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第六話 その名前を、友達が呼んだ


 教室の扉を開けた途端、いくつもの顔がこちらを向いた。


 話し声が途切れる。


 自分の足音だけがやけに大きく聞こえた。


「ハルさんですね。どうぞ、こちらへ」


 教卓のそばにいた先生が手招きする。若い女性だった。俺が来ることを聞いているらしく、驚いた様子はない。


 その落ち着きに助けられながら、前へ出た。


 五十人くらいいるだろうか。


 これだけの人数に見られるのは久しぶりだ。仕事で自己紹介するのとはどうも勝手が違う。


『練習どおりで大丈夫です』


 サクラの声が小さく届く。


 息を吸った。


「転校生のハルです。事情があって、まだ言葉をうまく話せません。聞き取ることはできるので、気軽に話しかけてください。よろしくお願いします」


 最後まで言えた。


 頭を下げると、教室のあちこちから拍手が起こった。


 胸の奥に詰まっていたものがようやく下りていく。


「二文字なんだ」


「どこから来たのかな」


「可愛い……」


 顔を上げると、何人かと目が合った。慌てて笑ってみる。相手も笑い返してくれたので、ひとまず失敗ではなさそうだ。


 ただ、二文字というのが気になった。


 名前の話だろうか。


「ハルさんの席は窓側のあちらです。皆さん、困っていたら手を貸してあげてくださいね」


 先生の示した席へ歩く。


 机の横を通るとき、見覚えのある顔がこちらを向いた。


 ルイだった。


 彼女が目を丸くする。


 俺も少し驚いて、それから小さく手を振った。


     *


 席に着いて間もなく、昼休みになった。


 鐘の代わりらしい短い旋律が流れると、教室が一気に賑やかになる。椅子を引く音、友達を呼ぶ声。建物も道具も違うのに、こういうところは知っている学校とよく似ていた。


『見事なご挨拶でした。私、感動いたしました』


「言いすぎだろ」


『昨晩から何度も練習なさっていましたから』


 そう言われると、少し照れる。


 机の下でそっと拳を握っていると、横から声がした。


「あの……ハルさん」


 ルイが立っていた。


 朝は土がついていた頬が、今は綺麗になっている。袖の傷みは残っているが、顔色はさっきよりよかった。


「さっきは、ありがとう」


「ルイ」


「覚えてくれてたんだね」


 彼女が笑う。


 その先の言葉を探して、俺は黙った。


 怪我は大丈夫か。学長から話はあったか。ほかに困っていることはないか。


 聞きたいことほどすんなり出てこない。


 ルイが首を傾げた。


 俺も困って笑う。


 数秒、そんなことをしてから、彼女が「あ」と口を開いた。


「ごめん。まだ話すの、難しいんだよね」


 大きく頷く。


 通じた。


 それだけで妙に嬉しかった。


「これからお昼に行くんだけど、一緒にどうかな?」


「うん」


 それは迷わず答えられた。


     *


 連れてこられた場所には店が並んでいた。


 麺らしきものを茹でている店。肉を焼いている店。丸い食べ物を器用に宙で回している店。


 食堂を想像していた俺は入口で足を止めた。


「いっぱいあるでしょう?」


 ルイがどこか嬉しそうに言った。


「何が食べたい?」


 難しい質問だった。


 全部見たことがない。


 全部気になる。


 肉の焼ける匂いに引かれたが、今日はルイについていくことにした。彼女が勧めてくれた店で、具の挟まったパンと紅茶を頼む。


 注文はほとんどルイがしてくれた。


「ありがとう」


「ううん。私も誰かと食べるほうが楽しいから」


 卓につくと、窓の外に学校の広場が見えた。生徒たちが行き交い、その向こうで浮かんだ建物の影が地面に落ちている。


 ルイはカップを両手で包んでから、俺を見た。


「学長先生から連絡があったの。私と家族には何もしないって」


 俺は頷いた。


「よかった」


 その一言だけはちゃんと口から出た。


「だからハルさんも心配しないでね」


 安心させようとしてくれているのだと分かった。


 助けたつもりの俺が、助けた相手に気を遣わせている。


「ごめん」


「どうして謝るの?」


 ルイが目を丸くする。


「私、ハルさんが来てくれて、本当に嬉しかったよ」


 言い切ってから、彼女は紅茶に目を落とした。


「誰も止めてくれないと思ってたから」


 返す言葉が見つからなかった。


 さっきとは違う理由で。


 俺はカップを置いた。


「……何が、あった?」


 短く区切りながら尋ねる。


 ルイは俺を見て、少し迷ってから話し始めた。


「あの人に声をかけられたの。それで……顔を近づけてきたから、思わず叩いちゃって」


 指先がカップの縁をなぞる。


「そうしたら、授業に付き合えって。私が怒らせたから……」


「違う」


 思ったより強い声が出た。


 ルイが顔を上げる。


 その先を言おうとして、言葉がつかえた。頭の中では分かっているのに、口にすると崩れてしまう。


 悔しくて、俺は手元の表示を見た。


「サクラ。通訳、お願いしていい?」


『もちろんです』


 淡い画面が卓の端に開いた。


 ルイが息をのむ。


「それ……オーベイ?」


 聞き慣れない言葉だった。


『専属ツールの正式な呼び名です』


 俺にだけ小さく答えてから、サクラはルイへ向き直った。表示の向きが変わり、改めて声がする。


『初めまして。ハル様の専属ツール、サクラと申します』


「本当に……? 初めて見た」


 今度はルイにも分かる言葉で話しているらしい。俺の耳にはどちらも日本語に聞こえる。


『私のことはほかの方には内緒にしていただけますか』


「……うん。分かった」


 ルイが頷くのを待って、サクラが続けた。


『ハル様はこちらの暮らしにまだ不慣れです。言葉がうまく出てこないため、私からお伝えします』


 俺は頭の中で一つずつ言葉を渡した。


『嫌なことをされて拒んだルイ様が悪いわけではありません。助けに入ったことをハル様は後悔していません』


 ルイの指が止まった。


 俺は彼女に向き直る。


「また何か、あったら」


 ゆっくり話す。


「私に、言って」


「……ハルさん」


「一人で、いない」


 違う。


 一人で抱えなくていい、と言いたかった。


 言い直そうとすると、ルイが頷いた。


「うん。言うね」


 伝わったらしい。


 息を吐くと、彼女が少し笑った。


「ハルさんって、不思議だね」


「不思議?」


「うん。同じ二文字なのに、あんなに強いし。私だったら、あの人たちの前になんて出られない」


 また二文字。


 疑問に思っていると、サクラが教えてくれた。


『この世界では名前の文字数が立場にも関わります。一般の方は短い名前が多く、文明人やその関係者には長い名前が認められています』


 俺はルイを見た。


 彼女は当たり前の説明を聞く顔で頷いている。


 たった二文字。


 それだけで彼女がどう扱われるかまで決まるのだろうか。


 自分で選んだ名前が急に違う意味を持ち始めた気がした。


「でも、私はハルさんが来てくれてよかった」


 ルイが言った。


「同じクラスだったし。こうして一緒にお昼も食べられたから」


 そう言って笑う顔に胸のつかえがほどける。


 知らないことはまだたくさんある。


 たぶん聞いて楽しくないことも。


 でも今、目の前にいるこの子と昼飯を食べていることまで、難しく考える必要はない気がした。


「ルイ」


「うん?」


「ハル、でいい」


 彼女が首を傾げる。


 サクラが控えめに補った。


『ハルちゃん、と呼んでいただければ嬉しいそうです』


「……いいの?」


 頷く。


「じゃあ、ハルちゃん」


 新しい名前が彼女の声になった。


 昨日自分で選んだときとは、少し違って聞こえる。


 俺はもう一度、覚えている言葉を探した。


「ルイは、友達」


 言ってから、少し不安になった。


 勝手に決めるものじゃなかったかもしれない。


 けれどルイは、すぐに笑った。


「うん。友達」


 ようやく俺も笑えた。


 窓の外では、知らない乗り物が青空を横切っていた。


 この世界で明日何が起きるのか、俺にはまだ分からない。


 それでも教室で声をかけたい相手が一人できた。


 明日の学校が少し楽しみになった。

挿絵(By みてみん)

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