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赤井廃寺

 赤井廃寺は、梅木市の南西にある小さな集落に残っているという。


 市街地からそう遠いわけではない。だが、刀墓古墳からは少し離れていた。観光案内に大きく載る場所でもなく、地図の上でも、その名はほとんど目立たない。


 森野によれば、赤井寺はかつて、この一帯の暮らしに深く関わっていた古寺らしい。


 大きな伽藍を構えた有名寺院ではない。周辺の集落の供養や祭礼を担い、土地に残る古い記録を細々と受け継いできた寺だった。寺伝では中世まで遡るともいうが、正確な創建年代ははっきりしない。


 今はもう、寺としては閉じられている。


 森野が教えてくれたのは、その程度だった。


 それでも、滝井総司にとっては十分だった。


 殺された男が口にしたかもしれない、色の名を持つ寺。


 今はもう無い寺。


 赤井廃寺。


 昨日の事件がこれで解決するとは思えない。だが、あの男が何者だったのか。その手がかりくらいは掴めるかもしれない。


 茹だるような暑さだった。


 それでも滝井の頭の中は、ようやく見えた細い糸のことでいっぱいだった。


     ◇


 市街地を離れるにつれ、道幅は少しずつ狭くなっていった。


 スマートフォンの地図を頼りに、滝井は古い地蔵堂の脇を抜けた。赤い前掛けを掛けられた地蔵の足元には、まだ新しい花が供えられている。


 その先で、ナビが目的地への到着を告げた。


 滝井は立ち止まり、顔を上げる。


 空では、先ほどまで大きく膨らんでいた入道雲が、少しずつ形を崩し始めていた。


「あれか?」


 視線の先に、山門らしきものが見えた。


 だが、それは滝井が想像していた寺とは、ずいぶん違っていた。


 山門は長年の風雨に晒され、片方の扉が外れかけている。柱の根元には苔が生え、額に掲げられていたはずの寺号は、ほとんど読めないほど色褪せていた。


 境内に足を踏み入れると、草の匂いが濃くなった。


 かつて本堂だったらしい建物は残っている。


 しかし、正面の扉は固く閉ざされ、縁側の板はところどころ浮いていた。軒下には蜘蛛の巣が張り、手水鉢には雨水が溜まっている。


 中を覗いてみても、薄暗い堂内には何もない。


 仏像でも置かれていたのだろうか。


 ただ、床の一部だけが不自然に白く残っていて、そこに何かが長く据えられていたことだけは分かった。


 寺というより、寺の形をした抜け殻だった。


「これは……空振りかなぁ」


 滝井はカメラを構えかけて、やめた。


 古びた山門。


 草に埋もれかけた石仏。


 誰もいない本堂。


 被写体としては悪くない。


 だが、今ほしいのは写真ではなかった。


 殺された男が、なぜこの寺の名を口にしたのか。


 その理由に近づけるものが、ここに残っているかどうかだった。


 境内を見回す。


 人の気配はない。


 やはり無駄足だったか。


 そう思いかけたとき、滝井は本堂の脇に建つ古い家に気づいた。


 庫裏だろう。


 寺の建物に比べれば、まだ手が入っている。瓦屋根は古いが、雨樋は新しい。軒下には白いタオルと作務衣が干され、縁側の近くには青いサンダルが一足置かれていた。


 廃寺のはずなのに、そこだけに生活の気配がある。


「これは、あるかも」


 滝井は鞄の肩紐を掛け直し、庫裏へ向かった。


 玄関脇に古いインターフォンがある。


 ためらいながら押した。


 ピーンポーン。


 反応はない。


 少し待って、もう一度押す。


 ピーンポーン。


 今度は、家の奥で床板が軋む音がした。


 足音が近づいてくる。


 次の瞬間、引き戸が勢いよく開いた。


 がらがらがら。


「なんじゃ」


 現れたのは、八十に近いと思われる老人だった。


 痩せてはいるが、背筋は思ったより伸びている。浅黒い肌に、薄い作務衣。足元は裸足だった。白い眉の下の目は細く、眠たげにも、面白がっているようにも見えた。


「あの、突然すみません」


 滝井は慌てて頭を下げた。


「私、こういう者です」


 名刺を差し出す。


 老人は受け取るなり、目からかなり離して文字を読んだ。


「ライター……」


「はい。旅行雑誌の取材で梅木市に来ています」


「旅行雑誌が、こんなところに何の用じゃ」


 もっともな質問だった。


 滝井は愛想笑いを作る。


「赤井廃寺のお話を少し伺えればと思いまして」


「拝観料なら百万円だ」


「ええっ、高い」


「払えんのか」


「払えません」


「なら無しじゃ」


 がらん。


 引き戸が閉まった。


 滝井は玄関先に取り残された。


「えぇ……」


 どうしたものかと立ち尽くしていると、閉まったばかりの戸が再び開いた。


 がらがら。


「嘘じゃ嘘じゃ」


 老人は顔だけ出して、にやりと笑った。


「上がっていけい」


 滝井は思わず息を吐いた。


「もぉ……」


「年寄りの冗談に付き合うのも、取材のうちじゃ」


「それ、記事に書いていいですか」


「百万円払ったらな」


 老人は笑いながら奥へ引っ込んだ。


 滝井は靴を脱ぎ、庫裏へ上がった。


     ◇


 通された座敷は、年月を感じさせる部屋だった。


 畳は少し焼けているが、きれいに掃かれている。床の間には、色褪せた掛軸と小さな香炉。隅には古い扇風機が置かれ、ゆっくり首を振っていた。


 老人は台所で湯呑みを二つ用意し、盆に載せて戻ってきた。


「茶しか出んぞ」


「十分です」


 滝井は湯呑みを受け取った。


 渋みの強い番茶だった。


「儂は赤井覚禅。ここの元住職じゃ」


「赤井さん」


「もっとも、寺を潰したのも儂の決断じゃ。先祖からしたら、さぞ恨みに思っとるかもしれんな」


 覚禅は何でもないことのように言った。


 だが、その声には少しだけ笑いきれないものが混じっていた。


「そんなことはないと思います」


 滝井は自然に答えていた。


「畳むと決めるのも、残すのと同じくらい大変なことだと思いますから」


 覚禅は湯呑みに口をつけ、ちらりと滝井を見る。


「口が上手いの」


「仕事柄です」


「なら、半分だけ聞いとこう」


 言って、覚禅は小さく笑った。


 気難しいというより、調子の読めない人だ。


 だが、悪い人間ではなさそうだった。


「赤井さん。森野さんから聞きました。赤井寺は、中世からこの地域と関わりのある古いお寺だったと」


「森野か。まだ役所で頑張っとるのか」


「はい。昨日も今日も、お世話になっています」


「几帳面な男じゃろう」


「ええ」


「昔からああじゃ。茶碗の向きが違うだけで直しよる」


 覚禅は懐かしそうに笑った。


「赤井寺は、大きな寺ではなかった。けれど、この辺りの村とは古くから縁があった。供養、葬式、祭りの手伝い、そういうものじゃな。観光寺ではない。暮らしの中にあった寺じゃ」


「刀墓の方とも、関わりがあったんですか」


 滝井は、できるだけ何気なく聞いた。


 覚禅は少し考えるように天井を見た。


「刀墓か。あったんじゃろうな」


「あるんですか」


「寺に伝わる古い話ではな。鎌倉の頃には、刀墓のあたりへ衣や米を運んだとか、供養を頼まれたとか、そういうことが書かれていた気がする」


「刀墓に、衣や米を……」


 滝井の声が、わずかに上ずった。


 赤井寺。


 殺された男が口にしたかもしれない、色の名を持つ寺。


 その男は、刀墓古墳の近くで死んでいた。


 そして、あの男が大事そうに抱えていたという蛇の抜け殻は、刀墓の神女の伝承に描かれていた白蛇と、どうしても重なって見える。


 赤井寺と刀墓。


 その二つの間に、何か一本、見えない糸がある気がした。


 だから滝井は、この寺の歴史だけを知りたいわけではなかった。


 知りたいのは、刀墓の神女だった。


 その名が記されているはずの、梅木伝承集だった。


 滝井は湯呑みを置いた。


「実は今、梅木伝承集を探していまして」


「梅木伝承集?」


「はい。その中にある、刀墓の神女という話を調べています」


「ああ」


 覚禅は、思い出したように頷いた。


「刀墓の神女か。あったな、そんな話」


「ご存じですか」


「そりゃあ、この辺りに住んでいれば名前くらいは知っとる。白蛇がどうとか、覗いたら祟りがあるとか。昔話じゃ」


「それで、昨日市役所でその梅木伝承集を見ようとしたんですが……盗まれてしまっていて」


 覚禅は目を丸くした。


「盗まれた?」


「はい」


「本を?」


「本を、です」


「ようそんなもん盗むのう」


 覚禅は心底不思議そうな顔をした。


 怒るというより、本当に理解できないという顔だった。


「金になるのか、それ」


「たぶん、金ではないと思います」


「ますます分からん」


 覚禅は首を捻った。


 その拍子に、何かを思い出したように「あ」と声を漏らした。


「そういや」


「はい?」


「梅木伝承集の話なら、うちも少し関わっとるかもしれん」


 滝井は身を乗り出した。


「どういうことですか」


「市があれを作るとき、昔の資料を集めておったろう。うちにも市の人間が来てな。寺に残っていた話やら、絵の写しやら、いくつか持っていったはずじゃ」


「赤井寺が、資料を提供したんですか」


「全部ではないぞ。ほんの一部じゃ。刀墓の話も、その中に混じっていた気がする」


 滝井は思わず湯呑みを置いた。


「その資料は、もう市役所に?」


「いや、原本は返してもらったと思う。写しだか控えだかも、いくつか置いていったんじゃなかったかな」


「ここに、まだあるかもしれないんですか」


「あるかもしれんし、ないかもしれん」


「見せてもらえませんか」


 滝井の声に、力が入った。


「ぜひ」


 覚禅は湯呑みを持ったまま、しばらく滝井を見ていた。


 そして、あっさり言った。


「ええけど」


「いいんですか」


「見たいんじゃろう」


「はい」


「なら探せばええ」


 拍子抜けするほど軽い返事だった。


 滝井は少し慌てた。


「貴重な資料じゃないんですか」


「貴重かどうかは、見る人間が決めることじゃ。儂が持っとっても、蔵で埃をかぶるだけじゃしな」


 覚禅は立ち上がった。


「ただし、どこにしまったかは忘れた」


「え」


「一緒に探してくれ」


 覚禅は壁に掛けてあった鍵を取った。


「こっちは腰が悪い」


     ◇


 庫裏の横に、蔵があった。


 白壁はところどころ剥がれ、扉の金具には赤錆が浮いている。それでも、造りはたいそう立派だった。かつてこの寺が、ただの小さな庵ではなかったことを物語っているようだった。


「立派ですねえ」


「昔はな」


 覚禅は鍵を差し込み、重い扉を開けた。


「ここでよう遊んだもんじゃ。子どもの頃は、何でも宝物に見えた」


 扉が開くと、湿った紙と古木の匂いが流れ出てきた。


 中は薄暗い。


 覚禅が裸電球を点けると、黄色い光が埃の粒を浮かび上がらせた。


 棚には古い箱や包みが積まれている。


 壊れた仏具。


 使われなくなった経机。


 煤けた額。


 本堂から下げられたと思われる小さな仏像。


 巻物のようなものも、紐で縛られたままいくつか置かれていた。


 滝井は思わず息を呑んだ。


「これ、ちゃんと整理したら相当な資料なんじゃないですか」


「そういうことを言う人間が来るたびに、面倒になる」


「いや、本当に」


「本当に面倒なんじゃ」


 覚禅は手をひらひら振った。


「この辺りのはずなんじゃがな。市の連中が置いていったものは、まとめて入れた覚えがある」


「一緒に探します」


「当たり前じゃ。儂はもう探す前から疲れとる」


 二人は蔵の中を探し始めた。


 箱を開けるたびに埃が舞う。


 滝井は途中から、鞄に入れていたマスクを取り出して着けた。


「用意がいいの」


「古い資料館に行くと、たまに必要になるんです」


「本当に変な仕事じゃな」


「よく言われます」


 棚の上段。


 木箱の中。


 古い風呂敷包み。


 市史関係と思われる封筒はいくつか出てきたが、目的のものではなかった。


 赤井寺の沿革。


 寄進帳の写し。


 昭和期の檀家名簿。


 どれも重要そうではあるが、今探しているものではない。


「んー、ないのう」


 覚禅が腰を叩いた。


「本当にこの蔵ですか」


「多分な」


「多分」


「八十年も生きとると、多分が増える」


「困りますね」


「儂も困っとる」


 滝井は笑いそうになったが、すぐにまた棚へ向かった。


 探し始めてから、一時間近くが過ぎていた。


 外はまだ明るいはずだが、蔵の中では時間の感覚が鈍る。


 汗が背中を伝い、シャツが肌に貼りついていた。


 本当にここにあるのか。


 そう思い始めた矢先、蔵の奥で覚禅が声を上げた。


「ここじゃ!」


 滝井は振り返った。


 覚禅は古びた書類入れを抱えていた。


 蓋には、墨の薄れた字で、


〈市史関係 返却分〉


 と書かれている。


「これですか」


「多分な」


「その多分は信用できそうです」


 覚禅は書類入れを床へ置き、紐を解いた。


 中には、薄い冊子や紙包みがいくつも重ねられていた。


 いずれも古いが、原本ではない。


 複写されたもの。


 写真を貼った台紙。


 校正刷りらしい紙束。


 市史か伝承集を作る際に、寺へ返却された控えなのだろう。


 覚禅が一束ずつ確認する。


 滝井も横から表紙や背を見た。


 そして、ある薄い冊子で手が止まった。


 表紙は生成りの紙。


 そこに、墨ではなく活字で印刷された題名があった。


『梅木伝承集 赤井寺提供分控』


 滝井は、しばらくその文字を見つめた。


「……あった」


 声が掠れた。


 覚禅は鼻を鳴らした。


「儂の記憶も、まだ少しは使えるの」


「すごいですよ、赤井さん」


「褒めても拝観料は下がらんぞ」


「まだ取るんですか」


「冗談じゃ」


 覚禅は冊子を手に取り、ぱらぱらとめくった。


「写しじゃな。市に渡したものと、うちに残っていた文書の控えが混じっとる。原本ではない」


「それでも十分です」


 滝井はページを覗き込んだ。


 古い仮名遣い。


 漢文めいた短い記録。


 絵巻の一部を白黒で複写したようなページ。


 その中に、見覚えのある文字があった。


刀墓の神女


 心臓が、一度強く打った。


「これ、部屋に戻って詳しく見てもいいですか」


 滝井は顔を上げた。


「もちろん、必ず返します」


 覚禅はあっさり頷いた。


「返してくれれば全然ええぞい」


 あまりに軽い返事だったので、滝井のほうが拍子抜けした。


「いいんですか?」


「儂が持っとっても、どうせ蔵で埃をかぶるだけじゃ」


「でも、赤井寺に残っていた資料ですよね」


「残っていただけじゃ。読まれん資料は、ないのと同じじゃろう」


 覚禅はそう言って、腰を叩きながら立ち上がった。


「ただし、酒はこぼすなよ」


「そこは大丈夫です」


「ほんとかの」


「信用してください」


 覚禅は笑った。


 滝井は冊子を両手で受け取り、鞄の中へ丁寧にしまった。


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