第2話 猫の名前とパン職人
朝。
ロイはゆっくりと目を開けた。
見慣れない木の天井。
しばらくぼんやりと眺めていた。
「…………」
昨日の出来事が、少しずつ頭の中に戻ってくる。
雨。猫。車。
そして、見知らぬ宿。
ロイは身体を起こした。
「……夢じゃなかったのか」
部屋を見渡す。
昨日と変わらない景色。
窓から差し込む朝の光も、外から聞こえる街の音も、すべて現実だった。
「俺、本当に……異世界に来たんだな」
まだ実感は湧かない。
昨日まで自分は、普通の会社員だった。
それが今は、この世界で宿屋を営んでいる。
「……ロイ、か」
自分の新しい名前を呟く。
すると、
「にゃあ」
ベッドの横から声がした。
ロイが振り向く。
そこには昨日の猫が座っていた。
「……お前もいたのか」
猫はじっとロイを見る。
「ってことは、やっぱり昨日のことは夢じゃないんだな」
「にゃあ」
「……そうか」
ロイは小さく笑った。
そして猫を見る。
「そういえば、お前……」
猫が首を傾げる。
「いつまでも『お前』じゃ呼びにくいよな」
ロイは机の上にあった紙を何枚か取った。
昨日のことを思い出す。
「昨日泊まったシキさん……」
ロイは紙に文字を書いた。
「シキって漢字にすると……四季、か」
春。
夏。
秋。
冬。
四つの季節。
「よし」
ロイは四枚の紙に、それぞれ一文字ずつ書いた。
そして床に並べる。
「春、夏、秋、冬」
猫は四枚の紙をじっと見つめる。
「お前が選んだやつを名前にしよう」
猫が一歩進む。
春。
そのまま通り過ぎる。
夏。
これも通り過ぎる。
秋。
少しだけ匂いを嗅ぐ。
そして最後に、冬の前で立ち止まった。
ロイは思わず笑った。
「……冬?」
猫は紙に前足を乗せる。
「にゃあ」
「それでいいのか?」
「にゃあ」
「……じゃあ」
ロイは冬と書かれた紙を拾い上げた。
「今日からお前は、冬だ」
猫は嬉しそうに尻尾を揺らした。
「よろしくな、冬」
「にゃあ」
ロイは冬の頭を撫でる。
「……いい名前だな」
こうして、猫には初めて名前がついた。
⸻
昼前。
宿の扉が開いた。
「こんにちは!」
元気な声が響く。
ロイが受付から顔を上げる。
入ってきたのは、三十歳くらいのがっしりとした体つきの男だった。
少し日に焼けた顔に、短く整えられた茶色の髪。
口元にはいつも穏やかな笑みが浮かんでいる。
職人らしい太い腕には、力強さがあった。
それでも、その表情にはどこか人懐っこさがあり、初めて会った相手でも自然と話しやすくなるような雰囲気を持っていた
服には小麦粉がついていた。
「いらっしゃいませ」
「ここ、泊まれますか?」
「もちろんです」
「一泊でお願いします」
「お名前を伺っても?」
「バルドです」
ロイは宿帳に名前を書き込む。
その間にも、バルドの荷物から小麦の匂いが漂ってきた。
指先には火傷の跡。
服には小麦粉。
荷物の隙間からは、木製の道具が見えている。
ロイは昨日手に入れたスキルを思い出した。
「……観察眼」
意識を集中させる。
すると、バルドの身体の周りに薄く文字が浮かんだ。
《職業:パン職人》
「……本当に見えるんだ」
思わず呟く。
「何か言いました?」
「いえ、なんでもありません」
ロイは慌てて笑った。
バルドは荷物を下ろした。
「実はですね」
「はい」
「この宿、厨房を借りることってできますか?」
「厨房ですか?」
「旅をしながらパンを作ってるんです。今日も少し焼いてみたくて」
ロイは少し考えた。
「もちろん構いませんよ」
「本当ですか!」
バルドは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
⸻
厨房。
バルドは慣れた手つきで小麦粉を広げていく。
ロイは少し離れたところから、その様子を眺めていた。
「パンって、こうやって作るんですね」
「ええ。見た目以上に時間がかかるんですよ」
バルドは生地をこねながら答える。
「生地を作って、寝かせて、それから焼きます」
「寝かせる?」
「生地を休ませるんです」
「へえ……」
ロイは興味深そうに眺める。
足元では、冬もバルドの作業をじっと見ていた。
「おや?」
バルドが冬に気づく。
「猫ちゃん、パンが気になるのか?」
冬はバルドの足元まで近づく。
「にゃあ」
「はは、可愛いな」
バルドが手を差し出す。
冬はその手の匂いを嗅いでから、頬を擦りつけた。
「お、懐いてくれた」
ロイはその様子を眺めて笑った。
「冬、気に入ったみたいですね」
「そうみたいですね」
バルドは冬の頭を優しく撫でた。
冬は気持ちよさそうに目を細めている。
しばらくして、生地を焼く時間になった。
バルドが窯を確認する。
「よし。あとは焼くだけですね」
「何分くらい焼くんですか?」
「二十分くらいです」
「二十分……」
ロイは時計を見る。
この世界の時計は、優人がいた世界ほど正確ではない。
「どうやって二十分を測るんです?」
ロイが聞く。
バルドは笑った。
「長年やってますから、だいたい感覚ですよ」
「感覚?」
「焼き色や匂いを見ながらですね」
「すごい……」
バルドは窯を閉じた。
やがて厨房いっぱいに香ばしい匂いが広がった。
冬も鼻をひくひくさせている。
「もう少しですね」
そして窯を開ける。
中には、こんがり焼けたパンが並んでいた。
「完成です!」
「うわ……」
ロイの目が輝く。
「食べてみますか?」
「いいんですか?」
「もちろん」
焼きたてのパンを受け取る。
ロイは一口食べた。
「……うまい」
外は香ばしく、中はふわふわだった。
「こんなパン、自分でも作れたらいいな……」
「宿屋なら、朝食に出してみてもいいんじゃないですか?」
バルドが笑う。
「それ、いいですね」
ロイはパンを見つめる。
いつか、この宿で料理を出す。
そんな未来が、少しだけ想像できた。
⸻
夜。
バルドが部屋へ向かう。
すると冬が、その後ろをついていった。
「ん?」
バルドが振り返る。
「どうした?」
冬はバルドを見上げている。
「お前も来るのか?」
「にゃあ」
バルドは笑った。
「じゃあ、一緒に寝るか」
冬は嬉しそうに尻尾を揺らした。
「にゃあ」
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
バルドは冬と一緒に部屋へ入っていった。
扉が閉まる。
ロイはその扉を眺めながら、少しだけ考えた。
「……冬って、気に入った人と寝るのかな?」
昨日のシキのことを思い出す。
シキのときも、冬は一緒に部屋へ行っていた。
「……まあ、猫だしな」
ロイは深く考えるのをやめ、自分の部屋へ戻った。
⸻
翌朝。
「お世話になりました!」
バルドが荷物を背負う。
「こちらこそ。パン、美味しかったです」
「またこの街に来たら寄りますよ」
「待ってます」
バルドは笑って宿を出ていった。
ロイと冬は、その背中を見送る。
しばらくして。
ロイの目の前に、突然文字が浮かんだ。
《スキルを獲得しました》
「……え?」
ロイは目を疑った。
続いて、もう一つの文字が浮かぶ。
《タイマー》
「……タイマー?」
ロイはその文字をじっと見つめた。
昨日のバルドとの会話を思い出す。
パンを焼く時間。
二十分という時間。
そして、昨日のシキ。
シキが宿を出たあとにも、《観察眼》を獲得していた。
「……もしかして」
ロイは考える。
「この宿に泊まった人から、スキルをもらえるのか?」
まだ確信はない。
けれど、今のところそれ以外に思い当たることはなかった。
「……不思議な宿だな」
足元で冬が、
「にゃあ」
と鳴く。
ロイは冬を見る。
「どうした?」
冬は何も答えない。
ただ、尻尾をゆっくり揺らしている。
「まあ……いいか」
ロイは《タイマー》を意識してみる。
すると、頭の中に数字が浮かんだ。
10
「……十秒」
数字がゆっくり減っていく。
9
8
7
そして、
0
になった。
《タイマー終了》
「……ぴったりだ」
ロイは驚いた。
「地味だけど……便利かもしれないな」
冬が隣で、
「にゃあ」
と鳴く。
「そうだな。今日も頑張るか」
ロイは宿の扉を開けた。
朝の光が、宿の中へ差し込む。
冬がその隣を歩く。
昨日まで、何も分からない世界だった。
けれど今は。
この場所で生きていくことが、少しだけ楽しみになっていた。
旅人の灯火宿。
今日もまた、新しい旅人を待っている。




