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第四話 寄り道先で、雷ひとつ


 鏡の前で、俺はもう一度スカートの裾を引っ張った。


 白いブラウスに細いリボン。昨日まで知らなかった制服が鏡の中の少女には妙に似合っている。似合ってしまうのがなんだか落ち着かない。


「これ、もう少し長くならない?」


『先ほどから引っ張っていらっしゃいますが、布は増えません』


「そういうことじゃなくて」


 膝のあたりが頼りない。ズボンなら覆われているはずの場所に、朝の空気が直接触れる。


 サクラに教わりながら髪を整え、首元のリボンを結び直す。鏡に向かって口を開くと、昨日練習した言葉がまだ少しぎこちなく出てきた。


「私は転校生のハルです。よろしくお願いします」


『はい。よくできました』


「これ以外を聞かれたら終わりだけどな」


『分からなければ、私がお手伝いいたします』


 そうだった。


 俺一人で全部話さなきゃいけないわけじゃない。少し安心して、最後にもう一度鏡を見た。


 知らない制服を着た、知り合って二日目の自分がいる。


 とりあえず寝癖はついていなかった。


     *


 廊下へ出ると、ヒロが玄関で待っていた。


「うん、似合ってるね。具合の悪いところはない?」


「服の落ち着かなさ以外は大丈夫」


「そのうち慣れるよ。手袋は?」


 両手を上げて見せる。


「つけてる。外さない。山は増やさない」


「減らさない、のほうだね」


 そうだった。


 ヒロは苦笑してから、俺の耳元へ目をやった。


「イヤリングも大丈夫だね。それと、学校では昨日教えた発音を使うこと。自分の名前もこちらの言葉で」


 教わった音を口にすると、ヒロが頷いた。


 耳には同じ名前に聞こえるのに、舌の置き方が少し違う。意味が分かることと、話せることは別らしい。


「緊張してる?」


「ちょっと。でも、それより楽しみかな」


 制服を着て学校へ行く。もう自分には縁のないことだと思っていた。


 仕事の予定も、通勤電車の時刻も気にしなくていい朝だ。代わりに心配するのが自己紹介の発音なんだから、人生は分からない。


「じゃあ行ってくる」


「行ってらっしゃい。サクラ、頼んだよ」


『お任せください』


 玄関の扉を開けた瞬間、俺は足を止めた。


 窓越しに見ていた街が頭の上まで続いていた。


 建物と地面の隙間を朝の光が通り抜けている。上空を走る車は思っていたより近い。低い音が頭上を通り過ぎ、そのあとを聞き慣れない鳥の声が追いかけた。


「……ほんとに浮いてる」


『はい』


「あっちの建物、下に何もないぞ」


『はい』


「サクラ、人も飛んでる」


『ご覧になっていますね』


 買い物袋らしきものを提げた人が俺たちの上を横切った。近道でもするような気軽さで隣の建物へ降りていく。


 すごい。


 それしか言葉が出てこない。


 歩くたび、昨日教わったことが目の前に現れる。宙に開く画面。地面から少し浮いた植木鉢。店先で客のあとをついていく小さな箱。


「なあ、あれ何?」


『運搬用の自動機械です』


「あっちの木は?」


『こちらの気候に適した改良種ですね』


「じゃあこの匂いは?」


『焼き菓子です』


 それは確かめる必要があった。


     *


『ハル様。ヒロ様からお電話です』


 カップを持ったまま、俺は顔を上げた。


「もしもし?」


《今、どこにいるの?》


「外の席。日当たりがよくてさ」


《学校の?》


「いや、店の」


 電話の向こうが静かになった。


 焼き菓子をもうひと口食べる。外はさくさく、中は柔らかい。知らない果物の酸味が甘さのあとに残った。


「ここ、美味いぞ。帰ったら教える」


《それは楽しみだけど、学校から連絡が来てるんだよ!》


「……今、何時?」


 サクラが時刻を表示した。


 思っていたよりだいぶ進んでいる。


「サクラ、なんで言わなかった?」


『二度ほど申し上げました』


「そうだっけ」


『その都度、あとひと口と』


 言った気がする。


《とにかく、まず学長室へ行って!》


「分かった。すぐ行く」


 通話が切れた。


 残りを急いで飲み込み、席を立つ。


 新しい人生でも、遅刻は遅刻らしかった。


     *


 学校の入口を抜けると、案内図が浮かび上がった。


 俺はその前で、しばらく黙った。


「……これ、全部学校?」


『はい』


 図の中にいくつもの建物と道路がある。中央には広場があり、その周囲に並んでいるのはどう見ても店だった。


 学校というより街だ。


「学長室、どこ?」


『こちらです。ご案内します』


 表示を頼りに歩いていく。


 制服姿の生徒が行き交い、ときおり頭上を誰かが飛んでいった。遅刻している身としては羨ましいが、今の俺が真似をしたらどこまで飛んでいくか分からない。


 そのとき、建物の向こうから笑い声が聞こえた。


 何人かが走っている。


 先頭に一人。その後ろに五、六人。


 鬼ごっこかと思った。


 追われていた少女が転ぶまでは。


 膝をついた少女のすぐ横で地面が弾けた。土が散り、追いかけていた連中の笑い声が大きくなる。


「……何してるんだ、あれ」


『狩りの練習と思われます』


「狩り?」


 少女が立ち上がろうとする。その腕のあたりを何かがかすめ、彼女はまた地面に手をついた。


「人を追い回す授業なのか?」


『この世界では文明人に認められている行為です』


 昨日ヒロが話していた言葉が耳の奥へ戻ってきた。


 人間を狩る。


 話を聞いているときには、ひどいことだと思うしかなかった。けれど今はその人間が目の前にいる。土のついた手で体を支え、逃げようとしている。


 俺は進む向きを変えた。


『ハル様。相手は文明人です』


「うん」


『関わったあと、どのような扱いを受けるか、今のハル様には——』


 少女のそばでまた土が跳ねた。


「……あとで教えて。今は止めたい」


 彼女の前に立つと、追いかけてきた男が足を止めた。


「なんだ、お前」


 聞こえる言葉は日本語だ。返す言葉だけが出てこない。


 昨日もう少し勉強しておけばよかった。


「私は、転校生のハルだ」


 場違いな自己紹介になった。


 男は俺を上から下まで眺めると、口元を歪めた。


「転校生? へえ。いい顔してるじゃないか」


 その視線が制服の上をゆっくり動いた。


 背中がぞわっとする。


 女になってから初めて分かったことが一つ増えた。こんな見方をされるのは、かなり気分が悪い。


「ちょうどいい。お前、俺のところに来いよ」


(……断るって何て言う?)


 サクラの教えた発音を真似すると、男の笑みが消えた。


 背後で衣擦れがした。


「逃げて」


 振り向くと、少女が俺を見上げていた。頬に土がつき、袖が擦り切れている。


「私に構わないで。あなたまで——」


「私は、助ける」


 覚えている言葉をつなぐ。


 少女が困ったように眉を寄せた。うまく伝わらなかったのかもしれない。


 だから笑ってみせた。


 大丈夫と言うにはまだ言葉が足りなかった。


「おい。無視するなよ」


 男の指先で青白い光が弾けた。


 小さな火花が腕を伝い、ぱちぱちと音を立てる。髪の先が持ち上がったような感覚がした。


『電気を発生させています。かなり慣れているようですね』


(俺にもできる?)


『補助機能を使えば。具体的に思い描いてください』


 電気。


 昔、下敷きを髪にこすりつけて遊んだ。あれも電気だったはずだ。


 そんなことを思い浮かべた途端、視界の端で光が跳ねた。


 俺の周囲を幾筋もの白い線が走る。


 男が一歩下がった。


 さっきまで笑っていた連中も、口を開けたまま動かない。


(……ちょっと多くない?)


『その方へ向けて放つことはおすすめしません』


(どうなる?)


『命に関わります』


 慌てて狙いを変えた。


 男から離れた何もない地面。奥にも人がいないことを確かめ、そこへ指を向ける。


 落ちろ。


 そう念じても、力は周囲を走り続けた。


『動作や言葉を添えてみてください』


 俺は人差し指を立て、親指を起こした。


「どーん」


 軽い声に、まるで似合わない音が返ってきた。


 白い光が地面を貫く。


 腹の底まで響く轟音。思わず目を閉じると、熱を含んだ風が頬を撫でた。


 目を開けたとき、男は地面に座り込んでいた。


 いや、気を失っている。


 仲間はいつの間にかいなくなっていた。


(……手袋、してるよな?)


『はい』


 両手を確かめる。


 昨日も思ったけれど、この体の加減がまだ分からない。


 少女が俺と地面の焦げ跡を交互に見ていた。


「あの……ありがとう。でも、この人たちに逆らったら……」


 その先は言葉にならなかった。


 俺は彼女の傷を見てから、もう一度顔を見た。


「名前、は?」


「……ルイ」


「ルイ」


 忘れないように繰り返す。


「私は、ハル」


「それはさっき聞いたけど……」


 そうだった。


 言いたいことは山ほどあるのに、自己紹介ばかりしている。


『ハル様。学長にお会いしましょう。ルイ様のこともお話ししたほうがよいかと』


 確かに先生に知らせたほうがいい。


 俺は学長室のある建物を指さした。


「学長に、話す」


 ルイが俺の指の先を見た。それからまだ不安そうな顔で頷く。


「……うん」


 俺は親指を立ててみせた。


「また」


 歩き出すと、制服の裾が足に触れた。


 焦げた匂いがまだ鼻に残っていた。

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