第二話 桜色の少女に、春の名前を
「……思い出せない」
口にすると、余計に変な感じがした。
忘れた名前を探しているのに、何を探しているのか分からない。頭の中にはじいちゃんの声もばあちゃんの顔もある。けれど二人が俺を呼ぼうとするところだけ、音が抜け落ちていた。
「名前だけ出てこないんだけど」
「無理に思い出さなくていい」
「でも、自分の名前だぞ?」
「……元の名前は、この世界へは持ってこられなかったんだ」
ヒロは椅子を勧めた。
俺はすぐには座らず、もう一度記憶を辿った。職場で呼ばれたとき。病院の受付で順番を待ったとき。確かに自分だと分かって振り向いたはずなのに、呼ばれた音が分からない。
鏡の中の女の子がこちらを見ている。
顔も、声も、名前まで違ったら。
何を確かめれば俺だと分かるんだろう。
そう考えたところで、腹が鳴った。
ヒロが瞬きをする。
俺は腹へ手を当てた。
「……こういうところは変わらないんだな」
「食べるものを持ってこようか」
「その前に説明。いろいろ追いついてない」
ようやく椅子へ座った。
足の裏が床につかず、爪先だけが触れる。落ち着かなくて座り直すと、ヒロが向かいの椅子を引いた。
「どこから聞きたい?」
「ここ、どこ?」
質問なら山ほどあった。
「俺の家は? 体は? この髪の色は何? あと、何で女の子?」
「……順番にいこう」
「そっちが聞いたんだろ」
ヒロは困ったように笑った。
*
「この世界は君のいた世界とは別の歴史を辿った地球だよ」
「別の歴史?」
「同じところから枝分かれして、違う道を進んだ世界。平行世界と言えば分かるかな」
その言葉なら聞いたことがある。
どこかで選ばなかった道の先に、もう一つの世界がある。物語でなら面白がって読めたけど、自分がそこへ来てしまうと、話は別だった。
俺は部屋を見回した。
窓とベッドとぬいぐるみ。
見知らぬ場所なのに、どれも使い方は分かる。それが妙にヒロの言葉を本当らしく感じさせた。
「じゃあ未来じゃないんだ」
「そうだね。窓に触れてごらん」
立ち上がり、曇りガラスへ手を伸ばした。
指が触れたところから、すっと透明になる。
「……すげえ」
あの街があった。
空はもう赤くなかった。青い空の下で、宙に浮かんだ建物が陽を受けている。向かいの塔には外壁に沿って木々が植えられていた。その枝先を車が滑るように通りすぎていく。
窓の上端へ顔を近づけて、見上げた。
塔の途中から突き出した通路が隣の建物へ渡されている。さらに上には丸い屋根のようなものが浮いていた。
いつか見てみたいと思っていた未来の街が、手を伸ばした先にあった。
「こちらでは、古い文明が途絶えずに続いてきた。その技術を受け継いだ者たちが、今も世界を治めている。文明人と呼ばれているんだ」
「その人たちがあれを造ったの?」
「多くはね」
「……そっか」
あの通路を歩いたら、どんな景色が見えるんだろう。
窓の中にはどんな部屋があるんだろう。
つい身を乗り出して、自分の手に目が留まった。
細くて、小さい。
街に見入っている間だけ忘れていた。
「それで。この体は?」
ヒロが俺の横へ来た。
「人の手で造られた体だよ。アンドロイドと言えば、分かりやすいかな」
窓から手を離す。
指を曲げた。爪の先が手のひらへ触れる。
痛くなる前に力を抜くと、ついた跡もすぐに消えた。
「……機械ってこと?」
「機械の部分もある。でも、生きた人間の体に近い仕組みも使われている。食べるし、眠る。痛みも温度も感じるよ」
腕へ触れた。
温かい。皮膚の下には骨らしき硬さもある。
「元の俺は?」
「窓を越えたときに、体は失われた。残った君の魂をこちらへ移したんだ」
あの透けていった手を思い出した。
痛くもなかった。抵抗する暇もなく、自分がなくなっていくのを見ているしかなかった。
胸へ手を当てると、鼓動がした。
速い。
自分の体じゃないと言われたあとでも、この音が止まったら怖いと思った。
「……俺、本当に生きてるんだな」
「うん」
ヒロはすぐに答えた。
「君がここにいることは間違いない」
俺はしばらく胸に手を置いていた。
掌に伝わる振動を数えているうちに、呼吸も少しずつ落ち着いていった。
*
ヒロが軽食を持ってきた。
パンに似たものと、温かいスープ。味は少し変わっていたが、美味かった。二口目には普通に腹が減っていることを思い出し、気づけば皿が空いていた。
「口に合った?」
「うん。……これ、充電とかじゃないんだ」
「食事からも必要なものを取り込めるようになっているからね」
「便利だな、アンドロイド」
空の皿を見てから、俺はヒロへ向き直った。
「でも、何で造ったの? こんな体」
ヒロの手がカップの横で止まった。
「……兵士として使うためだ」
部屋が静かになった。
窓の外には街がある。棚にはぬいぐるみが並び、俺は花柄のクッションへ座っている。その中に落とされた「兵士」という言葉だけひどく場違いだった。
「俺を?」
「君を呼ぶ前からこの体はあった。そして、私はこれを造った者たちのもとから盗み出した」
「……何で」
「使わせたくなかったから」
ヒロが自分の手を見下ろした。
「何があったかも話すよ。ただ、今は君自身のことから説明させてほしい」
聞きたいことは増えた。
それでも彼の顔を見ていると、先を急かせなかった。
俺は空の皿を押しやった。
「じゃあ俺はこれからどうすればいい?」
「まずは名前を決めよう」
「名前……」
「この世界で君が使う名前を」
膝の上へ目を落とす。
さっきまで思い出そうとしていた音はやっぱり出てこなかった。
*
手をかざすと、目の前に画面が開いた。
どこかから光を映している様子もないのに、文字が空中へ並んでいる。そっと裏へ回ってみると、ヒロに笑われた。
「そちらからでも見えるよ」
「いや、仕組みが気になって」
「後ろを覗く人は初めて見た」
「いるだろ、普通」
少なくとも、俺のいた世界なら。
文字は読めなかったが、ヒロが操作すると日本語へ変わった。
名前の候補が何十も並んでいる。その横には数字や説明らしきものがついていた。
「……能力?」
「この世界では名づけられた言葉が魂の力に影響を与えるんだ」
「名前で得意不得意が決まるってこと?」
「傾向はある。私の『ヒロ』という名前は思考を読み取ったり、言葉を届けたりする力と相性がいい」
「電話で心を読んだ、あれ?」
「そう。物を動かしたり、熱や電気を生み出したりする力もある。この世界ではそうした力をイクスと呼んでいる」
ヒロが机の上のペンへ手を向けた。
ペンが浮いた。
糸もない。支えもない。
空中でくるりと回って、元の場所へ下りる。
俺は机の下を覗いた。
「……そっちにも何もないよ」
「確かめるくらいいいだろ」
ヒロは今度は声を出して笑った。
俺もつられて笑った。
知らないことばかりで、頭はまだ追いついていない。それでも驚いて、確かめて、笑えるくらいには戻ってきたらしい。
「一覧から選べば、どんな力になるか大体分かるんだな」
「そうだね。登録するときはよく確かめて。何度もつけ直すようなものじゃないから」
ヒロは立ち上がった。
「コーヒーを淹れてくるよ。少し考えてごらん」
「俺も貰える?」
「もちろん」
扉が閉まる。
俺は画面を見直した。
知らない名前が、知らない力と一緒に並んでいる。
どれを選んでも、その名前で呼ばれる自分を、まだ想像できなかった。
「……困ったな」
『何かお困りでしょうか』
俺は椅子の上で跳ねた。
「誰!?」
『貴方様の専属ツールです。驚かせてしまい、申し訳ありません』
画面の端に小さな光が灯っていた。
女の子の声だ。丁寧だけど、機械の案内音声ほど平坦ではない。
「……この画面、喋れるの?」
『画面だけではありません。この体の管理と貴方様の行動の支援を担当しております』
「中にいるってこと?」
『はい』
自分の胸を見る。
呼吸も鼓動もそのままだ。知らない誰かが一緒にいる感じは、しなかった。
「いつから?」
『お目覚めになったときから待機しておりました』
「言ってよ」
『ヒロ様とお話しされていましたので』
妙に気が利く。
俺は椅子へ座り直し、画面を指した。
「じゃあこれ。俺に合う名前って分かる?」
『候補を絞ることはできます。お好みはございますか?』
「好みか……女の子だもんな。可愛いほうがいいのかな」
『ご本人が気に入ることも大切かと』
「そうだよな」
鏡へ目をやる。
桜色の髪が肩へかかっていた。
あの色は知っている。
街も、言葉も、自分の顔まで違うのに、その色を見たとき最初に思い浮かんだものは、あっちの世界にあった。
「……今、何月?」
『貴方様の暦に換算すれば、四月に当たります』
「じゃあ桜が咲くころか」
通勤途中の道に桜の木があった。
満開になると、歩道の端へ花びらが吹き寄せられる。雨が降った翌朝には靴の裏へ貼りついてきた。
きちんと見上げたことは何回あっただろう。
いつでも見られると思っていたものを、もう見られないかもしれなくなってから思い出している。
「この世界に春って言葉はある?」
『同じ音と意味を持つ言葉はありません』
「……そっか」
一覧を見る。
そこにない名前をつけたら、どうなるんだろう。
「候補にない名前は使えない?」
『使えます。ただ、既存の名前のように能力を予測することはできません。力が十分に育たない可能性もあります』
「強くなくてもいいんだけどな」
兵士の体だと言われたばかりだ。
得意な力を選ぶより、自分で名乗れるものが欲しかった。あっちで生きていたことを、少しでも残しておけるものが。
俺は鏡の中の女の子を見た。
「ハルってどうかな」
口にしてみると、思っていたより馴染んだ。
短くて呼びやすい。女の子にもおかしくないだろう。
『表記を確認します』
画面に二つの文字が浮かぶ。
ハル。
『登録すると、原則として変更はできません。こちらのお名前になさいますか?』
俺は文字を見つめ、それから声に出した。
「うん。俺の名前は、ハル」
その瞬間、カップの受け皿が浮いた。
*
受け皿は俺の目の高さまで上がった。
くるりと回る。
その下で机のペンが震え始めた。
「……さっきの、手品?」
違う。ヒロはいない。
椅子の脚が床を離れた。
窓が鳴った。
『……出力上昇を確認』
声が変わった。
俺は肘掛けを掴む。掴んだ椅子ごと床から浮いた。
「ちょっと待って。何もしてないんだけど!」
窓の外で光が走った。
雷だった。
扉が開く。
「何の音――」
両手にカップを持ったヒロが立ち止まった。
「何をしたの!?」
「名前決めたんだけど」
「何て名前に?」
「ハル」
ヒロの顔つきが変わった。
「……今、その発音で登録した?」
「うん、日本語でだけど……」
「駄目だ、その音は……!」
カップが机へ置かれた。中身が跳ねたが、ヒロは構わず画面へ触れる。文字がいくつも流れ、読み切れないうちに赤く変わった。
『登録は完了しています。解除できません』
「出力制限を。体のほうから抑えられない?」
『すでに実行しています。上昇に追いつきません』
壁際の本が棚から抜けた。
背表紙を揃えて並んでいたものが、ばらばらに宙へ広がる。
「……何で名前だけでこんなことに?」
「言葉は音にも意味を持つんだ。君の『ハル』はこの世界では――」
窓が激しく鳴った。
ヒロが振り向く。俺もその先を見た。
さっきまで青かった空に雲が集まっている。
その下には街がある。
『このままでは、周囲三十キロメートルに深刻な被害が及びます』
三十キロ。
大きすぎて、すぐには分からなかった。
窓の向こうの建物を見て、ようやく意味が追いつく。
「あそこにいる人も?」
誰もすぐには答えなかった。
肘掛けを握る指に力が入る。
硬い木が嫌な音を立てた。
「……止めたい。どうすればいい?」
『移動先を検索しています』
赤かった画面が切り替わった。
手前に平らな岩場がある。その先には深い谷が横たわり、向こう側に尖った峰が幾つも連なっていた。
家も、道も見当たらない。
『ハル様には空間を移動する能力が認められます。この岩場へ移動してください』
「移動って……どうやって?」
『この場所に立つところを思い浮かべてください。体の補助機能を接続します』
ヒロが画面を見る。
一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに別の操作へ戻った。
「周辺の生命反応を確かめて。人家だけじゃなく、動物も」
『確認中です』
俺は画面を見つめた。
あそこへ行く。
岩場に立てばいい。
分かっているのに、目の前を本が横切っただけで、考えが途切れる。灰色の山を思い浮かべても、窓の向こうの街が浮かんでしまう。
さっき見てみたいと思った街だ。
自分で来たくせに。
名前まで自分で決めたくせに。
「……駄目だ、うまく」
『ハル様。私の声を聞いてください』
近くで声がした。
『一つずつで構いません。まず足元の岩を』
画面へ目を戻す。
平たい岩に斜めの筋が走っている。端には小さな石が三つ転がっていた。
『顔を上げると、正面に山が見えます』
白っぽい岩肌。
その下に黒く影を落とした谷。
呼吸をしていることを思い出した。
息を吐くと、喉の奥が乾いていた。
「……ヒロ。コーヒーを少し貰っていい?」
「えっ?」
「落ち着きたい」
ヒロは一度俺を見て、カップを取った。
手渡されたそれを両手で包む。傾けると、温かい苦みが口へ広がった。
知っている味だった。
あっちでも朝に飲んでいた。
熱すぎると文句を言いながら、急いで流し込んでいた。
俺はもう一度息を吐き、カップを返した。
「……よし」
『残り時間がありません。移動先の安全確認は完了しました』
岩場に立っている自分を思い浮かべる。
足の裏に硬い地面がある。
顔を上げれば、谷の向こうに山がある。
その間を抜けてきた風が髪を揺らす。
『私もご一緒です』
声がした。
俺は画面から目を離さず、頷いた。
『移動を表す言葉を口にしてください。ご自身に分かりやすいもので』
そんなもの一つしか知らない。
「――テレポート!」
窓も、本も、ヒロの顔も消えた。
*
凄まじい音がした。
目の前が白く染まり、反射的に目を閉じる。
地面が揺れていた。俺は倒れそうになって足を開き、すでに立っていることに気づいた。
いつ椅子から下りた?
目を開けると、煙が視界を覆っていた。
向こうで岩が崩れた。
何か大きなものが落ち、遅れて、腹の底まで震えるような音が響く。
「……どこ?」
『指定した岩場です。移動は成功しました』
足元には斜めに筋の走った岩があった。
画面で見た場所だ。
そこから顔を上げる。
煙が少しずつ薄くなっていく。
谷の向こうにあった尖った峰が途中からなくなっていた。残った斜面を岩が転がり、その先には映像では隠れていた遠くの山まで見えている。
俺は両手を見た。
指も腕もなくなっていない。
「……今の、俺が?」
『はい。移動後に放出された力が前方の山域に及びました』
風が頬に砂を当てた。
こんなに広い場所を壊したのに、手は痛くなかった。何かを殴ったわけでも、押したわけでもない。名前を言って、ここへ来ただけだ。
俺は自分の手を開き、閉じた。
「本当に誰もいなかったんだよな」
『はい。周辺を含め、生命への被害は確認されません』
返事を聞いて、ようやく息を吐いた。
遠くでまだ岩が崩れている。
あの部屋にいたままだったら、どうなっていたんだろう。
浮いた本。
窓の向こうの街。
カップを渡してくれたヒロの手。
考えると、膝の辺りが頼りなくなった。
『ハル様。戻りましょう』
「……うん」
花柄のカーテンを思い浮かべる。
棚のぬいぐるみと、鏡と、少しずれたヒロの眼鏡。
今度は言葉を出す前に帰りたいと思った。
*
部屋へ戻ると、ヒロがこちらを向いた。
一歩で近づいてきて、俺の肩へ手を置く。
「怪我は? 痛いところはない?」
「……ない。ヒロは?」
「私は大丈夫。ああ、よかった……」
眼鏡がずれていた。
俺の顔と腕を確かめる間も、直そうとしない。肩に置かれた手が、少し震えていた。
足元には本が散らばっている。
椅子は倒れていたが、窓は割れていなかった。
「ごめん。俺が、勝手に名前を――」
「私の説明が足りなかった」
ヒロが首を振った。
「君の言葉で、あの音が選ばれるとは考えていなかった。登録の仕組みも、こちらの言葉を前提にしている。予測できないからといって、危険もないわけじゃなかったんだ」
画面の光が細く揺れた。
『申し訳ありません』
俺は手元へ目を落とした。
自分で選んだ。そのことまでなかったことにはできない。
床の本を拾う。
表紙の隅が折れていた。そっと戻して、机へ置いた。
さっきまで浮いていたものがちゃんとそこにある。
それを見て、少しずつ部屋へ帰ってきた気がした。
『能力の測定結果が出ました』
画面が開く。
『すべての項目で測定可能な上限を超えています』
「……それ、どのくらい凄いの?」
『現状、比較するための数値がありません』
俺はヒロを見る。
ヒロも俺を見た。
「……喜んでいいのかな」
「まずは抑える方法を考えよう」
そこは意見が一致した。
*
しばらくして、ヒロが手袋を持ってきた。
片方ずつつけると、肩の辺りにまとわりついていた妙な感覚が薄れる。ずっと鳴っていた小さな音がようやく止まったようだった。
「イクスの出力を抑えて、外からも測りにくくしてある。しばらくは外さないで」
「分かった」
今度は素直に答えた。
手袋をつけたまま、指を動かす。
見た目は細い女の子の手だ。
山をなくしたものと同じだとは、まだ思えない。
ヒロはほかにも確かめることがあると言い、隣の部屋へ戻っていった。
残された俺はベッドの端へ腰かける。
窓の外はまた晴れていた。
「……疲れた」
『お疲れさまでした』
「一日目って、こんなに長かったっけ」
『まだお昼を少し過ぎたところです』
「嘘だろ」
声に出してから、笑ってしまった。
名前をなくして、女の子になって、山を吹き飛ばした。これでまだ晩飯にも辿り着いていないらしい。
画面がそっと近づいてきた。
『お休みになりますか、ハル様』
その呼び方に顔を上げる。
ハル。
さっき俺が決めた名前だ。
とんでもないことになったせいで、名づけたという実感までどこかへ飛んでいた。
「……それ、俺の名前なんだな」
『はい』
もう一度、鏡を見る。
桜色の髪をした女の子が、手袋をつけて座っている。
ハル。
頭の中で呼んでみると、さっきより少し自分のほうへ近づいた気がした。
「お前にも名前ってあるの?」
『専属ツールです』
「それ、仕事だろ。呼び名のほう」
『固有の名称はありません』
俺は少し考えた。
この声にはずっと助けてもらっている。さっき山へ行くときも、一緒だと言ってくれた。
呼びかけるときに困らない名前がいい。
隣にいるのが当たり前になるような。
「サクラってどう?」
画面が静止した。
「俺が春だから桜。あっちじゃそのころに咲く花なんだ」
『……存じております』
「そっか。じゃあどうかな」
返事まで間があった。
気に入らなかっただろうかと思いかけたとき、声がした。
『とても嬉しいです』
今までで一番柔らかい声だった。
『ありがとうございます。大切にします』
俺も何となく嬉しくなった。
名前をあげるというのはこんな感じなのか。さっき自分につけたときよりも、ずっと落ち着いてその響きを聞けた。
「じゃあよろしくな。サクラ」
『はい。ハル様』
窓の外で車が通った。
今朝あの窓から見送ったものと似た形をしていた。
街はちゃんとそこにある。
いつかあの車に乗ってみたいと思った。それから自分の手袋を見て、まずは知らなきゃいけないことが山ほどあると思い直す。
「……なあ、サクラ」
『何でしょう』
「この世界のこと、いろいろ教えて」
『もちろんです』
すぐに返事が来た。
俺はベッドの上で座り直し、彼女の画面へ顔を向けた。




