第1話 播磨の貴種
播磨国、賀茂の里。
夜明けの霧が、なだらかな丘陵地帯を白く塗り潰していた。
冷え切った空気の中に、牛たちの重苦しい鼻息が混じる。湿った土と、朝露に濡れた牧草、大量の牛糞が発酵する鼻を突くような臭い。
それが、オケとヲケの兄弟にとっての今の日常だった。
「兄上、また一頭、足に傷を負っている奴がいます。昨夜の猪に驚いて柵にぶつかったんでしょうね」
弟のヲケが、泥にまみれた麻布の衣をさらに汚しながら、巨大な牡牛の足元に屈み込んだ。
生まれた時からヲケに世話されているこの牡牛は、立派な角とは裏腹にとても臆病な性格をしている。だがヲケにだけはよく懐いており、今も傷の確認をすまし顔で許している。
ヲケはまだ十代になったばかり。田舎の下人には成人という概念がないが、それを抜きにしてもまだ少年と言っていい年齢だ。ヲケは、少年らしい若々しさが残る顔立ちをしているが、その瞳には隠しきれない鋭い光が宿っていた。
「……無理に動かすな。薬草をすり込んで、今日は奥の牧に留めておけ」
兄のオケは、短く応えた。
彼は、手にした杖で地面を突きながら、霧の向こうを見つめていた。その立ち姿には、麻布の衣に身を包み泥に塗れた牛飼いの下男にはおよそ似つかわしくない、静かな威厳が漂っていた。
二人は数年前、この賀茂の里に流れ着いた。
里の長である賀茂許麻に拾われ、身元を隠して牛飼いとして働いている。里の者たちは、彼らを「どこからか逃げてきた貧しい兄弟」としか思っていない。
各地が乱れるこの時代に、二人のような孤児は珍しいものではなかった。
だが、牛飼いに身を窶す彼らの体には、この国で最も貴い血が流れていた。
彼らの父は市辺押磐皇子。かつて大和の国の王位継承筆頭目された皇子だ。しかし、現大王である大長谷若建命――雄略大王の手によって、父は狩り場で謀殺された。
オケが十二歳、ヲケが九歳の頃だった。
その日以来、二人の世界は大和の宮殿から、この泥だらけの播磨の牧場へと一変したのである。
「……いつまで、こんな真似を続けなければならないのでしょうか」
ヲケが低く、搾り出すような声で言った。彼は手に持った藁を、握りつぶすように強く締める。
「自らの兄たちを殺し、俺たちの父上を殺し、一族を追い散らしたあの男は、今も大和の玉座でふんぞり返っています。それなのに俺たちは、牛の糞を片付け、名もなき下男として朽ちていくしかないのでしょうか。兄上、俺は……」
「ヲケ」
オケの声は、霧よりも冷たく、静かだった。
ずっと霧の奥を見つめたまま、オケは言う。
「今は、泥を食んででも生き延びる時だ。
かつて小碓尊がそうであったように、龍が天に昇る前には、必ず淵に潜む時期がある。牙を研ぐ音さえ、誰にも聞かせてはならない」
「しかし小碓尊は結局大和へは帰れませんでした」
「そうだな、だが俺たちは二人だ。
小碓尊が一人では成し遂げられなかったことを、俺たち兄弟ならきっと成し遂げられる」
オケは弟の肩に手を置いた。その手のひらは、重労働によって硬く角質化していたが、微かに震える弟の肩をしっかりと制した。
その時だった。
足元から、微かな振動が伝わってきた。
牧草が風に逆らって微かに揺れる。
地震ではない。規則正しい、数多の足音。そして、金属が触れ合う、微かながらも冷酷な響き。
「……何だ?」
ヲケがいち早く顔を上げた。
二人は阿吽の呼吸で、放牧地の中でも最も見晴らしの良い場所へ駆け上がった。
天気のいい日には瀬戸内の海、そしてその奥の淡路まで間を見通せる。今日は霧で視界が限られていたが、それでも二人の見たいものは簡単に目に飛び込んできた。
二人の目当ては、瀬戸内海よりもさらに手前の山陽道にあった。
牧場から見える山陽道は、東から西へと延びている。太く長いその道は、一匹の大蛇に例えられることもある。
その大蛇のような道を、光の集合体が移動していた。
「あ……」
ヲケが息を呑んだ。
山陽道を進む光の正体は、軍勢だった。
先頭を行くのは、金銅の装飾が施された豪奢な馬。それに続く歩兵たちは、丁寧に磨かれた革綴の鎧を纏い、背には漆塗りの盾を背負っている。朝日を乱暴なまでに反射させて煌めく矛先は、まるで神の軍隊が天から降り立ったような神々しさを備えていた。
もし二人が並の牛飼いだったなら目の前の光景にただ唖然とするか、自然と膝をつき頭を下げてその軍隊が浴びる神性にただただ平伏していただろう。
だが二人は並の牛飼いではなかった。
「あれは……播磨の兵じゃない。あの盾の紋章、あの武具の設え……」
オケの目が細められた。その瞳の奥に、かつて大和の朝廷で見た記憶が鮮やかに蘇る。
「大和の直轄軍。物部の精鋭です」
「どうして大和の連中がこんなところに……。それも、五百は下らないぞ」
五百。
地方の小規模な紛争を鎮圧するレベルではない。明らかに、国一つを威圧し、屈服させるための規模だ。
軍勢の列は、播磨ののどかな水田の間を走る山陽道に沿って、まるで播磨の地をを切り裂くように、西へと進んでいく。
播磨を攻めにきたのではない。
播磨は大国だ。だが、小碓尊、つまりはのちの日本武尊の母を大和に差し出した時から、属国として大和に付き従っている。先年の雄略大王による王族の抹殺とそれに伴う朝廷の混乱期においてもその姿勢に変わりはなかった。
播磨に向けた兵でないなら行き先は一つしかない。
播磨西に鎮座する大国・吉備だ。
「吉備へ向かっているのか。いよいよ、あの男が動き出したというわけか……」
オケは、軍勢の中央に翻る大きな旗を見つめた。
そこには、大和の「日輪」を象った紋章が誇らしげに描かれている。それは、大和朝廷のそしてそこに君臨する大王の象徴だ。
二人の祖父が掲げ、二人の父が掲げるはずだったそれを、今は別の男が掲げている。
その男は、二人の父を殺し、彼らから全てを奪い去った。
行軍の足音は、丘の上にいる二人の耳にまで、地鳴りのように響いてくる。
列の中にいる将兵たちは、道の傍らに立つ牛飼いの少年たちなど、視界にさえ入れていないだろう。もしかしたら、風上から流れる牛糞の匂いに顔を顰めたかもしれない。だがその程度だ。彼らにとって、この地の民は道端の石ころも同然なのだ。
「兄上、見てください」
ヲケが、軍勢の後方を指差した。
そこには、重い荷を積んだ荷車を引かされる、民たちの姿があった。徴用された人夫たちかあるいは奴隷として買われた者たちか。彼らは鞭打たれ、埃にまみれながら、必死に大軍のスピードに食らいついている。
山陽道は七道の中で最も重要な道である。本来なら荷車を押すのに苦労しない程度には整備がなされているはずが、ここ数年の動乱の中で大きく荒れていた。
都の大通りと地方の街道の違いを知っていれば荷車ではなく牛ににを背負わせるところを、あえて荷車を使っているところを見るに、この軍の将は愚鈍もしくは地方を知らない都会者だろう。あるいはその両方かもしれない。
「あの中に、賀茂の里の者もいるかもしれない。こんな大群が通るだなんて、賀茂の里の食料は食い尽くされてしまいますよ」
ヲケが悲痛な声を出す。
オケは無言で、その光景を脳裏に焼き付けていた。
父が殺されたあの日、降り積もった雪は赤く染まっていた。
あの赤は、父の血だったのか。それとも、大和という巨大な権力が生み出した呪われた化け物の血だったのか。
オケはじっと自らの手を見つめた。
己の中に流れるこの血は牛飼いのものか?高貴なものが?それとも呪われた化け物のものか?
オケにはわからなかった。
ただ一つ確かなのは、今、目の前を通り過ぎる五百の軍勢は、かつての悲劇の再演を予感させるということだった。
「……戻るぞ、ヲケ」
一団が目の前を通り過ぎるのを待ってオケが口を開いた。
「戻ってどうするんです?
今からあいつらを追って、後ろから石でも投げてやりたい気分ですよ」
「里長に呼ばれるはずだ。これほどの大軍が通ったんだ、この里が無傷で済むはずがない」
オケは翻り、丘を下り始めた。
その足取りは重いが、一歩一歩が地面を確かめるように力強い。
「あの男は身内の悉くを手打ちにした。
その手はいつか身内から他国へ向くだろうと思っていたが案外早かった。
大和が動けば、風が吹く。その風は、この国を揺るがす大嵐になるはずだ。
大嵐は里の人たちにとっては迷惑千万。だがな、ヲケ。嵐は時に、隠れていたものを露わにする。
そんな大嵐に身を投げてこそ浮かぶ瀬もあるってもんさ」
オケは足を止め、一度だけ振り返って、遠ざかる軍勢の背中を見た。
その目は、泥に塗れた播磨の牛飼いの少年のものではなかった。
泥の中で、静かに獲物を待つ龍の眼光だった。
「俺たちがいつまでも泥を啜っているか、それともこの嵐に乗って雲を掴むか。……その瀬戸際が、ついに来たのかもしれない」
霧は完全に晴れ、朝の光が残酷なまでに鮮やかに、賀茂の里を照らし出していた。
遠く瀬戸内と淡路の国が見える。
この世界に際限はないのではないかと思わせる光景を前に、オケは拳を強く握りしめた。
眼下の放牧地では、牛達が主人の帰りを待って、低く鳴いた。
オケとヲケは、泥に汚れた足を力強く踏み出し、自分たちの日常――そして、動き出した運命の渦へと進んでいった。
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里に戻ると、案の定、集落は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
里の入り口には、軍勢が通り過ぎた後の無惨な轍が深く刻まれ、山陽道沿いの畑の一部は踏み荒らされている。
「オケ! ヲケ! どこにいたんだ!」
息を切らして駆け寄ってきたのは、里の若者の一人だった。
「長が呼んでいる! すぐに屋敷へ来い。……大変なことになった。大和から使者が来たんだ。とんでもねぇ大軍勢を引き連れて
お前たち、まさかその格好で使者の前には出ないよな?うちに古の衣がある。上等とは言えねぇが今の恰好よりはましだろさ」
オケとヲケは顔を見合わせた。
予測していたよりも、事態の動きが早い。
二人は若者に礼を言うとすぐに体の泥を落とし、新しい衣に着替えた。
本当は朝飯もまだだったが、そんな余裕がないことは明らかだった。
里長の屋敷の前に着くと、そこには武装した数人の兵が、傲慢な態度で門を固めていた。彼らの胸当てに刻まれた紋章は、先ほど丘の上から見た軍勢と同じものだ。
「入れ」
オケが用件を伝えると兵の一人が、顎で中を指した。
オケは深く頭を下げ、兵士に目を合わせないよう背中を丸めたまま門をくぐる。それはどこから見ても、片田舎の牛飼いの若者そのものだった。
オケに続いてヲケが門をくぐる。目を伏せ、頭を垂れているので兵士たちは気が付かないが、門をくぐるヲケは屈辱で唇を強く噛みしめていた。
オケはそのことに気が付いていたが、あえて何も言わずに屋敷の奥へと進む。
屋敷の奥からは、賀茂許麻の、困惑しきった声が漏れ聞こえてくる。
二人の身分では頻繁に里長に謁見することはない。
だが、賀茂の里にきて数年。彼が長として十分な素質を備えていることを二人は知っていた。
だからこそ、初めて聞く困惑の声にこれから巻き起こる大嵐の予感を感じ、オケは小さく笑った。




