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名を借りる者

時計の針は、午後十一時半を回っていた。


 滝井総司はノートパソコンの画面に並んだ文章を上から読み返し、最後の句点を打った。


「……よし」


 奈良特集の原稿は、ひとまず形になった。


 東大寺。奈良公園。法隆寺。梅木名物のにゅうめん。写真の選定も済ませ、記事全体の流れも悪くない。


 ただし、刀墓古墳に関する部分だけは、途中から空白になっていた。


 旅行記事へ載せる情報なら、すでに十分そろっている。


 国内最古級の前方後円墳。邪馬台国との関係。池越しに望む神体山。読者の興味を引く材料には事欠かない。


 それでも、滝井は書き切れなかった。


 蛇の抜け殻を握り締めていた男が、刀墓古墳のそばで一太刀に斬られた。


 その抜け殻は、遺体から見つからなかった。


 そして刀墓古墳には、白い蛇を伴う神女の伝承が残されている。


 偶然だと切り捨てるには、出来すぎていた。


 気になり始めると、確かめずにはいられない。


 滝井は昔から、そういう性分だった。


 画面を最小化し、梅木市の公式サイトを開く。


 歴史課のページには、市内文化財の保護、発掘調査、郷土史編纂といった業務内容が並んでいた。問い合わせ先の欄には、担当者として一人の名前が載っている。


 中島。


「中島さんね」


 滝井は取材ノートの端へ名前を書き留めた。


 行政機関へ取材する際、最初に対応した職員の名前を控えておくのは習慣だった。後から電話をかけ直したとき、「先ほどの方」では話が通じないことがある。


 肝心の『梅木伝承集』について、閲覧方法の記載はなかった。


 明日、直接聞けばいい。


 滝井はパソコンを閉じ、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。


 プルタブを起こすと、静かな室内に小気味よい音が響く。


「今日は頑張ったからな」


 誰に言うでもなく呟き、最初の一口を飲んだ。


 原稿をひと区切りつけた後の酒は格別だった。


 少なくとも、その一杯を飲んでいる間だけは、締切も編集者の催促も、身元不明の死体も忘れられる。


 そう思っていたはずなのに。


 いつ眠りに落ちたのか、滝井には分からなかった。


     ◇


 目を覚ますと、時計は午前九時四十七分を指していた。


「おっと……」


 滝井は枕元のスマートフォンを手に取った。


 昨日のような着信はない。


 メッセージアプリにも、新しい通知は届いていなかった。


 誰にも起こされなかったことに安堵する一方で、わずかな物足りなさも覚えた。


 昨夜のスナックのママとは、知り合ってまだ二日しか経っていない。それでも、旅先で急に自分の名を呼ぶ人間ができたせいか、通知のない画面が妙に静かに見えた。


「今夜、また行ってみるか」


 そう呟きながら、滝井はベッドを抜け出した。


 シャワーを浴び、剃り残した顎の髭を指先で確かめる。きれいに剃るほどの相手でもない、と都合よく判断し、そのままシャツを羽織った。


 カメラバッグには、取材ノートと名刺入れを放り込む。


 今日は市役所へ行くだけだ。撮影する予定はないが、旅先では何が記事になるか分からない。


 旅行ライターにとって、カメラを置いて出掛けるのは、財布を忘れるのと同じくらい落ち着かなかった。


     ◇


 梅木市役所は、古い町並みには少し不釣り合いなほど新しかった。


 低層の庁舎には大きなガラス窓が並び、正面玄関の前には地元産の木材を使った長い庇が張り出している。広場には観光案内を兼ねた電子掲示板まで設置されていた。


「へえ。立派なもんだ」


 滝井は建物を見上げた。


 入口脇の説明板によれば、老朽化した旧庁舎を残しながら、新棟を増築したらしい。寺社や古民家の多い町並みに配慮し、内装の一部には市内で採れた杉材が使われているという。


 歴史の町らしい意匠ではある。


 とはいえ、観光地だから潤っていると単純には言い切れない。文化財は人を呼ぶ一方で、保存や管理にも金がかかる。


 観光記事には、なかなか載らない側面だった。


 自動扉を抜けると、冷房の効いた空気と紙の匂いが滝井を迎えた。


 住民票や税務関係の窓口には、市民が列を作っている。番号札を握った老人、子どもを抱いた母親、書類を覗き込みながら首を傾げる若い夫婦。


 いかにも市役所らしい光景だった。


 総合案内の脇に、各部署の場所を示す大きな案内板がある。


 滝井は指で順に追った。


「歴史課……あった」


 六番。


 矢印は新庁舎の奥ではなく、渡り廊下の先を示していた。


 表示に従って進むと、途中で床材が変わった。


 明るい木目調から、灰色の古い長尺シートへ。照明も少し暗くなり、天井には配管を隠した跡が残っている。


 渡り廊下の窓からは、中庭に据えられた小さな石組みが見えた。


 そこを越えると、旧庁舎だった。


 歴史課は、そのさらに奥にあるらしい。


「まあ、来る人は少ないか」


 文化財の相談や発掘に関する届け出はあっても、住民票の窓口ほど混む部署ではない。


 それでも、市の歴史を扱う課が建物の最奥へ押し込まれているように見えるのは、少し皮肉だった。


 廊下の突き当たりに、簡素なプレートが掛かっていた。


 六 歴史課


 滝井は引き戸を開けた。


「ごめんください」


 室内に人の気配はほとんどなかった。


 壁際には古地図や発掘現場の写真が掲示され、奥の書架には灰色のファイルが並んでいる。机は複数置かれているものの、椅子の大半は空いていた。


 窓口にいたのは、一人の男だけだった。


 五十歳前後だろうか。


 痩せた体に、少し大きめのワイシャツ。頬はこけ、細い銀縁眼鏡の奥から、滝井を値踏みするような目が向けられた。


 男は立ち上がらなかった。


「何か」


 声にも愛想がない。


「ここ、歴史課で合っていますよね」


「はい」


 男の胸元には、ネームプレートが付いていた。


 中島。


 昨夜、ホームページで確認した名前だった。


 滝井は名刺入れから一枚取り出し、窓口越しに差し出した。


「新光舎の滝井と申します。旅行雑誌の取材で梅木市に来ています」


 中島は名刺を受け取った。


 社名と肩書きを一度確認し、それから滝井へ視線を戻す。


「東京から」


「ええ。奈良特集の取材です」


「それで、歴史課に何のご用でしょう」


 言葉遣いは丁寧だったが、歓迎されている感じはしなかった。


「刀墓古墳へ行きましてね。案内板に『梅木伝承集』という資料が載っていたんです」


 中島の指が、名刺の端で止まった。


 ほんの一瞬だった。


「刀墓の神女について調べたいと思いまして。ここなら原資料を見られると聞いたんですが」


「誰からですか」


 聞き返し方が妙に早かった。


 滝井は少し面食らった。


「誰からというか、古墳の案内板と観光誌に書かれていました」


「ああ」


 中島は名刺を机へ置いた。


「そういうことですか」


 わずかに緊張が緩んだようにも見えたが、気のせいかもしれない。


「申し訳ありません。『梅木伝承集』は、現在閲覧できません」


「閲覧できない?」


「はい」


「修復中とか?」


「いいえ」


 中島は淡々と答えた。


「歴史課長の指示で、公開を停止しています」


 滝井は眉を上げた。


「課長さんの?」


「そうです」


「理由は伺えますか」


「資料保存上の問題です」


 回答は、あらかじめ用意されていたように滑らかだった。


「原本の劣化が進んでいます。複製についても、内容の再調査が必要との判断です」


「でも、観光誌には歴史課で保管していると」


「保管と公開は別です」


 中島の口調は変わらない。


 規則の説明というより、会話を終わらせようとしているように聞こえた。


「そこを何とか。原本でなくて、該当箇所の写しだけでも構いません」


「できません」


「取材申請書が必要なら書きますよ」


「申請されても、現在は許可されません」


 取り付く島がなかった。


 行政資料の公開が制限されること自体は珍しくない。個人情報や文化財保護上の問題、未整理資料の誤用を避ける目的など、理由はいくらでも考えられる。


 それでも、観光案内で存在を紹介しておきながら、窓口では一切見せないというのは妙だった。


「いつ頃、公開が再開されますか」


「未定です」


「課長さんと直接お話しすることは?」


「本日は不在です」


 中島はそこで初めて、机上の書類へ目を落とした。


 これ以上話すことはない。


 そんな意思表示だった。


 滝井は軽く息を吐いた。


「分かりました。残念ですが、規則なら仕方ない」


「申し訳ありません」


 少しも申し訳なさそうではなかった。


 滝井が名刺入れをしまおうとしたとき、中島が思い出したように口を開いた。


「民俗館へ行かれてはいかがですか」


「民俗館?」


「市立の民俗資料館です。一般公開されている郷土資料なら、あちらのほうが充実しています」


「刀墓の神女についても?」


「何かしらは分かるでしょう」


 先ほどまで断定的だった男が、急に曖昧な言い方をした。


 だが、滝井にはほかに当てがない。


「なるほど。その手がありましたか」


 滝井は笑顔を作った。


「中島さん、ありがとうございます」


 男は小さく会釈しただけだった。


 歴史課を出て、引き戸を閉める。


 廊下を数歩進んだところで、滝井は振り返った。


 曇りガラスの向こうに、中島の細長い影が見える。


 窓口へ戻るでもなく、立ったままこちらを見送っているようだった。


 滝井が目を凝らすと、影はゆっくりと奥へ引っ込んだ。


「……感じの悪い人だな」


 誰に聞かせるでもなく呟き、滝井は歩き出した。


 課長の指示ひとつで、公開されていた資料まで止められる。


 行政の仕組みに詳しいわけではないが、市役所の課長というのは、ずいぶん大きな権限を持っているらしい。


 滝井は、ふと思い出したように名刺入れを開いた。


 新光舎 旅行雑誌部

 部長 滝井総司


 肩書きだけを比べれば、課長より部長のほうが上である。


 だが、新光舎は小さな出版社だ。滝井に直属の部下はいない。取材先の手配も、経費精算も、締切に遅れた原稿の言い訳も、すべて自分でやる。


 一方、市役所の歴史課長は、その一声で資料の公開まで止められるらしい。


「肩書きじゃ、俺のほうが上なんだけどな……」


 呟いてから、余計に虚しくなった。


 部員のいない部長と、市の歴史を預かる課長。


 名刺に印刷された役職名だけでは、権限の大きさまでは分からないらしい。


 滝井は名刺をしまい、少しだけ肩を落とした。


 市役所を出ると、正午前の日差しがアスファルトを白く照らしていた。


 民俗館までは、歩いて二十分ほど。


 滝井はスマートフォンの地図を開き、示された道へ足を向けた。



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