第7話 旅人の老人
夕方。
旅人の灯火宿の扉が開いた。
「カラン、カラン」
「いらっしゃいませ」
ロイが顔を上げる。
入ってきたのは、一人の老人だった。
年齢は六十代後半ほどだろうか。
白髪混じりの髪に、白い髭。
顔には長い旅をしてきたことを思わせる皺が刻まれている。
穏やかな雰囲気をしているが、その目だけは鋭く、周囲を静かに観察していた。
身につけているのは、使い込まれた茶色の外套
腰には古びた革袋があり、背中には何度も修繕された大きな旅袋を背負っている。
「すまん。今夜、泊めてもらえるかの?」
「もちろんです。一泊で大丈夫ですか?」
「ああ」
「お名前をお願いします」
「サイラスじゃ」
ロイは宿帳に名前を書き込んだ。
「サイラスさんですね。では、お部屋へ案内します」
ロイが立ち上がった、その時だった。
部屋の隅。
卵の横で丸くなっていた冬が、ゆっくりと顔を上げた。
「……ん?」
冬は立ち上がると、サイラスの方へ歩いていく。
小さな足音を立てながら、老人の足元まで近づいた。
サイラスは冬を見つめる。
しばらく何も言わなかった。
そして。
「……珍しい卵じゃな」
「え?」
ロイが聞き返す。
だが、サイラスはそれ以上何も言わなかった。
ただ、しゃがみ込むと冬の頭をそっと撫でる。
冬は嫌がる様子もなく、目を細めた。
「……気に入ったみたいですね」
「そうかもしれんな」
サイラスは小さく笑った。
それ以上、冬について何かを話すことはなかった。
「では、こちらへどうぞ」
「ああ」
ロイはサイラスを部屋へ案内した。
「なかなか良い宿じゃな」
「ありがとうございます」
「旅をしていると、こういう静かな宿はありがたいものじゃ」
「サイラスさんは、ずっと旅を?」
「ああ。あちこちを歩いておる」
そう言いながら、サイラスは荷物を置いた。
長い旅をしてきた老人らしい、落ち着いた仕草だった。
⸻
その日の夕食。
サイラスは料理をゆっくりと味わっていた。
「うまいの」
「ありがとうございます」
ロイは少し嬉しそうに笑う。
食事が終わる頃、ロイは冷蔵庫から一本の瓶を取り出した。
「サイラスさん、これもどうぞ」
「これは?」
「フルーツ牛乳です」
「……こ、これはポーションなのか?」
「一応、ポーションです」
「ふるーつ牛乳……」
サイラスは不思議そうに瓶を眺めた。
どうやら聞いたことのない飲み物らしい。
それでもロイに勧められるまま、瓶を口に運ぶ
ごくり。
「……これは、うまいの」
「気に入りました?」
「ああ。こんなものは初めてじゃ」
サイラスはもう一口飲んだ。
「旅をしていると、知らんものに出会うことが多い」
「そうなんですか?」
「うむ」
サイラスは瓶を眺めながら続ける。
「食べ物も、景色も、人もな」
「人も……ですか」
「ああ」
老人は静かに笑った。
「旅をしておると、自分の知らんものばかりじゃ」
少しの沈黙。
そしてサイラスは、ロイを見る。
「じゃがな。旅では、自分の感覚を信じることも大事じゃ」
「感覚?」
「理由は分からん。じゃが、なんとなく嫌な感じがする。ここには行かん方がいい気がする。そう思った時は、立ち止まることじゃ」
「……」
「何も起こらんかもしれん。じゃが、それでいい」
サイラスは穏やかな顔で言った。
「何も起こらなかったなら、それが一番じゃからな」
ロイはその言葉を静かに聞いていた。
「覚えておきます」
「それでよい」
食事を終えたサイラスは、部屋へ戻っていった。
「では、今日はもう休むとするかの」
「おやすみなさい、サイラスさん」
「ああ。おやすみ」
扉が閉まる。
宿が静かになった。
ロイも自分の部屋へ戻る。
⸻
しばらくして。
ロイが眠りについた頃。
冬がゆっくりと目を開けた。
いつものように卵の横で丸くなっていた冬は、静かに立ち上がる。
音を立てないように廊下を歩いていく。
そして、サイラスの部屋の前で立ち止まった。
扉は少しだけ開いていた。
冬はその隙間から中へ入っていく。
部屋の中では、サイラスが静かに眠っていた。
冬はベッドの足元まで歩いていく。
そして、その場所で身体を丸めた。
やがて冬も、静かに目を閉じる。
旅人の老人と、不思議な猫は、静かに同じ部屋で眠った。
⸻
翌朝。
サイラスは荷物をまとめ、宿を出る準備をしていた。
「世話になったの」
「こちらこそ、泊まってくれてありがとうございました」
サイラスは荷物を背負い、宿の外へ出る。
冬もその後ろをついていった。
「おや」
サイラスはしゃがみ込み、冬の頭を撫でる。
「お前も見送りか」
冬は小さく尻尾を揺らした。
「元気でな」
サイラスは立ち上がる。
そしてロイを見る。
「ロイも、元気でおるんじゃぞ」
「はい」
「それと……」
サイラスは少しだけ目を細めた。
「自分の感覚を信じることじゃ」
「……はい」
「ではな」
「お気をつけて」
サイラスは背を向け、歩き始めた。
ロイと冬は、その姿を見送る。
老人の姿が少しずつ小さくなっていく。
やがて、角を曲がり、その姿が完全に見えなくなった。
その瞬間。
ロイの頭の中に、聞き慣れた声が響いた。
《条件を満たしました》
《スキル【第六感】を獲得しました》
「……第六感?」
ロイは目を瞬かせる。
すると、今まで感じ取れなかったような微かな感覚が、身体の奥に生まれた。
危険。
違和感。
何かがおかしいという、言葉では説明できない感覚。
「……これが、第六感」
ロイは自分の手を見つめる。
そして隣にいる冬を見る。
冬は何事もなかったかのように、尻尾を揺らしていた。
「……お前は、本当に不思議な猫だな」
冬は、ただ静かにロイを見つめていた。
その時だった。
――タラタッタッターン♪
「……ん?」
突然、聞いたことのない音が響いた。
ロイが驚いて周囲を見回す。
「今の何だ?」
すると。
ロイの目の前に、見慣れた光が浮かび上がった。
「……え?」
いつものように、空中に文字が表示される。
だが、そこに書かれていたのは、今まで見たことのないメッセージだった。
ロイは目を見開く。
「……何これ」
冬も、浮かび上がった文字をじっと見つめている。
ロイは表示された文字を読む。
そして。
「……?」
首を傾げた。
そのメッセージが何を意味しているのか。
ロイには、まだ分からなかった。




