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第九話 手をつないで、判定の向こうへ


 ルイは試験官にひと言断ってから、俺を会場の外へ連れ出してくれた。


 入ったのは、通路の脇にある洗面室だった。


 水の流れる音がしていた。


 ドームの中の声は、扉一枚を隔てただけで随分遠い。


「座れる?」


「……うん」


 壁際のベンチへ腰を下ろす。


 ルイは隣に座らず、俺の前へしゃがんだ。


「気持ち悪い? どこか痛い?」


「そういうんじゃ、ないと思う」


 自分でも、よく分からなかった。


 体は何ともない。息だって普通にできる。


 なのに、あそこへ戻ることを考えると、胸のあたりがすうっと冷たくなる。


「サクラが返事しなくてさ」


 ぽつりと言った。


「俺、あれが普通じゃないって知らなくて。何がそんなに変なのかも分からなくて……」


 ルイは黙って聞いていた。


「分からないことがあっても、サクラに聞けばいいと思ってたんだな。声がしなくなったら、急に……」


 その先を言う前に、ルイの腕が背中へ回った。


 頬に髪が触れる。


 俺はしばらく動けなかった。


「びっくりしたね」


 耳のそばで、彼女が言った。


 何でもない言葉だった。


 それを聞いた途端、ようやく息を吐けた。


「……うん」


 知らない世界へ、自分で来た。


 見たいものがあったし、今日だって楽しかった。


 だからといって、何もかも平気になったわけじゃなかったらしい。


「寂しかったんだと思う」


 口にすると、ルイの腕に少し力が入った。


「私、ここにいるよ」


「……うん。ありがとう」


 返事をしたあとも、少しだけ、そのままでいさせてもらった。


     *


「ルイ、試験は?」


 落ち着いてから尋ねると、彼女は目を伏せた。


「あと一つ」


「最大出力?」


「うん。でも……」


 膝の上で指が重なる。


「もう、難しいかも。ほかの結果がよくなくて」


 ルイの手が震えていた。


 さっき、俺の背中に触れていた手だ。


「できないわけじゃないの。練習では、もう少し……ちゃんと」


 声が途切れる。


 俺はその手を見つめた。


 抱きしめられていたとき、体温とは別のものを感じた。胸から腕へ、腕から指先へ。細い流れのようなものが、何度も途中でつかえていた。


 昨日、輪を浮かせたときに自分の中で感じたものに似ている。


 これが、ルイのイクスなんだろうか。


「ちょっと、手を借りていい?」


「手?」


「嫌だったら、すぐ言って」


 差し出された手を、手袋越しに包む。


 目を閉じると、かすかな流れがまた分かった。


 出そうとして、止まる。


 もっと出そうとして、さらに硬くなる。


「今、力を入れてる?」


「……うん。ちゃんと出るか、確かめたくて」


「一回、やめてみよう」


 ルイが俺を見る。


「俺、さっき怖くなって、息を吐くのも忘れてた。ルイが来てくれて、やっと気づいたんだ」


 俺はゆっくり息を吐いた。


 ルイも、それに合わせる。


 一度目は途中で止まった。


 二度目は長く続いた。


 彼女の指が少しずつ柔らかくなる。内側でつかえていた流れも、細いまま、先へ進むようになった。


「……今の、どうしたの?」


「何もしてないよ。手を持ってただけ」


 俺は彼女の手を離した。


「今度はルイだけで。力、出そうとしなくていいから」


 ルイは自分の掌を見た。


 息を吐き、肩を下ろす。


 壁際の備品入れに立てかけられた細い棒が、かすかに触れ合った。


 ルイが慌てて手を引く。


「ごめん」


「大丈夫。今、ちゃんと動いた」


 彼女も備品入れを見た。


 それから、自分の手を。


「最後の一つ、一緒に行こう?」


 俺が言うと、ルイはすぐには答えなかった。


 けれど、やがて顔を上げた。


「ハルちゃんも、まだ終わってないもんね」


「そう。俺もあと一つ」


 今度は俺から手を差し出した。


 彼女が、その手を握った。


     *


 最後の区画には、顔があった。


 大きな台座の中央に、見覚えのある顔が。


「……あんた、ここで働いてたの?」


【初対面だが】


「学長室の扉にいなかった?」


【あれは弟だ。我々は四兄弟である】


 よく見ると、頬にほくろが一つついていた。


 そこで見分けるのか。


【弟から話は聞いている。Cランクの転校生だな】


「情報、早いな」


【手を置け。最大出力を測定する】


 俺はルイを見た。


「先にやるね」


「うん」


 台座へ手を置く。


 昨日、扉に力を流したときの感覚を思い出す。


 手袋は、ちゃんとついている。


【ドルルルルルル】


 出た。


 これも同じなのか。


【最大出力、Cランク】


 よし。


 昨日と同じ。


【総合評価——Aランク】


「……はい?」


 顔を見る。


 向こうも俺を見ていた。


「Cって言わなかった?」


【最大出力はCだ】


「じゃあ、何でA?」


【精密操作、反応速度、身体制御。加えて、空間移動。四科目の記録から算出した結果だ】


 しまった。


 全部、ちゃんと見られていた。


 周囲から声が上がる。


「A?」


「誰が?」


「あの転校生……」


 また視線が集まった。


 指先が冷たくなりかけたとき、袖を軽く引かれた。


「ハルちゃん、終わったよ」


 ルイだった。


 俺は彼女を見て、それから台座から手を離した。


「……そうだな」


 さっきより、ちゃんと息ができた。


「次、ルイの番」


 今は、それが大事だった。


     *


 ルイが台座へ両手を置く。


「お願いします」


【力を注げ】


 彼女の肩が上がった。


 唇が結ばれる。


 俺まで息を止めそうになったが、慌てて吐いた。こっちが緊張してどうする。


 ルイが一度、俺を見た。


 頷いてみせると、彼女は顔を戻した。


 肩が下がる。


 大きく吸うのではなく、まず、ゆっくり吐く。


 台座の縁に細い光が走った。


【ドルルルルルル】


 長く感じた。


 俺のときより、ずっと。


【最大出力、Dランク】


 ルイの指が動いた。


【総合評価——Eランク】


 彼女は動かなかった。


 聞き間違いを疑うように、台座の表示を見つめている。


「ルイ」


 俺が呼ぶと、ようやく振り向いた。


「Eって……」


「うん」


「続けられるんだよね?」


「うん」


 次の瞬間、彼女が抱きついてきた。


 小さな衝撃を受け止める。


 肩のところで息が震えて、それから、押し殺した泣き声になった。


「よかった……」


 俺は彼女の背中へ手を回した。


「よかったな」


 Aだと言われたときより、ずっと嬉しかった。


     *


 会場を出てからも、ルイは何度か端末を開いた。


 そこにある自分の結果を確かめ、そのたびに笑う。


「今日は、お祝いしよう?」


「いいね。何食べようか」


「ハルちゃんが食べたいもの、案内するよ」


「じゃあ肉」


 即答すると、ルイが声を出して笑った。


「分かった。美味しいところ、考えるね」


 そのとき、耳の奥で小さな音がした。


 鼻をすするような音だった。


『……ハル様』


 足が止まる。


「サクラ?」


『申し訳ありませんでした……』


 ルイもこちらを見た。


「サクラちゃん、戻ってきたの?」


『はい。ですが、私は……』


 声が震えている。


 画面は、まだ開かなかった。


「ルイ、ごめん。先に着替えててくれる?」


「うん。教室で待ってるね」


 彼女を見送ってから、俺は廊下の窓辺へ寄った。


「どうしたんだ。何かあった?」


『最初の試験が終わるころ、私の通信を探るようなイクスを感知しました』


 俺はドームのほうを振り返った。


『見学席に来た方のものと思われます。直ちに通信を止めなければ、私の存在を特定されるおそれがありました』


「俺に返事するのも、駄目だった?」


『はい。ハル様へ声を届ける信号も、拾われる可能性がありました』


「だから、何も言えなかったのか」


『事前にお知らせする余裕がありませんでした。その後も探査が続いていたため、内部で待機を……』


 そこで声がつかえた。


 高い部屋から見ていた人たち。


 俺が気づかないうちに、サクラはその誰かから隠れ続けていたらしい。


「見つかった?」


『私の存在については、おそらく気づかれていません』


「そっか。よかった」


『ですが、ハル様がお困りなのに。お呼びになっていたのに、何も……』


「聞こえてたんだな」


『はい』


 返事が小さくなった。


『お一人にしてしまいました』


 俺は自分の胸へ手を当てた。


 布の向こうで、鼓動がしている。


「……一人じゃなかったんだな」


『ハル様?』


「返事はできなくても、そこにいたんだろ」


『もちろんです』


 それだけは、迷わない声だった。


 俺は笑った。


「次は、それを思い出すようにする」


『ですが——』


「今日、困ったのは本当。でも、サクラだって俺を守ろうとしてたんだろ。謝ることじゃないよ」


 窓のそばを、生徒が二人通り過ぎた。


 楽しそうに話している。さっきまでの会場が嘘みたいな、いつもの放課後だった。


「俺も、少しずつ覚える。サクラが黙ってなきゃいけない日も、あるかもしれないし」


『……はい』


「それでも困ったら、誰かに助けてって言うよ。今日はルイがいてくれた」


 しばらくして、目の前に小さな画面が開いた。


 隅に描かれた花が、へにゃりと下を向いている。


「これからも頼むな」


『……はい。これからも、おそばに』


「じゃあ、飯に行こうか」


『お店は私がご案内いたします』


「ルイが考えてくれてるって」


 花が止まった。


『……私がいない間に、随分と』


「いたんだろ?」


『それとこれとは別です』


 いつもの声だった。


 おかしくなって笑うと、サクラも小さく笑った。


     *


 教室へ戻る途中、すれ違った生徒が俺を見た。


 隣の子に何かを囁く。


 また何かやっただろうか。


 自分の服を確かめてから端末に触れる。開き方を間違え、さっきの結果がもう一度浮かび上がった。


 総合評価、A。


 その下に、新しい表示が加わっていた。


 全生徒順位、一位。


「……一位?」


『おめでとうございます、ハル様』


「いや、ちょっと待て」


 目立たないようにする。


 朝、そう決めたはずだった。


 教室の前で待っていたルイが、俺を見つけて手を振った。


 俺も手を上げかけ、もう一度画面を見る。


 転校して二日目。


 俺はどうやら、この学校の首席になってしまったらしい。

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