第3話 泉の出会い
賀茂の里を発した軍は、山陽道を西進し、飾磨郡を超え揖保郡に差し掛かっていた。
ここまでは平地の続く山陽道だが、揖保から吉備までは険し山道が続く。
大和に従う播磨と、必ずしも従順でない吉備の立場の違いは。この地理的要因が少なからず影響している。
山間に差し掛かると、春の陽光はいっそう厳しさを増し、行軍の足並みを鈍らせた。
昨日までの雨が残した深い泥濘は、兵たちの足首を掴んで離さず、六十頭の牛が放つ湿った獣臭が、逃げ場のない谷間に滞留している。
オケとヲケは前を行く兵士たちに遅れないように、ほかの里の牛飼いたちとともに、懸命に牛たちを先導する。
「休憩だ! 全軍、足を止めよ!」
山道を一刻ほど進んだところで、自称征西乃将軍・物部粗鹿の号令が響き渡った。
号令を聞いた兵たちは崩れ落ちるように道端へ座り込む。
大和の兵たちは精鋭と聞いていたが、この程度の山道でへばっていたのでは先が思いやられる。
とは言っても、すでに数名の落伍者を出している播磨兵よりは何倍もましなのだろうが。
オケは、息も絶え絶えといった様子の播磨兵を見て苦笑いを浮かべた。
「みんな普段から農作業でもっと過酷な生活をしているはずなのに」
不思議そうな顔をするヲケに、オケが答える。
「慣れた作業と初めてのことでは勝手が違うのさ。
実際、へたり込んでいるが肩で息をしているのは大和の兵のほうが多い。
播磨の兵は、肉体的な疲労よりも急に兵役に駆り出された精神的な疲労のほうが大きいはずさ」
今回の吉備遠征の最大の目的は威力偵察だと粗鹿はいっていた。
五百という兵の数は、その辺の小国相手ならいざ知らず、吉備という大国を相手に全面的な軍事衝突を起こすのには心もとない。
だが。下っ端の兵士たちにはその情報はうまく伝達されていないように見えた。
そもそも二日前に召集を受け、わけもわからず軍に加わったものが大半だろう。
もう二度と故郷に帰れない。そう考えるものが多かったとしても不思議ではない。そんな心境では、ただの行軍も計り知れない苦行となったはずだ。
そんな精神的に参ってしまっている播磨兵をなんとか鼓舞しようとしているのが、彼らのまとめ役の明石小柄だった。
水が入った竹筒をもって、うずくまる兵の肩をたたいて回っている。
肩をたたかれた兵たちは、疲れを隠せない顔を動かし笑顔を作った。
苦境において兵たちに笑顔をもたらすことができるのはいい将の証だ。小柄のことは名を知る程度だったが、どのような将か今回の遠征で見定める必要があるな、とオケは思った。
「俺たちも手伝いたいところですが」
「ああ、牛飼いには牛飼いの仕事がある。休んでいる暇はないな」
行軍の最後尾を歩くの牛飼いたちにとっては、この時間は休憩などではなかった。もしろ、ここからがまた別の仕事の始まりだった。
粗鹿が休憩場所に選んだのは山中の少し開けた場所。近くに川はない。
つまり、牛たちに水を飲ませようと思うと近くの水場から水を汲んでくるしかない。
「兄上、あちらに泉があります。あそこなら、ほかの牛飼いたちと協力して水を運べましょう。
ただ、牛に飲ませる前に、俺たちの泥と汗を流したほうがいいかもしれません」
ヲケが指差したのは、街道から少し外れた、木漏れ日の差し込む小さな窪地だった。そこには岩の間から絶え間なく透明な水が湧き出し、小さな泉を作っている。
水量は十分。湧き水なので飲んでも問題はないだろう。
「……ああ。あんなにいい水場なのに。先頭の兵隊たちは見逃したみたいだな。
悪いが、見つかる前に一浴びしてくるか」
オケは短く答え、麻の衣を脱ぎ捨てた。
彼の背中には、数年に及ぶ牛飼いの労働で鍛え上げられた、鋼のような筋肉が躍動している。
だが、その肌の至るところには、かつての逃亡生活で負った古い傷跡が、消えない地図のように刻まれていた。
ヲケは兄の背中を見ると、痛ましそうに顔をゆがめた。
「俺は水桶の準備と、ほかの牛飼いたちに声をかけてきます」
「ああ。悪いな」
オケは自らの背中にそっと手をやり、それ以上は何も言わずに泉に向かった。
泉の周りは、春の陽気を締め出したかのようにひんやりと冷めていた。
右足から泉に入る。
冷たい、だが想像よりは優しい冷たさの水が足先を包む。二歩三歩と進む。深さはそれなりにあるようで、すぐに腰の上まで水が来た。
眼前の水をすくい顔を洗う。乾いた泥が洗い流されて、久しぶりに顔が自由になった気がした。
顔を洗い終えると思い切って息を止め、頭の先まで泉の中に沈み込んだ。肌に刺すような冷気が全身を包み、ほてった体を冷やしていく。とても心地がいい。
オケは沈み込んだまま水中を歩き、水が湧き出る岩間まで移動した。湧き出る水を口でそのまま受け止めるとのどを鳴らして水を飲んだ。
満足し泉から上がり、麻のぼろきれで体をふいていると反対側から、鈴の音のような衣擦れの音と女性の話し声が聞こえてきた。
「あら。先客がいたようですわ、根日女様」
甲高い、だが少しとげのある声。
オケが振り返ると、そこには儀式用の衣を纏った根日女と、その身の回りを世話する侍女の二人が立っていた。
根日女は、儀式に用いるための白真砂を詰めた竹筒を手にしている。巫女としての清めの水を汲みに来たのだろう。
オケの逞しい裸体を見て、侍女一瞬赤面したが、すぐに顔をしかめあからさまに不快げに鼻を鳴らした。
「これ、牛飼い! 下がりなさい。根日女様が先勝祈願のための水を汲みに来られたのです。
その汚らわしい体で泉の水を穢さないでいただけますか」
オケは声をかけられても気にすることなく、体をふき終わると麻の衣を身にまとった。
反応を返さないオケに、侍女たちは少し面喰いながらもさらに続ける。
「そもそも、牛飼いの下男が儀式に使う水をくむ泉で体を洗うなど、言語道断です」
頭に血が上り、真っ赤になった顔で侍女が叫ぶ。
根日女はその様子を困ったように見つめている。侍女を見ていた目が、オケのほうを向いた。
その目はまるでオケに助けを求めるように見えた。
「失礼した。だが、ここはただの野の泉。誰が使おうと勝手なはずだが」
オケは体をふいたぼろをたたみながら、目を向けることなく答えた。
「何を無礼な!」
侍女が一歩前に出た。彼女は根日女の権威を盾に、オケを激しく睨みつける。
「根日女様が汲む水は、神聖な神事のためのもの。そなたのような下賤な民が、泥にまみれた体を洗った後では、泉の水は完全に穢れてしまいました。
根日女様、別の場所を探しましょう。こんな汚れた水、神様もお喜びにはなりません」
根日女は、ただ黙ってそのやり取りを見つめていた。
彼女の瞳は澄んでおり、そこには侍女のような攻撃的な敵意はない。ただ、生まれた時から神性を有し、尊き方として育てられてきた根日女にとっては、侍女の言い分は疑うまでもない当然の理屈だった。
オケのことを下賤の者と蔑む気持ちはない、ただ同時に、オケと自分は違う存在であると生まれた時から認識している。
そういうゆがんだ純粋さが、根日女にはあった。
その目を見て初めて、オケは根日女たちのほうを見て声を出した。
「……一つ聞きたい。おぬしは、何をもってこの水が穢れたと判断したのだ?」
「決まっているでしょう。卑しい牛飼いの体の汚れがついたからです」
「卑しいものが触れると水は穢れるのか。
では高貴な身分の者の汚れであればどうなる?同じように泥にまみれ、汗にまみれた体を洗い流したとしても、そのものが高貴な生まれであったならその水は穢れないのか?」
オケが問うと、侍女は当然だと言わんばかりに胸を張った。
「当たり前です! 例えば、征西大将軍様のような高貴なお方の体から出たものであれば、それは穢れではありません。むしろその尊きお血筋の力が水に移りより儀式に向いた神聖なものになります」
それを聞いた瞬間、オケの唇が微かに歪んだ。
皮肉や嘲笑ではない。あまりにも堂々と滑稽な理論を構築する侍女をおかしく思ったのだ。
だがこれは侍女が悪いのではない。高貴な血と下賤な血は異なる。その考えを広めたのは、ほかでもない大和の王族たちだったからだ。
オケは己の一族の業の深さを笑ったのだった。
「なるほど、それはいい」
オケは根日女の目を真っ向から見据えた。
根日女は、一瞬、その鋭い眼光に息を呑んだ。ただの牛飼いにはあり得ない、深山に棲む龍のような、底知れぬ威厳がその瞳に宿っていたからだ。
「……ならば安心するがいい。そういうことなら、この水に穢れなど一滴も混じってはいない」
「え?」
「高貴な者の汚れが穢れでないと言うのなら、この泉は今、この上なく清らかなままだ」
オケはそう言い捨てると、混乱する侍女を置いて、足早にその場を後にした。
「ちょっと! 何よ、今の不遜な言い草は……!」
侍女は顔を真っ赤にして叫んだが、オケは二度と振り返らなかった。
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後に残された根日女は、波紋が広がる泉の水をじっと見つめていた。
(この水に、穢れはない……?)
目の前を去った牛飼いの言葉の真意を根日女は考えていた。
あの牛飼い言葉が本当なら、牛飼いは自分自身を「高貴な者」だと言ったことになる。泥にまみれ、獣の臭いをさせながら、牛を追っているあの男が。
年は根日女と同じくらいだったか。
ちらっと見えてしまった裸を思い出す。女性の者とは明らかに違う筋肉質な体が、泉に反射した陽光に照らされていた。同年代の威勢の裸など見たことがない根日女にとっても、あの体が一般的なものでないことは容易に想像できた。
「根日女様、行きましょう。上流の、まだ誰も触れていない場所へ……」
「いいえ」
侍女の勧めに、根日女は静かに首を振った。彼女は跪き、若い牛飼いが今しがた体を洗っていた場所の、すぐ近くに竹筒を差し入れた。
「ここで汲みます」
「えっ!? ですが、今の男が……!」
「いいのです。この水は……不思議と、他のどの場所よりも澄んでいるように見えます
それにあの者の言葉も気になります。」
根日女の指先に触れた水は、驚くほど冷たく、鋭かった。
こんな冷たい泉に身を沈めていたのか。と、いまさらながらに驚く。
竹筒に慎重に水を汲むと、こぼれないようにしっかりと栓をした。
根日女は、自分でも理由の分からないまま、その竹筒を大切そうに胸の前で抱いた。
泉の奥では、男たちの声と足音が近づいてきた。
どうやら先ほどの牛飼いが仲間を引き連れてものどってきたらしい。牛に水を飲ませようとしているようだった。
「根日女様、これ以上下賤の民にお身を晒すのはよくありません。お早く輿に」
「ええ、でもあの方のお名前くらいは聞きたかったですわ」
名残惜し気に泉の奥を見つめる根日女は、侍女に手を引かれ泉を後にした。
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行軍が再開されても、根日女の心は輿の中に留まっていなかった。
彼女は、窓の隙間から時折見える、最後尾の牛飼いたちの姿を探していた。
(あの男……オケと言いましたか)
牛飼いの名前は、播磨兵に聞けばすぐに分かった。
根日女ほどではないが、流れ者の優秀な牛飼い兄弟のことを知らない播磨の民は少なかった。
この行軍に参加しているものは全員普段は農業をして暮らしている。農業を営む野々にとって、優秀な牛飼いは何よりも得難い存在だという。
根日女は泉で出会ったオケのことを思い出す。
人々が根日女を見るときの眼は大きく二つだった。惧れか畏敬。
神の声を聴き、奇跡を起こす播磨一の巫女。そんな二つ名が先行し、だれもかれもが根日女のもつ特異な力を見ていた。誰も、根日女という少女を見ようとはしなかった。
だがオケは違った。
彼は、彼女に付き従う侍女と彼女自身のことを全く同じ存在としてみていた。
人には高貴な血が流れるものと下賤な血の流れるものがいる。
そんな当たり前をあざ笑うかのような表情を、オケの眼から感じ取っていた。
「根日女様、先ほどの下男のことはお忘れください。きっと、頭が少しおかしいのでしょう。
里の者は優秀な牛飼いといいますが、所詮は流れ者。素性の知れない輩です」
侍女が気遣わしげに声をかける。根日女は微かに微笑んだが、その心根は決して侍女と同じ場所にはなかった。
彼女は、自分がどれほど狭い世界で生きてきたかを、初めて突きつけられたような気がしていた。
血の貴賤ですべてが決まると思っていた世界。
だが、あの男の瞳は、そんな境界線など初めから存在しないかのように、冷徹に現実を見つめていた。
そういえば筋肉に目が行ってしまっていたが、オケの体には無数の傷があったことを思い出した。
牛飼いというのは、それほどに傷を作る仕事なのだろうか?
屋敷と社の外の世界を知らない根日女には、それすらもわからなかった。
山道の夜は早い。
行く手を遮る山の向こうに早々に太陽が沈むと、辺りは夕闇に包まれた。
長く伸びる山の影が、まるで巨大な化け物のように軍勢を飲み込んでいく。
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行軍の最後尾を進みながら、オケは先を行く輿に目をやった。
(世間知らずな巫女様だったな。だが……その心に濁りはなかった。
ただ、無知なだけだ)
彼は、自分の正体を明かすつもりなど毛頭なかった。
泉の件もただ傲慢な侍女の態度が気に食わず、からかっただけのつもりだった。
だが別れ際に見えた根日女の瞳
あれは、愚鈍なものの眼では決してなかった。
オケの冗談から何かを感じ取ろうとしている眼だった。
(もう迂闊なことをいうのはやめにしよう)
泥道を進む軍勢の足音に混じって、六十頭の牛の鳴き声が山々に反響する。




