第2話 大和からの使者
賀茂許麻の屋敷は、竪穴ばかりの里で唯一の、立派な掘立柱の建物だった。
だが、今のその屋敷を包んでいるのは、領主の威厳ではなく、押し潰されるような沈黙と金属が擦れ合う音。そして、大和からやってきた軍勢を率いるものが放つ圧倒的な威圧感だった。
「入れ」
広間の入り口に立つ大和兵の冷たい促しに、オケは静かに頭を下げた。
そこは普段、里の政が行われる場所だった。
藁草履を脱ぎ、板張りの床に上がる。一歩進むごとに、自らの心臓の鼓動が耳の奥で早まるのを感じた。
広間には、上座に大和から派遣された使者がふんぞり返っていた。本来その場に座るべき里長の許麻は隣に控えている。
その額には、脂汗が滲んでいる。
広間には二人のほかに左右に五人づつ、計十人の兵が控えていた。
使者は、物部粗鹿と名乗り、雄略大王に征西大将軍に任じられたといった。
絹の直衣に身を包み、腰には精緻な銀装飾の施された鉄剣を佩いている。手には細工の凝った扇を持ち、ゆっくりと自らを扇いでいる。
オケたちが目の前に進み平伏するのを見ると、フンと鼻を鳴らした。
「許麻よ。これが、そなたの言う腕のいい牛飼いか」
粗鹿の声は、高く、傲慢に響いた。
苦労を知らないものの声だなと、オケは平伏しながら思った。
「は、はい。左様にございます。この二人は数年前に当里へ流れ着いた者たちですが、牛の扱いにかけてはこの播磨でも並ぶ者がございませぬ。軍列の兵糧を運ぶには、最適かと……」
許麻の声は微かに震えていた。彼はオケたちの正体を知らない。ただ、この身寄りのない兄弟を不憫に思い、同時にその類まれな働きぶりを頼りにしていた。
オケは床に額をつけながら、視界の端で弟の様子を窺った。
ヲケは拳を握りしめている。その指先が白くなるほどに。無理もないとオケは思った。
今、自分たちの目の前で偉そうに命じているこの男は、父を殺した「大長谷若建命」――雄略大王の忠実な手先なのだ。
物部は大和の軍事全般を司る者たちのことを指す。
その役割は大和を他国の侵略から守ることと朝廷の人間を外敵から守ること。
だがあの冬、物部たちはまだ王位継承を認められていない若建命に従い、若建命よりも王位継承順位が高かった者たちをことごとく亡き者にした。
オケとヲケの二人にとっては、雄略大王の次に恨むべきものであった。
「よかろう。……さて、牛飼いの小僧ども。貴様らのような無知な下民にも、今、この国で何が起きているかを教えてやる。ありがたく拝聴せよ」
物部粗鹿は、扇をパチンと閉じ、尊大に語り始めた。
「大和の玉座に、我らが大王が即位されてより、はや二年の月日が流れた」
二年。
オケの脳裏に、雪原に散った父の鮮血がフラッシュバックする。
父を殺し、兄弟を王位継承の座から引きずり落とし、一族を根絶やしにしようとしたあの凄惨なクーデターから、もう二年も経ったのか。
「大王は即位以来、天下を平らげ、四方の国々に大和への忠誠を誓わせた。だが、西にある吉備の国はどうだ。あそこは古くから鉄を産み、武力を蓄えてきたことを鼻にかけ、事あるごとに大和を軽んじておる」
粗鹿の言葉には、隠しきれない敵意が混じっていた。
「四道将軍・吉備津彦命が吉備を平定して以来、吉備は大和に属する国であるはずである。
にもかかわらず、即位の儀の際も、そして先日の二周年の祝賀の場においても、吉備の下道臣は、祝いの使者も出さず、貢ぎ物も怠った。これは明らかに、大王への反意と見なさざるを得ん」
オケは伏せたまま、冷静にその言葉を分析していた。
(違う。吉備は反意があるのではない。ただ、あまりにも強大になりすぎたのだ)
吉備は、瀬戸内海の制海権を握っている。
瀬戸内海は大和から大陸に出るための玄関口だ。そこの制海権を握っているということは、朝鮮半島からもたらされる大陸の最新技術独占できるということだ。
加えて吉備は製鉄が盛んだ。大陸の技術を独占し、鉄を自在に操る吉備の国はただの属国としてとどまるにはあまりにも大きくなりすぎたのだ。
大和にとって吉備は、従順な属国ではなく、いつ自分たちの地位を脅かすかわからない巨大な「火種」なのだ。
雄略大王は、その火種を今のうちに踏み潰そうとしている。そのための「言いがかり」として、使者の不在を利用しているに過ぎない。
だいたい、今回の代替わりは血で汚れすぎている。吉備の国以外にも、使者を控えた国はあったはずだ。にもかかわらずこうして吉備を攻める姿勢を見せていることが、雄略大王の考えを何より物語っている。
「ゆえに大王は、私に五百の精鋭をお預けくださった。まずは武力をもって吉備の国境に圧をかけ、その真意を問いただす。もし、そこで不遜な態度を続けるならば、吉備を焦土に変えることも辞さないというお覚悟だ」
「五百……」
ヲケが思わず小さく声を漏らした。
粗鹿の鋭い視線がヲケに飛ぶ。
「なんだ下人。何かいいたきことでもあるのか?」
オケは慌てて弟の頭を上から押さえつけ、さらに深く平伏した。
「滅相もございません。あまりの大王様の威光に、弟が畏れおののいた次第にございます」
「ふん。まあよい。……そこでだ、許麻。播磨は古来より大和の盾であり、矛である。
ましてや此度は吉備攻め。道の口として播磨を使うは必定。
この遠征に際し、播磨からも相応の協力をせよとの沙汰だ」
ここからが本題だった。
許麻が、消え入るような声で確認する。
「……具体的には、いかがすればよろしゅうございましょうか」
「播磨兵五十。そして、兵を鼓舞し、土地の神を鎮めるための巫女一人。さらには兵糧とそれを運ぶ牛六十頭だ。播磨の総力をもって、この遠征を支えよ」
縮の顔から血の気が引いた。
「五十の兵……それに、巫女と申されますと、もしや……」
「そうだ。そなたの娘、根日女を差し出せ」
その名が出た瞬間、屋敷の空気が凍りついた。
根日女は賀茂許麻の一人娘。
生まれながらにして神性を有し、これまであまたの奇跡を起こしてきた。
その存在は賀茂の里のみならず、播磨全体でもその名を知られる高貴で美しい巫女だ。里の民にとっては、希望の象徴のような存在である。それを戦場へ連れて行くということは、ほかのどんな要求に比べても厳しいものだった。
「そんな……根日女はまだ若く、長旅には……」
許麻がかろうじて声をひねり出す。
「大王の命だぞ、許麻。それとも、そなたも吉備と同じように、大和に背くつもりか?」
粗鹿の右手が、腰の鉄剣の柄にかかった。
それは明白な脅しだった。逆らえば、この里ごと血の海に沈めるという宣言だ。
そのことは、許麻が一番よくわかっていた。
許麻は、ガタガタと震えながら、床に崩れ落ちるように平伏した。
「……承知、いたしました。わが娘、根日女を派遣いたします」
「良き返答だ。そして、そなたら牛飼い兄弟。貴様らは、百頭の牛を率い、兵糧の運搬を担え。もし牛が一頭でも欠ければ、あるいは歩みが遅れれば、貴様らの首はないと思え」
オケは、心臓の奥で煮えくり返るような感情を、鋼の意志で押さえ込んでいた。
父を殺した男のために、何も持たない自分たちを受け入れてくれた土地の者を、そして自分たち自身を差し出す。これ以上の屈辱があるだろうか。
だが、ここで暴れればすべてが終わる。
今はまだ、何者でもない牛飼いだ。この軍勢に紛れ込み、大和が何を企んでいるのか、吉備がどう動くのかを、その目で見極める必要がある。
「謹んで……お受けいたします」
オケの声は、驚くほど澄んでいた。
オケの姿勢に粗鹿が満足そうに笑った。
「出立は二日後とする。
それまではここで休ませてもらおう。
このような片田舎で、大和のわれらを十分にもてなすことができるか甚だ心配ではあるがの」
高笑いする粗鹿の声を聴きながら、オケとヲケの二人はこぶしが真っ白になるまで強く握り続けた。
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もろもろの手配を終えて、許麻の屋敷を出たオケとヲケの前に、夕闇が迫っていた。
街道には、いまだ事情が呑み込めていない里の民たちが不安そうに屋敷を見上げていた。
二人は彼らの家を目指して歩き始めた。
「兄上! 本当にいいのですか!」
屋敷から少し離れたところで、ヲケが怒りを爆発させた。
「あの男……雄略の手先ですよ! 親父様を、叔父様たちを、みんな殺した奴らの仲間です。そんな連中に協力して、挙句の果てに根日女まで……。俺は、我慢できないです!」
「声が大きい、ヲケ」
オケは周囲を鋭く警戒し、弟の腕を強く掴んだ。
周囲に人はいない。だがどこで誰が聞いているか分かったものではない。
オケはヲケを引き寄せると耳元で唸るようにつぶやいた。
「我慢しろ。我慢して、見るんだ。大和の兵がどう戦うのか、どんな武器を使い、どんな弱点があるのか。俺たちがいつか、大和の宮殿へ帰るためには、敵を知らなければならない」
「でも……!」
「根日女も、俺たちが守る。賀茂許麻には恩がある。
牛飼いという立場なら、軍の奥深くまで入っていける。将軍たちの会話も、兵の愚痴も、すべてが情報になる」
オケの瞳には、昼間の使者が見せたような浅薄な傲慢さではなく、深く、底知れない知略の光が宿っていた。それは、苦労を、逆境を知る者の瞳だった。
「……わかりました、兄上の言う通りにいたします。ですが、兄上。もし、あの将軍とかいう奴が根日女に里の民に少しでも変な真似をしたら……俺はその時奴らを牛の餌にしてしまうかもしれません」
ヲケの言葉に、オケは微かに口角を上げた。その表情は、どこか誇らしげでどこか悲しげでもあった。
二人は、家に向かって歩く。
道中、根日女の住む社の前を通りかかった。
侍女、下男たちがあわただしく動き回っている。
二日後の遠征に向け物資の準備だけでなく、清めの儀式や戦の吉兆を得るための卜などやらなければならないことが山積しているのだろう。
それは、オケたちも同じだった。
「行こう。俺たちもこうしてはいられない
牛六十頭ということは今回の遠征は一月ほどかかるはずだ。まずは牛たちを休ませ、一週間分の餌を用意する。それにほかの里からも牛と兵糧を出してもらわないと」
オケの声が、静かに、だが重く、賀茂の里に響いた。
彼らが選んだのは、屈従という名の潜伏。
いつかその爪が、大王の喉元に届くその日まで、龍は泥の中に深く、深く潜ることを決めたのである。
まずは牛飼いという与えられた役を全うしなければならない
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二日後の朝、賀茂の里はかつてない緊張の中にあった。
集められた五十人の播磨兵。彼らは、手入れの行き届かない青銅の剣や、粗末な木の盾を手にしていた。彼らを指揮する大和の兵たちの最新鋭の鉄剣や鎧と比べると、その装備がいかに貧弱であるかがより鮮明になる。
長らく戦乱がなかった播磨では、装備を整える必要性がなかったので。
播磨兵のなかで、唯一まともな装備を身にまとっているのは、彼らのまとめ役である赤石小柄。彼は以前北国の役にて、大和の兵として戦場に出たことがあるらしい。
普段は賀茂許麻の屋敷の警備を担当しており、里の民からの信任も厚い。
今は、初めての戦に浮足立つ播磨兵を必死に宥めている。
播磨兵たちの中央に、場違いな輿が一つあった。
中の様子は伺えないが、そこに根日女が乗っていることは誰の目にも明らかだった。
周囲には輿を担ぐ下男と、不安そうな顔をした侍女がいる。
「出発!」
粗鹿の号令が、寒空に響き渡る。
大和の兵たちがそれに合わせて鬨の声を上げる。
平和な里に似つかわしくない、野太い兵の声が響くと、一団の先頭から金属が擦れる音が聞こえてきた。
オケとヲケは、最後尾で巨大な牛たちの群れを御していた。
重い兵糧を積んだ牛たちは、兵が行軍を始めた音に怯えたり興奮したりしながらも、オケたちの指図に従って整然と出発の時を待っている。
「我が里の牛飼い殿は大したものだな」
オケたちの働きを見て、赤石小柄がつぶやいた。
オケは、牛たちを御しながら輿の影をじっと見つめていた。
この里で最も高貴な血を引く彼女を、播磨の兵は何としても守り切ろうと意気込んでいる。
かつて最も高貴な血を引く一族の中にいたオケにとっては、初めて外側から見る光景だった。
根日女を守ろうとする彼らの眼には誇りがあった。それがなぜか無性にうれしいと感じた。
五百の大軍が、土煙を上げて動き出す。
将来、この国の形を変えることになる二人の皇子の闘いの日々。
その第一歩が今踏まれた。




