はぐれもの
後光久一の家は、拍子抜けするほど簡素だった。
昨日訪れた後光本家とは、何もかもが違う。
赤井覚禅に教えられた山際の道を進むと、民家が一軒、また一軒と減っていく。
やがて道幅は車一台が通れるほどになり、片側には山の斜面が迫った。
竹林。
雑木。
ところどころ崩れかけた石垣。
そして、その先に一軒だけ平屋があった。
「……ここか?」
滝井はスマートフォンの地図と見比べた。
古い木造住宅だった。
庭と呼べるほどの庭はない。軒先に小さな軽トラックが一台。雨に晒されたプラスチック製の椅子。植木鉢が三つほど並び、そのうち二つは何も植わっていない。
後光本家のような長い土塀もなければ、門もない。
表札だけがある。
『後光』
滝井は少し安心した。
「合ってるな」
玄関へ向かう。
インターフォンはなかった。
古い呼び鈴を押す。
ぴんぽん。
家の中から音がした。
しばらく待つ。
返事はない。
「すみませーん」
少し声を張った。
中で何かが動いた。
戸が開く。
「なんじゃ」
現れたのは、七十代後半と思われる老人だった。
白髪。
伸びかけた髭。
薄い灰色の肌着に、紺色のステテコ。
初対面の客を迎える格好としては、かなり完成度が低い。
「あの、突然すみません。後光久一さんですか?」
「そうじゃが」
「私、新光舎という出版社の――」
「いらん」
がらん。
戸が閉まった。
「……まだ何も言ってないんですけど」
返事はなかった。
◇
一時間後。
滝井はもう一度、同じ玄関の前に立っていた。
我ながら嫌な客だと思う。
だが、一度くらいは要件を聞いてもらわないと帰るにも帰れない。
呼び鈴を押す。
ぴんぽん。
「……」
ぴんぽん。
中から声がした。
「しつこい!」
「せめて名刺だけでも!」
「いらん!」
「後光家について聞きたいんです!」
沈黙。
滝井は少し待った。
戸は開かない。
「刀墓のことです!」
その瞬間。
家の中の気配が止まった。
滝井も黙った。
十秒。
二十秒。
やがて戸が十センチほど開いた。
久一の片目だけが覗いた。
「どこで聞いた」
「何をです?」
「儂のことじゃ」
「赤井廃寺の赤井さんです」
「あの坊主……」
「元坊主です」
「どっちでもええ」
久一は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「帰れ」
「話だけでも」
「帰れ」
「五分」
「帰れ」
「三分」
「一分でも嫌じゃ」
がらん。
再び閉まった。
滝井は玄関の前で立ち尽くした。
「強いなぁ……」
赤井は言っていた。
人付き合いが嫌い。
口も悪い。
少なくとも、その二点に関して赤井の記憶は正確だった。
◇
帰り道。
滝井は小さな酒屋の前で足を止めた。
別に、最初から酒で釣ろうと思ったわけではない。
本当だ。
ただ、店先に、
『奈良の地酒あります』
と書かれた紙が貼ってあっただけだ。
「……手土産くらいなら、ありか」
取材相手に高価なものを渡すのはよくない。
だが、数千円程度の地酒なら、突然何度も押しかけた詫びとしては許される範囲だろう。
店へ入る。
冷蔵ケースには何種類もの酒が並んでいた。
「贈り物ですか?」
店主らしき女性に聞かれた。
「まあ、そんな感じです。七十代の爺さんに」
「日本酒は飲まれます?」
「そこから分からないんですよね」
「難しい贈り物ですねぇ」
「ですよね」
店主は笑った。
「この辺でよく出るのは、こっちですね」
一つの瓶を示す。
滝井は眺めた。
「もう少し……なんていうか、普通に地元の人が飲みそうなのあります?」
「それなら」
女性が冷蔵ケースの少し下から一本取り出した。
白地に、力強い二文字。
『篠峯』
「しのみね?」
「ええ。奈良のお酒です。こっちは純米超辛」
滝井は瓶を持った。
派手さはない。
かえっていい気がした。
「これにします」
その時の滝井には知る由もなかった。
その選択が、三度目の玄関を開けることになるとは。
◇
翌朝。
三度目。
久一の家。
呼び鈴を押す。
ぴんぽん。
「……」
ぴんぽん。
「帰れ!」
「今日はお詫びだけです!」
「いらん!」
「奈良のお酒!」
「飲まん!」
「じゃあここ置いときます!」
滝井は紙袋から瓶を少しだけ出した。
「篠峯ってやつなんですけど――」
家の中が静かになった。
「……」
滝井も黙った。
数秒後。
がらん。
戸が開いた。
久一の視線が、滝井ではなく酒へ向いている。
「……何じゃと?」
「篠峯」
「何の」
「純米超辛」
久一の眉が動いた。
「……」
「いらないんですよね?」
「誰がいらんと言った」
「今」
「聞き間違いじゃ」
「かなりはっきり聞こえましたけど」
久一は紙袋をひったくるように受け取った。
瓶を出す。
ラベルを見る。
しばらく眺めた。
「よりによってこれか」
「嫌いでした?」
「逆じゃ」
久一は悔しそうに言った。
「……好きなんじゃ」
滝井は笑いを堪えた。
「じゃあ五分くらい」
「酒を持ってきたからといって、話すとは言っとらん」
「座らせてもらうだけでも」
「……」
久一は篠峯を見る。
滝井を見る。
もう一度、篠峯を見る。
「ちっ」
心底悔しそうに舌打ちした。
「上がれ」
「ありがとうございます」
「酒に負けただけじゃ」
「そういうことにしておきます」
「そういうことじゃ」
◇
家の中も、外から見た通り簡素だった。
六畳ほどの居間。
古いテレビ。
低い食卓。
壁掛け時計。
積み重ねられた新聞。
後光本家にあったような、古い家柄を思わせるものは何一つない。
久一は酒を台所へ置いた。
「今日は飲まんぞ」
「飲まないんですか」
「朝から飲むほど落ちぶれとらん」
「それは良かった」
「お前、失礼じゃな」
「久一さんには言われたくないです」
久一は鼻を鳴らした。
「で」
座布団へ胡坐をかく。
「何が聞きたい」
滝井は正面へ座った。
「後光家と、刀墓の神女についてです」
「知らん」
「早いですね」
「聞いたから答えた」
「じゃあ帰ります」
「帰れ」
滝井は立たなかった。
久一が睨む。
「後光家へ行きました」
滝井は言った。
久一の目がわずかに動く。
「家紋も見ました。刀墓縁起絵巻に描かれた男と、同じものがある」
「……」
「その家で、少女も見ました」
久一の表情が消えた。
今までとは違った。
滝井は続けなかった。
しばらく、壁掛け時計の音だけがした。
やがて久一が低く言った。
「それ以上、調べるな」
「どうしてです?」
「そう言っとる」
「理由がないと、やめられません」
「理由を知ったら、もっと面倒になる」
滝井は久一を見る。
「じゃあ、何かあるんですね」
「言葉尻を取るな」
「ライターなんで」
「嫌な仕事じゃな」
久一は溜息をついた。
視線を窓の外へ向ける。
「あの家はな」
声が変わった。
「昔、刀墓を守っとった」
滝井は動かなかった。
「刀墓古墳を?」
「土地を、じゃ。墓も含めてな」
「いつからです?」
「知らん。家に伝わっとった話じゃ。少なくとも儂が生まれるずっと前からだ」
「絵巻の男は?」
「……知らん」
「本当に?」
「名前までは知らん」
言い直した。
滝井はノートへ手を伸ばさなかった。
今、ペンを出したら話が止まる気がした。
「もともとは、それだけじゃった」
久一が言った。
「土地を守る。墓を荒らさせん。余計な人間を近づけん」
「それが、どうして今みたいな家になったんです?」
久一は答えなかった。
代わりに、小さく呟いた。
「あの娘と出会ったばっかりにな」
滝井の背中を汗が一筋流れた。
「……娘?」
久一は黙った。
「刀墓の神女ですか」
「帰れ」
「久一さん」
「ここまでじゃ」
「少女の秘密って何です?」
久一の顔から、先ほどまでの茶目っ気は完全に消えていた。
「言うな」
「え?」
「その言葉を、軽々しく口にするな」
滝井は息を止めた。
久一は低い声で続けた。
「儂らは、長いこと間違えた」
「間違えた?」
「あんなことは、もうやるべきじゃない」
「何を?」
久一は滝井を見た。
目だけは、年齢を感じさせなかった。
「娘の秘密を知った者はな――」
そこで言葉が切れた。
久一の唇がわずかに動く。
しかし、続きは出てこなかった。
長い沈黙の後。
「帰れ」
「でも」
「酒の分は喋った」
「安くないです?」
「十分じゃ」
久一は立ち上がった。
今度は、本当に終わりだった。
◇
外へ出る。
夏の日差しが眩しかった。
滝井は家の前で、一度振り返った。
久一はもう戸を閉めている。
聞けたことは少ない。
後光家は、もともと刀墓を守護していた。
だが、ある少女と出会ったことで何かが変わった。
久一は、その役目を否定している。
そして。
『少女の秘密を知った者は――』
その先を言わなかった。
言えなかったのか。
言いたくなかったのか。
分からない。
ただ。
それまでの滝井には、後光家を「何かを隠している古い家」としか捉えられなかった。
今は違う。
何かを守っている。
そして、そのために何かをしてきた。
そこまでは見えた。
問題は。
「何を、だよな……」
滝井は歩き出した。
答えを知るには、もう一度最初から並べ直す必要があった。




