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門の内側

 後光家を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。


 刀墓町の西側。


 昔ながらの家がところどころ残る一帯を歩いていると、道の先に長い土塀が現れた。


 最初、滝井はそれが一軒の家を囲んでいるものだとは思わなかった。


 白い漆喰の塀が、道に沿って延々と続いている。


 瓦を載せた塀の向こうからは、太い松や槙の木が何本も頭を出し、そのさらに奥には、黒瓦を幾重にも重ねた大きな屋根が見えていた。


「……でかいな」


 思わず声が漏れた。


 塀沿いを歩く。


 十メートル。


 二十メートル。


 まだ門がない。


 ようやく現れたのは、車が二台並んでも通れそうなほど幅のある古い木造門だった。


 太い柱。


 黒ずんだ梁。


 重そうな両開きの板戸。


 屋根には母屋と同じ黒瓦が載っている。


 新しく建てられた金持ちの邸宅とは違う。


 豪華さを見せつけるような装飾はない。


 ただ、広い。


 そして古い。


 門の隙間から覗くだけでも、かなり奥行きのある敷地だということが分かった。


 正面に大きな母屋。


 その横には離れらしき建物。


 さらに奥には白壁の土蔵が見える。


 庭には長い飛び石が続き、木々の間を縫うように別の建物へ伸びていた。


 ここから見えているだけでそれだ。


 敷地の奥がどこまで続いているのかは分からない。


「これ全部、後光家かよ」


 滝井は振り返った。


 歩いてきた土塀が遠くまで続いている。


 市役所で森野が言っていた言葉を思い出した。


 ――梅木では古い家の一つですね。


 その意味を、ようやく実感した。


 単に名字が古いのではない。


 家そのものが、長い時間を抱え込んでいる。


 何代もの人間が同じ土地に住み、必要になるたびに建物を建て足し、庭を手入れし、塀を直しながら今まで残してきたのだろう。


 赤井廃寺も古かった。


 しかし、あちらは役目を終え、静かに朽ち始めていた。


 こちらは違う。


 古いまま、今も生きている。


 そんな印象を受けた。


 門柱の脇に、小さな表札がある。


『後光』


「ここか」


 滝井はシャツの襟を整えた。


 こういう時だけは、昔の仕事を思い出す。


 飛び込み営業。


 こちらは相手を知らない。


 向こうもこちらを知らない。


 そして、こちらには聞きたいことがあるが、相手には答える義理などない。


 営業なら、そこから話を聞いてもらい、最後には商品を買ってもらうまでが仕事だった。


 今回は、少し話を聞かせてもらえればそれでいい。


「……昔より楽なはずなんだけどな」


 滝井は巨大な門を見上げた。


 どういうわけか、昔より入りづらかった。


 門の脇にあるインターフォンを押した。


 少し待つ。


『はい』


 男の声がした。


「突然すみません。新光舎という出版社の滝井と申します。梅木市を取材していまして、少しお話を伺いたいのですが」


 短い沈黙。


『何の取材でしょう』


「この地域に残る古い伝承についてです」


 再び間があった。


『少々お待ちください』


 音声が切れた。


 滝井は門の前で待った。


 一分。


 二分。


 広い家だけあって、玄関から門まで距離があるのかもしれない。


 やがて内側から足音が聞こえ、大きな門そのものではなく、その横に設けられた小さな通用口が開いた。


 五十代半ばほどの男が現れた。


 白いシャツ。


 濃色のスラックス。


 髪には白いものが混じっている。


 大柄ではない。


 だが、姿勢の良い男だった。


「滝井さんですか」


「はい」


 滝井は名刺を差し出した。


 男は受け取り、短く目を通す。


「後光宗一郎です」


「突然押しかけてすみません」


「旅行雑誌と伺いましたが」


「はい」


 滝井は少し迷ってから続けた。


「最初は、その取材だったんですけどね」


「最初は?」


「今は少し、別のことを調べています」


 宗一郎は何も言わなかった。


 滝井はスマートフォンを取り出した。


「刀墓の神女という伝承をご存じですか」


「名前くらいは」


「その伝承に残っている絵巻なんですが」


 画面を見せる。


 長い髪の少女。


 白蛇。


 そして、その少し後ろに立つ男。


「この男の服に描かれている紋が、後光家の家紋に似ていると聞きまして」


 宗一郎の視線が画面へ落ちた。


 ほんの一瞬だった。


 男の胸元。


 そこへ目が動いた。


 だが、表情そのものはほとんど変わらない。


「そうですか」


「何か、ご存じありませんか」


「ありません」


 返答は短かった。


「後光家と刀墓の間に、昔何か関係があったとか」


「聞いたことはありません」


「家に古い記録が残っていたりは?」


「分かりません」


「この絵巻の男については?」


「存じません」


 滝井は一度口を閉じた。


 怒ってはいない。


 声を荒らげてもいない。


 追い払おうとしている様子さえない。


 それでも、


 これ以上は聞かせない。


 そういう意思だけは、十分に伝わってきた。


「そうですか」


 滝井はスマートフォンを下ろした。


「急に来てすみませんでした」


 宗一郎がわずかに頭を下げる。


「お力になれず」


「いえ」


 ここまでだ。


 取材相手が話したくないと言えば、それ以上踏み込むべきではない。


 それを破れば、取材ではなくなる。


 名刺だけは、宗一郎の手元に残った。


「では、失礼します」


「お気をつけて」


 通用口が閉まった。


 その向こうで、小さく錠の音がした。


 滝井は一人、巨大な門の前に残された。


「文字通り門前払いだな」


 小さく呟く。


 もっとも、怒鳴られたわけでもなければ、追い返されたわけでもない。


 質問には答えている。


 ただ、何も知らない。


 そう言われただけだ。


 それなのに、妙な感触が残った。


 家紋を見せた時。


 宗一郎は驚かなかった。


 知らないのなら、


「へえ、似ていますね」


 くらいの反応があってもおかしくない。


 もちろん、人間の反応など人それぞれだ。


 驚かない人間だっている。


 それに、今の滝井は答えを欲しがりすぎている。


 相手が瞬きをした。


 視線を逸らした。


 返事が一秒遅れた。


 そんなものにまで意味を見つけ始めれば、誰だって怪しくなる。


「考えすぎか」


 滝井は鞄を肩へ掛け直した。


 これ以上ここにいても仕方がない。


 屋敷を離れた。


     ◇


 来た道とは反対側へ歩いてみる。


 後光家の土塀は、まだ続いていた。


「ほんとに広いな……」


 門を出てから既にかなり歩いている。


 それでも、右手にはずっと同じ白い塀がある。


 やがて道が緩やかに曲がり、少しだけ上り坂になった。


 その辺りでようやく土塀が途切れた。


 屋敷の裏手へ水を引くためだろうか。


 細い水路が道路を横切り、その先だけは高い土塀ではなく、低い石垣と木の柵になっている。


 庭木が密集していて、内部が丸見えというわけではない。


 だが、木々の隙間から、敷地の奥がほんの少しだけ見えた。


 滝井は何気なくそちらへ目を向けた。


「……ん?」


 足が止まった。


 母屋のさらに奥。


 離れとの間を繋いでいるらしい渡り廊下が見える。


 かなり遠い。


 そこに、人がいた。


 少女だった。


 十代半ば。


 いや、十七、十八くらいかもしれない。


 距離があるため、はっきりとは分からない。


 長い黒髪。


 白い服。


 細い身体。


 少女は渡り廊下に立っていた。


 滝井は動けなかった。


 知らない少女だった。


 当然だ。


 初めて見る。


 なのに、一瞬だけ、


 知っている。


 そう思った。


「……」


 すぐに理由は分かった。


 顔ではない。


 絵巻だ。


 昨夜、ホテルの机で何度も見た少女。


 長い黒髪。


 白い衣。


 細い立ち姿。


 ただ、それだけだ。


 絵巻に描かれた人物と現代人の顔を比較できるはずもない。


 そもそも何百年も前の絵だ。


 写実的な肖像画でもない。


 似ているも何もない。


 それでも。


 妙に重なった。


 少女がこちらを向いた。


 滝井の呼吸が、一瞬止まった。


 目が合った。


 少なくとも、滝井にはそう見えた。


 数十メートルは離れている。


 表情までは分からない。


 ただ、少女は確かにこちらを見ていた。


 次の瞬間。


 一歩、後ろへ下がる。


 柱の陰へ入った。


 長い黒髪が最後に揺れ、


 姿が消えた。


「……まさか」


 滝井は反射的に二、三歩前へ出た。


 角度を変える。


 庭木の隙間から渡り廊下を見る。


 もう誰もいない。


 スマートフォンへ手を伸ばしかけた。


 すぐに止める。


 何を撮るつもりだ。


 個人宅だ。


 広い家に、若い女性が住んでいる。


 それだけの話だ。


 勝手にカメラを向ければ、ただの盗撮になる。


「何やってんだ、俺」


 滝井は自分に言い聞かせた。


 黒髪の少女など珍しくない。


 白い服だって同じだ。


 昨日から絵巻を見すぎた。


 それだけだ。


 それだけなのだが。


 滝井は歩き始めてから、もう一度だけ振り返った。


 渡り廊下には、誰もいなかった。


 長い土塀の向こうに、古い屋敷だけが静かに佇んでいた。


     ◇


 その日の午後。


 滝井は再び赤井廃寺へ向かった。


 目的は一つ。


 借りていた『梅木伝承集 赤井寺提供分控』を返すためだ。


 庫裏のインターフォンを押す。


 今日は一度で足音が聞こえた。


 がらがら。


「百万円」


「まだそれ続くんですか」


「今日は常連割引じゃ」


「いくら?」


「九十五万」


「五万しか下がってないじゃないですか」


「嫌なら帰れ」


「帰りませんよ」


 覚禅が笑う。


「上がれ上がれ」


 昨日と同じ座敷へ通された。


 滝井は鞄から冊子を取り出し、覚禅へ差し出した。


「ありがとうございました。かなり助かりました」


「もうええのか」


「必要なところはメモしましたし、写真も撮らせてもらいました」


「ならええ」


 覚禅は冊子を受け取り、脇へ置いた。


 大事そうに撫でることもない。


 あとで蔵へ戻しておくのだろう。


「何か面白いもんでもあったか」


「ありました」


「ほう」


「絵巻に男が描かれてたんです」


「男?」


「神女の後ろに何度もいる男です。その服に、家紋みたいなものが描いてあって」


 覚禅は少し考えた。


「そんなもんあったかの」


「ありましたよ」


「儂はそこまでよう見とらん」


「森野さんに調べてもらったら、後光家っていう家の紋に似てるそうで」


「ああ」


 覚禅は普通に頷いた。


「後光か」


「知ってます?」


「そりゃ知っとる」


 覚禅は湯呑みに茶を注いだ。


「昔からおる家じゃ。儂が子どもの頃には、既に古い家と言われとった」


「今日、行ってきたんですよ」


「後光へ?」


「はい」


「物好きじゃの」


「取材です」


「便利な言葉じゃな」


「自分でもそう思います」


 滝井は出された茶を飲んだ。


「……すごい家ですね、あそこ」


「ああ、でかいじゃろ」


「塀がどこまで続くのかと思いましたよ」


「昔はもっと土地を持っとったはずじゃぞ」


「もっと?」


「田んぼも山もな。今はだいぶ手放したと聞いとるが」


 覚禅は何でもないことのように言った。


「この辺りじゃ、昔から大きい家じゃ」


 滝井は後光家の門を思い出した。


 あの規模なら、確かに土地の人間が皆知っていても不思議ではない。


「で、見事に門前払いでした」


 覚禅が声を上げて笑った。


「そりゃそうじゃろ」


「そんなに閉鎖的なんです?」


「閉鎖的というか、昔からあまり外の人間と付き合いたがらん家ではあったな」


「何か理由が?」


「知らん」


 覚禅は即答した。


「ただの家風かもしれんし、昔に何かあったのかもしれん。そこまで儂は知らんよ」


 滝井は頷いた。


 それでいい。


 この老人は、梅木のあらゆる歴史を知る生き字引ではない。


 ただ、この土地で長く暮らしてきた人間だ。


 知っていることもあれば、知らないこともある。


 その方が自然だった。


「赤井さん」


「なんじゃ」


「後光家の昔のことに詳しい人って、他にいません?」


「詳しい人間?」


「本家が話してくれないなら、別のところから聞けないかなと思って」


 覚禅は茶を啜った。


「さあの」


 しばらく考える。


「昔の庄屋記録なら市にもあるじゃろうし、寺の記録も……」


「もうちょっと、人の話ですね」


「人か」


 覚禅は天井を見る。


「後光の人間で、本家じゃない人とか」


 その時。


「……ああ」


 覚禅が声を漏らした。


「おるにはおるぞ」


 滝井は顔を上げた。


「いるんですか?」


「一人、はぐれもんがおる」


「はぐれもの?」


「昔、本家におった爺さんじゃ」


 覚禅は少し懐かしそうに目を細めた。


「若い頃に家を出た。というか、出ていったという話じゃったかな」


「今も生きてる?」


「儂より少し下だったはずじゃから、まだ生きとるなら七十代後半くらいじゃ」


「名前は?」


「後光久一」


 滝井は取材ノートを開いた。


『後光久一』


 書き留める。


「何で家を出たんです?」


「知らん」


 また即答だった。


「喧嘩したとか?」


「そんな話は聞いたことがあるが、本当かどうか分からん。何十年も前の話じゃ」


「本家とは今も?」


「ほとんど付き合いはないはずじゃ。法事にも出んとか、集落の寄り合いにも来んとか、そんな話は聞いたことがある」


「変わった人?」


「だいぶな」


 覚禅が笑った。


「人付き合いが嫌いで、口も悪い」


「赤井さんより?」


「儂は愛想がええじゃろ」


「百万円請求する人が?」


「愛想のいい百万円じゃ」


 滝井は笑った。


「その久一さんなら、後光家の昔のことを知ってると思います?」


「若い頃まで本家におったんじゃ。儂よりは知っとるじゃろ」


「どこに住んでるんです?」


「昔と同じなら、山際じゃな」


 覚禅は滝井のスマートフォンを借りた。


 地図を開く。


 指で何度か動かし、赤井廃寺からさらに南西へ入った場所を示した。


「この辺りじゃ」


 集落の端だった。


 道の先は山へ続いている。


「家まで分かります?」


「行けば分かる。古い平屋が一軒ある。周りに家もあまりない」


「ありがとうございます」


 滝井はスマートフォンを受け取った。


「ただし」


 覚禅が言った。


「話してくれるとは思わん方がええぞ」


「そんなに?」


「人嫌いじゃからな」


「取材嫌いの本家の次は、人嫌いのはぐれ者か」


「楽しい旅になってきたの」


「人ごとだなぁ」


「人ごとじゃ」


 覚禅は笑って茶を飲んだ。


 滝井はスマートフォンの地図を見る。


 山際に、小さな目印を置いた。


 後光久一。


 今のところ分かっているのは、それだけだ。


 なぜ本家を離れたのか。


 何を知っているのか。


 そもそも、刀墓の神女について何か知っているのか。


 何一つ分からない。


 空振りになる可能性だって十分ある。


 それでも。


 頭には、先ほど見た少女の姿が残っていた。


 何十メートルも続く白い土塀。


 その奥に建つ、古い大きな屋敷。


 絵巻の男。


 同じ家紋。


 取材を拒んだ宗一郎。


 そして、敷地の奥の渡り廊下に一瞬だけ現れた、長い黒髪の少女。


 今はまだ、どれも一本には繋がっていない。


 だが。


 最初にスナックで奇妙な男の話を聞いた夜よりも、確実に何かへ近づいている。


 そんな感覚だけはあった。


「明日、行ってみます」


 滝井が言うと、覚禅は湯呑みを持ったまま頷いた。


「好きにせい」


 それから少し考え、


「まあ、百万円は取られんと思うぞ」


「そこだけは安心しました」


 滝井は笑って立ち上がった。


 スマートフォンの地図には、山際の一点が残っている。


 後光家から離れた男。


 後光久一。


 次の取材先が、決まった。

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