第十話 空の上では、少し近い
「……これ、乗れるの?」
店先に並んだ乗り物を見て、俺は足を止めた。
形はバイクに似ている。けれどタイヤがない。細い車体の下に影があり、触れてもいないのに少しだけ揺れていた。
「ヴァンっていうの。観光用だから、行き先を決めると連れていってくれるんだよ」
ルイが隣へ来た。
「競技用もあるんだけど、そっちは自分で運転するの。学校にも同好会があるくらい人気なんだ」
「空飛ぶバイクか……」
前の世界でもバイクには乗っていた。ただし、地面の上を走るものだった。急に道がなくなる心配をしたことはない。
車体の横へしゃがみ、下を覗く。
『何もついていませんよ』
「確かめるくらいいいだろ」
サクラに返しながら顔を上げると、ルイが笑っていた。
「ハルちゃん、乗ってみたい?」
「すごく」
「じゃあ、お店までこれで行こう?」
今日のお祝いは、目的地に着く前から楽しそうだった。
*
手続きを済ませ、俺が前に座る。
ルイが後ろへ乗ると、車体がわずかに沈んだ。狭い座席の上で腰をずらしているうちに、背中へ柔らかな重みが寄り添った。
「こうしてつかまれば、大丈夫かな」
腕が腹の前へ回る。
俺は自分の手元を見た。その下に、ルイの手がある。
「……恋人みたいだな、これ」
返事が少し遅れた。
「そう、だね」
振り向くと、ルイが俯いていた。髪に隠れた頬が、ほんのり赤い。
「狭かった?」
「ううん。このままでいい」
だったら、いいか。
保護用のゴーグルをつけ、目的地を設定する。表示された経路を確認すると、車体が静かに浮き上がった。
「おお……!」
足元の通りが離れていく。
屋根の高さを越えると、建物の間に隠れていた景色が一度に開けた。窓の中から見ていた街の、その中を走っている。
風が頬に当たった。
速い。
けれど、知っているバイクの振動もエンジンの音もない。聞こえるのは風と、背中のほうから漏れたルイの笑い声だけだった。
「気持ちいいな!」
「うん!」
腹の前で彼女の手が重なる。俺は前を向いたまま笑った。
さっきまでドームの中で立ち尽くしていた自分が、随分遠くに思えた。
*
大通りに沿って走る途中、画面の端に切り替えの表示が出た。
「これ、自分でも動かせるの?」
『手動運転に対応した車種です。操作方法をご案内しましょうか』
「頼む」
アクセルとブレーキ。傾きを調整する握り方。
基本は知っているものに近かった。地面に接していないぶん、体を傾けたときの動きが少し違うらしい。
許可された経路の中なら、自分で運転してもいいという。
「ルイ、俺が運転してみてもいい?」
「うん。乗ったことあるの?」
「似たやつなら」
「じゃあ、お願い」
迷いのない返事だった。
俺は一度速度を落とし、操作を切り替えた。
握りをゆっくり回す。
ヴァンが前へ出た。
風が強くなる。左右の建物が流れ、少し傾けると、車体も気持ちよく弧を描いた。
「……いいな、これ」
アクセルを戻しても、しばらく頬が緩んだままだった。
「ハルちゃん、楽しそう」
「分かる?」
「背中を見てても分かるよ」
そんなところにまで出るのか。
俺は少し照れながら前方の経路を確かめた。
街の向こうに山が見えた。
いくつもの峰が重なり、裾のほうには緑が続いている。建物に隠れる直前、川らしき光がちらりと見えた。
「なあ、ルイ。ご飯の前に、ちょっと寄り道しない?」
「どこへ?」
「あそこ」
指さすと、彼女が肩越しに覗いた。
「山?」
『そちらは観光用の運行区域外です』
サクラが教えてくれる。
「ヴァンじゃ行けないのか」
『この車両では、そのまま進むことはできません』
俺は川の光を探した。
遠くを見るときの要領で目を合わせる。岩場と浅い流れが見えた。広い河原があり、周りに人はいない。
この景色の中へ降りたら、どんな音がするんだろう。
試験で、さんざん騒がれた力だ。それでも今は、ルイと一緒に行ってみたい場所があった。
「別の行き方なら、できると思う。さっきのテレポートで」
ルイの腕に少し力が入る。
「私も一緒に?」
「うん。サクラ、二人とヴァンごと移動できる?」
『対象と移動先を確認します。……可能です』
「行ってみる?」
ルイは山を見ていた。
それから、俺の背中へ頬を寄せた。
「うん。ハルちゃんとなら」
*
風の音が止まった。
目の前にあった街が消え、代わりに緑が広がる。
浅い川がすぐそばを流れていた。
ヴァンを河原へ降ろしてから、俺は後ろを振り向いた。
「着いた」
ルイはしばらく何も言わなかった。
水面を見る。木々を見上げる。それから遠くの空を見た。
「……本当に、一瞬なんだね」
「びっくりした?」
「うん。だって、さっきまで街にいたのに」
彼女がそっと降りる。
靴の下で小石が鳴った。その音を確かめるように、もう一歩進んだ。
俺も隣へ降りた。
「学校で皆があんなに驚いてたの、何となく分かったよ」
「やっぱり、普通じゃないんだな」
口にしてから、少し気になった。
自分と同じ制服を着た相手が、こんなことをしている。ルイはどう思うんだろう。
「……変だよな、俺」
ルイが顔を向けた。
「変?」
「いろいろ。昨日まで言葉も話せなくて、今日はいきなり首席とか言われて。俺自身、よく分かってないし」
川の流れを見る。石に当たった水が白くなり、すぐに元の色へ戻っていく。
「ルイにまで、変なやつだって思われたら嫌だなって」
言ってしまうと、思っていたより子供っぽかった。
ルイはしばらく俺を見ていた。
「私、さっきハルちゃんが運転してるとき、かっこいいなって思ってたよ」
「俺が?」
「うん。楽しそうで、見てる私まで嬉しくなった」
彼女の手が俺の手に触れた。
「今も嬉しい。こんなところ、一人じゃ来られなかったから」
指先が重なる。
「それだけじゃ、駄目かな?」
「……駄目じゃない」
「じゃあ、いいよ」
ルイが笑った。
試験会場でも、こうして手を差し出してくれた。何ができるのかを尋ねる前に、今の俺を見てくれる。そのことが、胸の奥へゆっくり染みていった。
『ハル様。私もおります』
「分かってるよ」
『今、とても大切な場面でしたので』
ルイが声を出して笑った。
「サクラちゃんも一緒だね」
『当然です』
小さな画面が俺たちの間に浮かぶ。
川のそばで女の子二人と画面一つ。
妙な取り合わせだが、誰も気にする人はいなかった。
*
川辺の石に座り、取り留めもなく話をした。
学校の店で何が美味しいとか、ヴァンの競技にはどんな種類があるとか。ルイが話してくれるたび、見たいものが増えていった。
気づけば川面の光が薄くなっていた。
もう少しだけ、と立ち上がってはまた話し込み、結局ヴァンへ戻るころには、空に星が見え始めていた。
「……寄り道って時間じゃなくなったな」
「ふふっ。ご飯、まだ食べてなかったね」
少しだけ上昇し、山の端を越えない高さでヴァンを止める。暗くなっていく森と、最後の光が残る峰が見渡せた。
「私、こういう景色、映像でしか見たことなかった」
ルイが呟いた。
「ほかの地区にも、行ったことないし」
「家族旅行とかも?」
「うん。私の家は二文字だから」
その返事は自然だった。
名前の長さで、行ける場所まで違うらしい。サクラの説明を聞きながら、俺は山々を眺めた。
道も壁も見えない。
それでもルイは、普段ここへ来られないのだ。
「……また、見に来よう」
今はそれだけ言った。
ルイの返事の代わりに、背中へ回った腕が少し強くなった。
そこで、端末が鳴った。
《今、どこにいるの?》
ヒロだった。
「ちょっと景色のいいところ」
《どの辺り? 学校の外?》
「山」
《山!?》
声が大きくなった。
《昨日のこともあるんだから、行き先くらい——》
「分かった、帰ったら話す。今、友達と一緒だから」
後ろでルイが小さく笑った。
『ハル様。レンタル会社からも通知が来ています』
「え」
『車両の位置が運行区域から外れているそうです』
……そうだった。
行けることと、借り物を持っていっていいことも別だった。
「すぐ戻りますって伝えて」
『承知しました』
俺は大きく息を吐いた。
ルイが背中越しに言う。
「戻ったら、ご飯にしようね」
「……うん。腹減った」
美味い肉のためにも、まずは返却だった。




