絵巻の端
ホテルへ戻った頃には、昼間の青空はすっかり姿を変えていた。
赤井廃寺へ向かう途中で見た大きな入道雲は崩れ、窓の向こうには薄い灰色の雲が広がっている。遠くで雷でも鳴っているのか、時折、低い音が聞こえた。
滝井総司は部屋へ入るなり、肩からカメラバッグを下ろした。
「あっつ……」
汗を吸ったシャツが背中に貼りついている。
冷蔵庫から水を取り出し、半分ほど一気に飲む。
本当なら、そのままベッドへ倒れ込みたいところだった。
だが、今日は鞄の中にそれより気になるものがある。
デスクへ座り、ノートパソコンを少し脇へ寄せた。
鞄から取り出したのは、赤井覚禅から借りた薄い冊子だった。
『梅木伝承集 赤井寺提供分控』
表紙の文字を、もう一度見る。
市役所に保管されていた『梅木伝承集』そのものではない。
赤井寺が編纂時に提供した資料や、その際に戻ってきた複写物などを寺側でまとめておいたものだ。
「さて、と」
滝井は取材ノートを開いた。
最初のページに、この数日で拾った言葉を書き並べる。
刀墓古墳。
蛇の抜け殻。
刀墓の神女。
大和国。
興福寺。
赤井寺。
そして、殺された男。
ペン先を止めた。
こうして並べると、関係しているように見える。
だが、関係しているように見えることと、本当に関係があることは違う。
そこを間違えると、記事は簡単に怪談になる。
滝井は昔、雑誌の編集者から言われたことがある。
偶然を三つ並べれば、不思議な話は作れる。
五つ並べれば、陰謀論まで作れる。
だからこそ、取材する側は一度疑わなければならない。
自分が見たいものだけを、見ていないか。
「……読んでみるか」
冊子を開いた。
◇
内容は雑多だった。
赤井寺の由緒。
江戸時代の火災。
檀家から聞き取った昔話。
雨乞い。
地域の祭礼。
飢饉の際、寺が米を配ったという記録。
古い墓石の写真。
そして、既に失われた仏具のスケッチ。
旅行記事を書くつもりなら、それだけで十分面白い。
だが今の滝井が探しているのは、そこではなかった。
数十ページ進んだところで、手が止まった。
『刀墓神女』
「……あった」
思わず声が漏れた。
滝井は椅子へ座り直した。
民俗館で見た記述よりは詳しい。
とはいえ、伝承の骨格そのものは同じだった。
鎌倉の頃、刀墓の地に美しい神女がいた。
神女は白蛇を従えていた。
その姿をみだりに見ることを禁じた。
禁を破った者には神罰が下る。
それだけを読めば、地方にありがちな禁忌譚とも言える。
滝井は次のページをめくった。
そこには、赤井寺と刀墓の関係についての短い記述があった。
刀墓へ衣を遣わした。
米を届けた。
使いの者が往来した。
ところどころ文字が潰れており、すべてを読むことはできない。
「赤井さんが言ってたのは、これか」
少なくとも、赤井寺と刀墓には中世から何らかの交流があった。
これは確認できた。
だからといって、殺された男が鎌倉時代から来た証拠にはならない。
赤井寺について現代人が知る方法はいくらでもある。
ネット。
書籍。
郷土資料。
それに、そもそもスナックのママが聞いた寺名が、本当に赤井寺だったのかも分からない。
赤だったか、青だったか。
その程度の記憶だった。
「まだ弱いなぁ」
滝井はノートへそう書いた。
ページを進める。
しばらくして、白黒の図版が現れた。
刀墓縁起絵巻。
民俗館で見たものと同じだった。
長い髪の少女。
その足元に白蛇。
小さな祠のようなもの。
傍らには箱。
そして、その少し後ろに一人の男が描かれている。
滝井はページをめくった。
別の場面。
また少女がいる。
白蛇。
そして、やはり男がいる。
「……こいつ、ずっといるんだな」
今まで意識していなかった。
当然だった。
伝承の題名は『刀墓の神女』なのだ。
絵を見れば、まず少女を見る。
次に白蛇を見る。
男は背景の一部くらいにしか思っていなかった。
だが、何度見てもいる。
少女が座っている場面にも。
何かを受け取っている場面にも。
小さな祠の前に立っている場面にも。
いつも少し後ろにいる。
従者だろうか。
使用人か。
それとも別の役割があるのか。
滝井はスマートフォンを取り出し、図版を撮影した。
画面を拡大する。
複写そのものが古いため、画質は粗い。
「もうちょい綺麗ならなぁ」
さらに拡大した。
その時だった。
男の胸元に、小さな印があることに気づいた。
「……ん?」
指で拡大する。
円のような形。
その内側から、三方向へ細い線が伸びている。
花にも見える。
日の光にも見える。
装飾だろうか。
滝井は冊子へ視線を戻した。
別の図版。
今度の男は、少女に背を向けている。
背中にも何かが描かれている。
スマートフォンで撮り、同じように拡大した。
先ほどと同じ印だった。
「……同じだ」
滝井は二枚の写真を画面上で交互に見比べた。
一枚なら、単なる着物の柄かもしれない。
二枚。
しかも同じ人物の衣服へ、意図的に同じ印が描かれている。
何らかの所属を示している可能性がある。
滝井は取材ノートへ形を写した。
丸。
中から伸びる三本の線。
描き終えてから、自分の絵を眺める。
「下手くそだなぁ……」
これでは、むしろ分かりにくくなった。
それでも、一つ思い当たる言葉があった。
「家紋……?」
もちろん、滝井に家紋の知識などない。
三つ葉葵や桐なら分かる。
その程度だ。
しかし、分からないなら分かる人間に聞けばいい。
最近、その役目をずいぶん一人の男へ頼っている気がする。
「また森野さんか」
滝井は苦笑した。
◇
翌朝。
梅木市役所の歴史課を訪れると、森野大二は自席で書類を読んでいた。
「おはようございます」
「ああ、滝井さん」
森野が顔を上げる。
「今日は何を見つけたんです?」
「俺が来るたびに何か持ってくる前提になってません?」
「ここ数日は、だいたいそうですから」
「否定できないなぁ」
滝井はスマートフォンを取り出した。
「これ、見てもらえます?」
画面に絵巻の写真を表示する。
森野は眼鏡を少し上げた。
「刀墓縁起絵巻ですね」
「赤井寺に残ってた控えです」
「赤井寺?」
「昨日行ってきました」
森野は少し驚いた。
「行動が早いですね」
「旅行ライターですから」
「それは関係あります?」
「多分」
滝井は男の胸元を拡大した。
「これなんですけど」
森野が覗き込む。
「紋ですか」
「家紋かなと思って」
「可能性はありますね」
「分かります?」
「私は家紋の専門家ではありませんので、期待しないでくださいね」
森野はしばらく画面を見たあと、椅子から立ち上がった。
「少し待っていてください」
「何かあるんですか」
「昔の調査資料を確認してみます」
そう言って、歴史課の奥へ消えた。
滝井は窓口脇の椅子へ座った。
待っている間、無意識にあの日の席へ視線が向いた。
偽の中島が座っていた場所。
今は別の職員が使っている。
名札は当然、中島ではない。
あの男は何者だったのか。
なぜ自分に『梅木伝承集』を見せたくなかったのか。
そして、なぜ資料そのものを盗む必要があったのか。
その答えも、まだない。
二十分ほどして、森野が戻ってきた。
分厚いファイルを抱えている。
「ありました」
「早いですね」
「これです」
机に置かれたファイルの背には、
『梅木旧家・屋号調査 昭和五十八年度』
と書かれていた。
「昭和五十八年……」
「市内の古い家や屋号、墓石、家紋などを聞き取った調査です。完全なものではありませんが」
森野がページをめくる。
白黒写真。
屋号。
古い姓。
簡単な家系図。
既に絶えた家の記録もある。
そして、あるページで指が止まった。
「これです」
滝井は身を乗り出した。
そこに描かれていた紋は、昨夜見たものによく似ていた。
円。
三方向へ伸びる線。
その横には、小さく名称が書かれている。
『日輪崩し』
そして、その下。
『後光家』
「……後光」
「ごこう、と読みます」
森野が言った。
「梅木では古い家の一つですね」
「どれくらい古いんです?」
「市の記録で確実に追えるのは江戸期までです。それ以前は、家に残る記録や寺社側の資料を見ないと何とも言えません」
「今もある?」
「後光家ですか?」
「はい」
「ありますよ」
滝井は森野を見る。
「まだ梅木に?」
「ええ。刀墓町の西側です。昔から同じ辺りに住んでいる家ですね」
森野はすぐに付け加えた。
「ただし」
「はい」
「この家紋が似ているというだけで、絵巻の男が後光家の人間だったと決めないでくださいね」
「分かってます」
「本当に?」
「最近、信用ないなぁ」
「慎重になっているだけです」
森野は真顔だった。
「絵巻は後世に描き直されている可能性もあります。描いた人間が、自分の時代の家紋を入れた可能性もある。似た紋を使った別家もあり得ます」
「なるほど」
滝井はノートへ書き留めた。
森野の言う通りだ。
家紋が一致した。
だから鎌倉時代から後光家が神女を守っていた。
そこまで飛べば、ただの物語になる。
「でも、聞いてみる価値はありますよね」
「それは否定しません」
「後光家って、場所分かります?」
森野が少し困った顔をした。
「個人宅の住所を、市の立場からお教えするのは避けたいですね」
「あ、そうか」
「ただ、旧調査には『刀墓西集落』とあります。珍しい名字ですし、現地を歩けば表札くらいは見つかると思います」
「十分です」
滝井は立ち上がった。
「行ってみます」
「滝井さん」
「はい?」
「断られたら、ちゃんと帰ってきてくださいね」
「俺、そんなに食い下がるタイプに見えます?」
「見えます」
「即答……」
森野は、今度は少しだけ笑った。
◇
市役所を出る。
夏の日差しが、容赦なく道路を照らしていた。
滝井はスマートフォンへ簡単なメモを残した。
後光家。
日輪崩し。
刀墓西集落。
まだ証拠ではない。
ただの一致。
それでも。
絵巻の中で、神女のそばに何度も描かれた男。
その男が身につけていた印と、現在まで梅木に残る家の紋が似ている。
調べない理由はなかった。
滝井は帽子を被り直した。
次に訪ねるのは、後光家だった。




