第1話 旅人の灯火宿
「優人、人には優しくするんだぞ」
幼い頃、祖父はよくそう言っていた。
縁側に座り、庭を眺める祖父の隣で、幼い柊優人は首を傾げた。
「なんで?」
「人はな、見た目だけじゃ何を抱えてるか分からんからだ」
「じゃあ、困ってる人がいたら助けてあげるの?」
「そうだな。でも、何でもしてやればいいってわけじゃない」
祖父は優しく笑った。
「相手が何をしてほしいのか、ちゃんと考えてやるんだ」
幼い優人には、その言葉の意味がまだよく分からなかった。
それでも、その言葉だけはずっと覚えていた。
⸻
それから十年ほど経った。
高校二年生になった柊優人は、人の変化に気づくことが多かった。
その日も、いつもならクラスの中心で騒いでいる友人が、一人で窓の外を眺めていた。
周りの誰も気にしていない。
けれど、優人には分かった。
「……今日、なんかあった?」
「え?」
友人が振り返る。
「いや、なんとなく」
「別に。何もないよ」
そう言って笑った。
けれど、
その笑顔はいつもより少しだけぎこちなかった。
優人は、それ以上聞かなかった。
「そっか」
それだけ言って、鞄を肩にかける。
「じゃあ、一緒に帰る?」
友人は少し驚いた顔をした。
「……なんで?」
「なんとなく」
少しの沈黙。
そして友人は、小さく笑った。
「……うん」
帰り道。
友人は、自分から少しずつ話し始めた。
優人は何も言わずに聞いた。
そのとき、幼い頃に聞いた祖父の言葉を思い出していた。
相手が何をしてほしいのか、ちゃんと考えてやる。
それが、優人にとっての優しさだった。
⸻
そして現在。
柊優人、24歳。
どこにでもいる普通の会社員。
特別な才能があるわけでもない。
仕事だって、毎日が楽しいわけじゃない。
それでも、人のちょっとした変化に気づくことだけは、昔から変わらなかった。
「柊さん、今日ちょっと疲れてません?」
会社の同僚に言われ、優人は苦笑した。
「分かる?」
「顔に出てますよ」
「そっか。じゃあ今日は早く寝ます」
そんな、どこにでもある一日だった。
仕事を終えた優人は、会社を出る。
外では雨が降っていた。
「……傘持ってきてよかった」
傘を開き、いつもの道を歩く。
その途中だった。
「……ん?」
道路脇から、小さな鳴き声が聞こえた。
「にゃあ……」
優人が足を止める。
電柱の近くに、一匹の真っ黒な猫がいた。
毛は雨で濡れていて、身体を小さく震わせている。
「お前、こんなところで何してんだ?」
優人がしゃがみ込む。
猫は怯えたように後ずさった。
「大丈夫。何もしないから」
ゆっくり手を伸ばす。
猫は優人をじっと見つめていた。
その瞬間。
遠くから、車のライトが近づいてきた。
「……危ない!」
優人は反射的に猫を抱き上げた。
次の瞬間。
強い衝撃が身体を襲った。
何が起きたのか分からない。
雨の音。
遠ざかっていく意識。
それでも、腕の中の猫だけは離さなかった。
薄れていく意識の中で、優人が最後に考えたのは、
この猫、大丈夫かな。
そのことだけだった。
⸻
目を覚ますと、知らない天井があった。
「…………」
優人はゆっくりと身体を起こした。
木でできた天井。
見たことのない家具。
見知らぬ部屋。
「……ここ、どこだ?」
身体に痛みはない。
部屋の隅に置かれた鏡に気づき、優人は立ち上がった。
鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、見慣れた自分の顔だった。
黒髪。
少し眠そうな目。
どこにでもいそうな、普通の青年。
「……俺だ」
顔も身体も、事故に遭う前と変わっていない。
「じゃあ……俺は死んだんじゃないのか?」
そのとき。
「おーい、ロイ!」
突然、宿の外から声が響いた。
「……ロイ?」
優人が振り返る。
誰のことを呼んでいるのか分からない。
すると、扉が開いた。
「なんだ、もう起きてたのか」
入ってきたのは、三十代くらいの男だった。
「昨日からずっと寝てたから心配したぞ」
優人は男を見つめる。
知らない。
なのに…
なぜか名前が頭に浮かんだ。
ガルド。
「……ガルド?」
「おう。なんだよ、寝ぼけてんのか?」
男は笑った。
「それより、今日も泊めてくれよ。いつもの部屋でな」
「……泊める?」
そこで優人は初めて気づいた。
この建物は、宿なのだ。
そして、なぜか頭の中には、この宿についての知識があった。
客室の場所。
食堂。
宿泊料金。
この世界のお金。
まるで、ずっとここで暮らしていたかのように。
優人は受付の前に立った。
そこには一枚の看板が掲げられていた。
『旅人の灯火宿』
「俺……ロイなのか」
ガルドは不思議そうな顔をした。
「何言ってんだよ。お前は昔からロイだろ?」
優人は答えられなかった。
柊優人。
それが自分の名前だったはずなのに。
この世界では、自分はロイとして生きていた。
そして。
「にゃあ」
足元から声がした。
優人が振り返る。
そこには、あの猫がいた。
「……お前も来たのか」
優人は猫を抱き上げる。
「まさか、お前まで一緒に来るとはな」
猫は何も答えない。
「……まあ、よろしくな」
「にゃあ」
⸻
その日の夜。
宿の扉が開いた。
「すみません」
優人が顔を上げる。
そこには、一人の若い女性が立っていた。
二十代前半くらいだろうか。
薄い白色の髪に、少し大きめの瞳。
整った顔立ちには、どこか知的で掴みどころのない雰囲気がある。
けれど、その瞳には少し寂しそうな色があった。
服には泥がつき、肩には大きな荷物を背負っている。
「今日、泊まれますか?」
「あ、はい。もちろんです」
「ありがとうございます」
女性は小さく頭を下げた。
「お名前を伺っても?」
「……シキです」
「シキさんですね。一泊で大丈夫ですか?」
「はい」
優人は受付を済ませ、鍵を渡す。
「こちらが部屋の鍵です」
「ありがとうございます」
シキが鍵を受け取った。
そのとき。
優人は、少しだけ違和感を覚えた。
声が暗い。
目が疲れている。
荷物を握る手にも、妙に力が入っている。
それに、部屋へ向かおうとしているのに、
何度も足が止まっている。
何かを抱えている。
けれど、優人は何も聞かなかった。
「長旅だったみたいなので」
「今日はゆっくり休んでください」
優人は、優しく笑った。
シキは少し驚いたように優人を見る。
「……はい」
⸻
夜。
宿の食堂には、優人とシキだけがいた。
シキは椅子に座ったまま、眠る気配がない。
優人はその様子を見ていた。
「……眠れませんか?」
シキが顔を上げる。
少し迷ってから、
「……はい」
と答えた。
優人はそれ以上聞かなかった。
「少し待っててください」
「え?」
優人は厨房へ向かう。
しばらくして戻ってきた。
手には、一杯の温かいミルク。
「ホットミルクです」
「……私に?」
「眠れないときに、少しは落ち着くかもしれないので」
シキは両手でカップを受け取った。
「……ありがとうございます」
湯気がゆっくりと上がる。
シキは一口飲んだ。
「……あったかい」
その一言のあと。
しばらく沈黙が続いた。
やがてシキが、ぽつりと口を開いた。
「……一緒に旅をしていた仲間が、死んだんです」
優人は黙って聞いた。
「魔物に襲われて……私だけ、生き残りました」
カップを握る手が震えている。
「もっと何かできたんじゃないかって……ずっと考えてしまって」
優人は何か言おうとした。
けれど、簡単な言葉で片付けていい話ではないと思った。
だから、ただ聞いた。
シキが話す。
仲間との旅。
最後に交わした言葉。
そして、自分だけが生き残ったこと。
話し終えた頃には、シキの目には涙が浮かんでいた。
「……すみません。初対面なのに」
「謝らなくていいですよ」
優人は静かに答えた。
「無理に忘れなくてもいいと思います」
シキが顔を上げる。
「大切な人だったなら、忘れられなくて当然ですから」
「……」
「話したくなったら、俺でよければいつでも聞きます」
シキはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……変わった宿ですね」
「そうですか?」
「初めて泊まったのに……なんだか、安心します」
優人は少し笑った。
「それなら、宿屋としては成功ですね」
シキも、ほんの少しだけ笑った。
そのとき。
「にゃあ」
足元から猫の鳴き声がした。
シキが下を見る。
「……あなたもいたの?」
猫はシキを見上げる。
「にゃあ」
猫はシキの足元に近づくと、そのまま身体をすり寄せた。
「ふふ……変な子」
シキは猫の頭を優しく撫でた。
猫は嫌がることなく、その場に座り込んだ。
しばらくして、シキが立ち上がる。
「……少し、眠れそうです」
「それならよかったです」
シキが部屋へ向かう。
すると猫も、その後をついていった。
「お前も行くのか?」
「にゃあ」
シキが振り返る。
「あなたも来るの?」
「にゃあ」
猫はシキの足元をすり抜け、そのまま部屋へ向かって歩いていく。
シキは小さく笑った。
「じゃあ、一緒に寝ようか」
そう言って、猫を抱き上げる。
「おやすみなさい、ロイさん」
「おやすみなさい、シキさん」
扉が静かに閉まった。
その夜。
シキは久しぶりに、安心して眠ることができた。
そしてベッドの足元では、猫が丸くなって眠っていた。
⸻
翌朝。
シキが受付へ降りてきた。
昨日よりも表情が穏やかになっている。
目元にはまだ疲れが残っている。
それでも、昨日のような張りつめた様子はなかった。
「昨日は、本当にありがとうございました」
「いえ」
「久しぶりに、ちゃんと眠れました」
「それならよかったです」
シキは少しだけ笑った。
「また、この街に来たら泊まってもいいですか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
シキは頭を下げる。
そして宿の扉を開いた。
「それじゃあ、行ってきます」
「はい。お気をつけて」
シキが数歩歩いたところで、ふと立ち止まる。
振り返ると、宿の入口にはロイと猫が並んで立っていた。
シキは猫を見る。
「……昨日はありがとう」
猫は首を傾げる。
「にゃあ」
シキは小さく笑った。
「またね、猫さん」
「にゃあ」
シキはもう一度笑うと、今度こそ歩き出した。
その姿が、街の向こうへ消えていく。
ロイはしばらく、その背中を眺めていた。
「……また来てくれるといいな」
隣にいる猫へ話しかける。
猫は尻尾をゆっくり揺らした。
その瞬間。
ロイの目の前に、見たことのない文字が浮かび上がった。
《スキルを獲得しました》
ロイは目を見開く。
続いて、もう一つの文字が浮かんだ。
《観察眼》
「……観察眼?」
頭の中に、昨日のシキの姿が浮かぶ。
震えていた手。
眠れなかった夜。
無理に笑っていた表情。
「……これ、俺が気づいたこと……?」
ロイは自分の手を見る。
何が起きているのか分からない。
ただ、一つだけ分かった。
この宿には、まだ自分の知らない秘密がある。
「……宿屋って、面白いかもしれないな」
隣で猫が、
「にゃあ」
と鳴いた。
ロイは猫を見る。
「お前、絶対なんか知ってるだろ」
猫は答えない。
ただ、尻尾をゆっくり揺らしていた。
こうして。
柊優人改めロイと、一匹の猫による宿屋生活が始まった。




