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第三話 世界の事情と、明日の制服


 夕方になっても、ヒロは戻ってこなかった。


 隣の部屋からは、ときどき引き出しを開ける音や、何かを机へ置く音がする。その間、俺はサクラに教わりながら、目の前の画面を動かしていた。


 触れると広がる。

 指を滑らせれば、次の画面へ進む。


 仕組みは分からないが、使い方は思っていたほど難しくない。元の世界でも、携帯の中身を理解して使っていたわけじゃないしな。


「これ、手を使わなくても動く?」


『行きたい画面を思い浮かべていただければ』


 街の地図。


 そう考えると、すぐに表示が切り替わった。


「おお」


 拡大したい場所を見る。

 地図が勢いよく近づいた。


 近づきすぎた。


「……今、どこ?」


『ヒロ様のお宅の玄関前の敷石です』


「地図で見る必要あるか、それ」


 サクラが元の大きさへ戻してくれた。


 考えれば動くというのも便利なだけじゃないらしい。余計なことまで考える俺にはしばらく指で操作するほうが向いていそうだった。


 地図から建物の間取りへ切り替えてもらう。

 寝室の隣に居間があり、その先に玄関がある。反対側には用途の分からない大きな部屋が幾つも並んでいた。


「ここって家だけじゃないの?」


『はい。ヒロ様の研究設備と居住用の設備を兼ねています』


「広いんだな。俺の部屋しか見てなかった」


 そこまで言って、自分の言葉が気になった。


 俺の部屋。


 目を覚ましただけの知らない部屋だ。それなのに、もうそんなふうに呼んでいる。


 画面から目を離すと、棚のぬいぐるみと目が合った。動物なのかどうかも分からない、丸い耳のついたやつだった。


「……あれもヒロの趣味?」


『お部屋の調度品についてはヒロ様がご用意されました』


 花柄のカーテンを見る。

 ベッドの上の小さなクッションも見る。


「そっか……」


 人は見かけによらない。


 そのうち聞いてみようと思いながら、俺は間取りを閉じた。


     *


 窓の向こうで街に明かりが灯り始めていた。


 昼間は光を反射していた建物が今度は自分で光っている。壁の一面に大きな模様が流れ、空を走る車の列がその前を横切っていった。


 あそこまで歩いてどのくらいだろう。


 椅子から立って窓へ寄ると、その上のほうに白いものが見えた。


 月だった。

 二つ並んで、夕暮れの空に浮かんでいる。


 街にばかり目を取られていたが、あれも十分おかしい。もう一つの地球だと言われても、月まで二つになるものなんだろうか。


「なあ、サクラ。あの月は?」


 聞いたところで、扉が開いた。


「……その話は私からしよう」


 ヒロが立っていた。

 手には小さな箱と畳んだ布を持っている。


「待たせたね」


「いや。いろいろ遊んでた」


「それならよかった」


 机へ荷物を置いたあと、ヒロも窓の外を見た。

 ついさっきまで綺麗だと思っていた明かりを、彼はあまり嬉しそうには見ていなかった。


「今朝、空が赤かったのを覚えているね」


「うん。忘れようがないけど」


「あれは二つの月が関わっている。自然にできた衛星ではないんだ」


 俺は窓へ顔を近づけた。

 白く見えていた表面にうっすらと線のようなものがある。模様なのか、構造物なのか。肉眼ではそこまでは分からない。


「造ったってこと?」


「文明人が宇宙の民から贈られたものだとされている」


「宇宙人までいるのか……」


 もう何に驚けばいいのか分からない。


 ヒロは笑わなかった。


「あれが現れてから、この世界は別の平行世界と繋がるようになった。空が赤く染まるのは、その兆候なんだ」


「俺が来たみたいに?」


「そう。ただ、本来は同じ月を持つ世界同士で接触する。技術にも大きな差はない」


「でも、うちの世界にあんなのなかったぞ」


「……稀にあるんだ。月を持たない世界へ繋がることが」


 ヒロは窓から離れ、椅子へ腰を下ろした。

 俺も向かいへ座る。さっき兵士の話になったときと同じ静けさだった。


     *


「私の故郷も、そういう世界だった」


 ヒロが話し始めた。


「空に月は一つ。車は地面を走っていた。君のいた世界とよく似ていたと思う」


 そこから先を俺は少しだけ察した。兵士の体。盗み出した、という言葉。使わせたくなかった、と言った顔。


「……文明人が来たの?」


 ヒロが頷く。


「彼らは競争をした。誰が多く人を狩り、広い領地を手に入れられるか」


 俺はしばらく意味を考えた。

 聞き違いかと思ったのかもしれない。


「人を、狩る?」


「そう」


「何のために?」


「彼らにとっては、遊びだった」


 窓の外で明かりが動いた。さっき俺が乗ってみたいと思っていた車だ。


 あんなものが空から来て、人を追う。走って逃げても、隠れても、その上から見られている。知らない街を想像するのとは違った。自分の家の屋根や、通勤していた道が勝手に頭へ浮かんだ。


「……戦争じゃなくて?」


「私たちには戦う力がほとんどなかった」


 ヒロは膝の上へ両手を置いていた。動かない手だった。


「赤い空は一日に数時間。それが一か月ほど続いた。その間に私の知っていた街はなくなった」


 何か言おうとした。でも、どんな言葉なら返せるのか分からなかった。

 ヒロはこちらを見ていなかった。俺の後ろにある窓とも、違うところを見ている。


「私は逃げて、こちらへ来た。元の体は失ったけれど魂は残り、この世界の赤子として生まれ直した」


「……それでも覚えてたんだ」


「うん」


 短い返事だった。


「大きくなってから、研究者になった。あの二つの月のことも、魂のことも知りたかった。そして、兵士を造る計画に加わったんだ」


 机の下で、自分の手へ触れる。薄い手袋の向こうに、指の形がある。


「また別の世界へ行くための兵士?」


「そのために使われる可能性があった。だから試作機を仲間と一緒に盗み出した」


 俺は手を膝へ戻した。


 昼間、名前をつけただけで山が崩れた。あれを街でやったら。誰かが狙って、人のいる場所へ向けたら。


 ようやく「使わせたくなかった」という言葉の意味が分かった。


「この体は人の魂で動く。でも、文明人が自分たちの道具として使えないよう、細工をしたんだ」


「それで、俺?」


「月のない平行世界から来た魂でなければ、動かないようにしてある。私たちはずっと、その条件に合う人を探していた」


 部屋が、急に狭く感じた。


 窓の向こうへ飛び込みたいと思った。今まで見たことのないものを見たかった。

 でも、向こう側では俺を待っていた人たちがいて、何をしてほしいかまで決まっていたらしい。


「……俺に戦ってほしいんだな」


 ヒロが顔を上げた。

 否定はしなかった。


「私はこの世界を変えたい。もう一度、あの光景が繰り返されるのを見たくない」


「だからって、俺にできるかは……」


 言いかけて、手袋を見る。

 力だけならある。そのことがかえって逃げ道をなくすように思えた。


「まだ何も分かんないんだよ。今日来たばっかりで、自分の体のことも知らなくて」


「分かっている」


「……何で俺だったの?」


 ヒロは目を伏せた。


「君を選んだのは私じゃない」


「じゃあ誰?」


「その話はいずれ本人から聞いてほしい」


 俺はヒロを見たまま、黙った。


 今すぐ知りたいことばかりなのに、すぐには答えが返ってこない。

 この部屋で何もかも教えてもらうしかない自分が、急にもどかしくなった。


「……それ、あとでちゃんと聞くからな」


「うん」


 ヒロは、今度は俺を見て答えた。


     *


 サクラが新しいコーヒーを勧めてくれた。


 淹れるのはヒロだったが。


 カップを受け取り、両手で持つ。温かさが手袋越しに伝わってきた。

 さっきから窓の外を見られなくなっていた。あれほど面白そうだった街に、何があるのか少し怖くなっている。


「私の話だけで、すべてを決めてほしいわけじゃない」


 向かいでヒロが言った。


「街には暮らしている人たちがいる。私と違うことを考えている人も、君と気が合う人もいるはずだ。会ってみてほしい」


「……外へ出ていいの?」


「もちろん」


 意外で、顔を上げた。


 今すぐ何かをしろと言われるかと思っていた。力を使う練習をして、ヒロの言う相手と戦う。そのためにここへ呼ばれたのかと。


「まず自分の目で見てほしいんだ。君が何を大事に思うか、知るためにも」


 俺はカップの中を見た。

 黒い表面に窓の明かりが映っている。


 ヒロの話が嘘だとは思わない。あの手の止まり方や、遠くを見ていた顔は、俺を説得するために作ったものには見えなかった。

 でも、まだ知らない人をみんな同じ顔では思い浮かべられない。


「……俺、見たいものがあるんだ」


「うん」


「浮いてる建物に入ってみたいし、空飛ぶ車にも乗りたい。変な食べ物も食べてみたい」


 口にすると、さっきまで抱いていた怖さと並んで、あの街が戻ってきた。


 こんな話を聞いたあとで、と思う。

 でも、それも俺の気持ちだった。


「そんなことしててもいいの?」


 ヒロはしばらく俺を見た。

 それから表情を緩めた。


「いいよ」


 それだけだった。


 何となく肩の力が抜けた。カップを持ち上げると、さっきより自然に口へ運べた。


「……まずは自分で見てみたい。何をするかは、それから考えてもいい?」


「そうしてほしい」


 何をするのかはまだ決められない。

 自分の手がどのくらい危ないのかも、分かっていない。


 けれど知りたいと思うことまでなくしたくはなかった。


     *


「それでね。君にちょうどいい場所がある」


 ヒロが机に置いていた布を広げた。


 白い上着。

 細いリボン。


 それから襞の入ったスカート。


 俺はカップを置いた。


「……何、これ」


「制服」


「それは分かる」


 ヒロが笑顔になった。


「明日から、学校へ通ってもらおうと思って」


 俺は制服を見る。

 ヒロを見る。

 もう一度、制服を見る。


「学校?」


「その体は十四歳くらいを想定している。年齢の近い子たちと過ごすのも、世界を知るにはいいと思うんだ」


「中学生ってこと?」


「中等部の二年生だね。学長とは古くからの友人で、話はしてある」


「……準備、いいな」


「君が来るのを待っていたから」


 それを言われると、少し弱い。


 スカートの端をつまんだ。

 軽い。布自体はしっかりしているのに、これを自分が着るところはまだうまく想像できなかった。


「ズボンは?」


「ないね」


「相談する余地、ない感じ?」


『制服の着用方法は私がお手伝いいたします』


「そういう問題だけじゃないんだけど」


 サクラが少し楽しそうだった。


 制服を膝へ置いて、俺は部屋を見回した。

 この花柄のカーテンの中で、明日の朝これを着る。


 仕事へ行く代わりに学校へ。


 妙な感じだった。とっくに通りすぎたはずの時間が、知らない場所でもう一度始まろうとしている。


「……友達とか、できるかな」


 独り言のつもりだった。


『きっとできます』


 サクラがすぐに答えた。


「まだ何もしてないぞ」


『これからですので』


 確かにそうだ。


 今日のところは知らない老人と、声だけの相手にしか会っていない。

 俺もそろそろ別の人と話してみたかった。


「じゃあ明日、行ってみようかな」


 ヒロが嬉しそうに頷いた。


     *


 学校へ行くことを決めた途端、準備するものが増えた。


 文字を日本語へ置き換えるコンタクト。

 聞こえてくる言葉を訳すイヤリング。


 机の上へ並べられた小さな道具を俺は覗き込んだ。


「この小さいのを目に?」


「うん。動かないでね。私がつけるから」


 椅子の背へ頭をつける。

 ヒロの指が近づいてくると、どうしても目を閉じたくなった。


「……瞬きするなって言われると、したくなる」


「ゆっくりでいいよ」


「本当に入る?」


「大丈夫。上を見ていて」


 何度か瞬きを挟みながら、両方入れてもらった。

 目を擦りかけたところを止められ、代わりにぎゅっと手袋の指を握る。


 サクラが画面の言語を切り替えた。


 表示は日本語のままだった。


「変わってないけど」


『今はこの世界の文字を表示しています。正しく変換されていますね』


 イヤリングもつける。

 ヒロが聞き慣れない発音で話し始めたのに、意味だけは自然に頭へ入ってきた。


 便利だ。


 感心したところで、肝心なことに気づく。


「……俺が話すのは?」


 ヒロが黙った。


 サクラも一拍置いた。


『まずは簡単なご挨拶から覚えましょう』


「そこは勉強なのか」


 俺は椅子へ座り直した。


 世界を変えるために盗み出された体。

 名前をつけただけで、山を壊すような力。


 それでも明日、教室の前に立ったら、最初に必要なのは自己紹介らしい。


     *


「私は、転校生の、ハルです」


『もう少し途中を繋げて』


「私は転校生のハルです」


『よくなりました』


 褒められると、少し嬉しい。


 何度か繰り返していると、口が音を覚え始めた。意味を考えるより先に、舌の置き方を探す感じだ。


 その横でヒロが何かを端末へ書き込んでいる。

 ちらりと覗くと、読めないはずの文字が日本語へ変わった。


 ――ハル。


 その下に所属予定の学校と学年が書かれていた。


「……もう俺の名前で書類があるんだな」


「明日、必要だからね」


 机の上の紙ではなく、空中の表示だ。

 なのに、そこへ自分の名前が載っているのを見ると、急に学校へ行く実感が湧いた。


 さっきまで、名前のない女の子だった。


 今はハルという名前で明日の行き先がある。


『ハル様?』


 サクラに呼ばれ、顔を戻す。


「ごめん。続き、何だっけ」


『よろしくお願いします、です』


 教わった音を真似してみる。

 一度目は舌がもつれた。二度目は途中で別の音になった。


 ヒロが笑いをこらえている。


「笑うなよ」


「ごめん、ごめん」


『もう一度、まいりましょう』


 サクラの声も少し弾んでいた。


 俺は息を吸い、画面に浮かんだ言葉を見た。


 明日、これを誰に言うんだろう。


 そう考えながら、もう一度口を動かした。

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