↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/13

旅の終わりに

滝井総司は、ファインダー越しに大仏殿を見上げた。


 晩夏の日差しを受けた木組みが、黒々とした陰影を落としている。画面の中央に建物を収め、露出をわずかに下げる。試しに一枚撮ると、乾いたシャッター音が境内のざわめきに紛れた。


 悪くない。


 続けて角度を変え、観光客の流れが途切れた瞬間を狙う。正面から一枚。軒下を強調して一枚。空を広く取って、もう一枚。


 今日だけで撮影した写真は、すでに三百枚を超えていた。


 東大寺の荘厳さに圧倒され、奈良公園では鹿に取材メモを食われかけ、法隆寺では千年以上残り続ける木材の匂いに妙な感慨を覚えた。


 旅行は好きだった。


 知らない町を歩き、その土地でしか食べられないものを口にし、地元の人間から話を聞く。カメラを向ければ、ありふれた風景の中にも、その場所にしかない表情が見えてくる。


 問題は、それを文章にしなければならないことだった。


 滝井はカメラの電源を切り、肩に掛けたバッグへしまった。


 奈良特集の取材は、これでほぼ終わりだ。


 あとは写真を選び、取材メモを整理し、編集部が喜びそうな見出しを考え、締切までに原稿へ落とし込む。それが仕事なのだから当然なのだが、旅を終えたあとの原稿ほど気の重いものはない。


 安月給ではある。


 それでも、会社の机に一日中座っているよりは性に合っていた。


 奈良市内での撮影を終えた滝井は、その日の夕方、県南部へ向かう電車に乗った。


 今回の奈良特集、その最後の取材地が梅木市だった。


 奈良盆地の東南に位置する、小さな町である。


 派手な観光施設があるわけではない。駅前には古びた商店街が延び、少し歩けば低い家並みの向こうに山が見える。田畑の間を細い道路が走り、夕方になると、どこからともなく土と草の匂いが漂ってきた。


 その町の外れに、日本最古級の前方後円墳とされる刀墓古墳がある。


 築造年代は三世紀後半。


 被葬者については諸説あり、一部では邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかともいわれている。学術的に確定した話ではないが、旅行記事の題材としては申し分なかった。


 滝井は午後のうちに古墳を訪れ、周囲の田園や、木々に覆われた墳丘を撮影していた。


 巨大な墓であるにもかかわらず、不思議なほど静かな場所だった。


 近くを車が通り、遠くでは農機具の音もしていた。それでも古墳の周囲だけは、外界から薄い膜で隔てられているように感じられた。


 もっとも、その感覚も記事にする頃には、


〈古代の記憶を今に伝える、神秘的な空間〉


 などという無難な文章に変わるのだろう。


 夜。


 滝井は、その原稿を書くという重要な仕事を放棄し、駅から少し離れたスナックの扉を開けた。


 入口のベルが、からんからん、と軽い音を立てる。


「いらっしゃーい」


 カウンターの奥から、よく通る女性の声が飛んできた。


 店内は、滝井がこれまで地方取材で何度も目にしてきた、いわゆる昔ながらのスナックだった。


 壁際の棚には、名前の書かれたボトルが所狭しと並んでいる。赤や紫の照明がグラスをぼんやりと照らし、奥には使い込まれたカラオケ機器が置かれていた。


 カウンターにいたのは、五十代半ばほどの女性だった。明るい色のブラウスに、少し派手なイヤリング。髪は高めにまとめられている。


「あら。初めてのお客さんよね?」


「分かります?」


「そりゃ分かるわよ。この町、狭いんだから」


 女性は笑いながら、おしぼりを差し出した。


「仕事で来たの?」


「ええ。旅行雑誌のライターをしてまして。奈良特集の取材です」


「あら、そうなの」


 女性は感心したように目を丸くしたあと、すぐに首を傾げた。


「でも、この町に記事になるようなものなんてあった?」


「ありますよ。刀墓古墳」


「ああ、やっぱりそこね」


 ママは納得したように頷いた。


「日本で一番古い古墳なんでしょう?」


「正確には最古級の前方後円墳ですね。卑弥呼の墓じゃないかって説もあるみたいです」


「そうそう、それよ。私たちの頃なんて、社会見学といえば刀墓古墳だったんだから。ありがたみなんて全然なかったわよ。暑いし、蚊は多いし」


「あはは。地元の人は、そんなものかもしれませんね」


 滝井はビールを注文した。


 最初の一杯を飲み干す頃には、二人の会話から敬語が消え始めていた。


 地元の名物料理。


 駅前に昔あった映画館。


 近所の酒屋の息子が東京へ出たまま帰ってこない話。


 ママはよく喋ったが、相手の話もよく聞いた。滝井が取材先で出会った変わった宿の話をすると、声を上げて笑った。


 地方で仕事を終えたあと、知らない店に入り、地元の人間と取り留めのない話をする。


 滝井にとって、それは旅先での密かな楽しみだった。


「それにしても、この店、ボトルの数すごいね」


 滝井は棚を見渡した。


「やっぱり、ほとんど常連さん?」


「そうねえ。この店は常連さんに支えられてるようなものだから」


 ママは棚の一本を取り、ラベルについた埃を指先で払った。


「でも、たまには滝井ちゃんみたいに、ふらっと入ってくる人もいるわよ」


「へえ」


「この前もね、変わった人が来たのよ」


 ママの口調は、それまでと変わらなかった。


 ただ、ボトルを棚へ戻す手が、わずかに止まった。


「変わった人?」


「うん。スマホどころか、お財布も持ってなかったの」


「それ、単に無銭飲食じゃないの?」


 滝井が笑うと、ママも「私も最初はそう思ったのよ」と笑い返した。


「でもねえ、ちょっと様子がおかしかったの」


「酔ってたとか?」


「お酒を飲む前からよ。店に入ってきて、しばらく電気を見上げてたの。眩しい、眩しいって」


「田舎から来た人?」


「梅木より田舎って、どこよ」


「山の中とか」


「それでね、ここは大和国かって聞くのよ」


 滝井はグラスを口元で止めた。


「大和国?」


「そう。梅木市ですよって言ったら、そんな地名は知らないって」


「歴史好きのコスプレイヤーじゃない?」


「私もそう思ったわよ。服装も変だったし」


「どんな?」


「着物っていうのかしら。時代劇の下っ端みたいな格好。汚れた上着に、袴みたいなのを穿いてて。靴じゃなくて草履みたいなの」


「本格的だな」


「それで、今は何年だって聞くのよ」


「何年?」


「そう。今年は何年だ、って」


 ママは当時の男を真似るように、低い声を出した。


「令和八年よって教えたら、分からないって顔してた」


「酔っ払いじゃなくて?」


「だから、まだ飲んでないとき」


 滝井は小さく笑った。


 少し手の込んだ悪ふざけか、何かの撮影だったのだろう。そう考えるのが自然だった。


「興福寺まで、歩いて何刻かかるとも聞かれたわ」


「刻?」


「電車で行ったらって教えたんだけど、電車って何だって聞き返されて」


「設定を守り切ってたんだな」


「そうなのかしらねえ」


 ママは笑ったものの、どこか腑に落ちない顔をしていた。


「それに、妙なものを持ってたのよ」


「妙なもの?」


「蛇の抜け殻みたいなもの」


 滝井は眉を上げた。


「抜け殻?」


「そう。長いやつじゃなくて、手のひらに収まるくらいの。ずっと大事そうに握ってたのよ」


「財布はないのに?」


「気持ち悪いから捨てようかって言ったら、ものすごく怒ってね。あんなに必死になるようなものかしら」


「蛇好きだったんじゃない?」


「蛇好きが抜け殻を握ってスナックに来る?」


「世の中にはいろんな趣味の人がいるから」


「嫌だわ、そんな趣味」


 ママは肩をすくめた。


「結局、お金がないっていうからツケにして帰したの。名前もちゃんと聞けなかったけど」


「太っ腹だね」


「困ってる人を放り出すわけにもいかないでしょう」


 滝井はグラスを置き、少し考えるふりをした。


「実は俺も、江戸時代から来たんだけど」


「こらっ」


 ママが丸めたおしぼりを投げてきた。


 滝井は身をかわし、声を上げて笑った。


 そのときは、本当にただの笑い話だった。


 妙な格好をした、金のない男。


 何か事情があったのかもしれないが、旅先で聞く奇人変人の話としては、そう珍しいものでもない。


 結局、滝井は店が閉まる時間まで居座った。


 店を出ると、夏の名残を含んだ夜風が頬に触れた。


「滝井ちゃーん、今日はありがとうね」


 入口まで見送りに出たママが手を振る。


「こっちこそ。また来るよ」


「原稿、ちゃんと書くのよ」


「善処します」


「それ、やらない人の言い方じゃない」


 ママの笑い声を背中で聞きながら、滝井はホテルへ向かった。


 途中のコンビニで缶チューハイとつまみを買った。


 もう十分に飲んでいたが、旅先のホテルへ帰ると、なぜかもう一本だけ飲みたくなる。


 部屋に戻り、撮影した写真をノートパソコンへ取り込んだ。


 大仏殿。鹿。五重塔。古い町並み。そして夕暮れの刀墓古墳。


 墳丘を覆う木々が黒い塊となり、背後の空だけが淡い朱色に染まっていた。


 構図としては悪くない。


 だが、記事の冒頭に置くには少し暗すぎるかもしれない。


 そんなことを考えながら缶を開け、ベッドへ腰を下ろした。


 明日から数日間は休暇を取っている。


 奈良の別の観光地を回るのもいい。足を延ばして和歌山へ向かうのも面白そうだった。


 原稿のことは、そのあと考えればいい。


 いつ眠りに落ちたのかは覚えていなかった。


 電子音が、浅い眠りを引き裂いた。


 ピロン、ピロン。


 枕元でスマートフォンが震えている。


「……ん」


 滝井は布団の中から腕を伸ばした。


 カーテンの隙間から、朝の白い光が差し込んでいる。画面を顔の前へ持ち上げると、時刻は午前七時三十分だった。


「誰だよ、こんな時間に……」


 通知は、メッセージアプリ〈BAIN〉からだった。


 送り主の名前を見て、滝井は目を細めた。


 昨夜のスナックのママ。


「そういや……交換したっけか」


 酒のせいで、昨夜の後半は記憶が曖昧だった。


 メッセージを開く。


〈滝井ちゃん!! 例の男の人! 事件になってる! ニュース見て!〉


「男?」


 一瞬、誰のことか分からなかった。


 だが、昨夜の会話が徐々に蘇ってくる。


 財布もスマホも持っていなかった男。


 今が何年かと尋ねた男。


 蛇の抜け殻を、片時も手放そうとしなかった男。


 滝井はベッドから起き上がり、リモコンを探した。


 テレビをつける。


 ちょうど朝のニュース番組が、県内の事件を報じているところだった。


『――きょう未明、梅木市刀墓町の路上で、男性が倒れているのを新聞配達員が発見し、警察へ通報しました』


 画面に、規制線の張られた細い道路が映る。


 見覚えのある風景だった。


 刀墓古墳へ向かう途中、滝井も通った道だ。


『男性は現場で死亡が確認されました。年齢は三十代から四十代とみられ、氏名や職業は分かっていません』


 画面が切り替わり、イラストで男の服装が示される。


『男性は小袖と袴に似た衣服を着用しており、身元を確認できる所持品はなかったということです。警察は男性の身元の確認を急ぐとともに、死亡した経緯を調べています』


 滝井はベッドの端に座ったまま、画面を見つめた。


「おいおい……」


 昨夜、ママから聞いた男に間違いなかった。


 滝井はBAINを開き、返信を打った。


〈ママ、昨日はありがとう。服装からして、話してた男だよね。これはちょっと洒落にならないな〉


 送信したあとも、滝井の指は画面の上で止まっていた。


 スマホも財布も持たず、今が何年かを尋ね、大和国という古い呼び名を口にした男。


 そして、蛇の抜け殻を握りしめていた。


 昨夜までは笑い話だった。


 だが、もう笑えない。


 滝井は再びテレビへ目を向けた。


 ニュース映像の背後には、朝靄に沈む刀墓古墳の森が映り込んでいた。


 休暇初日の予定は、その瞬間に決まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。