見解の一致
気づけば、箸を運ぶ速度が上がっていた。
先ほどまで旨いと思っていたはずのだし巻きも、今はほとんど味が分からない。
滝井総司の頭を占めているのは、食事とはまったく別のことだった。
なぜ、あの男は中島を名乗ったのか。
なぜ『梅木伝承集』を閲覧させたくなかったのか。
そして何より――なぜ、自分をわざわざ民俗館へ向かわせたのか。
偶然入り込んだ人間が、その場しのぎで嘘をついた。
そう考えるには、やっていることが妙に具体的すぎる。
歴史課の担当者の名前を知っていた。
本物の名札まで身に着けていた。
資料の保存事情をそれらしく説明し、課長の名を使って閲覧を拒んだ。
こちらが食い下がれば、民俗館という別の行き先まで提示した。
最初から用意されていた応対だったのではないか。
そこまで考えたところで、滝井は最後の一切れを口へ放り込み、麦茶で流し込んだ。
空になった茶碗の横へ、箸を置く。
「森野さん」
向かいに座る森野大二も、すでに食事を終えていた。
二人の視線が合う。
一拍の沈黙。
森野はナプキンで口元を拭い、静かに息を吐いた。
「行きましょうか」
「ええ」
それだけで十分だった。
◇
食堂を出た途端、真昼の熱気が二人を包んだ。
アスファルトの上には陽炎が立ち、遠くの家並みがわずかに揺れている。蝉の声が、耳を塞ぎたくなるほど降り注いでいた。
民俗館から市役所までは、徒歩で二十分ほど。
来たときには少し億劫に感じた距離だった。
帰りは違った。
二人とも、妙に速い。
滝井は普段なら、取材先への移動中にも何度か足を止める。
古い看板。
庭先の石仏。
軒下の風鈴。
観光案内には載らない、生活の匂いがする風景。
むしろ旅行記事では、そういう一枚が重宝することも多い。
今は、首から下げたカメラに手を伸ばすことさえなかった。
数歩前を歩く森野も、六十代半ばとは思えない速さで足を運んでいる。
「森野さん」
「はい?」
「結構速いですよ」
言われて初めて気づいたらしい。
森野は自分の足元を見た。
「……そうですな」
苦笑する。
「私も少々、焦っているようです」
滝井も笑いかけたが、うまく笑えなかった。
頭のどこかでは、すでに分かっていた。
市役所へ戻っても、あの男はいない。
そんな予感だけが、妙に確かな形を持っていた。
◇
ほどなく、梅木市役所が見えてきた。
青空を映す大きなガラス面。
地元産の木材を使った長い庇。
広場を行き交う市民。
午前中に訪れたときと何一つ変わらない。
住民票を受け取ったらしい親子が玄関から出てきて、その横を作業服姿の男が通り過ぎていく。
どこにでもある、昼過ぎの市役所だった。
だからこそ、その建物の中に見知らぬ男が入り込み、市職員を装っていたという事実が現実味を欠いて感じられた。
二人は新庁舎へ入った。
冷房の効いた空気が、汗ばんだ肌にまとわりつく。
総合案内の前を抜け、渡り廊下へ。
床材が明るい木目から古い灰色へ変わる。
旧庁舎。
そのさらに奥。
六番。
歴史課。
扉の前で、滝井は足を止めた。
森野を見る。
森野が小さく頷いた。
滝井は引き戸へ手を掛けた。
ガチャン。
思っていたより強い音が響いた。
「……すみません」
「構いません」
室内へ踏み込む。
滝井の視線は、真っ先に窓口へ向かった。
誰もいない。
午前中、そこには男がいた。
頬のこけた、銀縁眼鏡の男。
中島という名札を付け、よどみなく嘘を並べた男。
今は椅子だけが残されている。
しかも机へ収められず、斜めに引かれたままだった。
まるで、座っていた人間が急に立ち上がり、そのまま戻らなかったように。
「あ……」
滝井の口から、短い声が漏れた。
机の端に白いものが置かれていた。
森野が歩み寄る。
手に取った。
職員用の名札。
そこには、二文字。
――中島。
森野の表情から、わずかに血の気が引いた。
「……これは、中島君のものです」
「本物なんですか?」
「ええ」
裏返し、留め具まで確認する。
「間違いありません」
滝井は男が座っていた机へ近づいた。
書類。
電話機。
ボールペン。
午前中と大きな違いはない。
だが、正体が分からなくなった途端、そのすべてが不自然に見える。
休暇中の職員の名札を、なぜあの男が持っていたのか。
どこで手に入れた。
そもそも、歴史課が手薄になる時間まで知っていたのか。
滝井が考え込んでいる横で、森野の視線が突然動きを止めた。
ほんの一瞬。
そして、その顔から表情が消えた。
「……伝承集」
滝井も同時に気づいた。
背筋に冷たいものが走った。
「まさか」
「来てください」
森野はもう歩き始めていた。
◇
旧庁舎の二階へ続く石造りの階段を上がる。
建物そのものは古いが、手すりには補修の跡があり、壁も丁寧に塗り直されている。
市が保管する歴史資料は、単に古い本を棚へ並べておけばいいわけではない。
紙は湿気に弱い。
光にも弱い。
温度管理を誤れば、数百年残ったものが数十年で傷むことさえある。
旅行取材で地方の資料館を何度も訪れた滝井にも、その程度の知識はあった。
二階の突き当たり。
森野が立ち止まった。
扉に取り付けられた金属板には、
〈郷土資料収蔵室〉
とある。
森野は胸ポケットから鍵束を取り出した。
複数の鍵の中から一本を選び、鍵穴へ差し込む。
かちり。
「ここに?」
「ええ。状態の悪い古文書や、市史編纂に使用した原資料を保管しています」
扉が開く。
室内から、空調設備の低い運転音が聞こえてきた。
窓には遮光処置が施され、壁際には温湿度計。
天井近くまで伸びた移動式書架には、灰色や白の保存箱が整然と並んでいる。
埃臭い倉庫を想像していた滝井には、むしろ病院のように清潔な場所に見えた。
森野は書架の間を迷いなく進む。
何列目かで足を止め、ハンドルを回した。
重い書架がゆっくりと横へ動く。
「この辺りです」
江戸期の村方文書。
古地籍図。
寺社関係資料。
市史編纂時の採録記録。
森野の指が、保存箱の札を順番に追っていった。
そして止まる。
「……」
滝井が横から覗いた。
白い保存箱。
側面には、手書きの文字がある。
〈梅木伝承集〉
「あった」
思わず声が出た。
だが、森野は動かなかった。
「森野さん?」
森野は箱を棚から引き出した。
机の上へ置く。
ゆっくりと蓋を持ち上げた。
中には――何もなかった。
「……ありません」
「え?」
「『梅木伝承集』がありません」
滝井は箱の中を覗き込んだ。
資料を包むための薄い中性紙だけが残されている。
原本はない。
隣の箱を開ける。
別の資料は、きちんと収められていた。
その隣も。
さらにその隣も。
荒らされた様子はない。
消えたのは、一つだけだった。
『梅木伝承集』。
「……やられた」
言葉が漏れた。
「滝井さん?」
午前中の会話が、頭の中で巻き戻される。
『民俗館へ行かれてはいかがですか』
親切ではなかった。
代わりの資料を紹介してくれたわけでもない。
自分を、この場所から離したかっただけだ。
市役所を出て。
炎天下を二十分歩き。
民俗館を見て回り。
食事をする。
その間、滝井はまんまと男へ時間を与えていた。
「あいつ……」
滝井は奥歯を噛んだ。
「最初から俺を外に出すつもりだったんだ」
森野が何も言わず、こちらを見る。
「民俗館を勧めたのも、時間を稼ぐためだ」
理解した瞬間、腹が立った。
自分の好奇心まで利用された気がした。
「のこのこ言われたとおりに行って、俺は何やってんだ……」
「滝井さん」
森野の声は静かだった。
「あなたの責任ではありません」
「でも」
「相手が最初からあなたを騙すつもりだったのなら、気づけというほうが無理です」
正論だった。
それでも腹立たしさは消えない。
滝井は空になった保存箱を見つめた。
ただ、一つだけはっきりした。
あの男は、自分が『梅木伝承集』へ近づくことを嫌がった。
そして資料そのものを持ち去った。
そこには明確な意思がある。
「森野さん」
「はい」
「警察に連絡しましょう」
森野はすぐに頷いた。
「そのつもりです」
「防犯カメラも、指紋も。俺たちだけで触らないほうがいい」
「ええ」
森野はスマートフォンを取り出した。
滝井はもう一度、保存箱を見る。
誰かが市役所へ入り込み。
職員になりすまし。
自分を追い返し。
たった一冊の古い伝承集を持ち去った。
そこまでして。
何を隠したかったのか。
◇
数時間後。
梅木市役所の駐車場には、数台の警察車両が停まっていた。
夏の青空の下、白と黒の車体が妙に浮いて見える。
庁舎内では、市職員と警察官が慌ただしく行き来していた。
通りを歩く地元住民も、何事かと足を止める。
買い物袋を下げた女性。
自転車を押す老人。
制服姿の学生。
誰も近づこうとはしない。
ただ、不安そうな目を市役所へ向けている。
静かな町で、ここ数日、警察を見ることが増えた。
滝井にも、それが妙に気になった。
庁舎脇の日陰で、壁へ背を預ける。
事情はすでに説明した。
男の年齢。
服装。
眼鏡。
声。
歴史課で交わした会話。
分かる限り、すべて話した。
あとは警察の仕事だ。
「おお」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げる。
日に焼けた顔の警察官が立っていた。
刀墓古墳近くの現場で話した、あの男だった。
「……また会いましたね」
滝井は頭を掻いた。
「それはこっちの台詞だ」
警察官が呆れたように眉を下げる。
「俺は仕事でここにいるんだぞ。兄ちゃんは何やってる」
「旅行ライターです」
「どこがだよ」
「あはは……」
「笑い事じゃないぞ」
警察官の声が少し低くなった。
「今日はもう帰れ」
「でも、防犯カメラとか」
「見る」
「指紋も?」
「必要なら調べる」
「男の正体が――」
「兄ちゃん」
言葉を遮られた。
「こっから先は俺たちの仕事だ」
さっきまでの気さくな顔ではなかった。
「取材したいのは分かる。でもな」
一拍。
「今度は本当に、首突っ込みすぎるなよ」
滝井は返事をしなかった。
警察官も、それ以上は言わなかった。
やがて、庁舎から森野が出てきた。
「滝井さん」
「森野さん」
「今日はありがとうございました」
「いや。俺は結局、騙されただけで」
「それでもです」
森野は疲れたように笑った。
「明日、もう一度こちらへ来ていただけますか」
「もちろん」
「警察の確認結果も含め、分かったことがあればお伝えします。こちらでも資料の来歴や、過去の閲覧記録を確認してみます」
「お願いします」
滝井は頭を下げた。
「こちらこそ、今日はありがとうございました」
森野と別れ、市役所をあとにした。
◇
夕方。
ホテルへ向かう道には、まだ昼間の熱が残っていた。
日が傾き始め、家々の影だけが長く道路へ伸びている。
滝井は歩きながら、今日一日の出来事を何度も頭の中で反芻していた。
「あの男、誰なんだよ……」
答える者はいない。
「何でそこまでして、本一冊隠すんだ」
机に残された中島の名札。
空になった保存箱。
曇りガラスの向こうから、こちらを見送っていた細長い影。
思い返せば返すほど、新しい疑問が生まれる。
「ああー……イライラする。分かんねえ」
滝井は頭を掻きむしった。
こんなとき、普段の仕事ならまだ楽だった。
分からないことがあれば調べる。
人に聞く。
資料に当たる。
それでも分からなければ、「分からない」と書けばいい。
だが今回は違う。
誰かが、こちらが知ろうとすること自体を妨げている。
調べようとすれば、答えのほうから逃げていく。
それが何より腹立たしかった。
そのとき。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
ピロン。
BAINの通知だった。
画面を見る。
送り主は、昨夜のスナックのママ。
〈滝井ちゃーん。今日は来ないの?〉
滝井は立ち止まった。
「あ」
朝、今夜も店へ行こうと思っていたことを、すっかり忘れていた。
市役所。
偽中島。
盗まれた『梅木伝承集』。
警察。
今日一日で、頭の中はもう十分すぎるほど散らかっている。
「……行くか」
酒でも飲まなければ、やっていられなかった。
◇
夜。
スナックの扉を開ける。
からん、からん。
聞き慣れ始めたベルの音が、店内へ響いた。




