第七話 小指一本と、明日の言葉
初めての授業で分かったことがある。
言葉が分かっても、授業が分かるとは限らない。
先生の説明は日本語として聞こえてくる。黒板代わりの画面も、コンタクトを通せば読める。なのに、知っている単語を並べたはずの文章が、さっぱり頭へ入ってこなかった。
魂の振動が何とか。
イクスの伝達がどうとか。
中学二年生、難しくないか。
『前提となる知識が違いますから』
(先生、今、簡単な復習だって言ったぞ)
『これから覚えていきましょう』
それが一番大変なんだよな。
隣の席から小さな板が回ってきた。表面に薄く文字が浮いている。
――ここは去年習ったところ。あとで一緒に見ようね。
ルイを見ると、彼女が口元だけで笑った。
俺も笑い返してから、ひとまず先生の説明を書き写すことにした。手で書く道具まで違うせいで、最初の一文字がひどく大きくなった。
*
帰りの時間になると、俺の席の周りに人が集まった。
「どこから来たの?」
「髪、綺麗だね。触ってもいい?」
「一緒に帰らない?」
一つずつなら、まだ何とかなる。
同時に聞かれると、どれから答えればいいのか分からない。
「ええと……」
困っているうちに別の質問が飛んでくる。俺が笑うと、なぜか相手まで嬉しそうに笑った。
愛想だけは通じるらしい。
「ハルちゃん、今日は疲れてると思うから」
ルイが俺のそばへ来た。
「また明日、ゆっくり話してあげて?」
責めるような言い方ではなかった。それでも皆が少し下がり、椅子から立てる隙間ができた。
ありがたい。
俺は何度か頭を下げながら、ルイについて教室を出た。
途中、先生に呼び止められた。
「渡すのが遅くなってしまったわね。これ、生徒用の端末です」
差し出されたのは細いリストバンドだった。
手首につけると画面が開き、名前と学年が表示される。授業の資料や学校からのお知らせは、ここへ届くらしい。
「使い方が分からなければ聞いてね」
「ありがとう、ございます」
何とか答えると、先生が微笑んだ。
今日だけで、貰ったものが随分増えた。
制服。机。端末。
それから、一緒に廊下を歩いてくれる友達。
「私は寮だから、こっちなの」
校門へ続く道の途中で、ルイが足を止めた。
「ハルちゃん、帰り道は分かる?」
頷いて手元の案内表示を指す。
「そっか。じゃあ大丈夫だね」
安心したように笑って、彼女は手を振った。
「また明日」
「また、明日」
つい繰り返す。
ルイが寮のほうへ歩いていくのを見送ってから、俺は校門へ向かった。
何度も使ってきた挨拶だ。
それなのに今日は、口にしたあとも少し嬉しかった。
*
学校を出るころには、空の色が変わり始めていた。
「……なあ、サクラ。ちょっと寄り道していい?」
『今朝も、少しだけとおっしゃっていましたね』
「今度はちゃんと帰る」
『ヒロ様に連絡してからにしましょう』
それなら安心だ。
サクラが教えてくれた店は、高い場所に浮いていた。下から見ると大きな球体なのに、中へ入ると壁一面が透明で、街をぐるりと見渡せる。
席へ座るのも忘れて、俺は窓へ近づいた。
「……すごいな」
建物の間を走る車の列が、光の川みたいに続いている。遠くには学校の広い敷地が見えた。
窓辺の客が望遠鏡を覗いている。
「俺も見てみようかな」
『ハル様のお体にも、遠くを見るための機能があります』
「目についてるってこと?」
『はい。対象を決めて意識を向けてみてください』
遠くの塔を見る。
もっと近くで。
そう思った途端、塔が視界いっぱいに迫った。
「うわっ」
思わずのけぞる。
塔の外壁に留まった鳥と目が合った。正確には、目が合った気がした。
「……近い」
『調整できます』
「これ、先に言ってほしかった」
笑いながら視界を戻す。
そのとき、背後から聞き覚えのある声がした。
「こんなところにいたのか」
振り向くと、朝の男が立っていた。
今度は一人だった。
「よくも恥をかかせてくれたな」
言いながら、俺との間に少し距離を残している。
朝の雷は覚えているらしい。
(サクラ。ゲス野郎って何て言う?)
『覚える言葉に偏りが出始めています』
(必要なんだよ)
教わった言葉を、そのまま口にした。
男の眉が跳ねる。
「お前、俺が誰だか分かっているのか?」
分からない。
名乗ってもらっていないし。
「父上に言えば、お前なんか——」
そこまで言って、男は周囲を見た。
客の何人かがこちらを窺っている。店員らしい人も足を止めていた。
男は口を結び、近くの卓を指さした。
「勝負しろ。力比べだ。イクスは使わない」
なるほど。
雷では勝てないから、今度は腕力というわけか。
「俺が勝ったら、言うことを聞け」
(俺が勝ったら、ルイに近づくなって伝えて)
サクラが通訳すると、男は鼻を鳴らした。
「いいだろう」
俺は椅子へ座った。
向かい側で、男が腕を置く。
その手を見てから、自分の手を見た。
小さい。
こうして比べると、本当に女の子の手だった。
『ハル様。身体そのものの力は、手袋では抑えられません』
(うん。気をつける)
今朝の雷みたいにはしない。
そう思って、小指を立てた。
男の顔が赤くなる。
「ふざけるなよ……!」
大きな手が小指を握り込んだ。
合図と同時に力がかかる。
男の肩が動き、卓の脚が床を擦った。
俺の小指は動かなかった。
痛くもない。
ただ、目の前の人が必死に力を入れていることだけが分かった。
「……っ、なんで」
男が腰を浮かせる。
このまま引っ張られ続けるのも、どうなんだろう。
俺は勝負を終わらせるつもりで、ほんの少し指を倒した。
嫌な音がした。
男が叫び、手を離した。
「……え」
腕を抱えてうずくまる姿を見て、背中が冷えた。
俺はすぐに立ち上がった。
「サクラ、治療を!」
『店員の方が手配しています』
駆け寄ってきた店員が男のそばへしゃがみ、端末を開く。俺も近づこうとしたが、男は肩を震わせて身を引いた。
その顔を見て、足が止まった。
さっきまで腹が立っていた。
今は、どうしていいか分からなかった。
(……悪かったって伝えて。怪我をさせるつもりじゃなかった)
サクラの通訳を、男は顔を上げずに聞いていた。
ほどなく治療のできる人が来た。腕を確かめ、元どおりに治せると言った。
俺はそこでようやく息をついた。
店にも謝り、連絡先を残してから外へ出た。
*
帰り道、何度も小指を曲げた。
何ともない。
相手があんなに痛がっていたのに、俺のほうには跡さえなかった。
『お怪我は回復するとのことです』
「うん」
小指一本なら加減できると思った。
そもそも、その考えから間違っていたらしい。
「……力を入れなかったつもりなんだけどな」
『これから、ご自身の感覚と実際の力を確かめていきましょう。私もお手伝いします』
俺は頷いた。
頭上を車が通り過ぎる。
その先の空は、見慣れた夕焼けに似ていた。最初に見た赤い空とは違う、帰り道の色だった。
「帰ろうか」
『はい』
*
家へ戻ると、ヒロはまず俺の手を確かめた。
それから、怪我をさせた相手のことを聞いた。
「治せるそうでよかった。でも、これからは体の動かし方も練習しよう。イクスだけじゃないからね」
「……うん」
言い返せなかった。
ヒロはそれ以上責めず、温かい飲み物を置いてくれた。
「学校はどうだった?」
「難しかった」
「授業が?」
「それも。言いたいことが全然出てこなくてさ」
椅子へ座り、今日覚えた言葉を画面に並べてもらう。
ありがとう。
大丈夫。
また明日。
この三つは、もう少しちゃんと言えるようになりたかった。
*
同じ発音を繰り返していると、扉が開いた。
「ハル、できたよ」
ヒロが小さな部品を持っている。
「何が?」
「言語変換の補助装置。君の体と翻訳機を連動させれば、話すときもこちらの言葉へ変えられる」
俺は画面から顔を上げた。
「……話せるの?」
「うん。文字を書くときも補助できる。自分で覚えた言葉を使いたければ、切り替えも可能だよ」
素晴らしい発明だ。
間違いなく、素晴らしい。
俺はしばらく黙ってから、画面に並ぶ練習の記録を見た。
「あと五分早く来てほしかった」
「え?」
『ハル様は今、とても熱心に勉強なさっていました』
「ああ……それは、ごめんね」
ヒロが困った顔をする。
何だかおかしくなって、俺は椅子の背へもたれた。
「いや、ありがとう。つけてほしい」
ルイに、ちゃんと礼を言いたい。
それから、今日の男にも。
俺はもう一度画面を見て、自分で覚えた音を口にした。
「また明日」
今度は、途中でつかえなかった。




