第3話 スタンド部員リーダー 相沢
【読者の皆様へ】
本作品はフィクションです。実在の人物・団体・高校・特定の大会および行政機関・制度等とは一切関係ありません。
……
……?
……はっ、と息が戻る。
どれくらいの時間が経ったろう。
青白い画面に表示された弟からのLINEを見てから、俺は脳も身体も完全にフリーズしていた。思考が、感情が、言語化することを拒絶していた。
『父さん、テレビの前で泣いてたよ。「こんなことをさせるために、今まで……」って』
画面の文字が、暗がりの中で嫌にハッキリと浮かび上がっている。
親父……。
……わかってないなあ。何もわかってない。
俺は逃げるように画面を切り替え、SNSの検索欄を開いた。
ほら見ろ。世間の反応はこれだ。
『これぞ青春! 全力で応援する姿に感動した』
『道化に徹してチームを支える姿勢、本当に立派』
『こういう泥をすすれる奴は将来大きくなる』
タイムラインは、俺たちを称賛する温かいコメントで溢れていた。
……たまに「哀れすぎて見ていられない」「完全に罰ゲーム」なんて変なアンチコメントも流れてくるが、そんなのはどうせ俺たちの輝きに対する嫉妬だ。素直になれない哀れな奴らの遠吠えだ。
俺は膝を抱えたまま、ポジティブなコメントだけに片手で機械的に「いいね」を押し続けた。
画面の向こうの見知らぬ誰かの言葉で、胸の奥を温めるように。いつまでも、いつまでも、指を動かし続けた。
——あれから、15年。
細々と動画を投稿していた俺の野球系ネタYouTubeチャンネルが、突如として初めての「バズ」を体験していた。
きっかけは、スポーツ庁とかいうお堅い役所が「応援ダンスの禁止」を検討しているというニュースだった。街頭インタビューでマイクを向けられた俺は、カメラに向かってあの頃と同じように変顔をしてみせ、力強く言い放ってやったのだ。
「なくすなんてとんでもない! あれは僕らの最高の青春です!」
そのコメントが、15年前の甲子園のダンス映像と一緒に情報番組で全国放送された。
これぞ絶好のチャンス。俺はすぐに自分のチャンネルで「元応援リーダーが語る! あのダンスが僕らに教えてくれた最高の思い出」という動画を緊急アップした。
狙いはズバリ当たり、動画は瞬く間に数十万回再生を突破。コメント欄には応援のメッセージが殺到した。
やったぜ。俺はついに見つけたんだ。自分の「輝ける場所」を。
夜、暗い部屋でパソコンのモニターを見つめる。
『思い出最高!』『よく言ってくれた!』『甲子園の絆は永遠ですね!』
画面に並ぶ肯定的な言葉の数々。時折混ざる『現実逃避乙』『惨めな過去を美化するな』といった不快なアンチコメントは素早くスクロールして視界から消し、嬉しいコメントにだけ片っ端から「いいね」を押し続けた。
15年前のあのボロ宿舎の夜と同じように。朝の光がカーテンの隙間から差し込んでくるまで、ひたすらマウスをクリックし続けた。
それからの俺は「応援ダンスを〇〇でやってみた」でシリーズ化し、次々動画を上げた。そうするとコラボ依頼が次々舞い込んできた。
コラボ依頼…おお、まさにYouTuber。俺は初めての体験に舞い上がった。『そんなとこで踊ったら迷惑だろ』みたいなしょうもないアンチコメもたくさん来てたが「醜いやつら」と鼻で笑った。
そんなある日、YouTubeのDM欄に一通のメッセージが届いた。
差出人は、高校時代、野球部で同期だった田村。
『久しぶり。近いうちに一度、メシでもどうだ?』
……田村?
現役時代、特別仲が良かった記憶はない。グラウンドの隅で山田と二人、いつも暗い顔でボソボソ喋っていた印象しかない男だ。
そんな奴から突然の飯の誘い。
まあ、テレビに出てYouTubeもバズって、有名になった俺にあやかりたいんだろうな。有名人は辛いぜ。
「……しょうがねえな。つきあってやるか」
俺は薄暗い部屋で一人、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべ、快諾の返信を打ち込んだ。
甲子園二回戦。グラウンドでは俺たちの学校が押しに押しまくる、怒涛の展開だった。
アルプススタンドの熱気は最高潮に達し、俺たちのダンスのキレもどんどん増していく。
スタンド最前列、眼前に迫るテレビ局の大きなカメラを構えるカメラマンとバチッとアイコンタクトを交わす。
よし、今だ……!
レンズに向かって、全力で変顔とキレのあるポーズを決めてやった。絶好調だ。俺はいま、間違いなくこの甲子園の中心にいる。
だが、後ろの奴らはどうだ。山田や田村のダンスは、相変わらずぎこちなく、死んだような顔をしている。まったく、ノリの悪い、仕方ねえ奴らだ。俺は振り返り、彼らに向かって怒号を飛ばした。
「おら! もっとキレ出せよ!!」
怒鳴り散らした後、すぐさまカメラの方へ向き直り、満面の笑みを貼り付ける。カメラに映る自分は、いつだって「全力で仲間を応援する最高のリーダー」でいなきゃいけないんだ。
七回裏、攻守交代のタイミングだった。
汗だくの俺たちの前に、一台の大きなクーラーボックスを抱えた一人の小綺麗な中年男性が現れた。
真っ先に気づいたマネージャーの彩花が駆け寄った。楽しげに二人で話している。
あれは確か佐竹のお父さんだったか。少し前まで田村の彼女だった女が、もう新しい彼氏の父親と仲良しこよしか。節操のない女だ。
彩花がスタンド全体に向かって声を張り上げる。
「みんなー! 佐竹くんのお父さんが、冷たいスポーツドリンク差し入れしてくれたよー!」
「あざーす!!」
応援団全員で声を揃えて叫ぶ。
佐竹のお父さんは、スタンドの俺たちに向かって深く頭を下げ、声を振るわせた。
「みんなの応援のおかげで、息子もグラウンドで頑張れてます! 本当にありがとう!」
俺はすぐさま声を張り上げ、スタンドのコールを先導した。
「佐竹! 佐竹! 佐竹!」
手拍子がアルプススタンドに響き渡る。佐竹のお父さんは目元を潤ませながら、誇らしげに胸を張った。
「ありがとう!……本当に、自慢の息子です!」
自慢の息子……。
その言葉が、なぜか頭の中で絶え間なく反響した。
俺はその後も、カメラに向かって、スタンドに向かって、必死に汗を飛び散らせてダンスを続けた。けれど、いくら踊っても、いくら叫んでも、その反響が消えてくれなかった。
『自慢の息子です』
……じゃあ、俺は……。泥汚れのないきれいなユニフォームのまま、グラウンドに一度も立てず、スタンドで変顔をして踊っている俺は…。
あの日送られた弟のLINEを思い出す。
『父さん、テレビの前で泣いてたよ。「こんなことをさせるために、今まで……」って』
——そして今。目の前の居酒屋の席に、田村が座っている。
田村から切り出された話は、あまりにも唐突で、理解しがたいものだった。
世間を騒がせているスポーツ庁の「応援ダンス禁止」の動き。その裏で糸を引いているのが、あの影の薄かった同級生、山田だというのだ。
「なんでそんなことすんだよ!?」
俺はビールグラスを机に叩きつけるように置き、声を荒げた。
「俺たちのあの夏の思い出を潰す気か!? あれは俺たちの最高の青春だったろうが!」
熱弁を振るう俺を、田村は冷え切った、哀れむような目で見つめていた。
「相沢……お前、本気で言ってんのか? あんな屈辱を、あんな惨めさを……お前は本気で受け入れてたのか?」
「屈辱だと!? 誰のおかげでバズったと思ってんだ! 青春を否定すんじゃねえよ!」
その後も、会話はどこまで行っても平行線だった。俺は必死に「あの夏は素晴らしかった」と捲し立て、田村は静かにそれを否定し続けた。
「……お前には悪いけど、無駄足だったな。俺の意見は絶対に変わらない」
吐き捨てるように言い捨て、俺が冷めた焼き鳥に手を伸ばそうとした、その時だった。
居酒屋の壁掛けテレビから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
…え?
思わず視線を奪われる。画面に映っていたのは、俺の親父と、俺の弟だった。
特集番組のテーマは「若き起業家の挑戦」。
俺が高3の時、弟は中3だった。弟も中学までは野球をやっていたが、高校では野球部に入らず、毎日毎日勉強に打ち込んでいた。青春も何もかも犠牲にして。そして大学在学中に起業し、今や注目の若手実業家としてメディアに取り上げられていたのだ。
画面の中、マイクを向けられた親父が、誇らしげに、けれどどこか感慨深そうにインタビューに答えていた。
『自分が主役になれる場所を探し続け、もがき続けた息子は……本当にカッコいいです』
親父はカメラに向かって、照れくさそうに、しかしはっきりと笑ってみせた。
『私の、自慢の息子ですよ』
自慢の息子……。
画面が次のニュースに切り替わっても、俺はテレビを見上げたまま、ピクリとも動くことができなかった。
頭の中が真っ白になり、心臓の音が耳元でうるさく脈打つ。
自慢の……息子……。
そうか。弟は探してたんだ。
自分には野球の才能がないという残酷な現実を直視し、それならばと、自分が「主役」になれる別の場所を努力を重ねて探し続けたんだ。
じゃあ……俺は?
応援席の一番前で一番おどけて一番変顔して一番腰を振ることで…「脇役の中の主役」になろうとしてた。
それの何が悪い?
それが俺の生きる道だろ…?
……ん?
なんだこれ。
頬に、生ぬるい感覚が伝ってきた。
指先で触れる。濡れていた。
あ……。
涙だった。
15年間、必死に覆い隠してきた巨大な傷口が晒された気がした。止めようもなく、温かい涙が溢れ出していた。
向かいに座る田村の顔が、滲んで何も見えなくなっていた。
溢れ出た涙とともに、ずっと心の奥底に重い蓋をして封印していた記憶が、一気に蘇ってくる。
二回戦を圧勝したあの日。
俺はテレビ局のスタッフに手招きされ、バックネット裏のメディアゾーンへと連れていかれた。取材を受ける選手たちと、スタンド組代表である俺とがハイタッチする「感動の絵」が撮りたいのだろう。
いいだろう。この甲子園の主役である俺が、疲れたあいつらをド派手に激励してやろうじゃないか。そうやって自分を奮い立たせていた。
取材待ちの選手の中に、2戦連続決勝ホームランの佐竹の姿を見つけた。
その隣には、いつの間にか彩花が寄り添っている。
女狐め。いまから男の熱い友情シーンを撮るんだ。女はすっこんでろ。
俺はカメラの存在を意識しながら、佐竹に勢いよく声をかけた。
「ナイスホームラン! お前最高だったぞ、佐竹!」
だが、佐竹は俺の顔を見るなり、ポカンと口を開けて固まっていた。まるで、見知らぬ不審者に急に話しかけられたかのような顔で。
それを見た彩花が、佐竹の背中を肘で小突いて、「ほら、感謝」と小声を漏らした。
俺には聞こえないように気を使ったつもりだったのだろう。ごく小さな声だった。だが、雑音の中にもかかわらずその囁きは、嫌にハッキリと俺の耳に届いた。
ハッと我に返った佐竹は、胸を張り、カメラに向けるような完璧で爽やかな笑顔を貼り付けた。
「いつも応援ありがとう! これからもよろしくな!」
完璧なファン対応だった。
そこにあったのは、共に汗を流した「仲間」の距離感じゃない。圧倒的な「スター選手」と、その他大勢の「ファン」の境界線だった。
メディア対応の時間が終わり、選手たちが次々と引き揚げていく。
俺はその通路に立ち、通り過ぎる部員たちと次々にハイタッチを交わした。
「ありがとな!」「マジ感謝してるぜ!」「次もキレキレのダンス頼むわ!」
誰もがそう言って笑いかけてくれる。けれど、その瞳の奥には何の感情もなかった。どこまでも空々しく、記号的な言葉。
最後に、中村監督がやってきた。
監督は彩花から何かを耳打ちされると、大げさな身振りで俺の肩を強く抱き寄せ、カメラに聞こえるような大声で叫んだ。
「いい応援だったぞ! 今日の勝ちは、お前たちの応援のおかげだ! 本当にありがとう!」
大人たちの「演出」が終わり、カメラマンたちが去っていく。
熱気を失った静かな通路で、俺はポツンと一人、立ち尽くしていた。
「……ぷっ」
不意に、小さな嘲笑が耳を打った。
誰だ。
振り返って睨みつけると、そこには今日俺たちが打ち負かした相手チームの選手が立っていた。
お前らは敗者だろ。俺たちに手も足も出なかった雑魚が。
負け犬の分際で、何を笑ってやがる。
笑うな。
俺を見て笑うな。
場違いだって言いたいのかよ。
ちくしょう……。ちくしょう……!
「お、おい……! 大丈夫か、相沢!?」
自分の袖口で必死に涙を拭うと、目の前におっさんになった田村の顔があった。
そうだった。俺は今、居酒屋の個室で、田村と向かい合って座っていたんだ。
「田村……俺……」
15年分の感情が決壊して、喉が引きつり、うまく言葉にならない。
胸の奥で、ずっと鍵をかけて閉じ込めていた本当の叫びが、喉元まで押し寄せてくる。
「俺……悔しいよ……」
ようやく絞り出せたのは、情けないほど小さく、掠れた声だった。
自分の3年間を、15年間の虚構を、すべて否定する言葉。
惨めで、惨めで、たまらない言葉。
だけど——。
吐き出した瞬間、その惨めなはずの言葉が、温かく自分自身を包み込んでいくような気がした。
俺は初めて、自分の悲鳴を、自分自身で聞いてやることができたのだ。
甲子園は、4試合目の準々決勝で敗れた。
ベスト8進出。うちの高校にとっては文句なしの快挙だった。
地元に戻って二週間ほど経った頃、俺のもとにテレビ局から取材の申し込みが入った。
テーマは「甲子園を盛り上げた応援ダンスの反響」だと聞かされていた。だが、カメラが回り始めると、インタビュアーの口から飛び出すのはSNSに関する質問ばかりだった。
「やっぱり、ネット上の心無い声は怖かったですか?」
「まあ、そうですね…」
「SNSで応援を誹謗中傷する人たちについて、どう思われますか?」
「いやあ、どう言ったらいいか…」
「高校生を守るために、SNSの投稿を規制してほしいと思いませんか?」
「そこまでは…いや、そうかも…。」
彼らは最初から「傷ついた健気な高校生」というストーリーを描きたがっていた。誘導尋問のような質問を重ねられるうち、俺の脳内には強烈な刷り込みが完成していった。
——そうだ。俺たちの青春を『哀れ』だの『罰ゲーム』だのと笑うネットのアンチどもがおかしいんだ。俺たちは何も間違っていない。あれは最高の、輝かしい思い出なんだ。
あの執拗なメディアの誘導によって、俺の心は完全に麻酔を打たれた。
あの夏に感じた本当の悔しさも、ベンチに入れなかった惨めさも、一介のファンの様な対応をされた虚しさも、すべて「悪質なアンチのせい」にして、深い闇の底へ閉じ込め、蓋をしてしまったのだ。
……そして今。
俺は自宅の部屋で、YouTubeの生配信カメラに向かって座っている。
隣には、静かに俺を見守る田村の姿があった。
「……みなさん、こんばんは。今日は、これまで僕が発信してきたことについて、本当の気持ちをお話ししたくて配信しています」
溢れる涙を拭おうともせず、俺は言葉を紡ぐ。
あんなダンスは、決して美しい青春の思い出なんかじゃなかったこと。
アルプススタンドで珍妙なおどけ方をして、自分を「脇役の中の一番」に見せかけようと必死に逃げていただけだったこと。
こんな惨めで傷つく経験を、これからの後輩たちに絶対に繰り返させてはいけないこと。
「俺は……自分には才能がないという現実から逃げて、主役になることを諦めていました。でも、これからはもう逃げません。応援席の道化じゃなく、自分の人生の主役になれる何かを、血反吐を吐いてでも探したいと思っています」
胸のつかえが、すべて吐き出されていくようだった。
カメラの向こう側、画面の脇を流れるコメント欄には、信じられない速度で無数のチャットが殺到している。
称賛、批判、困惑、炎上——。
田村と一瞬、目を合わせる。
『山田……これでいいよな』
心の中で、霞が関で戦うもう一人の仲間に語りかけた。
俺はそっと、パソコンのモニターの電源を切った。
画面が真っ黒になり、コメントの濁流が消え去る。
もう、見ない。
「いいね」の数も、世間の評価も、アンチの言葉も、今の俺にはどうだっていい。気にしている暇なんてないんだ。
俺は今日から、俺自身のフィールドを探しに行かなきゃいけないのだから。
弟からLINEが届いた。
「父さん、『頑張れよ』ってさ」




