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第五話 学長室まであと一枚


 学長室へ続く建物には階段がなかった。


 入口から中を覗き、右を見て、左を見る。広い吹き抜けの中央に輪っかのようなものが浮いているだけだ。


「これ、どうやって上に行くんだ?」


『中央へお乗りください』


 恐る恐る足を乗せる。輪の内側には透明な床があり、見た目よりしっかりしていた。


『念動力で動かす設備ですね。移動を通して力を使う練習になるのでしょう』


「学校らしいといえば、学校らしいか」


 上へ。


 そう念じると、足元がふわっと持ち上がった。


「おお……」


 床が遠ざかる。廊下が横を流れ、窓の向こうの景色が広がっていく。


 浮いている。


 自分で浮かせているのだと思うと、さっき見た空飛ぶ生徒にも少しだけ近づけた気がした。


『ハル様、最上階です』


「分かってる」


『天井です』


「止まれ!」


 輪は頭上すれすれで止まった。


 あと少しで学長室への到着方法が突撃になるところだった。


 目の前には大きな扉があった。


 重そうな扉の中央に人の顔がついている。


 取っ手はない。


「……悪趣味だな」


【聞こえているぞ】


「うわっ」


 顔が動いた。


 眉が寄り、こちらを睨む。飾りではないらしい。


【学長に何の用だ】


「転校生。ハル」


 練習した言葉で答えると、顔は俺をじろじろ眺めた。


【話は聞いている。ずいぶん遅かったな】


「いろいろあって」


 日本語で答えてから、しまったと思った。


 けれど顔は鼻で笑っただけだった。


【言葉は気にするな。意思は通じる】


「便利だな、あんた」


【私はこの学校で長きにわたり学長室を守っている】


「ずっと扉で?」


【……何か問題があるか】


「いや、大変そうだなって」


『雨には濡れませんね』


【そこの小さいのも黙っていろ】


 サクラの表示が俺の肩のそばで揺れた。


 どうやら歓迎されてはいない。


【ここを通るなら、力を示せ。私に念力を注ぎ込むのだ】


「学長に呼ばれてるんだけど」


【規則だ】


「転校生も?」


【規則だ】


 この学校では会いに来るだけでも試験があるらしい。


 俺は扉へ手を向けた。


 昨日、山の向こうで感じた力を思い出す。あれほど出す必要はない。手袋をしているのだから、そこまでのことにはならないはずだ。


【ドルルルルル】


 顔が震え始めた。


「大丈夫か、それ」


【Cランク!】


 ぴたりと震えが止まり、顔が笑った。


【ふん。大したことはないな】


「……そうなの?」


【もう少し力をつけてから出直せ】


 あれ。


 さっきの雷は俺としてはかなりすごかったんだけど。


 この世界ではあれでも普通以下なのか。いや、でも男たちは逃げていたし。


「サクラ、これって——」


【通れないと言っているだろう。帰れ帰れ】


 顔がしっしっとでも言いたげに口を動かす。


 ちょっと腹が立った。


 呼ばれて来たのに追い返されるのもそうだが、この顔に笑われるのが妙に悔しい。


 手袋の端に指をかける。


『ハル様』


 サクラの声で、手が止まった。


 昨日の山が頭をよぎる。


 ……危ない。


 危うく、扉相手に学長室ごと勝負するところだった。


「これ以上は出さないほうがいい」


【負け惜しみか】


「いや、そうじゃなくて」


【では帰るのだな】


「だから学長に呼ばれてるんだって」


 扉と押し問答をしている。


 新しい世界にはこういう不便もあるらしい。


 そのとき、向こう側から声がした。


「もう入れてあげなさい。廊下の声、全部聞こえてるよ」


 顔が黙った。


「その子は僕のお客さん」


【……初めからそう言えばよいものを】


「言ったよな?」


 返事はなかった。


 扉が左右へ開く。


 奥から現れたのは、丸い眼鏡をかけた小柄な男性だった。


「やあ、ハルちゃん。ようこそ」


     *


 学長室は思っていたより居心地のよさそうな部屋だった。


 窓辺には見知らぬ植物が並び、低い卓の上には菓子が置いてある。壁に掛かった絵だけは何を描いているのか分からないが、少なくとも入口の顔よりは落ち着く。


「僕はターミリアン。この学校の学長です」


「ハルです。遅くなってすみません」


「うん。ヒロから聞いたよ。途中でお茶をしていたんだって?」


「……はい」


「初めての街だものね。座って」


 勧められた椅子に腰を下ろす。


 日本語が通じるだけで、こんなにほっとするとは思わなかった。


「ヒロとは昔からの友達なんだ。君の事情も、必要なところは聞いているよ」


「どのへんまでですか?」


「昨日、山が減ったところまで」


「必要ですか、それ」


「学校に迎える側としてはかなり」


 笑っているが、冗談だけではなさそうだった。


 学長は俺の手袋に目をやり、それから卓の画面を指先で動かした。


「それと、さっきのこと」


 画面に地面の焦げ跡が映った。


 肩が縮む。


「……すみません。あの、女の子が——」


「うん。まず事情を聞こうか」


 俺は、ルイが追われていたこと、転んでも攻撃が続いていたことを話した。説明しているうちに、最後に見た彼女の顔を思い出す。


 ありがとうと言ったあともルイは怯えていた。


「止めないと、怪我じゃ済まないと思って」


「そうだろうね」


 学長の返事は静かだった。


「でも、あの子に何かあったら困ります。俺がいなくなったあと、仕返しとか……」


 口にしてから、遅れて気づいた。


 俺は彼女を置いてきた。


 あの場で追い払えたからといって、それで終わりになるとは限らない。


「今から戻ったほうが——」


「そこは僕が対応しているよ」


 腰を浮かせた俺に、学長が言った。


「ルイさんとその家族に今回のことで手を出さないよう話をつけている。念のため、先生にも様子を見てもらっているところ」


 息を吐く。


 安心したあとで、情けなさが残った。


「すみません。そこまで考えてなくて」


「知らなかったんでしょう?」


「知らなくても、考えないと駄目でした」


 学長はすぐには答えなかった。


 窓の外を、一台の乗り物が横切っていく。静かな室内で、サクラの小さな表示だけが俺の手元に浮いていた。


「この学校では文明人と一般の生徒でクラスが分かれている」


 学長が言った。


「人数は一般の生徒のほうがずっと多い。でも、与えられている権利は同じじゃない。君が止めたあの行為も、彼らからすれば認められている授業の一つなんだ」


「学長でも止められないんですか」


「いつでも思うとおりに、とはいかないね」


 丸い眼鏡の奥で目が細められる。


「僕もいい学校にしたいと思っているよ」


 それ以上簡単には聞けなかった。


 何をしているんだと言うのは簡単だ。けれどこの人が普段どんな相手と何を話しているのか、俺はまだ知らない。


「ヒロが、君には自分の目で見てほしいと言ったそうだね」


「はい」


「だったら、これから少しずつ知っていけばいい。学校も、街も、人も」


 学長は画面を閉じた。


「もちろん楽しいこともあるからね。せっかく学校へ来たんだ。嫌なものばかり見て帰るのはもったいない」


 その言葉に肩の力が抜けた。


 朝、店で食べた焼き菓子を思い出す。あれもこの世界のものだった。


「……友達、できますかね」


「それは僕が決めることじゃないかな」


「ですよね」


「でも、教室へ行かないと始まらないよ」


 卓の上に時刻が浮かぶ。


 もう昼が近かった。


「先生には連絡してある。案内を送るから、その教室へ行ってごらん」


「はい。ありがとうございました」


 立ち上がり、頭を下げる。


 出口へ向かうと、背後から声がかかった。


「ハルちゃん」


「はい?」


「手袋、外さなかったんだね」


「……昨日約束したので」


 学長が笑った。


「うん。それはよかった」


     *


 廊下へ出ると、扉の顔がこちらを見た。


【話は済んだか】


「済んだ。次は普通に入れてくれよ」


【考えておこう】


 偉そうだ。


 けれど今度は腹を立てずに済んだ。


 輪に乗って降りながら、サクラに小声で話しかける。


「止めてくれて、ありがとな」


『何のことでしょう?』


「手袋」


 わずかな間のあと、画面に小さな花が咲いた。


『どういたしまして』


 教室へ向かう案内がその隣に浮かぶ。


 俺は一度自己紹介を口の中で繰り返した。

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