歴史課長
「……歴史課長?」
「はい」
森野大二は、先ほどと変わらぬ温和な笑みを浮かべていた。
滝井は手元の名刺へ、もう一度目を落とした。
梅木市役所歴史課、課長。
印刷された文字に見間違いはない。
「いや、驚きました」
「そんなに驚かれるような肩書きではありませんよ」
「俺、ついさっきまで歴史課にいたんです。そこで、あなたを探していた」
「そのようですね」
森野の笑みが、わずかに薄れた。
先ほど民俗館で、滝井はすでに『梅木伝承集』の閲覧を課長の指示で断られたと話している。
あのとき、一瞬だけ止まった刷毛。
そして、唐突にも思えた昼食への誘い。
どうやら、ただの偶然ではなかったらしい。
滝井が何かを尋ねるより先に、店員が二人分のだし巻き定食を運んできた。
盆の上には、湯気を立てるだし巻き玉子、白飯、味噌汁、それに小鉢のひじきが並んでいる。
「お待たせ。熱いうちに食べてね」
「ありがとうございます」
店員が厨房へ戻るのを待ち、森野は箸袋へ手を触れた。
しかし、箸は取り出さなかった。
「先ほどのお話ですが」
森野は声を落とした。
「私は『梅木伝承集』の閲覧を禁止していません」
「……え?」
「原本の状態が良くないのは事実です。自由に手に取っていただくことはできませんが、申請があれば、職員立ち会いのもとで閲覧できます。必要な箇所については複製資料も用意しています」
「じゃあ、俺が歴史課で聞いた話は?」
「それを確認するために、こちらへお誘いしました」
森野は窓の外へ一度目を向けた。
「民俗館で、職員の対応について詳しく尋ねるのも、少々具合が悪いと思いましてね」
「なるほど……」
滝井は、民俗館で見せた森野の反応をようやく理解した。
滝井には、地方都市の小さな民俗館など、外部の人間に知られて困る会話などないように思えた。だが、役所の管理職には、同僚や市民のいる場所で部下の話を始めることへの慎重さがあるのだろう。
森野は滝井の名刺を、テーブルの端へ丁寧に置いた。
「誰が応対しましたか」
「中島さんです。歴史課の窓口担当の」
「中島君が?」
「胸に名札を付けていました。昨夜、市のホームページでも名前を確認しています」
「どのような男でした?」
「五十歳前後でしょうか。痩せていて、銀縁眼鏡を掛けていました。少し頬がこけていて、体には大きめのシャツを着ていた」
森野は返事をしなかった。
指先を箸袋へ置いたまま、滝井の顔を見つめている。
店内には、天井の扇風機が回る音と、厨房で鍋を動かす音が流れていた。
「何か、おかしいんですか」
「その職員と会ったのは、今日のことですね?」
「一時間ほど前です」
「歴史課の窓口で?」
「そうです。旧庁舎の一番奥にある部屋でした」
「ほかに職員はいましたか」
滝井は記憶をたどった。
壁際の古地図。
棚に並んだ灰色のファイル。
複数の机と、空いた椅子。
「見た限りでは、その人だけでした」
「それで、民俗館へ行くよう勧められた?」
「ええ。一般向けの資料なら、こちらのほうが充実していると」
森野は短く息を吐いた。
「そうですか」
「森野さん。いったい何なんです?」
森野は、しばらく答えなかった。
やがて箸袋から手を離し、滝井へ向き直る。
「中島君は今日、休みです」
一瞬、森野の言葉が理解できなかった。
「休み?」
「ええ。家族の用事で、昨日のうちに有給休暇を申請しています」
「いや。でも俺は、確かに会いましたよ」
「何時頃ですか」
「十一時前です」
「その時間、中島君が市役所にいるはずはありません」
滝井は思わず笑いかけた。
冗談だと思いたかった。
だが、森野の顔には笑みがなかった。
「出勤予定が変わったとか」
「ありません。私は今朝、本人から届いた連絡も確認しています」
「じゃあ、同じ名字の別の職員では?」
「歴史課に中島は一人だけです」
滝井は手元の麦茶へ目を落とした。
グラスの表面についた水滴が、細い筋を作ってテーブルへ落ちていく。
「痩せた男性でした」
滝井はもう一度、確かめるように言った。
「五十歳前後で、銀縁眼鏡を掛けていた。頬が少しこけていて、着ているシャツが大きく見えました」
森野は眉間へ浅い皺を寄せた。
「それは、中島君ではありません」
「でも、名札には確かに中島と」
「中島君は、痩せてはいませんよ」
森野の口元に、困ったような笑みが浮かんだ。
「健康診断のたびに、ラーメンを控えろと言われているくらいです。本人は聞く耳を持ちませんがね」
普段なら笑える話だった。
しかし滝井の喉からは、乾いた息しか出なかった。
ホームページへ掲載されていた名前。
窓口の男が胸に付けていた名札。
それが一致していたから、滝井は疑わなかった。
顔写真が載っていたわけではない。
自分が知っていたのは、中島という名前だけだった。
「他部署から応援に来ていた職員が、名札を借りていたとか」
「他部署の人間が、中島君の名札を着けて歴史課の窓口へ座る理由がありません」
「職員証は?」
「職員証は首から下げる形式です。名札とは別です」
滝井は、歴史課にいた男の姿を頭の中で呼び戻そうとした。
胸元の白いプレートに気を取られ、その下まで注意して見ていなかった。
首には、何か掛かっていただろうか。
思い出せない。
「じゃあ……誰だったんですか」
森野は答えなかった。
滝井が初めて見る険しい顔で、机上の名刺を見つめている。
その沈黙の中で、滝井は歴史課を出る直前の光景を思い出した。
曇りガラスの向こうに立っていた、細長い影。
窓口へ戻るでもなく、こちらを見送るように動かなかった男。
滝井が目を凝らすと、その影は音もなく部屋の奥へ引っ込んだ。
あのときは、感じの悪い職員だと思っただけだった。
だが、本物の職員でなかったのなら。
あの男は、何のために滝井を見送っていたのか。
「歴史課には、防犯カメラはありますか」
滝井が尋ねた。
「廊下にはあります。執務室の中にはありませんが」
「なら、男が出入りするところは映っているはずですよね」
「確認できます」
森野は胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
しかし、すぐに電話をかけることはせず、画面を伏せたままテーブルへ置いた。
「その前に、覚えていることを整理しましょう」
「顔や服装ですか」
「それもあります。ただ、何を尋ね、相手がどう答えたか。できるだけ会話の順番どおりに聞かせてください」
「取材の聞き取りみたいですね」
「記憶というものは、後から考えを足すほど曖昧になりますから」
森野は市史編纂や文化財調査にも携わってきた人間なのだろう。発言や記録を扱うときの慎重さが、先ほどまでの気さくな老人とは違う顔をのぞかせていた。
滝井は取材ノートを取り出した。
旅行記事のために持ち歩いていたはずのノートへ、今度は自分自身が受けた応対を書き留める。
「最初に名刺を渡しました。男は社名と肩書きを見て、『東京から』と」
「あなたが旅行ライターだと知った」
「ええ。それから、刀墓古墳の案内板で『梅木伝承集』を知ったと話しました」
「刀墓の神女についても?」
「調べたいと言いました」
「そのとき、相手の様子に変化は?」
滝井は考えた。
「名刺を持っていた指が、一度止まりました」
「指が?」
「ほんの一瞬です。そのあと、『誰から聞いたのか』と、かなり早く聞き返された」
森野の目が細くなる。
「あなたは何と?」
「案内板と観光誌だと答えました。そうしたら、少し安心したように見えました」
「安心した」
「俺の思い込みかもしれません」
「構いません。今は、そう感じたことも含めて教えてください」
滝井は頷いた。
「そのあと、課長の指示で閲覧禁止だと。原本は劣化していて、複製も内容を再調査するまで公開できないと言われました」
「複製まで」
「取材申請を出すと言っても、許可されないと」
森野は小さく首を振った。
「その説明は事実ではありません。原本については扱いを制限していますが、複製資料の閲覧を止めたことはない」
「ずいぶん具体的な嘘ですね」
「ええ」
知らない人間がその場しのぎで口にしたにしては、役所の資料管理を思わせる言葉がそろいすぎている。
原本の劣化。
内容の再調査。
申請しても許可されない。
完全な出任せというより、真実の一部を使って作られた説明だった。
「庁舎の中に詳しい人間なんでしょうか」
「可能性はあります」
「歴史課の事情にも?」
「そこまでは、まだ何とも言えません」
森野は慎重に答えた。
だが、その横顔には、単なる悪戯では済まされないという警戒が表れていた。
「それから、民俗館を勧められました」
「なぜでしょうな」
「ここにある資料だけ見せて、帰らせたかったとか」
「少なくとも、一般公開されている資料からは、案内板以上の内容はほとんど分かりません」
その言い方から、森野自身も『梅木伝承集』の細部まで記憶しているわけではないことが分かった。
歴史課長とはいえ、市内の文化財や史料すべてを暗記しているわけではない。森野にとっても、あの資料は数ある郷土資料の一つなのだろう。
ただし、誰かが閲覧を阻止しようとしたことで、その意味は変わった。
「森野さんは、あの伝承に何か特別な心当たりがあるんですか」
「いいえ」
森野は首を振った。
「内容も、概要を知っている程度です。鎌倉期の神女伝承と、それに付随する絵巻が収められている。私が覚えているのは、そのくらいですよ」
「箱については?」
「先ほど申したとおりです。挿絵に描かれていたことは知っていますが、意味までは覚えていません」
森野は一度、言葉を切った。
「だからこそ、確認する必要が出てきました」
滝井も同感だった。
昨日までは、観光案内の片隅に載っている古い伝承だった。
今は、誰かが市職員へなりすましてまで隠そうとした資料になっている。
興味を持つなというほうが無理だった。
森野はスマートフォンを手に取った。
「食事を済ませたら、市役所へ戻りましょう」
「今から?」
「ええ。防犯カメラを確認します。庁舎管理の担当にも事情を説明しなければなりません」
「大ごとになりそうですね」
「市職員を名乗る人間が、庁舎内で来庁者へ虚偽の説明をしたんです。小さなことではありません」
口調は穏やかだったが、管理職としての苛立ちがかすかににじんでいた。
「それから、私の立ち会いで『梅木伝承集』を見ていただきます」
滝井は思わず身を乗り出した。
「いいんですか」
「もともと、閲覧を禁じてなどいませんから」
森野はそう言って、ようやく箸袋を開いた。
「ただ、状態の悪い資料です。指示には従ってください」
「もちろんです」
「撮影もできません」
「取材ノートへの記録は?」
「それは構いません」
滝井も箸を取った。
すっかり冷めかけただし巻きを口へ運ぶ。
噛むと、玉子の中から出汁が染み出した。
「うまい」
思わず声が漏れた。
「でしょう」
森野の顔に、わずかにいつもの笑みが戻った。
食事は旨かった。
それでも滝井の頭の中では、先ほどの会話が繰り返されていた。
中島の名札を付けた、痩せた男。
存在しない課長命令。
資料保存の事情を利用した、具体的な嘘。
そして、滝井を『梅木伝承集』から遠ざけようとした意図。
誰が、何のために。
男の正体は分からない。
だが、一つだけはっきりしたことがある。
滝井は、冷えた麦茶を飲み干した。
食事を終えれば、森野とともに市役所へ戻る。
今度こそ、本物の歴史課長の立ち会いで、『梅木伝承集』を開くために。




