色の名を持つ寺
からん、からん。
扉のベルが鳴る。
「あらぁ、来た!」
カウンターの奥から、すっかり聞き慣れた声が飛んできた。
「滝井ちゃん、待ってたわよ。いらっしゃい」
二度目の来店にすぎない。
それなのに滝井総司は、なぜか自分の定位置へ帰ってきたような気分でカウンターの椅子へ腰を下ろした。
「今日も飲み放題でいい?」
「うん。それで頼む」
「はいはい」
答えてから、滝井は少しだけ後悔した。
最初に来た夜は、翌日には梅木を離れるつもりだった。だからボトルを入れなかった。
まさか数日後もこの町にいて、それどころか殺人事件と盗難騒ぎにまで首を突っ込んでいるとは思わなかったのだ。
ママが手慣れた手つきで瓶ビールを開ける。
「じゃ、今日もお疲れさま」
「お疲れ」
二人でグラスを合わせた。
滝井は一杯目を、半分以上まとめて喉へ流し込んだ。
「ちょっとちょっと」
ママが目を丸くする。
「今日、飲みっぷりいいじゃない」
「そう?」
「そうよ。昨日より全然早い」
長年カウンターに立ってきた人間なのだろう。
客が飲みたい夜と、飲まずにはいられない夜の違いくらい、グラスを見れば分かるらしい。
ママは新しいビールを注ぎながら、何気ない調子で尋ねた。
「何かあった?」
「んまあ……あの事件のことでね」
「ああ。あのお侍さん?」
「お侍さんって」
滝井は少し笑った。
「まあ、見た目はそんな感じだけど」
「だって、あんな格好してたんでしょう?」
「そうなんだよな」
笑いは長く続かなかった。
滝井はグラスを指先で回した。
「気になってさ。いろいろ調べてはいるんだけど、どうも上手くいかなくてね」
「そりゃそうよ」
ママはあっさりと言った。
「警察だって、まだ犯人見つけてないんでしょう?」
「……まあね」
「滝井ちゃん、旅行ライターなんだから」
「それ今日、警察にも言われたよ」
「何て?」
「『どこがだよ』って」
ママが吹き出した。
「あはは! そりゃ言われるわよ」
「こっちは真面目に仕事してるつもりなんだけどな」
「そのうち肩書き変えたら? 怪事件ライターとか」
「売れなさそうだなあ」
少しだけ気分が軽くなった。
こういう時間がありがたかった。
森野と話している間も。
空になった保存箱を見たときも。
警察へ何度も説明している間も。
頭のどこかでは、ずっと答えを探していた。
中島を名乗った男。
盗まれた『梅木伝承集』。
蛇の抜け殻。
刀墓の神女。
どれもつながっているように見えるのに、一本の線にならない。
「でもさ」
滝井はビールを一口含んだ。
「あの男、やっぱり普通じゃないんだよ」
「でしょうねえ」
「大和国だとか、今が何年だとか。興福寺まで何刻かかるとか言ってたんだろ?」
「そうそう」
ママは笑いながら頷いた。
「電車って何だって聞かれたときは、さすがにからかわれてると思ったもの」
「設定にしても凝りすぎなんだよな」
「設定?」
「コスプレの」
「ああ」
ママは納得したように頷き、空いたグラスを片付け始めた。
その手が、ふと止まった。
「……あ」
「ん?」
滝井は顔を上げた。
ママはグラスを持ったまま、何かを思い出そうとするように宙を見ていた。
「そういえば」
「何?」
「あの人、お寺の名前、ほかにも言ってた気がする」
滝井の姿勢が変わった。
「ほかの寺?」
「うん。興福寺だけじゃなかったのよ」
「どこ?」
「それが……」
ママは眉間へ皺を寄せた。
「思い出せないのよねえ」
「そこを何とか」
「急かさないでよ」
ママはこめかみを指で押した。
「なんて言ったかなあ。聞いたことない名前だったのよ。この辺の寺なの? って聞いた覚えがあるもの」
「この辺にはない寺?」
「少なくとも私は知らなかった」
「どんな名前?」
「だから思い出してるの」
「はい」
滝井は口を閉じた。
しばらくして、ママが首を傾げる。
「……色」
「色?」
「そう。たしか色の名前みたいなのが付いてたのよ」
「赤とか青とか?」
「そんな感じ」
「寺の名前に?」
「だったと思うんだけどねえ」
滝井はすぐにスマートフォンを取り出した。
「ちょっと調べてみる」
「飲みに来てまで仕事?」
「こういうの気になったら駄目なんだよ」
検索アプリ〈Woogle〉を開く。
梅木市。
寺。
赤。
青。
色。
思いつくままにいくつか組み合わせて検索してみた。
現れるのは、すでに取材で訪れた寺院や、観光サイト、寺社をまとめた個人ブログばかりだった。
それらしい名前は出てこない。
「ないな……」
「ほら。やっぱり私の勘違いじゃない?」
「そうかな」
「お酒も入ってたしねえ」
ママは肩をすくめた。
「思い出したら教えるわ」
「頼むよ。本当に」
「はいはい」
そこで会話はいったん途切れた。
ママは別の常連客へ酒を作り、滝井も二杯目へ手を伸ばす。
しばらくして戻ってきたママが、突然ため息をついた。
「もう、聞いてよ滝井ちゃん」
「今度は何?」
「うちの猫」
「猫飼ってんの?」
「そうなのよ。昨日なんて、お菓子の箱を勝手に開けてさ」
「猫がお菓子食うの?」
「食べないのよ、それが」
ママは呆れた顔をした。
「箱だけ開けて、私に見つかったら逃げるの」
「何がしたいんだよ」
「知らないわよ。開けて満足してるんじゃない?」
「変な猫だなあ」
「でも結局かわいいから許しちゃうのよねえ」
「それは間違いない」
滝井は笑った。
ほんの数分前まで寺の名前に食いついていたことさえ忘れそうになる、どうでもいい話だった。
その夜も、取り留めのない話をいくつもした。
気づけば時計の針は、また閉店時刻へ近づいていた。
◇
スナックを出ると、夜の梅木は静かだった。
昼間の熱はまだ道路に残っているものの、田畑のある方角から時折涼しい風が吹いてくる。
滝井はいつものコンビニへ寄った。
缶チューハイを一本。
つまみを一袋。
ホテルへ戻ってから飲む分だ。
レジを済ませ、夜道を歩く。
酔ってはいた。
だが、昨日までとは違って頭の芯が妙に冴えていた。
ママの言葉が、何度も浮かぶ。
――色の名前みたいなお寺。
――聞いたことのない名前。
スマートフォンで調べても出てこなかった。
それだけなら、ママの記憶違いで済む。
だが、男が口にしたほかの言葉を思い出す。
大和国。
何刻。
電車を知らない。
今が何年なのかを知らない。
どれも現代の人間がわざと口にしていたと考えれば、それで説明できる。
では。
存在しない寺の名前まで、わざわざ作る必要があるだろうか。
滝井は足を止めた。
もし。
ほんの、もしもの話だ。
今は存在しないだけで。
かつては、その寺が本当にあったとしたら。
「……いやいや」
自分で考えておきながら、笑いが漏れた。
「俺、何考えてんだ」
四十三にもなって、妙な格好の男を過去の人間か何かのように考え始めている。
酒のせいだ。
そういうことにしておいた。
それでも。
ホテルへ戻ってから、滝井はもう一度Woogleを開いた。
今度は観光情報ではなく、
〈梅木 旧寺院〉
〈梅木 廃寺〉
〈梅木 中世 寺院〉
と検索する。
いくつか遺跡や寺院跡に関するページが表示された。
だが、酔った頭で片端から調べるには数が多すぎる。
「明日だな」
スマートフォンを伏せる。
ベッドの脇で缶を開けた。
今日は結局、最後まで酔い切れなかった。
だが、明日の朝から予定がある身には、それくらいでちょうどいいのかもしれない。
「森野さんに聞いてみるか」
市の歴史課長なら、昔の寺についても何か知っているだろう。
そう決めると、ようやく少しだけ頭が静かになった。
◇
翌朝九時。
歴史課へ顔を出すと、森野はすでに自席にいた。
昨日の騒ぎが嘘だったように、机には資料が積まれ、その脇に湯呑みが置かれている。
森野は滝井を見つけると、いつもの温和な表情を浮かべた。
「滝井さん。よく来てくれましたね」
「昨日はご迷惑をおかけしました」
滝井が頭を下げると、森野はすぐに手を振った。
「あなたが謝ることではありませんよ。悪いのは、市職員を名乗って入り込んだ人物です」
「何か分かりました?」
滝井は椅子を勧められ、向かいへ座った。
森野の表情が少し曇る。
「残念ながら、今のところ決め手になるようなものはありません」
「そうですか……」
「防犯カメラには、あなたの話していた細身の男が確かに映っていました」
滝井は身を乗り出した。
「顔は?」
「よく分かりません」
「そんなに映り悪いんです?」
「帽子を深くかぶっていましてね。それに、カメラへ正面を向く場面がほとんどなかったそうです」
「用意周到だな……」
「庁舎を出たところまでは追えたようですが、その後は裏手の道路へ抜けています。車へ乗った様子も確認できていない」
「指紋とかは?」
「歴史課は職員が日常的に使う場所です。いくつもの指紋が出ていますから、そこから侵入者のものを特定するのは簡単ではないそうです」
滝井はため息をついた。
「こりゃ難航しそうですね」
「私も、こんなことになるとは思いませんでした」
森野が眼鏡を外し、目頭を押さえる。
「この町で、市役所へ入り込んで古文書一冊を盗む。そこまでする理由が、私には分からない」
滝井にも分からない。
だが、理由がないわけではない。
分からないだけだ。
机の上に置かれた取材ノートを見ているうち、昨夜のママの言葉が蘇った。
「あ」
「どうしました?」
「森野さん、一つ聞いていいですか」
「もちろん」
「この辺りに、色の名前が付いた寺ってありませんか」
「色?」
「赤とか、青とか。そんな感じの」
森野は少し考えた。
だが、答えが出るまでに大した時間はかからなかった。
「ああ」
顔を上げる。
「赤井寺のことですかね」
滝井の心臓が、わずかに強く打った。
「赤井寺?」
「今は『赤井廃寺』と呼ばれることのほうが多いですが」
「廃寺……」
「ええ。寺としての活動を終えたのは平成の終わり頃だったかな」
「そんな最近まであったんですか?」
「ありましたよ」
森野は懐かしそうに笑った。
「小さな寺でしたけどね。最後の住職が高齢になりまして。後を継ぐ人もなく、檀家も減っていた。それで寺としては畳んだんです」
「Woogleで寺を探しても出てこなかったのは、そのせいか」
「観光寺院ではありませんでしたからね」
「古い寺なんですか?」
滝井は努めて何気なく尋ねた。
「かなり古いですよ」
森野は頷く。
「寺伝では中世まで遡るとされています。ただ、創建年代を裏付ける史料が十分ではないので、正確なところは分かりません」
「中世……」
その二文字が、妙に耳へ残った。
「何か?」
「いえ」
滝井は笑ってごまかした。
頭の中では、昨夜の男が口にしたという言葉を思い返していた。
色の名を持つ寺。
赤井寺。
そして、中世まで遡る古い寺。
偶然だ。
まだ、それだけだった。
「今は何も残ってないんですか?」
「本堂などはまだありますよ。寺院として使われていないだけです」
「見に行っても?」
「外からなら問題ないでしょう」
森野は少し考え、付け加えた。
「元の住職も、今も脇の庫裏に住んでいたはずです」
「元住職が?」
「ええ。もう八十近いんじゃないかな。少々気難しい方ですが」
滝井の中で、旅行ライターの勘が動いた。
古い寺。
元住職。
土地に残る記憶。
少なくとも、写真の一枚や二枚は記事の材料になる。
そういう理由なら、いくらでも作れる。
「場所、教えてもらえます?」
「もちろん」
森野は立ち上がり、書棚から市内の文化財案内図を取り出した。
机へ広げる。
「ここです」
指先が、梅木市南西部の小さな集落を示した。
刀墓古墳からは離れている。
だが、市の中心部からならそう遠くもない。
「この道を入って、古い地蔵堂を過ぎると山門が見えます」
「ありがとうございます」
滝井は場所をスマートフォンへ保存した。
森野は不思議そうに尋ねる。
「急に赤井寺なんて、どうしたんです?」
「昨夜、名前を聞きましてね」
「誰から?」
一瞬、言葉に詰まった。
「……スナックのママから」
「は?」
森野の間の抜けた顔を見て、滝井は笑った。
「いやあ、旅行取材ってどこから情報が出るか分からないんですよ」
「なるほど」
森野も苦笑する。
「確かに、地元の飲み屋は郷土資料館より詳しいこともありますからな」
「名言ですね。それ記事で使っていいです?」
「やめてください」
二人で笑った。
それで会話は終わった。
◇
ガチャン。
歴史課の扉を閉める。
廊下へ出た滝井は、スマートフォンを開いた。
地図の中央に、赤いピンが立っている。
赤井廃寺。
その下には、小さく、
〈閉業〉
と表示されていた。
「廃寺、か」
滝井はしばらく画面を見つめた。
昨夜まで、名前さえ知らなかった場所。
殺された男が口にしたかもしれない寺。
今はもう、寺ではない。
滝井はカメラバッグを肩へ掛け直した。
エレベーターではなく、階段へ足を向ける。
次の取材先は、決まった。




