第19話 竜を調べに来たのに、なぜ鹿を調べてるんですか?
翌朝。
東支部で、男性が軽く頭を下げた。
「カステラです。今日は案内をします」
背が高く、肩に縄と鉈を下げている。少しボロくなった上着を着ている。
「この一か月、竜の跡を追ってたのはだいたい俺です。記録もほとんど俺が書きました」
「あの記録の」
スアマの目が輝いた。
「とても良い資料でしたわ。足跡の向きまで書いてくださって」
「ありがとうございます。でも、最初の頃は歩幅を測ってなかったんですよ。それが今でも気になってて」
カステラは地図を広げ、指で一本の線を引いた。
「新しい跡は、林と丘の境目のあたりです。斜面林の入口から、さらに奥へ入ります。竜が近いと分かったら、すぐ引き返しましょう」
「はい」
チョコレートが答えると、カステラはスアマの方も見た。
「……ええ。もちろんですわ」
返事が一拍遅れた。
チョコレートは、スアマの背負った大きな鞄を見た。測り棒が二本横から突き出ている。
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斜面林へ入って間もなく、スアマが足を止めた。
「止まってくださる?」
スアマが道を外れて、林縁の低木の前にしゃがみ込んだ。
「スアマさん、竜の跡はまだ先です」
「ええ」
スアマは細い枝を一本、指でつまんだ。先がちぎれて、白っぽい繊維が毛羽立っている。
「刃物で切れば、切り口は平らになりますわ。これは引きちぎられています。鹿ですわね」
隣の若木では、樹皮が帯のように剥がれていた。剥がれた跡はまだ湿っている。
スアマは足元の土も見た。蹄の跡が重なっている。黒い粒の糞が、あちこちに落ちていた。
「こちらは新しい。こちらは乾いて色が変わっています。何日にもわたって、同じ場所で食べていますの」
鞄から紙を出して、糞をいくつか包む。手帳を開いた。
「林縁の東側。午前ですわ」
ちぎれた枝も、何本か折って束ねた。
「カステラさん。このあたり、以前から鹿は多かったのですか?」
カステラは少し考えた。
「林縁に出てはきます。でも、ここまで食い荒らしてるのは見たことがないですね。鹿が多いのは、普段はもっと奥。沢の近くです」
「その沢に、今日寄れますかしら」
「竜の跡へ行く途中です」
沢へ下りると、スアマは同じように地面を見て回った。
蹄の跡はある。ただし縁が崩れて、上に落ち葉が積もっている。糞も乾ききって、崩れかけていた。
「古いですわね。新しいものがほとんどありません」
チョコレートは、沢と林縁の方角を見比べた。
「鹿が、奥から外へ出てきたってこと?」
「そう見えますわ。竜を避けて、林縁に集まっているのかもしれません」
スアマはそこで言葉を切った。
「ただ、これだけでは竜のせいとは言えませんの。季節で食べ物の場所は変わりますし、沢の水が減ったのかもしれません」
「水はいつも通りです」
カステラが言った。
「竜が出てから、木の実採りも薪集めも林縁に来てません。人が来ないから、鹿が安心して出てきてる、って可能性はないですか?」
スアマが顔を上げた。
「……そうですわね。人がいなくなったことも、鹿にとっては変化ですわ」
手帳に、二本の線を書き足す。
「竜を避けて出てきたのか。人がいないから、ここに留まっているのか。おそらく両方ですけれど」
チョコレートは剥がれた若木を見た。それから周りを見る。
この辺りには竜の足跡がない。
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林と丘の境目は、岩が地面から突き出した、明るい場所だった。
カステラが足を止めた。
「ここから先です。三日前の跡がある」
土の上に、大きな足跡が並んでいた。一つで、チョコレートの両手を広げたくらいある。
スアマは一つだけを見なかった。測り棒を地面に置き、足跡を一歩ずつ追っていく。
「左右で歩幅が違いますわ。右の方が短い」
「怪我?」
チョコレートが聞くと、スアマは首を振った。
「この斜面だと、片側だけ低い方を踏むこともありますの。まだ分かりません」
足跡は、岩場の手前で大きく曲がっていた。
チョコレートは、その曲がり方を追った。一度、二度。曲がる先が、いつも同じ側だった。
「……左にしか曲がってない」
スアマが振り向く。
「ここ、右に曲がった方が近いのに。わざわざ左から回ってる」
チョコレートは岩を見た。竜が回り終えたとき、岩は竜の右側に来る。
「右に壁を置いてるんだと思う。見えない方から何か来ないように」
「見えない側を、岩で塞いでいる……」
スアマはしばらく足跡と岩を見比べていた。
それから手帳を開いた。
「カステラさん。記録の中で、竜が曲がった跡はほかにもありましたわね?」
「三か所ほどあります。ええと……」
カステラが手帳をめくり、地図の上を指した。
「ここは岩場沿い。こっちは沢の崖沿いですね」
スアマは地図を覗き込んだ。
「どちらも、右側が塞がる道ですわね」
「……ああ、本当だ」
カステラも地図を見直した。
「ただ、眼を失う前の記録はありませんから、それが原因で変わったとまでは言えませんわね」
スアマは手帳に書き加えた。
さらに先で、カステラは開けた窪地へ二人を案内した。倒木のない、見通しのいい場所だ。
鹿の骨と、毛が散らばっていた。
「捕食場所ですわね」
スアマは骨には触れず、周りを一周した。
「追いかけた跡がほとんどありません。開けたところで、待っていたのかもしれませんわ」
「茂みで待ち伏せた方が、楽そうだけど」
「鹿が林縁に出てきたから、竜も林縁の近くで狩るようになったのかもしれませんわ」
カステラが頷いた。
「獲物の場所に寄るのは、普通です」
「衰弱して動けない、ということはなさそうですわね。狩りはちゃんと成功していますもの」
チョコレートは、そこで顔を上げた。
鳥の声がしない。
さっきまで上の木でうるさかった小鳥が、どこにもいなかった。風下から、湿った土と、生臭い匂いがした。
「帰ろう」
カステラがすぐにこちらを見た。
「ああ、近い」
スアマが、手帳を持ったまま窪地を振り返った。もう少し、と口が動きかけた。
「スアマさん」
「……ええ。帰りますわ」
三人は来た道を、音を立てないように戻った。
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林縁まで出て、畑の畦に腰を下ろしてから、スアマは手帳を開いた。
「見たものと、考えたことを分けますわね」
指で一行ずつ押さえる。
「見たもの。林縁で、鹿の新しい食べ跡と足跡が多い。沢では、新しい跡が少ない。竜の足跡は、眼を失ったあと左へ曲がることが多い。開けた場所で鹿を食べている」
スアマは続ける。
「考えたことですが、鹿は竜を避けて林縁へ移ったのかもしれませんわ。そこへ人が来なくなったことで、留まりやすくなっている可能性もありますわね。竜は、見えない右側を何かで塞ぐように歩いている。狩りの場所も、開けた方へ寄っている、可能性がありますわ」
スアマは手帳を閉じた。
チョコレートが尋ねた。
「それで、竜を倒したらどうなりますか?」
「……え?」
スアマが顔を上げた。
「討伐した後、ですの?」
「うん。今の話は、竜がいる間のことでしょ? いなくなったらどうなるのかなって」
スアマは目を丸くした。それから、嬉しそうに笑った。
「……そうですわね。そこが大事ですわ」
スアマは斜面を振り返った。竜になぎ倒された木々が、折り重なるように残っている。
「竜を討伐すれば、少なくとも新しく木が倒されることはなくなりますわ。ただ、倒れた木は元に戻りませんし、荒れた地面も残ります。安全になったからといって、すぐに以前と同じように使えるとは限りませんの」
「じゃあ、討伐したあとも調べる必要があるってことですか?」
「ええ。むしろ、その後どう変わっていくかが大切ですわね」
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東支部に戻ると、カステラは今日の調査を記録にまとめると言って、二人と別れた。
帰りは、スアマの鞄に収まりきらない荷物が増えていた。
「持ちますよ」
「まあ。ありがとうございます」
チョコレートは枝の束を抱え、研究院まで歩いた。
研究院の廊下は、夕方の光で白く見えた。
スアマの部屋へ向かう途中、前から人が来た。
鎧の騎士が二人。その間に、若い女性が一人。
淡い色の長い髪に、小さな金の飾りを留めている。段のついた白いドレスなのに、歩き方に迷いがない。研究院の職員が何人か、壁際へ下がって頭を下げた。
スアマも足を止め、深く礼をした。
「ホールケーキ殿下」
チョコレートも周りに倣って頭を下げた。
――王女様だ。
「スアマ。今日は外に出ていたと聞きました」
王女の声は落ち着いていた。
「東の斜面林ですか」
「はい、殿下。竜の周りを見てまいりましたの」
「何か分かりましたか」
「まだ分からないことも多いですけれど、判断材料にはなると思いますわ」
王女は小さく頷いた。
「ありがとうございます。二日後に、請負人協会や騎士団、商会の方々と対応を話し合う予定です」
「それでしたら、話し合いまでに資料をまとめますわ」
それから、視線がスアマの隣へ移った。
「そちらの方は」
「西支部の請負人の、チョコレートさんですわ。今日の調査にご一緒いただきましたの」
「チョコレートです」
王女はチョコレートを見た。少しだけ、長く。
「請負人の皆さんには、いつも助けられています。ありがとうございます」
「あ、いえ」
「今日の調査も、お疲れさまでした」
王女は柔らかく微笑み、それから騎士たちと廊下の先へ歩いていった。




