旅の終わりに
滝井総司は、ファインダー越しに大仏殿を見上げた。
晩夏の日差しを受けた木組みが、黒々とした陰影を落としている。画面の中央に建物を収め、露出をわずかに下げる。試しに一枚撮ると、乾いたシャッター音が境内のざわめきに紛れた。
悪くない。
続けて角度を変え、観光客の流れが途切れた瞬間を狙う。正面から一枚。軒下を強調して一枚。空を広く取って、もう一枚。
今日だけで撮影した写真は、すでに三百枚を超えていた。
東大寺の荘厳さに圧倒され、奈良公園では鹿に取材メモを食われかけ、法隆寺では千年以上残り続ける木材の匂いに妙な感慨を覚えた。
旅行は好きだった。
知らない町を歩き、その土地でしか食べられないものを口にし、地元の人間から話を聞く。カメラを向ければ、ありふれた風景の中にも、その場所にしかない表情が見えてくる。
問題は、それを文章にしなければならないことだった。
滝井はカメラの電源を切り、肩に掛けたバッグへしまった。
奈良特集の取材は、これでほぼ終わりだ。
あとは写真を選び、取材メモを整理し、編集部が喜びそうな見出しを考え、締切までに原稿へ落とし込む。それが仕事なのだから当然なのだが、旅を終えたあとの原稿ほど気の重いものはない。
安月給ではある。
それでも、会社の机に一日中座っているよりは性に合っていた。
奈良市内での撮影を終えた滝井は、その日の夕方、県南部へ向かう電車に乗った。
今回の奈良特集、その最後の取材地が梅木市だった。
奈良盆地の東南に位置する、小さな町である。
派手な観光施設があるわけではない。駅前には古びた商店街が延び、少し歩けば低い家並みの向こうに山が見える。田畑の間を細い道路が走り、夕方になると、どこからともなく土と草の匂いが漂ってきた。
その町の外れに、日本最古級の前方後円墳とされる刀墓古墳がある。
築造年代は三世紀後半。
被葬者については諸説あり、一部では邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかともいわれている。学術的に確定した話ではないが、旅行記事の題材としては申し分なかった。
滝井は午後のうちに古墳を訪れ、周囲の田園や、木々に覆われた墳丘を撮影していた。
巨大な墓であるにもかかわらず、不思議なほど静かな場所だった。
近くを車が通り、遠くでは農機具の音もしていた。それでも古墳の周囲だけは、外界から薄い膜で隔てられているように感じられた。
もっとも、その感覚も記事にする頃には、
〈古代の記憶を今に伝える、神秘的な空間〉
などという無難な文章に変わるのだろう。
夜。
滝井は、その原稿を書くという重要な仕事を放棄し、駅から少し離れたスナックの扉を開けた。
入口のベルが、からんからん、と軽い音を立てる。
「いらっしゃーい」
カウンターの奥から、よく通る女性の声が飛んできた。
店内は、滝井がこれまで地方取材で何度も目にしてきた、いわゆる昔ながらのスナックだった。
壁際の棚には、名前の書かれたボトルが所狭しと並んでいる。赤や紫の照明がグラスをぼんやりと照らし、奥には使い込まれたカラオケ機器が置かれていた。
カウンターにいたのは、五十代半ばほどの女性だった。明るい色のブラウスに、少し派手なイヤリング。髪は高めにまとめられている。
「あら。初めてのお客さんよね?」
「分かります?」
「そりゃ分かるわよ。この町、狭いんだから」
女性は笑いながら、おしぼりを差し出した。
「仕事で来たの?」
「ええ。旅行雑誌のライターをしてまして。奈良特集の取材です」
「あら、そうなの」
女性は感心したように目を丸くしたあと、すぐに首を傾げた。
「でも、この町に記事になるようなものなんてあった?」
「ありますよ。刀墓古墳」
「ああ、やっぱりそこね」
ママは納得したように頷いた。
「日本で一番古い古墳なんでしょう?」
「正確には最古級の前方後円墳ですね。卑弥呼の墓じゃないかって説もあるみたいです」
「そうそう、それよ。私たちの頃なんて、社会見学といえば刀墓古墳だったんだから。ありがたみなんて全然なかったわよ。暑いし、蚊は多いし」
「あはは。地元の人は、そんなものかもしれませんね」
滝井はビールを注文した。
最初の一杯を飲み干す頃には、二人の会話から敬語が消え始めていた。
地元の名物料理。
駅前に昔あった映画館。
近所の酒屋の息子が東京へ出たまま帰ってこない話。
ママはよく喋ったが、相手の話もよく聞いた。滝井が取材先で出会った変わった宿の話をすると、声を上げて笑った。
地方で仕事を終えたあと、知らない店に入り、地元の人間と取り留めのない話をする。
滝井にとって、それは旅先での密かな楽しみだった。
「それにしても、この店、ボトルの数すごいね」
滝井は棚を見渡した。
「やっぱり、ほとんど常連さん?」
「そうねえ。この店は常連さんに支えられてるようなものだから」
ママは棚の一本を取り、ラベルについた埃を指先で払った。
「でも、たまには滝井ちゃんみたいに、ふらっと入ってくる人もいるわよ」
「へえ」
「この前もね、変わった人が来たのよ」
ママの口調は、それまでと変わらなかった。
ただ、ボトルを棚へ戻す手が、わずかに止まった。
「変わった人?」
「うん。スマホどころか、お財布も持ってなかったの」
「それ、単に無銭飲食じゃないの?」
滝井が笑うと、ママも「私も最初はそう思ったのよ」と笑い返した。
「でもねえ、ちょっと様子がおかしかったの」
「酔ってたとか?」
「お酒を飲む前からよ。店に入ってきて、しばらく電気を見上げてたの。眩しい、眩しいって」
「田舎から来た人?」
「梅木より田舎って、どこよ」
「山の中とか」
「それでね、ここは大和国かって聞くのよ」
滝井はグラスを口元で止めた。
「大和国?」
「そう。梅木市ですよって言ったら、そんな地名は知らないって」
「歴史好きのコスプレイヤーじゃない?」
「私もそう思ったわよ。服装も変だったし」
「どんな?」
「着物っていうのかしら。時代劇の下っ端みたいな格好。汚れた上着に、袴みたいなのを穿いてて。靴じゃなくて草履みたいなの」
「本格的だな」
「それで、今は何年だって聞くのよ」
「何年?」
「そう。今年は何年だ、って」
ママは当時の男を真似るように、低い声を出した。
「令和八年よって教えたら、分からないって顔してた」
「酔っ払いじゃなくて?」
「だから、まだ飲んでないとき」
滝井は小さく笑った。
少し手の込んだ悪ふざけか、何かの撮影だったのだろう。そう考えるのが自然だった。
「興福寺まで、歩いて何刻かかるとも聞かれたわ」
「刻?」
「電車で行ったらって教えたんだけど、電車って何だって聞き返されて」
「設定を守り切ってたんだな」
「そうなのかしらねえ」
ママは笑ったものの、どこか腑に落ちない顔をしていた。
「それに、妙なものを持ってたのよ」
「妙なもの?」
「蛇の抜け殻みたいなもの」
滝井は眉を上げた。
「抜け殻?」
「そう。長いやつじゃなくて、手のひらに収まるくらいの。ずっと大事そうに握ってたのよ」
「財布はないのに?」
「気持ち悪いから捨てようかって言ったら、ものすごく怒ってね。あんなに必死になるようなものかしら」
「蛇好きだったんじゃない?」
「蛇好きが抜け殻を握ってスナックに来る?」
「世の中にはいろんな趣味の人がいるから」
「嫌だわ、そんな趣味」
ママは肩をすくめた。
「結局、お金がないっていうからツケにして帰したの。名前もちゃんと聞けなかったけど」
「太っ腹だね」
「困ってる人を放り出すわけにもいかないでしょう」
滝井はグラスを置き、少し考えるふりをした。
「実は俺も、江戸時代から来たんだけど」
「こらっ」
ママが丸めたおしぼりを投げてきた。
滝井は身をかわし、声を上げて笑った。
そのときは、本当にただの笑い話だった。
妙な格好をした、金のない男。
何か事情があったのかもしれないが、旅先で聞く奇人変人の話としては、そう珍しいものでもない。
結局、滝井は店が閉まる時間まで居座った。
店を出ると、夏の名残を含んだ夜風が頬に触れた。
「滝井ちゃーん、今日はありがとうね」
入口まで見送りに出たママが手を振る。
「こっちこそ。また来るよ」
「原稿、ちゃんと書くのよ」
「善処します」
「それ、やらない人の言い方じゃない」
ママの笑い声を背中で聞きながら、滝井はホテルへ向かった。
途中のコンビニで缶チューハイとつまみを買った。
もう十分に飲んでいたが、旅先のホテルへ帰ると、なぜかもう一本だけ飲みたくなる。
部屋に戻り、撮影した写真をノートパソコンへ取り込んだ。
大仏殿。鹿。五重塔。古い町並み。そして夕暮れの刀墓古墳。
墳丘を覆う木々が黒い塊となり、背後の空だけが淡い朱色に染まっていた。
構図としては悪くない。
だが、記事の冒頭に置くには少し暗すぎるかもしれない。
そんなことを考えながら缶を開け、ベッドへ腰を下ろした。
明日から数日間は休暇を取っている。
奈良の別の観光地を回るのもいい。足を延ばして和歌山へ向かうのも面白そうだった。
原稿のことは、そのあと考えればいい。
いつ眠りに落ちたのかは覚えていなかった。
電子音が、浅い眠りを引き裂いた。
ピロン、ピロン。
枕元でスマートフォンが震えている。
「……ん」
滝井は布団の中から腕を伸ばした。
カーテンの隙間から、朝の白い光が差し込んでいる。画面を顔の前へ持ち上げると、時刻は午前七時三十分だった。
「誰だよ、こんな時間に……」
通知は、メッセージアプリ〈BAIN〉からだった。
送り主の名前を見て、滝井は目を細めた。
昨夜のスナックのママ。
「そういや……交換したっけか」
酒のせいで、昨夜の後半は記憶が曖昧だった。
メッセージを開く。
〈滝井ちゃん!! 例の男の人! 事件になってる! ニュース見て!〉
「男?」
一瞬、誰のことか分からなかった。
だが、昨夜の会話が徐々に蘇ってくる。
財布もスマホも持っていなかった男。
今が何年かと尋ねた男。
蛇の抜け殻を、片時も手放そうとしなかった男。
滝井はベッドから起き上がり、リモコンを探した。
テレビをつける。
ちょうど朝のニュース番組が、県内の事件を報じているところだった。
『――きょう未明、梅木市刀墓町の路上で、男性が倒れているのを新聞配達員が発見し、警察へ通報しました』
画面に、規制線の張られた細い道路が映る。
見覚えのある風景だった。
刀墓古墳へ向かう途中、滝井も通った道だ。
『男性は現場で死亡が確認されました。年齢は三十代から四十代とみられ、氏名や職業は分かっていません』
画面が切り替わり、イラストで男の服装が示される。
『男性は小袖と袴に似た衣服を着用しており、身元を確認できる所持品はなかったということです。警察は男性の身元の確認を急ぐとともに、死亡した経緯を調べています』
滝井はベッドの端に座ったまま、画面を見つめた。
「おいおい……」
昨夜、ママから聞いた男に間違いなかった。
滝井はBAINを開き、返信を打った。
〈ママ、昨日はありがとう。服装からして、話してた男だよね。これはちょっと洒落にならないな〉
送信したあとも、滝井の指は画面の上で止まっていた。
スマホも財布も持たず、今が何年かを尋ね、大和国という古い呼び名を口にした男。
そして、蛇の抜け殻を握りしめていた。
昨夜までは笑い話だった。
だが、もう笑えない。
滝井は再びテレビへ目を向けた。
ニュース映像の背後には、朝靄に沈む刀墓古墳の森が映り込んでいた。
休暇初日の予定は、その瞬間に決まった。




