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第一話 いつもの朝には戻れない


 トイレの鍵がなくなっていた。


 ノブを握ったまま、俺は目を擦った。

 寝起きのせいだろうか。昨日まで親指の届くところにあったはずのつまみが見当たらない。外れた跡もねじの穴もなく、扉は妙につるんとしていた。


「……ここにあったよな?」


 何年か前、遊びに来た友達が小銭を使って外から開けたことがある。俺が中から怒鳴ると、向こうは腹を抱えて笑っていた。あの腹立たしい記憶まで寝ぼけて作り上げたとは思えない。


 とはいえ、今は鍵より先に済ませたい用がある。

 俺はノブを回した。


 扉の向こうにはいつもの便器があった。足元のマットも棚に置いた予備の紙も変わっていない。何となく安心して顔を上げると、小窓が赤く染まっていた。


 朝焼けにしては妙な色だった。


 すりガラスの全面が熟れすぎた果物みたいに赤い。壁にまで薄く色が映り、見慣れた狭い部屋が知らない場所のように見えた。


「火事か?」


 家の裏は空き地だ。何か燃えるものでも置いてあっただろうか。

 窓の留め具に手をかける。煙の匂いはしなかったが、確かめずにはいられなかった。


 窓を開けた。


 風が頬に触れた。


「……え?」


 空き地がなかった。


 向こうの家も、電柱も、いつも屋根の上にいる太った猫もいない。


 代わりに巨大な建物が空へ伸びていた。


 細い塔。丸い塔。途中で二つに分かれ、隣の建物と繋がっている塔。朝日を受けたというには鮮やかすぎる光をまとい、それらが奥へ、奥へと重なっている。


 その間を一台の車が横切った。


 道路はなかった。


 車は何もない空中を滑るように進み、建物の陰へ消えていった。


「……浮いてる?」


 近くの建物へ目を移す。

 底が見えた。庭らしき緑を抱え込んだまま、建物そのものが宙に浮いている。


 俺は窓枠に手をついた。


 塗装の剥げたところがいつものように指へ引っかかる。手の下には間違いなく我が家の窓がある。その先だけがどう考えてもおかしかった。


 空は真っ赤だった。


 そこに月が二つ浮かんでいた。


 ひとつを見て、もうひとつを見る。

 振り返る。


 背後には使いかけのトイレットペーパー。


 もう一度、外を見る。


 二つの月。


「……落差、ひどくない?」


 自分の声が聞こえて、少しだけ落ち着いた。

 夢なら、もうちょっと順序立てて見せてほしい。宇宙船に乗るとか、知らない扉を開けるとか。トイレに行こうとしただけなのに、これでは心の準備が追いつかない。


 ひとまず閉めよう。


 窓に手をかけた瞬間、ポケットで携帯が鳴った。


 取り出した画面には見たことのない記号が並んでいた。名前も番号も読めない。昨日まではちゃんと使えていたはずなのに。


 俺は画面と窓の外を見比べた。


 どっちから対処すればいいんだ、これ。


 しばらく待っても呼び出しが止まらなかったので、通話を押した。


「……もしもし」


《ああ、聞こえるかね? 私の言葉は分かる?》


 年配の男の声だった。

 明るい。少なくとも、俺よりは今の状況を楽しんでいそうだった。


「分かりますけど……どちら様ですか?」


《よし……よし! とうとう繋がった!》


 電話の向こうで何かが倒れた。


《長かった。本当にここまで長かった……!》


「おめでとうございます。で、誰ですか?」


《ああ、ごめんね。先に一つ。その窓は閉めないで》


 窓へ伸ばしかけていた手が止まる。


《一度閉めたら、二度とこちらには来られないかもしれないから》


「……こちら?」


《君の目の前に広がっている世界だよ》


 俺は携帯を耳に当てたまま、身を乗り出した。

 どこかの窓からこっちを見ているんだろうか。


《ここからでは私の姿は見えないよ》


「今、何も言ってませんよね?」


《声に出さなくても、少しなら分かるんだ》


「……怖いんですけど」


《そうだろうね》


 あっさり認められた。


 俺は窓枠から離れた。離れたところで、目の前の街がなくなるわけではない。空飛ぶ車は相変わらず行き交い、見たことのない大きな影が、塔の向こうをゆっくり移動していた。


「これ、本物なんですか」


《君が見ているものは本物だよ》


「俺、どこかに連れてこられたんですか?」


《今いる場所はまだ君の家だ。その窓の先が別の世界へ繋がっている》


 別の世界。


 携帯から聞こえた言葉を頭の中で繰り返す。

 馬鹿げた話だ。けれど目の前には、馬鹿げた話でなければ説明できない景色があった。


《知りたい?》


 男が言った。


《見たいなら、おいで。その窓を出て》


 窓の下を覗く。

 向こうの地面が、どこにあるのか分からない。


「……出たら、落ちません?」


《受け入れる準備はしてある》


「それ、全然安心できる説明じゃないですよ」


《そうだね。だからこれだけはきちんと伝えておく》


 男の声が少し変わった。


《こちらへ来たら、元の世界へ戻れるとは約束できない》


 俺は黙った。


 見知らぬ街を眺めていた目が窓枠へ戻る。

 この先を越えたら、帰れないかもしれない。帰宅する時間を気にする必要さえなくなるかもしれない。


《空が暗くなるまでに決めてほしい。窓を閉めるなら、それも君の選択だ》


「待ってください。まだ聞きたいことが――」


《私は待っているよ》


 通話が切れた。


 俺は携帯を耳から離した。


 静かになった途端、窓の向こうから流れてくる音が気になった。車の音なのか、人の声なのか。遠くで重なっていて、どれもよく分からない。


 呼び直そうと画面へ触れる。

 着信履歴まで読めない記号に変わっていた。


「……何なんだよ」


 呟くと、また携帯が鳴った。


 慌てて通話を押す。


「もしもし!」


《言い忘れていたんだけど》


「いろいろ忘れすぎじゃないですか?」


《こちらへ来たら、君は生まれ変わる。新しい人生が始まるんだ》


「いや、そういう大事な話は――」


《じゃあね》


 切れた。


 俺はしばらく画面を見つめた。


 話を聞く限り、向こうにも電話の使い方が下手な老人はいるらしい。


     *


 時計を見た。


 今から支度をすれば、まだ仕事には間に合う。


 窓を閉めて、手を洗って、朝飯を食べる。歯を磨いて、いつもの服を着て、いつもの道を通る。


 できる。


 何年もやってきたことだ。


 今の暮らしが嫌なわけじゃない。仕事は面倒な日もあるけど、帰れば飯がある。くだらない番組を見て笑う夜もある。じいちゃんとばあちゃんの何度も聞いた話もある。


 俺が帰らなかったら、二人はどうするだろう。


 連絡くらい入れたほうがいい。


 そう思って携帯を開いたが、何を伝えるのか考えたところで指が止まった。


 トイレの窓が別の世界へ繋がりました。

 今から、ちょっと行ってきます。

 帰れないかもしれません。


 ……そんな連絡を貰って、安心する人間はいない。


 窓のそばへ戻る。


 赤い光を受けた街は、さっきと同じように動いていた。俺がここで迷っていることなんて知らずに、車が空を走り、人影が浮いた通路を渡っていく。


 あそこにも朝があるんだろうか。

 仕事へ遅れそうで急いでいる奴や、まだ寝ていたい奴がいるんだろうか。


 浮いている建物にはどうやって入るんだろう。

 何を食べて、何を面白いと思って、どんな一日を過ごすんだろう。


 気づくと、俺は窓枠へ両手を置いていた。


 子供のころも知らない道を見つけると、曲がった先だけ確かめるつもりで歩いていった。帰りが遅くなるたび、ばあちゃんに叱られた。


 でも、今度は違う。

 晩飯までに帰れば済む話じゃない。


 分かっているのに、窓の向こうへ目が戻ってしまう。


「……ずるいだろ、こんなの」


 見せられる前なら、断れた。

 知らない老人に電話で誘われたって、適当に返事をして切ったはずだ。


 でも、見てしまった。


 窓を閉めれば、いつもの一日へ戻れる。

 そのあとも俺はここで思い出すんだろう。この扉を開けるたびに、あの街へ行けたかもしれないと。


 向こうで銀色の車が上昇した。

 塔の間を抜け、二つの月へ向かって小さくなっていく。


 俺は最後までそれを目で追った。


 それから携帯をポケットへしまい、窓枠に足をかけた。


 何をしているんだと思った。

 本当に行くのか、とも思った。


 それでも足は下ろさなかった。


「……ごめん」


 じいちゃんとばあちゃんの顔が浮かぶ。


 胸が痛んだ。

 その痛みごと抱えたまま、俺は窓の向こうへ体を出した。


     *


 風が来ると思っていた。


 落ちる怖さに体がすくむと思っていた。


 どちらも来なかった。


 窓枠から離した手が透けていた。


「……え?」


 指の向こうに赤い空が見える。

 手のひらを返す。指を曲げる。動くのに、輪郭が少しずつ薄くなっていく。


 慌てて窓へ手を伸ばした。


 届かなかった。


 いや、届くはずの腕がもう半分なくなっていた。


「待て、ちょっと……!」


 足も胸も透けていく。

 痛みはなかった。なくなっているところが痛くない。そのことが何より恐ろしかった。


 俺、消えるのか。


 今さら電話の男の言葉を思い出した。


 生まれ変わる。

 新しい人生が始まる。


 それ、つまり今の俺はどうなるんだよ。


 声を出そうとしたが、自分がどこから声を出しているのか分からなくなった。街の音も遠ざかり、赤い空が視界の端から暗くなっていく。


 誰かがいた。


 俺へ向かって手を伸ばしている。


 その手を掴もうとした。


 指が触れたかどうかも分からないうちに、何も見えなくなった。


     *


 頬に柔らかいものが触れていた。


 枕だ。


 横を向くと、何かが鼻先をくすぐった。息を吹きかけても離れないので、目を閉じたまま手で払う。


 髪の毛だった。


 ……髪?


 俺は目を開けた。


 知らない天井があった。

 横には花柄のカーテン。棚にぬいぐるみが座っている。どこか女の子の部屋みたいだった。


「……夢?」


 声が変だった。


 寝起きのせいだろうか。

 もう一度何か言おうとして、布団の上に置いた自分の手が目に入った。


 小さい。


 指が細く、爪の形も違っていた。見慣れた傷がない。


 起き上がると、肩から髪が滑った。


 薄い桃色。


 その一房をつまみ、顔の前へ持ってくる。引っ張ったら、頭が痛かった。


 俺のらしい。


「……いや、待て」


 声が高い。


 ベッドから下りようとして、足先が空を切った。

 思ったところに床がない。腰をずらしてようやく足をつくと、今度は部屋の家具が妙に高く見えた。


 壁際に鏡があった。


 そこへ向かう数歩まで借り物の体で歩いているみたいだった。


 近づくと、女の子がいた。


 桜色の髪に緑色の目。

 少し寝癖のついた頭で、呆然とこちらを見ている。可愛い顔だった。今まで知り合った誰にも似ていない。


 俺は右手を上げた。


 向こうも上げた。


 頬をつまむ。


 痛かった。


 鏡の中の女の子が同じ場所をつまんでいた。


「……なんじゃこりゃあ!?」


 扉が開いた。


「おや。起きたんだね」


 白髪の老人が立っていた。

 眼鏡の奥の目が、俺の顔を見つけた途端、ほっと細くなる。


 その声に覚えがあった。


「あの電話の……!」


「ヒロだよ。まずは無事に目が覚めてよかった」


「無事!?」


 俺は鏡とヒロを交互に見た。


「見て、これ。女の子なんだけど!」


「うん」


「うん、じゃなくて! 俺、男だぞ!」


「知ってるよ」


「知ってて!?」


 ヒロは俺を見たまま少し黙った。

 何となく、その顔だけが電話の向こうではしゃいでいた声と結びつかなかった。


「……その体、大事にしてほしい」


 思いのほか静かな声だった。


 俺は言い返しかけ、鏡へ目を戻した。


 細い肩。

 知らない顔。

 俺の動きに合わせて、桜色の髪が揺れる。


 自分の腕へ触れると、温かかった。


「本当に……生まれ変わったのか?」


「そういうことになるね」


 ヒロが椅子を引いた。


「改めて、名前を聞かせてもらえるかな」


「俺は――」


 言いかけて、止まった。


 仕事は思い出せる。

 じいちゃんも、ばあちゃんも。トイレの窓にあった塗装の剥がれまでちゃんと覚えている。


 なのに、自分の名前が出てこなかった。


 何度も呼ばれてきたはずだ。

 書類にも書いた。電話でも名乗った。つい昨日だって、誰かに呼ばれたはずなのに。


「……あれ?」


 鏡の中の女の子が不安そうに眉を寄せた。


 俺はその子の名前を知らなかった。

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