備の国境は船坂峠という。
標高はそれほど高くないが、道が狭く険しいので日が暮れてから進むことはできない。
一団は船坂峠から一里ほど離れたところを流れる千種川の上流で行軍を止めた。
今日はここで陣を張るようだ。
夕闇が迫る中、河原には無数の焚き火が揺れている。
兵士たちは五人ほどのグループに分かれて焚火を囲み、思い思いに疲れを癒していた。
無数の焚火の中心にひときわ目立つ極彩色の布を用いた、豪華な天幕があった。自称征西大将軍の物部粗鹿の天幕だった。
天幕が張られた直後から、おおよそ軍隊には似つかわしくない下品な笑い声が響いていた。
粗鹿を持ち上げる側近たちのおべっかと、それに乗せられた粗鹿の笑い声は川音を飛び越えて周囲の山々に反響していた。
天幕が張られた直後に多数の物資が運び込まれていたが、おそらく相当量の酒も含まれていたのだろう。
あの天幕と酒でどれほどの牛を使ったのかと、川下で牛の世話をしていたオケはため息をつきたくなった。
兵士たちの焚き火は、粗鹿の天幕を囲うように二層に分かれていた。内側は大和の兵。外側に五十しかいない播磨の兵と、オケたち牛飼いや雑用のために連れてこられた奴隷たち。
特に、一団が陣を張る河原と山陽道を結ぶ小道の周辺に播磨の兵が押し込められていた。
「……あいつら、俺たちを盾にする気満々だな」
播磨の兵の一人が、不満げに吐き捨てた。
大和の兵たちは、重い荷運びや炊事の雑用をすべて播磨兵に押し付け、自分たちは粗鹿のおこぼれの酒を酌み交わしている。そればかりか、時折聞こえてくる彼らの会話は、播磨やこれから向かう吉備のことを見下す言葉ばかり。
大和兵の言葉を聞いて、播磨兵の中で最も老いた男が声を震わせた。
「小柄殿、ワシは口惜しい。
もとは大和も播磨に上も下も無かったはずじゃ。ワシらは互いに協力しあっておったはずじゃ」
老兵の言葉に、播磨兵のまとめ役である赤石小柄が小さく首を横に振った。
「大和の大王が今よりも数代前の時代はそうだったと聞いております。当時も軍事力でいえば大和が抜きん出た存在でした。ですがそれを鼻にかけず、民を思いやり、周辺諸国とも円満な関係を築き周りからは徳王と呼ばれていたとか。
ですが、徳王の死後徳王の息子ではなく弟が王位を継いだことで全てが狂い始めました」
気づけば、小柄の周りに人が集まっていた。
ほとんど播磨の地から出たことがない兵たちにとって、小柄から聞く大和の話は新鮮なものだった。
いや、小柄はこれまでも大和の国の変質について身分の隔たりなく播磨の民に伝えようとしていた。
だが、誰も他国の事情が自分たちの生活に影響を及ぼすとは考えず真剣に聞いてこなかったのだ。今回自分たちが当事者になって初めて大和という国のことを知ろうとしていた。
「大和の王位は子は受け継がれるものでした。ですがそれが弟の手に渡った。
子が小さいうちの代理だったと言われていますがよくわかりません。ただ一つ言えるのが異例の事だった為弟の権力は盤石ではなかった」
権力を掌握しきれていない権力者がどういう行動をとるかは決まっている。
「大和はその強力な軍事力を背景に、これまで連合を組んでいたいくつかの王族を屈服させました。そうする事で内外に自らの力を見せつけたのです。
播磨もその時に大和に対して膝を折りました。播磨には今も昔も大和に対抗できるだけの力はなかったのです」
播磨兵たちが囲む焚き火の周りはシンと静まり返っていた。
今この瞬間、この場所こそが大和と播磨の関係の縮図なのだとみんなが理解した。
最新の装備を揃えた屈強な正規兵五百の大和に対して大した装備もなく普段は農業をしているもののかき集め五十の播磨。これでは比べることすらできない。
言いようのない無力感が彼らの心を支配していた。
「おい、播磨の! 焚き火の薪が足りんぞ! さっさと拾ってこい。都の御方が風邪でも召されたら、お前たちの村ごと焼き払ってやるからな」
大和兵の嘲笑が響く。小柄は拳を固く握りしめたが、何も言い返さなかった。ここで争えば、播磨の里にどのような災いが降りかかるか分かっているからだ。
「……耐えろ、耐えてください。我らが守るのは大和の面目ではない。我らが播磨、賀茂の里の安寧なのです」
小柄は播磨兵たちに低く押し殺した声で言った。その視線の先では、牛の世話を終えたオケとヲケが、闇に紛れるようにして冷めた目でその光景を眺めていた。
=======================================
「外から見てみなければ知ることができないとこがあるのですね」
ヲケは播磨兵に囲まれる小柄なことを見ながらつぶやいた。
「我らが大和にいたころは……」
「やめよ。
今は行軍中、それも大和の兵と共にだ。どこに目があるか分からない。
それに、その先は言わなくてもわかる。俺も同じことを思っていた」
二人の故郷である大和の国が周囲からどう思われていたのか。今聞いた小柄の話は、皇子であった頃の二人には想像もできなかっただろう。
二人の間にしばらくの間沈黙が流れた。
「それにしてもこの配置少し気になるな」
しばらく間をおいてオケが口を開いた。
その目の先には、播磨兵たちとそこから幾分離れたところに立つ大きいが簡素な天幕があった。
「根日女のことですか?」
「ああ、これではまるで兵と根日女を分断するかのような。
あの将軍、愚鈍だとは思っていたがもしかすると俺たちが思っている以上に愚かかもしれない」
「では、念のために備えておきますか」
ヲケは兄の不安を汲み取ると静かに闇の中に消えていった。オケはそれを見送った後と、じっと宿営地の様子を監視し続けていた。
================================================
宿営地の一角、川上の最も清浄な場所に根日女の天幕はあった。
川下に集められた播磨兵のとはいささか距離があり、天幕の周りには少し距離を置いて大和の兵が屯していた。
根日女の天幕には大和から供出された肉や魚が並ぶ豪華な食事が運び込まれていたが彼女は、それらには手をつけず賀茂の里から持ってきた乾いた供物を静かに噛み締めていた。
侍女は外の騒がしさに怯え、根日女の側を離れようとしない。
「根日女様。兵士というのは何故これほど騒がしいのでございましょうか?それに下品で不敬でもあります。
天幕を張る間、何人の兵士が下衆な目で根日女様のお姿を覗き見ようとしてきたことか。それにあの将軍様の目。高貴なお方とは心得ますが、私は恐ろしゅう感じるときがあります。行軍の間中、ずっと根日女を……まるで獲物を見るような目で」
「……分かっています」
根日女は、膝の上の竹筒に触れた。泉で汲んだ水はまだ使っていない。
あの時、牛飼いの男――オケが投げかけた問いを思い出す。
『高貴な者の汚れであれば、穢れではないのか』
その言葉を反芻するたび、彼女の心には言い知れぬ不安が広がっていた。自分が信じてきた常識が、外の世界の暴力的な欲望に侵食されようとしている予感があった。
まるで祭りの夜のように騒ぎ立てる大和の兵と、その召使のように動き回る播磨兵のの姿が天幕から見える。その対比もまた、彼女の不安を大きくさせた。
「闇雲に恐れても意味はありません。
我らは我らの勤めの果たすのみ。神への祈りを捧げましょう」
努めて明るい声を出した根日女に、二人の侍女が静かに頷いた。
だが悪い予感は、夜が深まった頃、最悪の形で現実となった。
「将軍・粗鹿様がお呼びである! 根日女殿、直ちに本陣へ参られよ!」
天幕の外で、大和兵の傲慢な声が響いた。
根日女と侍女が顔を見合わせる。ようやく儀式の終わりが見えてきたところだった。こんな時間に呼び出すなど、正式な祈祷の依頼であるはずがない。
根日女は手に持っていた竹筒を無意識に胸元に引き寄せていた。
侍女が天幕の外へ出ると、そこには松明を掲げた粗鹿の護衛兵たちが、壁のように立ちはだかっていた。その中心から、酒の臭いをプンプンとさせた粗鹿が姿を現した。
粗鹿は侍女を押し退けると、静止を聞かずに根日女の天幕の中へ侵入した。
「根日女様。夜分の訪問お許し願いたい」
口調だけは最低限遜りながらも、傲慢な態度で粗鹿は捲し立てる。根日女たちには、非難の声を上げる隙すら与えられない。
「お恥ずかしい話、吉備との決戦を前に、私の心が落ち着かぬのだ。聞けば、貴殿の祈祷は不思議な力を宿すという。今宵は、私の天幕の中で、二人きりでその力を授けてもらいたい」
粗鹿の目は濁り、口元には卑屈な笑みが浮かんでいる。後ろで付き従う兵士たちも同じような気持ちの悪い笑みを浮かべている。
「二人きりで」という言葉に込められた意味を、その場にいた誰もが理解した。
侍女が何か言おうとしたのを、根日女が手で静止する。ここで無礼を働けば、侍女の命など簡単に消えてしまう事を根日女は理解していた。
「将軍様、巫女の祈りとは清められた部屋の中。女人しか立ち入ることのできぬ結界の中で行うのが作法というもの。将軍様の天幕で行うなどもってのほかでございます。
それに世間ではどのように言われているか存じ上げませんが、私にはとてもそのような力はありません。ただ真摯に皆様のご武運を天に願う巫女にございます」
根日女は精一杯の勇気を振り絞って断った。だが、粗鹿はそれを鼻で笑った。
「作法だと? ここは戦場だ。戦場では、大王の名代たる私の言葉が唯一の作法だ。それとも何か、大和の将軍の命を拒むというのか? それは播磨が大王に弓を引くという意味だと受け取ってもよいのだぞ」
「そんな……!」
侍女が震えながら根日女の前に出た。
「将軍様、根日女様は神に仕える身。その御体に触れるようなことがあれば、神の祟りがございます!」
「祟りだと? 笑わせるな」
粗鹿は侍女を乱暴に突き飛ばした。
「播磨の神など、大和の武威の前では、泥まみれの牛も同然。おい、連れて行け!」
護衛兵たちが一歩踏み出した。
その時、播磨兵の天幕から小柄が駆け込んできた。
「将軍様! お待ちください! 根日女様は我が播磨の魂にございます。このような強引な真似は、兵たちの士気に関わります!」
小柄が膝をつき、必死に訴える。
外を見るといつのまにか大和兵による人垣ができていた。他の播磨兵はそこから一歩も進めていない。小柄は大和兵を掻い潜ってここまできたのだ。
一歩間違えば首を刎ねられてもおかしくない状況の中、主君の娘を守る立派な行動だった。だが、そんな小柄を見る粗鹿の顔には明らかな蔑みが浮かんでいた。
「赤石小柄か。お前、勘違いしていないか? 士気? 貴様らのような地方の雑兵の士気など、私の知ったことではない。お前たちの役割は、大和の盾となって死ぬことだ。その後に我ら大和の兵がゆるりと吉備を平らげる。
そうすることで播磨にも平穏をもたらすことができるのだ。その報酬として、巫女の一人や二人、差し出すのは、当然の礼儀ではないか」
「……!」
小柄の腰の剣が鳴った。
だが、周囲の大和兵たちが一斉に鉄製の長剣を抜き放ち、小柄の喉元に突きつけた。
小柄が帯びているのが同じ鉄製の剣であったなら勝負はまだわからなかっただろう。だが、青銅の剣では勝負は火を見るよりも明らかだった。
「抜いてみろ、小柄。その瞬間に、播磨の兵五十人は全員処刑だ。そして賀茂の里も、叛逆の徒として火の海にしてやろう」
粗鹿の言葉は、単なる脅しではなかった。
圧倒的な武力と、大王の名の下にある絶対的な権威。それこそが、この時代の大和と播磨の関係だった。
根日女は、膝を震わせながら立ち尽くしていた。胸に抱えた竹筒を握る力だ強くなる。
侍女は泣き崩れ、小柄は屈辱に顔を歪めて地面を叩いている。
誰も、この傲慢な暴力を止めることができない。
「さあ、根日女。来てもらおうか。大和の繁栄のために、まずはお前のすべてを捧げよ。
そう案ずるな、何を隠そう私は"儀式"が得意な方だからな」
下品な笑い声と共に粗鹿の太い腕が、根日女の細い肩を掴もうと伸びる。
根日女が絶望に目を閉じ、天を仰いだ。
その時だった。
闇の中から、泥にまみれた麻の衣を纏った男が、焚き火の光の中に姿を現した。
そこに現れるまで、誰もその男が近づいてくることに気がついていなかった。
急に現れた男に驚き粗鹿の動きが止まった。
その先に根日女が二歩後ずさる。
粗鹿から距離を取ったところで根日女は気がついた。この隙を生み出した男が今日の昼間泉で出会ったあと牛飼いのオケだということに。
オケは身分の違う人に相対しているという気負いを全く感じさせない、自然体でそこにいた。
むしろこの泥だらけの男が放つ威圧感は、この場にいるだよりも強く感じられた。
「――将軍様。その神事は、少々相手が違うかと存じます」
低く、響く声。
オケが、その鋭い瞳で粗鹿を射抜いた。




