刀墓の伝承
ニュースを見てから一時間後、滝井総司はホテルを出た。
昨夜のスナックのママには、すでに短い返信を送ってある。
『服装からして、たぶんママの言っていた男だと思う。俺も少し調べてみる』
送信したあとで、少し大げさだったかとも思った。
滝井は刑事でもなければ、事件記者でもない。ただの旅行ライターだ。土地の名物を食べ、景勝地の写真を撮り、読者が週末に足を運びたくなるような文章を書く。それが仕事だった。
それでも、男のことが頭から離れなかった。
財布もスマートフォンも持たず、今が何年なのかを尋ね、大和国という古い地名を口にした男。
そして、蛇の抜け殻を宝物のように握り締めていた男。
その男が今朝、遺体となって発見された。
偶然と言ってしまえば、それまでだ。
時代がかった服装を好む人間もいる。蛇の抜け殻を縁起物として持ち歩く者だって、探せばいるかもしれない。
だが、旅行先で妙なものを見つけたとき、理由を知りたくなるのが滝井の性分だった。
取材のため。
そう自分に言い聞かせながら、肩へカメラバッグを掛けた。
◇
梅木市は、奈良盆地の東南に位置する小さな町だった。
駅前には新しいマンションやコンビニが並ぶ一方、一本裏へ入れば格子戸の商家や黒瓦の民家が残っている。古いものが観光用に切り離されることなく、今の暮らしに混じっている町だった。
滝井は駅前で缶コーヒーを買い、二両編成のローカル線へ乗り込んだ。
列車が市街地を離れると、窓の外はほどなく田園へ変わった。
青い稲穂の間を細い農道が走り、その向こうには盆地を囲む低い山並みが連なっている。東には、地元で神体として拝まれてきた、なだらかな三角形の山が見えた。
千年前の人間も、同じ山を目印に歩いたのだろうか。
そう考えたところで、列車は小さな無人駅へ滑り込んだ。
ホームを降りると、蝉の声が一気に押し寄せてきた。
駅から数分歩けば住宅が途切れ、田畑が広がる。道端には赤い前掛けを掛けた地蔵が立ち、足元には新しい花が供えられていた。
滝井は何枚か写真を撮った。
やがて、田園の向こうに鬱蒼とした緑の塊が見えてきた。
刀墓古墳だった。
◇
古墳の南側には、周濠の名残といわれる大きな池が広がっていた。
池の堤へ上がると、水面を渡ってきた風が汗ばんだ額を撫でていく。葦の間には白鷺が立ち、遠くでは農機具の低い音が響いていた。
池の先には、樹木に覆われた刀墓古墳。
その背後には、先ほど車窓から見た神体山が立っている。
滝井はカメラを構え、水面の向こうに古墳と山を重ねてシャッターを切った。
悪くない。
昨日は夕方に訪れたため、古墳全体が黒い影のように写っていた。朝の光なら、木々の濃淡や池の色まで拾える。
もっとも、今日は光だけが違うのではなかった。
昨日までは、ただの観光地だった。
今は、人が殺された場所のすぐそばだ。
それだけで、風に揺れる木々までが、何かを隠すためにざわめいているように思えた。
滝井は堤を下り、古墳の周囲を歩いた。
全長は二百七十メートルを超えるという。
地上から見れば前方後円墳特有の形など分からない。ただ、田畑と住宅地の間に、森を載せた巨大な丘が横たわっているようにしか見えなかった。
「昔の人は、どうやってこんなものを造ったんだろうな……」
重機もない時代に土を掘り、運び、積み上げる。
数百人、あるいは数千人もの人間が、いくつもの季節を越えて働いたはずだ。
古墳の手前には、小さな拝所と案内板が設けられていた。
昨日も見たはずだが、写真を撮ることに気を取られ、文章まではまともに読んでいなかった。
滝井は飲みかけの缶コーヒーを脇へ置き、案内板へ顔を近づけた。
刀墓古墳の築造年代。
国内最古級の前方後円墳であること。
周辺から大規模な古代集落の跡が見つかっていること。
被葬者については諸説あり、邪馬台国の女王・卑弥呼と結びつける研究者もいること。
いずれも昨日調べた内容だった。
邪馬台国が近畿にあったとすれば、ここほど似つかわしい土地もないように滝井には思えた。
もっとも根拠を問われれば、この町の空気がそれらしいから、としか答えられない。記事に書けば、編集者から真っ先に削られる程度の説得力だった。
案内板を下まで読み進める。
最後の一段だけ、文字が一回り小さくなっていた。
『なお、鎌倉期以降、本古墳周辺には「刀墓の神女」にまつわる口伝が残されている。その詳細については、梅木市歴史課編纂『梅木伝承集』を参照されたい』
「刀墓の神女……?」
滝井は、その一文をもう一度読んだ。
案内板に土地の伝説や昔話が添えられていることは珍しくない。だが、普通なら簡単なあらすじくらいは記されている。
ここには、神女の伝承があるとしか書かれていない。
「なんだよ。ここまで書いたなら、あらすじくらい載せろよ」
滝井はスマートフォンを取り出し、メモアプリへ打ち込んだ。
【刀墓の神女/梅木伝承集/市役所歴史課】
卑弥呼の墓かもしれない古墳に、鎌倉時代の神女伝説。
うまくまとめられれば、観光記事の囲みコラムくらいにはなる。
そのときだった。
風に煽られ、黄色い規制線がぱたぱたと音を立てた。
古墳から一本離れた細い農道。
白い鑑識服を着た人間が地面へ屈み込み、その周囲を複数の警察官が行き来している。
昨夜のニュースで映っていた場所だった。
「あ……」
例の男が発見された現場。
滝井は規制線へ吸い寄せられるように足を向けた。
道路脇には証拠位置を示す番号札が置かれ、側溝の蓋が一部外されている。
野次馬はほとんどいなかった。時折、自転車で通りかかった地元の老人が、遠巻きに現場を眺めていくだけだった。
その中で、見覚えのある制服姿が振り向いた。
「おっ」
日に焼けた顔がほころぶ。
「昨日の兄ちゃんじゃねえか」
前日、梅木駅近くで滝井の財布を拾ってくれた警察官だった。
年齢は五十前後。腹回りには多少の貫禄があるが、目元には人のよさがにじんでいる。
「どうも。昨日は本当に助かりました」
滝井は頭を下げた。
「財布を落としたまま東京へ帰ってたら、編集部に何を言われるか」
「旅行ライターが旅先で無一文じゃ、記事どころじゃないな」
「まったくです」
「次から首に下げとけ」
「小学生の財布みたいになりますよ」
二人は小さく笑った。
だが、規制線の向こうからカメラのシャッター音が聞こえると、警察官の表情はすぐに戻った。
滝井も声を落とす。
「ニュース、見ました」
「ああ」
「ここだったんですね」
「朝からこの騒ぎだ。まったく、厄介なことになったよ」
「殺人なんですか?」
警察官は一瞬だけ周囲へ目をやった。
「詳しいことは言えん」
それから声をわずかに低くする。
「ただ、刃物でやられたのは間違いない。見たところ、傷は一つだ」
「一つ?」
「深い一太刀らしい。今どき、時代劇でもあるまいし」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。
滝井は規制線の向こうへ視線を向けた。
片側には水田。
反対側には、古墳へ続く木立。
夜になれば街灯も少ないだろう。
そんな場所で、鎌倉時代の人間のような格好をした男が、一太刀で殺された。
「被害者は、着物みたいな服だったんですよね」
「小袖と袴に見えるものだ。だいぶ汚れていたがな」
「観光客でしょうか」
「この辺りじゃ、寺や神社を回るのに着物を借りる人間もいる。衣装だけなら、そこまで珍しくはない」
警察官は腕を組んだ。
「ただ、身元の分かるものは何もなかった。財布もなければ免許証もない。携帯電話も持っていない。服にも製造元を示す札が付いていなかったらしい」
「財布も?」
「ない」
「スマートフォンも?」
「ないな」
そこまでは、昨夜ママから聞いた話と一致している。
滝井は一瞬迷ったあと、何気ない口調を装って尋ねた。
「じゃあ……蛇の抜け殻は持っていませんでしたか?」
「蛇の抜け殻?」
警察官は怪訝そうに眉を寄せた。
「なんだそれ。そんなもの持ってなかったぞ」
その言葉を聞いた瞬間、昨夜のママの声が鮮明に蘇った。
『蛇の抜け殻みたいなものを、ずっと大事そうに握ってたのよ』
『気持ち悪いから捨てようかって言ったら、えらい怒ってね。絶対に触るなって、取り返すみたいに握り締めてたの』
財布もスマートフォンも持っていなかった男が、ただ一つ、手放そうとしなかったもの。
それが遺体からは見つかっていない。
「……そんなに大事にしてたものまで、手放すか?」
滝井は、ほとんど無意識に呟いていた。
「ん?」
警察官が顔を覗き込む。
「今、何か言ったか?」
「ああ、いや。何でもないです」
滝井は曖昧に笑ってごまかした。
警察官は疑わしそうに滝井を見たが、それ以上は追及しなかった。
「取材だからって、あまり近づくなよ」
規制線を顎で示す。
「旅先の珍事件じゃない。人が一人、死んでる」
滝井は答えるまでに一拍を要した。
「……分かっています」
警察官はそれ以上何も言わず、規制線の内側へ戻っていった。
滝井も現場を離れる。
しかし、歩けば歩くほど、胸の奥へ違和感が沈んでいった。
事故で落としたのか。
どこかへ置き忘れたのか。
それとも、男を殺した人間が持ち去ったのか。
だが、何のために。
蛇の抜け殻など、金になるはずもない。
滝井は振り返った。
規制線の向こうで、鑑識員が側溝の中を調べている。
そのさらに奥には、刀墓古墳の森が黒々と横たわっていた。
◇
帰り道、滝井は駅前の古い食堂へ入った。
出汁の匂いを嗅いだところで、朝から何も食べていなかったことを思い出したのだ。
注文したのは、梅木名物のにゅうめんだった。
透き通った汁の中に細い麺が沈み、椎茸と蒲鉾、三つ葉が添えられている。
一口啜ると、温かい出汁が二日酔いの胃へ染み込んだ。
「うま……」
こういう小さな発見を記事にすればいい。
旅先の名物を食べ、その由来を調べ、読者が現地へ足を運びたくなる文章へ仕立てる。
それが本来の仕事だった。
死人が持っていた蛇の抜け殻が消えた理由を考えることではない。
滝井はそう思いながらも、食堂を出る頃には、警察官との会話を取材ノートへ書き留めていた。
◇
ホテルへ戻ると、冷房の乾いた空気が汗ばんだ肌を冷やした。
滝井は机へノートパソコンを置き、撮影した写真を取り込んだ。
朝の池。
田園の向こうを走る列車。
巨大な森のように横たわる刀墓古墳。
写真だけを見れば、穏やかな土地だった。
だが、そのすぐそばでは今朝、一人の男が死んでいた。
滝井は新しい文書を開き、仮の見出しを打ち込んだ。
『古代国家誕生の謎を秘める、梅木・刀墓古墳を歩く』
無難だ。
無難すぎる。
文章を書き始めようとするが、指はキーボードの上で止まったままだった。
頭に浮かぶのは、記事の構成ではない。
蛇の抜け殻は、なぜ消えたのか。
そればかりだった。
「集中できねえ……」
椅子の背へ体重を預けたとき、ベッド脇の観光誌が目に入った。
ホテルのロビーから持ってきた、梅木市の無料冊子だった。
滝井は何となくページをめくった。
寺院、古道、名物料理。
やがて、刀墓古墳の紹介ページが現れた。
内容は現地の案内板と大きく変わらない。
ただし、ページの下部に小さな囲み記事が設けられていた。
『刀墓古墳に残る、もう一つの物語』
『梅木地方には、鎌倉時代に記録されたとされる「刀墓の神女」の伝承が残されています。現在知られる内容は断片的であり、詳細については梅木市歴史課編纂『梅木伝承集』をご参照ください』
「また伝承集か」
囲み記事の隣には、古い絵巻を模した挿絵が掲載されていた。
長い黒髪の少女。
その足元で身をくねらせる白い蛇。
少女から半歩下がったところには、顔を伏せた男が一人描かれている。説明文に名はなく、両手を前で重ね、少女と蛇を見守っていた。
滝井の目は、白い蛇へ吸い寄せられた。
「蛇……」
昨夜の男。
その男が握っていた抜け殻。
遺体からは見つからなかった抜け殻。
そして、刀墓古墳に伝わる、蛇を伴った少女の伝承。
偶然。
そう片付けることもできる。
だが、偶然という言葉は二つまでなら便利だった。
三つ重なれば、それはもう、調べる価値のある符合になる。
ページの末尾には、小さな注釈があった。
『本挿絵は『梅木伝承集』所収「刀墓縁起絵巻」の一部を、観光用に再構成したものである。原資料は梅木市歴史課が保管している』
滝井はスマートフォンでページを撮影した。
続けて、梅木市役所のウェブサイトを開く。
歴史課。
文化財保護、発掘調査、市史編纂。
明日は休暇二日目だ。
特に予定はない。
「……行ってみるか」
記事のため。
取材のため。
そう理由をつけることは簡単だった。
だが、今度こそ滝井は自覚していた。
自分はもう、観光記事の追加資料を集めているのではない。
蛇の抜け殻を追っている。
そして、それを持っていた名も知れぬ男が、なぜ死ななければならなかったのかを知ろうとしていた。




