第5話 野いちご採り
翌朝。
請負人協会の壁の前で、キャンディが一枚の依頼票を指さした。
「これにしましょう」
《東の斜面林・野いちご採取補助》
チョコレートは票を覗き込んだ。
依頼元は王都の菓子屋。作業員は向こうで出す。請負人は斜面側の採取と、モンスターが出た場合の追い払い。報酬は、昨日の四分の一もない。
「安っ。昨日の四分の一もないじゃん」
「今日は軽めのお仕事がいいって言ってましたよね」
「そうだけど、もうちょっといいのない?」
「採取のお手伝いだけですし、ちょうどいいと思いますよ」
「……まあ、昨日は結構疲れたしね。これにしよっか」
受付でフィナンシェが印を押した。
「採取補助ですね。作業員の方の指示に従ってください。あくまで補助ですから」
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斜面林は、東門から畑の間を抜けた先にあった。
若い木が多い。陽が下まで届いて、足元の草が明るい。斜面の下の方に、籠を背負った人たちが四人、もう集まっていた。
一番年上らしい女性が、腰を伸ばしてこちらへ手を振った。
「請負人さん? 助かるよ。上の方がね、いい実が残ってるんだけど、足場が悪くて」
「上、行ってきます」
チョコレートは籠を受け取った。思ったより軽い。
「熟れてるのだけ。青いのは残して。潰したら売り物にならないからね」
「潰さないようにします」
キャンディが先に答えた。
斜面の上側は、確かに足場が悪かった。根が浮いていて、土が柔らかい。チョコレートは木の根に片足を掛けて、枝の奥の赤い粒へ手を伸ばした。
ヘタの少し上をつまみ、そっと引く。
赤い実が形を崩さずに取れた。チョコレートは籠の底へ、そっと置いた。
「よし」
「この前の採取が役に立ってますね」
「でしょ? あの葉っぱ、難しかったもん」
「最初は溶かしてましたね」
「最初だけでしょ」
チョコレートは次の実へ手を伸ばした。
ところが、枝から引くときに指が滑り、一粒潰してしまった。
「……あ」
チョコレートは潰れた実を掌に載せ、斜面の下へ声をかけた。
「これ、潰しちゃった。どうすればいいですかー?」
「潰れたのは売れないからね、食べちゃっていいよ」
女性が笑って手を振った。
チョコレートは実を口に入れた。
「……酸っぱ!」
「熟れてても酸っぱいんですね」
下から、作業員たちの話し声が聞こえる。四人とも、楽しそうに採取を続けていた。
昼前には、籠が半分ほど埋まった。
「これなら採取も悪くないね」
「昨日は面倒だって言ってましたよね」
「たまにならいいんだって」
チョコレートは次の枝へ手を伸ばした。
指先が止まった。
静かだった。
さっきまで頭の上で鳴いていた鳥の声がない。枝の間を走っていた小さな影もいない。
斜面の下で、作業員たちの話し声だけが続いている。それが妙に大きく聞こえた。
奥の藪が揺れた。
兎が三匹、チョコレートの足元を抜けて斜面を駆け下りていく。人を避けもしない。その後ろから鳥が一斉に飛び立った。全部、同じ方向へ。
風が逆から吹いた。
草といちごの甘い匂い。
その下に、湿った土と、鉄に近い匂い。
チョコレートは籠を置いた。
「キャンディ」
「はい」
声が低かったからか、キャンディはすぐに顔を上げた。
「竜」
キャンディの手から、いちごが一粒落ちた。
「どこですか」
「上。近い」
林の奥で、木が鳴った。
幹が、ゆっくり押し曲げられる音が少しずつこちらへ寄ってくる。
「下の人たち、逃がして。東門の方。畑のとこまで」
「チョコレートさんは?」
「私が囮になる」
キャンディが、チョコレートの顔を見た。
「倒さないから。見させとくだけ」
一拍。
「……分かりました。すぐ戻ります」
キャンディは籠を置いたまま、斜面を滑るように下りていった。
「皆さん、籠を置いてください! 下へ、畑の方へ走ってください!」
普段より、ずっと大きな声だった。
木が、倒れた。
斜面の上、二十歩ほど先。若い木が三本まとめて横へ寝て、その間から頭が出てきた。
大きい。
頭だけで、チョコレートの背丈くらいある。土と同じ色の鱗が、首から肩へびっしり重なっている。前脚が倒れた幹を踏むと、幹が沈んで割れた。
眼が、チョコレートを見た。
チョコレートは右手に黒い剣を出した。
斜面を横へ走る。作業員たちがいる方と逆へ。
「こっち!」
剣の腹で、倒れた木の幹を叩いた。乾いた音がする。
竜の首が、ついてきた。
来ると思った時には、もう前脚が振られていた。
チョコレートは跳んだ。大きく、横へ。爪がさっきまでいた場所の地面を抉った。土と根がまとめて宙に舞う。
着地で足が滑った。膝をつく。手をついて、転がって起きる。
頭の上を尾が通った。
遅れて風が来て、髪がばさっと顔にかかる。後ろの木が、幹の途中から折れていた。
「……っ、はや」
身体が勝手に下がる。下がりすぎた。背中に木が当たる。
爪。
横へ跳ぶ。今度は転ばなかった。でも余裕はない。次の爪がすぐに来る。また跳ぶ。
大きく避けている。避けすぎている。分かっているけど、近くを通るのが怖くて、身体が離れたがる。
四度目の爪を避けた時、竜の肩が先に動くのが見えた。
右肩が沈む。そのあとで、右の前脚が来る。
五度目。右肩が沈んだ。
チョコレートは、左へ跳んだ。さっきより少し早く。爪はさっきより少し遠くを通った。
竜が頭を低くした。後ろ脚に体重が乗る。
チョコレートは斜め前へ出た。竜の頭が、チョコレートがいた場所を突き抜けて、後ろの木に当たる。木が根ごと傾いた。
尾の前には、腰がわずかに逆へ捻れる。
チョコレートはしゃがんだ。
尾が、頭の上を通った。さっきより低く。でも当たらない。
斜面の下で、キャンディの声が響く。
「そっちじゃないです、左へ! 木のない方へ!」
折れた枝が一本、斜面を転がり落ちていく。赤い縞の壁が一瞬だけ立って、それを弾いた。
「籠はいいです! 置いてください!」
誰かが転んだ音がした。
「大丈夫、立てますか。私の腕に掴まって――はい、そのまま」
チョコレートにもその声が聞こえた。
右肩。
半歩、左。
爪が、服の裾をかすめた。
踏み込みの前に、竜は必ず一度、首を引く。引いた。斜め前へ一歩。牙が背中の後ろで噛み合う音がした。
尾。腰が捻れる。しゃがむ。今度は膝を曲げるだけでいい。
さっきまで、あんなに跳んでいたのが嘘みたいだった。
跳ばなくていい。
爪が通る場所は、爪一本分だけ空けておけばいい。
竜が、低く唸った。
喉の奥から、地面が震えるような音が出る。前脚が二度続けて振られた。右、左。一度目を半歩で抜けて、二度目を上体だけで抜ける。
土の匂い。鉄の匂い。自分の息の音。
竜の眼が、さっきより近い。
苛立っている、と思った。当たらないことに。
当たらないまま、竜はまた前脚を振る。さっきより速い。でも、肩は先に沈む。
チョコレートは、もうそれしか見ていなかった。
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斜面の下、畑の縁。
「一、二、三……四人。全員います」
作業員たちは、畑の畦に座り込んでいた。息が荒い。少年が膝を擦りむいている。年上の女性が、少年の肩を抱いていた。
「ここから動かないでください。もっと離れたくなったら、東門の方へ。絶対に林へは戻らないでください」
「あ、あんた、上のもう一人は……」
「迎えに行きます」
キャンディはロッドを握り直して、斜面を駆け上がった。
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林の上の方が、ひどいことになっていた。
木が何本も倒れている。地面が爪の形に抉れて、根がむき出しになっている。
その真ん中に、チョコレートがいた。
竜の前脚が振られる。チョコレートの身体が、ほんの少しだけずれる。爪がその横を通る。
また振られる。また、少しだけずれる。
キャンディは、ロッドを握ったまま声を張った。
「チョコレートさん! 全員、逃げました!」
返事はなかった。
チョコレートは、竜だけを見ていた。
竜もまた、キャンディの方を見なかった。
チョコレートしか、見ていなかった。




