箱の中の絵
民俗館へ向かう道は、市役所を出て間もなく細くなった。
新庁舎の周辺には銀行やドラッグストアが並んでいたが、二つ目の信号を曲がると、景色は急に古びていく。黒瓦の家々が低い軒を連ね、道路脇の水路には澄んだ水が流れていた。
家と家との隙間から、青々とした田畑が見える。
その向こうには、神体山が夏の霞に輪郭をぼかしていた。
滝井はスマートフォンの地図を確認した。
目的地まで、あと十二分。
炎天下を歩くには、微妙に遠い。
「こういうところに限って、バスが一時間に一本なんだよな」
独り言を漏らしながら、首から下げたカメラを背中側へ回す。
道の途中には、酒屋を改装したらしい喫茶店や、手延べ麺の木箱を積んだ古い商店があった。店先の日陰では、腰の曲がった老人が丸椅子へ座り、通り過ぎる滝井を珍しそうに眺めている。
観光客が集まる古墳や神社から、少し外れただけだった。
旅行記事では「歴史ある町並み」と一行でまとめられる風景にも、そこで暮らす者にとっては、洗濯物を干し、買い物へ行き、隣人と立ち話をする日常がある。
滝井は、軒先に吊るされた風鈴へカメラを向けた。
シャッターを一度だけ切る。
液晶画面を確認すると、風鈴の向こうに、赤い前掛けをした地蔵が小さく写り込んでいた。
「悪くない」
民俗館へ向かう途中だというのに、仕事の癖は抜けない。
撮影を終えて歩き出したとき、背後から自転車のベルが鳴った。
慌てて道の端へ寄る。
買い物籠へ葱を突き刺した老婦人が、滝井の横をゆっくりと通り過ぎた。
「暑いのに大変やねえ」
振り返りもせず、声だけを残していく。
「仕事なんで」
滝井が答えた頃には、自転車はもう先の角を曲がっていた。
そういう距離感も、地方の町らしかった。
◇
梅木市立民俗館は、住宅地と田畑の境目に建っていた。
平屋の木造建築で、白い漆喰壁と焦げ茶色の柱が、古い農家を思わせる。玄関脇には石臼と千歯扱きが置かれ、小さな看板に〈入館無料〉と記されていた。
立派な博物館を想像していた滝井は、少し足を止めた。
「民俗館っていうか、昔の家だな」
建物の前には駐車場が五台分あったが、停まっているのは軽自動車が一台だけだった。
玄関の引き戸には、手書きの紙が貼られている。
〈冷房故障中。ご迷惑をおかけします〉
「おいおい」
滝井は苦笑しながら引き戸を開けた。
からから、と乾いた音が鳴る。
中へ入ると、古い木と畳、それに防虫剤が混ざった匂いがした。
受付には、七十歳前後と思われる女性が座っている。扇風機の風に展示案内の紙をなびかせながら、眼鏡の奥で滝井を見上げた。
「見学ですか?」
「ええ。東京から来ました」
「あらまあ。こんな暑い日に」
女性は机の引き出しから、簡単な館内案内を取り出した。
「名前だけ、こちらに書いてください。入館料はいりません」
来館者名簿を見ると、今日の日付の欄には、すでに二人分の名前があった。
滝井は三人目として記入する。
「平日は静かなんですね」
「静かなんてもんじゃないですよ」
女性は笑った。
「一人も来ん日もあります。今日は大入り」
「三人で?」
「うちじゃ満員です」
冗談なのか本気なのか分からない口調だった。
滝井は取材ノートを取り出した。
「刀墓古墳の伝承を調べているんですが、関連する展示はありますか?」
「刀墓の?」
女性は少し考えてから、館内の奥を指した。
「郷土伝承の棚に、昔話をまとめた本があります。ただ、『梅木伝承集』そのものは置いてませんよ」
「やっぱり歴史課だけですか」
「そう聞いてます」
女性はそれ以上深く考える様子もなく、団扇で首元を扇いだ。
「古い話なら、奥に詳しい人がいるかもしれません」
「職員の方ですか?」
「いえ。よく来る人」
何とも曖昧な紹介だった。
◇
館内には、梅木周辺で使われていた農具や生活道具が所狭しと並んでいた。
木製の鋤。
煤で黒ずんだ釜。
繭から糸を取るための座繰り機。
竹で編まれた籠や、手回し式の脱穀機。
展示ケースの中には、古い簪や煙管、土地の豪族が使ったとされる椀が収められている。
どれも派手さはない。
だが、それを実際に使って暮らした者がいたと思えば、寺の宝物とは違う重みがあった。
滝井は説明札を読みながら、時折カメラを構えた。
旅の記事で民俗館を大きく取り上げることは少ない。読者の多くは、寺社や名物料理のほうを好む。
それでも、その土地の輪郭を知るには、こうした場所が一番手っ取り早かった。
人が何を食べ、何を恐れ、何を神へ願ってきたのか。
観光名所より、使い古された農具や祭具のほうが雄弁に語ることもある。
奥の展示室には、梅木地方の祭礼と信仰に関する資料が集められていた。
山の神へ供える木製の器。
雨乞いに使った太鼓。
家の入口へ吊るした魔除けの縄。
壁には、市内各地区に伝わる昔話の題名が一覧で掲示されている。
滝井は目で追った。
山中の隠れ里。
夜泣き石。
狐に嫁いだ娘。
蛇を祀る井戸。
そして、一番下に小さく、
〈刀墓の神女〉
と記されていた。
「あった」
すぐ横の棚には、郷土の昔話をまとめた冊子が並んでいる。
滝井は一冊ずつ背表紙を確認した。
『梅木のむかし話』
『子どもに伝える郷土の伝説』
『大和東南部の神々と祭礼』
該当しそうな本を開いてみる。
刀墓の神女について書かれていたのは、わずか数行だった。
鎌倉の頃、刀墓の地には美しき神女が住んでいた。
神女は白蛇を従え、その姿をみだりに覗くことを禁じた。
禁を破りし者には、神罰が下ったという。
「これだけか」
刀墓古墳の案内板や観光誌より、わずかに内容が増えただけだった。
白蛇を従える神女。
見ることを禁じる戒め。
禁を破った者への神罰。
男が握っていた蛇の抜け殻や、消えた所持品へ直接つながる情報はない。
滝井は隣の資料を手に取った。
こちらには、神女の姿を描いた白黒の挿絵が載っていた。
長い髪の少女。
足元の蛇。
その背後に控える、名も記されていない男。
ホテルの観光誌で見た絵と、ほとんど同じ構図だった。
ただ、原図に近いのか、背景は少し詳しく描かれている。
少女の後ろには、小さな祠のようなものがあった。
その前には、四角い箱が置かれている。
滝井は顔を近づけた。
「箱……?」
説明文には、何も触れられていない。
供物を納める箱かもしれない。
祭具の一つかもしれない。
だが、白蛇のすぐ近くに描かれていることが、妙に気になった。
滝井は冊子のページを撮影した。
液晶画面で拡大する。
箱の蓋には、細長いものが絡み合うような模様が刻まれている。
蛇にも見えた。
「おや。それが気になりますか」
背後から突然声を掛けられ、滝井は肩を震わせた。
振り返ると、一人の男が立っていた。
六十代半ばほどだろうか。
白髪交じりの髪をきちんと後ろへ流し、薄い半袖シャツに、使い込まれた革靴を履いている。温和そうな丸い顔と、少し垂れた目。
手には白い綿の手袋と、柔らかな刷毛を持っていた。
「ああ、すみません。驚かせましたか」
「ちょっとだけ」
滝井は胸を押さえた。
「こちらの職員さんですか?」
「いえいえ。勝手に手伝っているだけです」
男は笑い、展示ケースの角へ積もった埃を刷毛で払った。
「古い知り合いが勤めておりましてね。暇なときに来ては、展示を眺めているんです」
「ずいぶん詳しそうですね」
「詳しいというほどではありません。ただ、古いものが好きで」
男は滝井の首から下がったカメラへ目を向けた。
「観光の方ですか?」
「一応、仕事です」
滝井は名刺入れへ手を伸ばしかけたが、館内で会ったばかりの相手へ渡すのも大げさかと思い、途中で止めた。
「旅行雑誌のライターをしています。奈良特集の取材で来ました」
「ほう。東京から?」
「ええ」
「それはまた、こんな小さな館までよく来られましたな」
男は感心したように展示室を見回した。
「ここへ来る人は、一日に二人か三人ですよ。税金で維持されていなければ、とっくに閉まっているでしょう」
受付の女性と、ほとんど同じことを言う。
滝井は苦笑した。
「地元の人に愛されている、と記事には書いておきます」
「それはありがたい。ただし、愛されているのと利用されているのは別問題ですな」
「耳が痛いですね」
男は声を立てて笑った。
気さくな人物らしい。




