蛇と少女
ホテルへ戻った滝井は、机の上に取材ノートを広げた。
その夜は、テレビもつけなかった。
冷蔵庫から水を出す。
椅子へ座る。
そして、この数日で拾った情報を、一つずつ書き出した。
殺された男。
小袖。
袴。
大和国。
興福寺。
赤井寺。
蛇の抜け殻。
刀墓の神女。
白蛇。
箱。
後光家。
守護。
少女。
滝井は最後の一語を丸で囲んだ。
後光家の渡り廊下で見た少女。
あれを事実として扱っていいのか。
そこからだった。
「似てた、だけなんだよな」
自分に言い聞かせる。
絵巻は写実的な肖像ではない。
現代の少女が同じような長い黒髪をしていた。
それだけ。
なら、その一致は一度捨てる。
滝井は『少女』の横に大きく疑問符を書いた。
次。
蛇の抜け殻。
被害者が異常なほど大切に持っていた。
だが、遺体発見時にはなかった。
そして刀墓の伝承には、白蛇が何度も登場する。
さらに。
『みだりに見ることを禁ず』
何を見てはいけないのか。
少女か。
蛇か。
あるいは。
「箱……」
絵巻に描かれていた箱。
滝井はスマートフォンを開き、撮影した図版を表示した。
少女。
蛇。
男。
箱。
同じものが、何度も描かれている。
後世の人間が勝手に加えた可能性はある。
だが、そうではないと仮定するなら。
全部に意味がある。
滝井はノートへ線を引いた。
少女――白蛇。
長い線。
「……まさかな」
自分で書いて、自分で笑った。
だが消さなかった。
伝承に登場する神女は、鎌倉時代の人物とされている。
後光家の屋敷で見た少女が、仮に同じ存在だとする。
人間ならあり得ない。
では、人間ではなかったら。
白蛇。
脱皮。
抜け殻。
「蛇が……少女の姿を取ってた?」
声に出した瞬間、馬鹿馬鹿しく聞こえた。
滝井は椅子にもたれた。
「とうとう俺もここまで来たか」
旅行ライターがホテルで、
『八百年前から生きる蛇が少女に化けている説』
を真剣に考えている。
編集部の人間に見せたら、休暇を延長されるかもしれない。
だが。
この仮説なら、一つ説明できることがある。
少女が時代を越えて存在できる。
白蛇が必ず描かれる理由もある。
抜け殻が重要な理由も――少なくとも、何かあると考えられる。
しかし。
「じゃあ、あの男は?」
最大の穴だった。
鎌倉時代の人間らしい男が、なぜ現代にいた。
蛇が長生きすることと、人間が時代を移動することは別問題だ。
それに。
後光家が守る必要は何だ。
少女が蛇なら、なぜ秘密を知った人間に何かをする。
分からない。
まだ穴だらけだった。
滝井はノートを閉じた。
「本人に聞くしかないか」
久一。
あの老人は知っている。
全部ではないにしても。
少なくとも、滝井より遥かに多く。
◇
翌日の夕方。
滝井は再び久一の家を訪れた。
呼び鈴を押す。
ぴんぽん。
「なんじゃ!」
「飲みに行きません?」
戸の向こうが静かになった。
数秒後。
戸が開く。
「……何を言っとる」
「昨日の篠峯、まだあります?」
「ある」
「今夜、一杯どうです?」
「嫌じゃ」
「いい店知ってるんですよ」
「行かん」
「酒あります」
「家にもある」
「女将が面白い」
「興味ない」
「お通しも美味い」
「……」
ほんの少し間があった。
滝井は見逃さなかった。
「行きましょう」
「行かん」
「じゃあ俺一人で行きます」
「好きにせい」
「残念だなぁ。久一さんみたいな爺さん、ママ絶対気に入ると思うんだけど」
「誰が爺さんじゃ」
「七十代後半」
「まだ若い」
「赤井さんも同じこと言ってました」
「あいつと一緒にするな」
久一は不機嫌そうに戸を閉めかけた。
止まった。
「……酒は何がある」
滝井は笑った。
「そこは行ってからのお楽しみで」
「気に入らんかったらすぐ帰るぞ」
「はいはい」
「奢れよ」
「篠峯渡したじゃないですか」
「それとこれは別じゃ」
昨日に続き。
後光久一は、また酒の魔力に負けた。
◇
店の扉を開ける。
からん、からん。
「あら、滝井ちゃん」
ママが顔を上げた。
「今日はお連れさん?」
「取材相手」
「友達じゃ」
隣で久一が訂正した。
滝井は驚いて顔を向ける。
「友達なんですか、俺たち」
「取材相手よりマシじゃ」
「昨日二回追い返されたんですけど」
「あらあら」
ママが笑った。
「面白いお爺ちゃんね」
「爺ちゃん言うな」
「じゃあ、お兄さん?」
「それでええ」
「ええんだ……」
滝井はカウンターへ座った。
三十分後。
「ママ、もう一杯」
「はいはい、久ちゃん」
「久ちゃん……?」
滝井は目を疑った。
「何じゃ」
「馴染むの早すぎません?」
「いい店じゃ」
「俺、ここ来るようになって数日かかったんですけど」
「人徳の差じゃ」
「二回追い返した人が言う?」
ママが声を上げて笑う。
久一も笑った。
滝井はグラスを持ちながら、その横顔を見た。
昨日の家では見せなかった顔だった。
一人暮らし。
本家とは何十年も疎遠。
近所付き合いもほとんどない。
こういう場所へ来ること自体、久しぶりなのかもしれない。
今夜なら。
少しだけ、話してくれる気がした。
◇
「久一さん」
「なんじゃ」
「昨日の続き、いいです?」
「酒が不味くなる」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
久一はグラスを傾けた。
滝井は取材ノートを出さなかった。
代わりに、カウンターへ両手を置いた。
「俺、考えてみたんですよ」
「何を」
「刀墓の神女」
久一の手が止まった。
ママは少し離れた客の相手をしている。
「まず」
滝井は声を落とした。
「俺が後光家で見た少女が、本当に絵巻の神女だと仮定する」
「……」
「人間なら、あり得ない」
「そうじゃな」
初めて、久一が否定しなかった。
「だから俺はこう考えました」
滝井は久一を見る。
「蛇が、少女に化けていた」
久一は黙った。
そして。
「違う」
短く言った。
滝井の眉が動く。
「違う?」
「順番が逆じゃ」
「順番?」
久一はグラスの中の氷を見る。
「最初にいたのは、娘じゃ」
滝井は何も言えなかった。
「人間だったんですか」
「そうじゃ」
「じゃあ白蛇は?」
「その娘じゃ」
「……え?」
「だから言っとる」
久一は滝井を見る。
「蛇と娘は、同じもんじゃ」
滝井は頭の中で言葉を並べ直した。
「待ってください。人間の少女がいた。後から蛇になった?」
「それも少し違う」
「じゃあ何です?」
久一は長い間、答えなかった。
やがて。
「刀墓が造られた頃、一人の娘が死んだ」
声は静かだった。
「生贄じゃ」
滝井の喉が動いた。
「……刀墓のために?」
「そう伝わっとる」
「死んだんですよね」
「ああ」
「なのに、どうして」
「身体は死んだ」
久一が言った。
「だが、残った」
「何が」
「意識じゃ」
滝井は息を止めた。
「娘の意識が、蛇へ移った」
店の音が遠ざかった気がした。
久一は続ける。
「どうしてそんなことが起きたのかは知らん。儂らにも分からん。神だの祟りだの、昔の連中はいろんなことを言ったらしい」
「じゃあ、白蛇は……」
「娘じゃ」
「少女の姿にも戻れる?」
「戻るという言い方が正しいかは知らん。ただ、長い年月の中で、人の姿を取るようになった」
滝井の頭に、後光家の渡り廊下が浮かんだ。
長い黒髪。
白い服。
「今も?」
久一は答えなかった。
それが答えだった。
「じゃあ……」
滝井は考える。
「抜け殻」
久一の目が動いた。
「あの男が持っていた」
「そこまで知っとるのか」
「スナックで見た人がいる」
滝井はママの方を見た。
「抜け殻に、何かあるんですね」
「ある」
「何が」
「時間じゃ」
滝井は久一を見る。
「時間?」
「娘が生きた時間が残る」
理解できなかった。
「記憶みたいなものですか」
「それに近い」
「それを見ると?」
久一は黙った。
滝井の中で、当初から何度も引っかかっていた言葉が蘇る。
『今は何年だ』
『ここは大和国か』
『興福寺』
『何刻』
そして。
鎌倉時代の赤井寺。
「……飛ぶ?」
自分で言って、ぞっとした。
久一は何も言わない。
「時間を?」
「そうじゃ」
滝井は椅子の背にもたれた。
「そんな……」
「信じんでええ」
「いや」
滝井は首を振った。
「信じるとかじゃない」
今まで説明できなかったものが、嫌なほど収まり始めている。
「あの男は、鎌倉時代から来た?」
「儂は見とらん。断言はできん」
「でも、あり得る?」
「あり得る」
「抜け殻を見て?」
「正確には、あれを見て強く心を動かされた人間が、時を違えることがあると伝わっとる」
「行き先は?」
「選べん」
「過去にも未来にも?」
「娘が存在する時代へ飛ぶ」
滝井は額へ手を当てた。
「ちょっと待ってください」
整理が追いつかない。
「じゃあ後光家は何なんです?」
久一はグラスを置いた。
「守る家じゃ」
「少女を?」
「最初はな」
その一言が、滝井の胸に引っかかった。
「最初は?」
「娘の正体が知られれば、何が起こると思う」
「捕まえる。利用する。殺そうとする人間も出る」
「そうじゃ」
「だから秘密にした」
「そうじゃ」
「その役目を後光家が?」
「代々な」
滝井はそこまで言って、止まった。
もう一つ。
久一が昨日言いかけた言葉。
『娘の秘密を知った者は――』
滝井は声を落とした。
「時代を飛んできた人間は、どうなるんです?」
久一の顔から表情が消えた。
「久一さん」
「……殺す」
滝井は動かなかった。
「誰が」
「その時代の後光じゃ」
冷たいものが、背中を走った。
「どうして」
「秘密を守るためじゃ」
「でも、その人は何も悪くない」
「分かっとる」
久一の声が少し強くなった。
「だから儂は出た」
滝井は黙る。
「あんなことを、もうやるべきじゃない」
昨日と同じ言葉だった。
今度は意味が分かった。
「昔は違ったんじゃ」
久一が言う。
「娘を守るための家だった」
グラスを見つめる。
「いつからか、秘密を守る家になった」
「……」
「秘密を守るために、人を殺す家になった」
久一は苦く笑った。
「何百年も同じことを続けとると、目的と手段の区別もつかんようになる」
滝井は何も言えなかった。
やがて、一つだけ聞いた。
「少女は、それを望んでるんですか」
久一はすぐに首を振った。
「望んどらん」
「なら」
「だから儂は出た」
短い答えだった。
十分だった。
◇
店を出る頃には、日付が変わりかけていた。
「いい店じゃった」
久一が言う。
「そこが今日一番の感想?」
「大事じゃ」
「また来ます?」
「お前がおらん時にな」
「ひどいなぁ」
久一は少し笑った。
タクシーへ乗る前、滝井を振り返った。
「滝井」
「はい」
「もう十分じゃ」
「何がです?」
「知った」
久一の表情から笑いが消えた。
「これ以上、後光へ近づくな」
「……」
「儂が話したことも、向こうには言うな」
「どうして」
「分かっとるじゃろ」
久一はタクシーへ乗った。
車が走り去る。
滝井はその場に残った。
分かっていた。
守護一族。
時代を越えて現れる人間。
それを殺す役目。
なら。
刀墓古墳近くで殺された、あの男は。
「……後光家」
声に出す。
偽中島。
盗まれた梅木伝承集。
後光家で見た少女。
全部が、同じ方向を向き始めていた。
◇
翌朝。
滝井はホテルの窓から外を見ていた。
久一の言葉は、まだ耳に残っている。
『これ以上、後光へ近づくな』
普通なら、従うべきだ。
少なくとも、警察へ話すべきだ。
だが。
久一の話だけでは証拠にならない。
蛇へ意識が移った少女。
時代を越える抜け殻。
そんなものを警察へ持ち込んでも、事件の捜査材料になるはずがない。
ただ。
殺人は現実に起きている。
偽中島も現実にいた。
伝承集も現実に盗まれた。
そこだけは、怪異ではない。
滝井はカメラバッグを肩へ掛けた。
「確認するしかないか」
自分でも、馬鹿だと思う。
ただし。
何も知らせずに一人で乗り込むほど、馬鹿ではない。
スマートフォンを取り出す。
画面に表示したのは、森野大二の連絡先だった。
その向こう。
地図にはもう一つ、目的地が表示されている。
刀墓町西。
長い白壁。
黒瓦の大屋敷。
後光家。
滝井は一度だけ深く息を吐いた。
そして、部屋を出た。
もう一度。
あの門の向こうへ行くために。




