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守るもの

 翌日の午後。


 滝井総司は、再び後光家の前に立っていた。


 長い白壁。


 黒瓦を載せた巨大な門。


 その向こうに広がる古い屋敷。


 初めて訪れた時と、何一つ変わっていない。


 だが、滝井にはまるで違う場所に見えた。


 この門の向こうにいるのは、ただの旧家ではない。


 少なくとも、久一の話が事実なら。


 何百年ものあいだ、刀墓の秘密を引き継いできた家だ。


『これ以上、後光へ近づくな』


 昨夜の久一の声が蘇る。


 忠告としては、極めて正しい。


 滝井だって分かっている。


 人間の意識が蛇へ移る。


 抜け殻を見た者が別の時代へ飛ばされる。


 そんな話を確かめるために命を張る必要などない。


 だが。


 刀墓古墳近くで、一人の男が殺されている。


 それは怪談ではない。


 偽の市職員もいた。


『梅木伝承集』も盗まれた。


 それも現実だ。


 そこだけは、放っておくことができなかった。


「……これで最後にしよう」


 誰に言うでもなく呟いた。


 インターフォンを押す。


 少し待つ。


『はい』


 聞き覚えのある男の声だった。


「新光舎の滝井です」


 沈黙。


『……少々お待ちください』


 音声が切れた。


 数分後。


 大きな門の脇にある通用口が開いた。


 後光宗一郎が現れた。


 前回と同じような白いシャツ。


 濃色のスラックス。


 穏やかな顔。


 だが、滝井を見た瞬間、ほんのわずかに目が細くなった。


「また来られたんですね」


「すみません」


「前回、お話しできることはないと申し上げたはずですが」


「今日は、少し違う話を聞きに来ました」


「違う話?」


 滝井は宗一郎を見る。


「刀墓を守ってきた、後光家についてです」


 宗一郎の顔から表情が消えた。


 ほんの数秒。


 それだけだった。


「……どこで、その話を」


「それは言えません」


「そうですか」


 宗一郎は滝井をじっと見た。


 やがて通用口を少し大きく開けた。


「中へどうぞ」


 滝井の方が戸惑った。


「いいんですか」


「門の前でする話ではないでしょう」


 もっともな言葉だった。


 同時に。


 嫌な言葉でもあった。


 滝井は開いた門の奥を見る。


 石畳。


 松。


 母屋。


 渡り廊下。


 前回、遠くから少女を見た場所も、この敷地の中にある。


 一瞬だけ迷う。


 それから、足を踏み入れた。


     ◇


 中から見る後光家は、外から想像していた以上に広かった。


 正面に大きな母屋。


 左右に離れ。


 白壁の蔵が二棟。


 庭には古い石灯籠と飛び石があり、松や槙が夏の日差しを遮っている。


 何世代もの人間が、一つの土地へ建物を足しながら生きてきた。


 そんな屋敷だった。


 宗一郎は、母屋の手前側にある座敷へ滝井を通した。


 庭に面した客間だった。


 古い畳。


 欄間。


 床の間には掛軸。


 縁側の向こうには、手入れされた庭が見える。


 座布団が二枚置かれていた。


「どうぞ」


「失礼します」


 滝井が座る。


 宗一郎も向かいへ座った。


 前回と違い、茶は出なかった。


「それで」


 宗一郎が言う。


「何をお聞きになったんですか」


「その前に、一つ確認させてください」


 滝井はスマートフォンを取り出した。


 赤井寺で撮影した刀墓縁起絵巻。


 少女。


 白蛇。


 そして、その後ろに立つ男。


「この人」


 画面を宗一郎へ向ける。


「後光家の人間ですよね」


「以前も申し上げました」


 宗一郎の声は平坦だった。


「存じません」


「この家紋は後光家のものです」


「似ているというだけでしょう」


「そうですね」


 滝井は素直に頷いた。


「だから、それだけなら俺もここへもう一度来たりしません」


 宗一郎は何も言わない。


「後光家は、もともと刀墓一帯を守護する家だった」


 沈黙。


「刀墓古墳そのものだけじゃない。周辺の土地も含めて」


「古い家です」


 宗一郎が答えた。


「そういう言い伝えがどこかに残っていても、不思議ではないでしょう」


「じゃあ、否定はしない?」


「肯定もしていません」


「なるほど」


 滝井はスマートフォンを机へ置いた。


「では、もう一つ――」


 そこで言葉が止まった。


 廊下を誰かが通った。


 白いシャツ。


 黒いスラックス。


 痩せた身体。


 銀縁の丸眼鏡。


 男も、滝井に気づいた。


 足が止まった。


「……あ」


 滝井の口から声が漏れた。


 忘れるはずがなかった。


 梅木市役所。


 旧庁舎。


 歴史課。


 机の上に置かれた『中島』の名札。


 そして。


『歴史課長の指示で、公開を停止しています』


 あの声。


 あの男だった。


「中島さん」


 廊下の男の顔が強張った。


 宗一郎が振り返った。


「慎吾」


 一言。


「奥へ行っていろ」


 男は動かなかった。


 滝井は宗一郎を見る。


「……慎吾?」


 宗一郎は答えない。


 滝井はもう一度、男へ視線を戻した。


「あなた」


 ゆっくり言った。


「市役所にいましたよね」


 男――慎吾の喉が動いた。


「歴史課で」


「……人違いでしょう」


 初めて声を聞いた。


 間違いない。


 滝井は息を吐いた。


「いや」


 笑いそうになった。


 面白いからではない。


 ようやく一本、完全に繋がったからだ。


「その声まで覚えてますよ」


 慎吾は黙った。


「あなた、中島さんを名乗ってた」


「滝井さん」


 宗一郎の声が低くなる。


「想像で人を犯罪者扱いするのは、やめた方がいい」


「そうですね」


 滝井は頷いた。


「昨日までなら、想像でした」


 慎吾を見る。


「でも今、一つだけ事実になりました」


 沈黙。


「市役所で中島さんを名乗った男が、後光家にいる」


 慎吾の頬が微かに引きつった。


「慎吾」


 宗一郎がもう一度言った。


「行け」


 今度は男が動いた。


 廊下の奥へ消える。


 足音が遠ざかった。


 滝井は宗一郎へ向き直った。


「続けても?」


「……どうぞ」


     ◇


「ここから先は、全部俺の仮説です」


 滝井は言った。


「答えたくなければ、答えなくていい」


「なら、聞く意味もないでしょう」


「俺にはあります」


 宗一郎は黙った。


 滝井は一度、息を整えた。


「刀墓の神女は、実在した」


 宗一郎は動かない。


「ただし、絵巻に描かれている少女と白蛇は、別々の存在じゃない」


 ほんのわずか。


 宗一郎の瞳が動いた。


「同じ存在です」


「……荒唐無稽ですね」


「俺もそう思います」


 滝井は苦笑すらしなかった。


「刀墓が造られた頃、一人の少女が死んだ」


 宗一郎を見る。


「生贄として」


 初めて、宗一郎の指が動いた。


「その少女の身体は死んだ。でも意識だけが白蛇へ移った」


「誰からそんな話を」


「言えません」


 宗一郎の顔が硬くなる。


「長い時間を生きるうち、蛇は人の姿を取れるようになった」


 滝井は続けた。


「だから、鎌倉時代の絵巻にも少女がいる」


「……」


「そして」


 一拍置く。


「現代の後光家にも」


 宗一郎の目が滝井を見る。


「俺、見たんですよ」


「何を」


「少女を」


 今度こそ。


 宗一郎の表情が明らかに変わった。


 ほんの一瞬だった。


 だが、滝井には十分だった。


「渡り廊下にいました」


「……」


「長い黒髪。白い服。十代くらい」


「それは」


「この家の娘さんですか?」


 宗一郎は答えなかった。


「違うんですね」


「勝手な結論を出さないでください」


「じゃあ、誰なんです?」


「……」


 答えはない。


 滝井は続けた。


「白蛇なら、脱皮する」


 宗一郎の眉が動いた。


「その抜け殻を、殺された男が持っていた」


「……」


「スナックで何人も見ています」


「それがどうしたんです」


「遺体からは消えていた」


 静かだった。


 蝉の声だけが庭から聞こえる。


「抜け殻には、普通じゃない何かがある」


「何を言っているのか分かりません」


「俺にも分からなかった」


 滝井は言う。


「ずっと」


 小袖。


 袴。


 大和国。


 興福寺。


 赤井寺。


「でも、あの男の言動を全部並べると、一つの答えしか残らなかった」


「……」


「別の時代から来た」


 宗一郎が滝井を見る。


「抜け殻を見て」


 言葉にすると、馬鹿げていた。


 それでも滝井は続けた。


「あの男は鎌倉時代から来た」


「証明できるんですか」


「できません」


 即答した。


「警察にもできないでしょう」


「なら」


「でも、現代側の事件は別です」


 滝井は宗一郎から目を逸らさなかった。


「あの男が現れた」


「……」


「後光家は、それに気づいた」


「……」


「男が持っていた抜け殻を回収した」


「……」


「そして」


 少し間を置く。


「男を殺した」


 宗一郎の顔から、完全に表情が消えた。


「根拠は?」


「今のところありません」


「なら、名誉毀損ですね」


「そうですね」


 滝井は頷いた。


「外で言えば」


 宗一郎の眉がわずかに寄る。


「だからここへ来ました」


 滝井は続けた。


「確かめるために」


「確かめる?」


「後光家は、少女の秘密を守る一族だった」


「……」


「元々は少女そのものを守るためだった」


「……」


「でも、いつの間にか秘密を守ることが目的になった」


 宗一郎の呼吸が、少しだけ深くなった。


「時代を越えてきた人間は、秘密を知っている」


「……」


「だから殺す」


「やめなさい」


 初めて、はっきりと遮られた。


 滝井は止まらなかった。


「今回も同じだった」


「やめろ」


 敬語が消えた。


 滝井の背中に、薄く汗が滲んだ。


「じゃあ、偽中島は何だったんです?」


「……」


「慎吾さんは、なぜ市役所にいた」


 廊下の奥を見る。


「なぜ本物の中島さんの名札を使った」


「……」


「なぜ俺に梅木伝承集を見せなかった」


 あの日の光景が蘇る。


 静かな歴史課。


 妙に冷たい対応。


 民俗館へ行けと言われた。


 そして戻った時には。


 伝承集が消えていた。


「最初、俺を邪魔するためだけだと思ってました」


 滝井はゆっくり言った。


「違った」


 宗一郎が目を上げる。


「あの時、慎吾さんは既に梅木伝承集を持ち出そうとしていた」


「憶測です」


「そこへ俺が来た」


 滝井は言った。


「だから民俗館へ行かせた」


 時間。


 必要だったのは、それだ。


「俺を市役所から離すために」


 宗一郎は黙っている。


「その間に資料を持ち出した」


「……」


「偽中島も」


 滝井は慎吾が消えた廊下を見る。


「後光の人間だった」


 否定はなかった。


 それが、何より重かった。


     ◇


 滝井は自分の手のひらが、少し汗ばんでいることに気づいた。


 もう十分だ。


 これ以上は危ない。


 そう思った。


「今日はこれで帰ります」


 立ち上がろうとした。


 宗一郎も立った。


「そうしてください」


 滝井は鞄を肩へ掛けた。


 ここで終わる。


 あとは警察に、現実の部分だけ話せばいい。


 慎吾。


 市役所。


 偽名。


 盗まれた伝承集。


 そこだけなら警察も動ける。


「最後に一つだけ」


 なぜ、口にしたのか。


 後になって滝井自身も分からなかった。


 宗一郎が振り返る。


「まだありますか」


「少女は」


 滝井は言った。


「こんなこと、望んでないんじゃないですか」


 宗一郎の動きが止まった。


「……何を知っている」


 低い声。


「人を殺すことです」


「黙れ」


「少女を守るためだったんでしょう」


「黙れ」


「それがいつから、秘密を守るために人を殺すことになったんです?」


 宗一郎の顔が歪んだ。


「お前に何が分かる」


 滝井は息を呑んだ。


 初めてだった。


 この男が明確に感情を露わにしたのは。


「何百年続けてきたと思っている」


「……」


「何人が、この役目のために人生を使ったと思っている」


「だからって」


「黙れ!」


 声が座敷へ響いた。


 鳥が一羽、庭木から飛び立った。


 滝井は動かなかった。


 いや。


 動けなかった。


「俺は、一つだけ聞きたい」


「……」


「あなたたちは今」


 久一の言葉が蘇る。


『儂らはいつから、あの娘ではなく、秘密そのものを守るようになったんじゃろうな』


「何を守ってるんです?」


 宗一郎の目が滝井を射抜く。


「少女ですか」


 一拍。


「それとも」


 滝井は言った。


「後光家の使命そのものですか」


「黙れ!」


 宗一郎が襖を開けた。


 隣の小部屋。


 そこに、長い布包みが立て掛けられていた。


 嫌な予感がした。


「……ちょっと待って」


 宗一郎が包みを取る。


 布が落ちる。


 鞘。


 滝井の身体が固まった。


 日本刀だった。


「いやいやいや」


 思わず声が漏れる。


「そこまでの話じゃないでしょう」


 宗一郎は答えない。


 鞘を左手で握る。


 右手が柄へ掛かる。


「冗談ですよね?」


 刃が抜かれた。


 しゃり、と。


 妙に澄んだ音だった。


 その瞬間。


 ニュースで聞いた言葉が頭へ戻ってきた。


 刀墓町。


 男性。


 鋭利な刃物による深い傷。


 一撃。


「……マジかよ」


 滝井は後ろを見る。


 廊下。


 庭。


 玄関までの距離。


 宗一郎との距離。


 どう考えても近すぎる。


 勝てるわけがない。


 四十三歳の旅行ライターに、日本刀を持った男と戦う技能などない。


 バッグを盾にする。


 椅子を投げる。


 逃げる。


 頭の中ではいくつか浮かぶ。


 どれも、成功する絵が見えない。


「滝井さん」


 宗一郎が言った。


 今度は不思議なくらい静かな声だった。


「あなたは知りすぎた」


 刀が上がる。


 あ。


 これ。


 本当に死ぬやつだ。


 滝井は思った。


 次の瞬間。


「動くな!!」


 怒声が屋敷を震わせた。


 宗一郎の動きが止まった。


 滝井も振り返る。


 縁側の向こう。


 庭に二人の警察官がいた。


 先頭の男を見て、滝井は目を見開いた。


 刀墓古墳で何度も顔を合わせた、あの中年警察官だった。


 拳銃を両手で構えている。


「刀を床に置け!」


 宗一郎は動かない。


「今すぐだ!」


 もう一人の警察官が叫ぶ。


 数秒。


 長い数秒だった。


 やがて。


 宗一郎の腕がゆっくり下がった。


 刀が畳へ落ちる。


 乾いた音。


「手を見える位置に!」


 警察官が座敷へ上がった。


 宗一郎が取り押さえられる。


 滝井は壁へ背を預けた。


 急に膝から力が抜けた。


「……助かった」


「だから」


 中年警察官が滝井を睨んだ。


「首突っ込みすぎるなって言っただろうが」


「……はい」


 今度ばかりは、素直に頷いた。


     ◇


 慎吾は屋敷の奥にいた。


 警察官が事情を聞くため外へ連れ出す。


 滝井と目が合ったが、何も言わなかった。


 その後ろから、宗一郎も連れて行かれる。


 まだ逮捕の手続きがどうなるのか、滝井には分からなかった。


 少なくとも、目の前で日本刀を抜いて人間へ振り上げた。


 そこは怪異でも伝承でもない。


 完全に現実だった。


 屋敷の門前には、いつの間にかパトカーが二台停まっていた。


 近所の住民が、遠巻きに様子を見ている。


 滝井は門の脇へ腰を下ろした。


「……死ぬかと思った」


 本当に。


 久しぶりに口だけの比喩ではなかった。


「滝井さん!」


 声がした。


 顔を上げる。


 道の向こうから、一人の男が走ってくる。


「森野さん?」


 歴史課長・森野大二だった。


 普段ほとんど乱れない髪が少し崩れ、珍しく息を切らしている。


「無事ですか」


「ええ……まあ」


「怪我は?」


「ないです」


 森野が深く息を吐いた。


 本気で安心している顔だった。


 滝井はその顔を見る。


 それから。


 パトカー。


 警察官。


 もう一度、森野。


 ようやく頭が追いついた。


「……森野さん」


「はい」


「警察に連絡してくれてたんですね」


 森野は一瞬、黙った。


「ええ」


「いつ?」


「今朝です」


「今朝?」


 滝井は目を丸くした。


 森野が呆れたように滝井を見る。


「忘れたんですか」


 言われて。


 思い出した。


     ◇


 ホテルを出る前。


 滝井は森野へ一本だけ電話をかけていた。


『今日、もう一度後光家へ行ってきます』


『またですか』


『たぶん、これが最後です』


『何か分かったんですか』


『殺された男と後光家が繋がってる可能性があります』


 森野はしばらく黙っていた。


『根拠は』


『まだ言えません』


『滝井さん』


『すみません。ただ』


 その時、滝井はこう言った。


『四時までに俺から連絡がなかったら、念のため警察に相談してもらえません?』


『……そんなことを頼むくらいなら、行かないでください』


『ですよねぇ』


『笑い事ではありません』


『俺もそう思います』


 それでも。


 行った。


     ◇


「でも」


 滝井は森野を見る。


「四時まで待たなかったでしょ」


 森野は眼鏡を上げた。


「待てるわけないでしょう」


「ですよね」


「電話を切ってすぐ、刀墓の事件を担当している方へ相談しました」


 森野がパトカーの方を見る。


 あの中年警察官が、別の警察官と話している。


「市役所への不法侵入と職員なりすまし、『梅木伝承集』の盗難については、もともと警察が調べていました」


「はい」


「そこへ、あなたから『後光家と殺人が繋がっている可能性がある』なんて電話が来た」


「……」


「放っておけませんよ」


「でも、警察がよく動きましたね」


「捜索に入ったわけではありません」


 森野は言った。


「あなたが危険な取材先へ行く可能性がある、と相談しただけです」


 そこから先は、後で警察官本人から聞いた。


 警察は、滝井から事情を聞くためにも、後光家周辺で様子を見ることにした。


 正式な家宅捜索ではない。


 ただ、付近で待機していた。


 滝井が門をくぐるところも確認していたという。


 ところが、約束の時間を過ぎても滝井から森野へ連絡がない。


 電話にも出ない。


 警察官二人が安全確認のため門を訪れた。


 その時。


 屋敷の中から宗一郎の怒鳴り声が聞こえた。


 庭へ回った警察官の目に、縁側越しに刀を振り上げた宗一郎の姿が入った。


 そこで初めて。


 踏み込んだ。


「……なるほど」


 滝井はしばらく黙った。


 そして森野を見る。


「俺、そんなに信用ないです?」


「ありません」


「即答……」


 以前にも、まったく同じ返事をされた気がした。


 森野は呆れた顔をする。


「命があるから冗談で済むんですよ」


「はい」


 今度は本当に反省した。


     ◇


 事件が現実側から崩れ始めたのは、それからだった。


 宗一郎が滝井へ向けた日本刀は、その場で押収された。


 鑑定の結果。


 刀墓古墳近くで死亡した男性の傷と、刃幅や刃の特徴が一致した。


 さらに、刀は一度きれいに手入れされていたものの、鍔元と鞘の内部からごく微量の血液反応が検出された。


 DNA型は、殺された男と一致した。


 それだけではなかった。


 宗一郎による滝井への襲撃。


 慎吾の身元。


 市役所でのなりすまし。


 複数の事情が重なり、後日行われた捜索で、後光家の蔵からあるものが見つかった。


『梅木伝承集』


 市役所から盗まれたものだった。


 そして。


 中島を名乗っていた男の本名も、正式に判明した。


 後光慎吾。


 宗一郎の従弟。


 後光家の人間だった。


 数年前。


 梅木市が郷土資料のデジタル化を行った際、慎吾は委託先の作業員として旧庁舎へ短期間出入りしていた。


 歴史課の場所。


 資料収蔵室。


 裏の出入口。


 職員がどの辺りに座るのか。


 大まかなことは、その時に知っていた。


 殺人事件が起きた後。


 慎吾は『梅木伝承集』を持ち出すために市役所へ入った。


 その日、偶然にも本物の中島は休みだった。


 机に置かれていた名札を利用した。


 そして。


 そこへ滝井が現れた。


『梅木伝承集を見せてください』


 慎吾にとっては、最悪のタイミングだったのだろう。


 だから滝井を民俗館へ向かわせた。


 その間に。


 資料を持ち出した。


 取調べで慎吾は、少なくともそこまでは認めたという。


 なぜ『梅木伝承集』を盗んだのか。


 警察へ話した理由は、


『家にとって都合の悪い記録が残っていたから』


 だった。


 刀墓の神女。


 白蛇。


 時間を越える抜け殻。


 そんな言葉は、警察の記録には一行も必要なかった。


 それで事件は解けた。


 いや。


 人間が起こした事件については。


     ◇


 警察が後光家を調べても、滝井が見た少女に該当する人物は確認できなかった。


 宗一郎も慎吾も、その少女については何も話さなかった。


 住民として登録されている者にも、該当する年齢の少女はいない。


 あの日。


 滝井が渡り廊下で見たのは誰だったのか。


 その答えだけは、最後まで出なかった。


     ◇


 三日後。


 滝井はホテルの部屋で荷物をまとめていた。


 当初の予定なら、とっくに東京へ帰っている。


「長かったなぁ……」


 着替え。


 カメラ。


 充電器。


 取材ノート。


 そして、完成させた奈良取材の記事。


 刀墓古墳のことも書いた。


 梅木の町のことも。


 そうめんのことも。


 地元の人々のことも。


 だが。


 刀墓の神女について、滝井はほとんど書かなかった。


 白蛇へ移った少女の意識。


 抜け殻。


 時間移動。


 後光家が代々守ってきた秘密。


 書こうと思えば書ける。


 材料なら、山ほどある。


 一冊の本にだってできるだろう。


 売れるかもしれない。


 けれど。


 滝井は書かなかった。


 真実を知ったからといって。


 すべてを世間へ晒すことが、必ず正しいわけではない。


 旅行ライターを長く続けていれば、それくらいは分かる。


 後光家は。


 秘密を守るために、人を殺した。


 なら自分は。


 人を殺さずに、秘密を守ればいい。


 それだけだ。


 ノートを閉じる。


     ◇


 チェックアウトを済ませ、梅木駅へ向かう途中。


 スマートフォンが鳴った。


 ママからだった。


『滝井ちゃーん』


 続けて。


『久ちゃん今日も来るって』


 さらに。


『責任取ってよ』


 写真が一枚届いた。


 カウンターで、えらく機嫌良さそうに酒を飲んでいる久一。


「馴染みすぎだろ……」


 滝井は吹き出した。


 返信する。


『俺より常連になってない?』


 すぐに既読がつく。


 滝井はスマートフォンをポケットへ戻した。


     ◇


 梅木駅。


 ローカル線へ乗る。


 窓側の席へ座った。


 電車がゆっくり動き出す。


 低い家並みが流れる。


 田んぼ。


 遠くの山。


 夏空。


 そして。


 やがて刀墓古墳の緑が見えた。


 滝井は窓へ顔を向ける。


「……」


 田んぼの向こう。


 道の脇。


 白いものが見えた。


 人だった。


 少女。


 長い黒髪。


 白い服。


 こちらを向いている。


 滝井の手が反射的にカメラへ伸びる。


 ストラップへ指を掛けた。


 そこで。


 止めた。


 少女は遠くにいる。


 顔までは見えない。


 それでも、なぜか。


 撮ってはいけない気がした。


 電車がカーブへ入る。


 木々が視界を遮った。


 数秒。


 再び景色が開ける。


 そこには、もう誰もいなかった。


 滝井はしばらく窓の外を見ていた。


 やがて、カメラから手を離す。


「……まあ」


 小さく笑った。


「そういうこともあるか」


 電車は梅木を離れていく。


 取材ノートの最後のページ。


 そこには一行だけ残っていた。


『刀墓の神女――所在不明』


 滝井はペンを取り出した。


 少し考える。


 そして。


『所在不明』


 その四文字を、一本の線で消した。


 代わりに書く。


『取材終了』


 ペンを置いた。


 ノートを閉じる。


 旅は終わった。


 少なくとも。


 今回の旅は。

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