第6話 生きてる?
「私たちも逃げましょう!」
キャンディは、声を出すのをやめた。
届いていない。呼んでも、チョコレートは振り向かない。振り向かない方がいい、とも思った。今あの人が目を離したら、たぶん当たる。
竜も、こちらを見ない。
斜面を駆け上がってくる足音も、ロッドを握る音も、聞こえているはずだった。それでも首一つ動かさない。
いつもと逆だ、と思った。
いつもは、自分が相手を止めて、チョコレートさんが斬る。
今は、チョコレートさんが止めている。
なら、攻めるのは私だ。
キャンディはロッドを両手で持ち直した。
鱗は硬い。クッキーゴーレムより、ずっと。あの巨体を正面から殴っても、身体ごと押されて流れるだけだ。
竜が前脚を振る。振り終わりに、体重が後ろへ戻る。首がそれを追う。
固定するのは、自分じゃない。
相手だ。
一瞬でいい。
一度見せたら、二度目はない。
倒木の陰を回り込む。竜の左後ろ。尾の届かない距離を、目で測る。
竜がチョコレートへ踏み込むたびに、キャンディも位置を変えた。竜の頭がどこまで下りるか。そのとき前脚はどこを踏んでいるか。首の横に、何が残っているか。
竜の爪が、倒木の枝を払った。チョコレートは、その下をほとんど動かずに抜けた。
キャンディは、ロッドの握りを確かめた。いつもより、少し端を持つ。振りかぶりが大きくなる分、遅くなる。遅くていい。竜はこちらを見ていない。
竜の腰が、逆へ捻れた。
尾だ。
チョコレートの頭の上を抜けたあと、そのまま――。
こちらへ来る。
キャンディはロッドを地面に突き立てた。壁を斜めに。正面では受けない。流す。
尾が壁に入った。
壁の表面を滑り、向きが変わりきらず、壁が砕けた。
地面が離れた。
背中から木に当たって、息が全部出た。視界が白くなって、それから戻った。落ちた場所の土が冷たい。
左の肩が熱い。服が裂け、その下に土色の硬い欠片が食い込んでいた。
痛い。
とても痛い。
キャンディは、息を吸った。吸えた。吐けた。
狙われたのではない。竜はこちらを見ていなかった。
指を動かす。動く。膝を立てる。立つ。
ロッドは、手から離れていなかった。
「……師匠の方が、痛かったです」
竜はやはり、こちらを見ていない。
キャンディは斜面の上に目を上げた。倒れかけた木が一本、竜の頭の少し横に、斜めに残っている。
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右から来る。
分かっていた。
右肩が沈んだ。いつもと同じだ。半歩、左。それで足りる。
チョコレートは、左へ出ようとした。
脚が、出なかった。
地面に縫い付けられたみたいだった。膝から下が、自分のものじゃない。
身体を捻る。上半身だけで逃げる。爪が、脇腹のすぐ横を通った。服が裂ける音がした。
踏みとどまれない。膝が落ちる。
――あれ。
次が見える。
竜が首を引いた。牙が来る。斜め前へ一歩。それで抜けられる。どこへ行けばいいか、はっきり分かっている。
脚が、動かない。
手をついた。腕も震えている。息が、いつから切れていたのか分からない。喉の奥が焼けるようだった。
見上げた。
竜の頭が、下りてくる。
大きく口を開けて、ゆっくりと。急ぐ必要がないのを分かっている動きだった。
竜の眼が、すぐそこにある。
そこで初めて、林の音が戻ってきた。
自分の荒い息。折れた枝の軋む音。
それから、赤いものが、竜の向こうで光った。
――帰れる。
竜の右前脚の周りで、赤い飴が地面から立ち上がっていた。足首を挟み込み、その場に固定している。
傾いた木の幹と首の付け根の間にも、赤い柱が一本、斜めに突っ張っていた。
その反対側に、キャンディが跳んでいた。
倒木を足場にして、竜の頭より高く。左肩から血が流れているのが、見えた。両手でロッドを振りかぶっている。いつもより、ずっと大きく。
「――っ!」
声にならない声だった。
飴が砕けるより先に、ロッドが竜の頭の横へ入った。
音が、遅れて来た。
鈍い、大きな音。赤い破片が四方へ散る。竜の頭が、初めて大きく振れた。
チョコレートの目の前へ。
低く。近く。
片方の眼が、チョコレートの真正面で、一瞬だけ焦点を失っていた。
黒い杭を一本。
生成。
眼へ、叩き込む。
ぐしゃっと、柔らかい手応えがあった。
竜が叫んだ。
地面が揺れた。耳の奥が痛い。竜の頭が跳ね上がって、首が左右に振り回される。前脚が、何もない地面を叩く。倒れていた木が、尾に払われて斜面を転がり落ちていく。
チョコレートは、動けなかった。
動こうとして、横に倒れた。土が頬に当たる。
腕を掴まれた。
「チョコレートさん!」
キャンディの声だった。
「立たなくていいです。掴まってください」
身体が持ち上がる。背中に回された腕が、ぐっと締まる。気づいたら、キャンディの背に負われていた。
キャンディの左肩のところに、何か硬いものが刺さっていた。頬に当たって、痛い。
「……キャンディ、肩」
「あとです」
キャンディが走り出した。
一歩ごとに、身体が揺れる。キャンディの息が荒い。背中越しに、心臓の音が伝わってくる。速い。
後ろで、竜がまだ吼えている。
木の倒れる音。土を叩く音。
チョコレートは、キャンディの肩越しに振り返った。
竜が、こちらを見ていた。
残った片方の眼で。
追ってくる、と思った。
竜は、動かなかった。
潰れた眼のあたりを地面に擦りつけるように首を低くして、しばらくこちらを見ていた。それから、ゆっくりと首を巡らせて、林の奥へ向いた。
倒れた木を踏み越えて、土色の背中が、木々の間へ沈んでいく。
音が、遠ざかっていった。
キャンディは足を止めなかった。
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林が切れた。
陽射しが、急に明るい。畑の緑が広がっている。畦の向こうで、作業員たちが立ち上がるのが見えた。
キャンディはそこで、ようやく足を緩めた。
一歩、二歩。膝が落ちる。チョコレートを背負ったまま、畦の草の上に座り込んだ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
息の音だけが、していた。
「……キャンディ」
「はい」
「生きてる?」
「生きてます」
「私も」
「知ってます」
チョコレートは、何か言い返そうとして、やめた。
言い返す力が、残っていなかった。
キャンディの背中は、まだ少し震えていた。自分の手も、震えていた。どっちの震えなのか、よく分からなかった。
遠くの林は、もう静かだった。




