第2話 スタンド部員② 田村
【読者の皆様へ】
本作品はフィクションです。実在の人物・団体・高校・特定の大会および行政機関・制度等とは一切関係ありません。
「田村くん、別れたいの」
一方的にそう告げられてから、わずか数日後のことだった。
甲子園開幕を控えた炎天下、サブグラウンドで山田とともに、スタンド組リーダーの相沢が考えたあの珍妙なダンスの練習を強制されていた時のことだ。フェンスの向こう側を、彩花と四番でチームホームラン王の佐竹が当然のように手を繋いで歩いていた。
15年経った今でも、時々あの光景が夢に出てくる。
俺は今、地元の少年野球チームでコーチをしている。
「全員に平等に出場機会を与える」
「勝ち負けよりも大事なことがある」
「まずは野球を好きになってもらうこと」
それが俺の指導方針であり、譲れない理想だった。このチームなら、上手い奴もヘタな奴も関係ない。誰だって歓迎だ。
だが、そううまくはいかない。
練習後、チームのエースである少年とその父親が、あからさまに不満そうな顔で俺のもとへ歩み寄ってきた。
「コーチ。あいつら試合に出すの、もうやめてよ」
少年が不機嫌そうに指さした先には、親に無理やり連れてこられた奴や、ただ友達と遊ぶ感覚で来ているだけの子供たちがいた。グラウンドの隅で、やる気のなさを隠そうともせずダラダラとボールを転がしている。
「いいか、このチームでは勝ち負けよりも大事なことが――」
俺が口癖のように使ってきた定型句を繰り返そうとした瞬間、今度は父親が冷ややかに割り込んできた。
「コーチ。勝たなきゃ、何も得られないでしょう?」
——勝たなきゃ、何も得られない。
胸の奥を、冷たい刃物で刺された気がした。
そうだ。あの夏、彩花だって敗者である俺を捨て、四番でチームホームラン王の佐竹にあっさりと乗り換えたのだ。もっとも、甲子園が終わった後に彩花は佐竹すらあっさり捨てて別の男に乗り換えたらしいが……。
そうか。世の中は、最初からそういう仕組みなのかもしれない。勝ち続けなければ、居場所も、誇りも、恋人すら繋ぎ止めることはできない。
その後、俺が彼らにどう返事をしたのかは覚えていない。自分の抱く「理想」の言葉が、あまりにも空っぽで、何の説得力も持たないゴミのように思えた。
ポケットの中でスマホが震えた。画面を開くと、山田からの短文のLINEが届いていた。
『パブリックコメント、開始した』
霞が関の厳しい現実の中で戦うあいつの顔が目に浮かぶ。
山田……俺の理想は、地域の少年野球チームの親子にすら届かなかったよ。
お前のその戦いは、勝てるのか……?
甲子園一回戦。かんかん照りのアルプススタンドで、俺は山田と並んで珍妙なダンスを踊っていた。
心の中で「負けろ、負けろ」と呪いを唱えながら、山田と何度もアイコンタクトを交わす。
6回裏。4番の佐竹が、相手投手のチェンジアップに泳がされて空振り三振に倒れた。その瞬間、思わず山田の方へ振り向いた俺の顔には、きっと笑みがこぼれていたはずだ。カメラや応援団に向けた作り笑いなんかじゃない。「ざまあみろ」という、泥のように濁った本気の嘲笑だ。
だが、ハッと正気に戻って前を向き直した瞬間、前列の席に座っていた彩花とバチリと目が合った。
あの時、彩花はどんな思いで俺を見ていたのだろう。
幻滅か。哀れみか。それとも蔑みか。
どれともつかない、感情の読めない「なんとも言えない顔」で俺を見つめていた。彩花の真意はわからない。だが俺は見られているという事実に耐えきれず、咄嗟に目を逸らしてしまった。
——そして今、俺はグラウンドで子どもたちと保護者たちの視線を一身に浴びている。
「勝たなきゃ意味がない」と言っていたエースを含め、元々やる気のあった子たちは全員、近隣の強豪クラブチームへ移籍してしまった。
残ったのは、親に言われて渋々来ているような、やる気のない子どもたちだけだ。俺はそれでも必死に、丁寧に彼らを指導する。
「いいか、まずは野球を楽しもう! 打てなくたっていいんだ!」
声高に理想を叫ぶ俺を、子どもたちはポカンとした顔で眺めている。やる気を出すでもなく、かといって反抗してくるわけでもない。何を考えているのかさっぱり分からない無感情な目で、ただ俺を見つめている。
その日の夜、自宅のテレビをつけると、ワイドショーに相沢が出演していた。
「甲子園のスタンドで学んだ絆は、社会に出てからの何よりの糧になります!」
熱弁を振るう相沢を見て、思考が止まる。コイツは一体何を言っているんだろう。まるで理解できない。
ふと、テレビ画面の暗転した黒に、自分の顔が映り込んだ。
ただ見ているというだけ。顔の力が抜け切ったその表情——。
あ……。
あの夏、アルプススタンドで俺を見つめていた彩花の顔。
今日、グラウンドで俺の説教をポカンと聞いていた子どもたちの顔。
鏡に映った俺の表情は、あの時の彼らと、恐ろしいほどそっくりだった。
あの一回戦勝利の翌日。俺たちは大会本部が手配した大学の練習場に集められていた。
グラウンドの中央でレギュラー組が軽めの調整を行っているのを横目に、俺たち補欠組は隅のわずかなスペースに追いやられ、相沢の指揮の下ダンス練習をしていた。
「おい、もっとキレを出せよ! 2回戦はもっと俺たちが注目されるんだぞ!」
相沢の怒号が夏空に響く。俺はグラウンドにいる佐竹や彩花の姿が視界に入らないよう、意図的に背を向けて踊っていた。
ふと隣を見ると、山田がじっとグラウンドの奥を見つめている。視線を辿ると、中村監督がレギュラー組の一人ひとりに寄り添い、熱心に声をかけている姿があった。
「中村監督……やっぱり良い監督なんだろうな。全国で勝たせるくらいだし」
「そうだな。……レギュラー組にとってはな」
「まあ、俺たちにとってはほぼ赤の他人だけどな。ろくに話したこともない」
「話した記憶といえば、こないだの俺たちの引退試合くらいか。あの時、初めてベンチで指揮を執ってくれたけどさ……ボロ負けしてることより何より、自チームの選手の顔と名前が一致しないことに困ってるって顔してたぜ」
「……マジかよ。通りであんな酷い試合展開なのに、怒号の一つも飛んでこなかったわけだ」
俺たちが声を押し殺して笑い合っていると、すかさず相沢から「集中しろ!」と怒声が飛んだ。俺たちは顔を見合わせ、引きつった笑みのまま、また渋々と珍妙なダンスの練習に戻った。
——俺は、絶対に中村監督のような指導者にはならない。
そう心に誓って、少年野球の指導を続けてきた。上手い子はもちろん、ヘタな子も、親に無理やり連れてこられた子も、全員に一人ひとり丁寧に声をかけた。
チームの練習時間内だけでは伝えきれなかった課題があれば、練習風景を撮影し続けた動画から静止画を切り出して印刷し、そこに自筆でフォームのアドバイスや改善点を書き込み、本人か保護者にメールで送った。一撃で分からせるようなスパルタではなく、子どもたちの目線に立った指導を貫いてきたつもりだった。
そして今日、今年度のチームの最終戦が終わった。
結果は一勝もできず、全敗でシーズンを終えた。それでも、あのやる気のなかった子どもたちが最後まで一生懸命グラウンドを駆け回ってくれた。一つでもいいプレーをしようとしていた。俺は指導者として、大きな満足感を覚えていた。勝ち負けよりも大切なものを伝えられたのではないか、と。
試合後の片付けの最中、卒団する6年生の男の子に何気なく尋ねた。
「中学に行っても、野球は続けるか?」
男の子はバットをバッグに仕舞いながら、心底嫌そうな顔で首を振った。
「……嫌ですよ。部活で野球なんかやったら、スタンドで踊らされるんでしょ?」
喉の奥が引きつり、声が出なくなった。
俺がどれだけ一人ひとりに寄り添い、丁寧な指導を重ねて「野球の楽しさ」を教えようとしても無駄だった。毎年毎年、あのアルプススタンドで全国に撒き散らされている「足りない者たちが晒し上げにされる姿」は、この子たちの未来から、野球という選択肢そのものを奪い去っていた。
俺は何も言い返せないまま、西日の射すグラウンドで立ち尽くすことしかできなかった。
甲子園2回戦の前日。俺たちは「学校を代表している」という名目の下、自由な外出すらほとんど許されずにいた。
昼間は炎天下のグラウンドの隅でひたすらダンスの練習。プレハブのようなボロ宿舎に帰れば、大部屋に押し込められた大勢の部員の中で、机すらなく膝の上で大学受験の参考書を開く。そんな惨めな日々を過ごしていた。
夕方、引率教員の許可を得て、買い出しのために山田と近くのスーパーへ向かった。
店内に入ると、地元の女子高生たちがチラチラとこちらを見ながら、ひそひそと囁き合っている。
嫌な予感がした。
「ねえ、甲子園で踊ってた人たちですよね!?」
やめろ。
「テレビ見ましたー! 超ウケる! かわいかったー!」
やめてくれ。
「ここで踊って見せてよー!」
甲高い声で囲まれる。頼む。やめてくれ……心の中で悲鳴を上げた。
俺と山田は一言も発せず、ただ黙っていた。山田と目が合う。
……なあ山田。いっそもう、このままピエロを受け入れちまおうか。ヘラヘラと笑って彼女たちのノリに付き合って、ちょっと踊って見せたら、案外楽しいんじゃないか?
そんな思考が頭をよぎる。山田の目も同じ迷いを映していた。だが、それをやってしまった後、果たして俺たちは人間と呼べるのだろうか。
「なんで黙ってるのー?」「ほら早くー!踊ってよー!」
無邪気な追撃が俺たちの首を絞める。もう限界だ。折れてしまおう。ピエロになる方が、きっと楽しいんだ。
そうなんだろ?
ほら、笑えよ俺…。
…
バシィン!!
強烈な衝撃と激痛が、俺の背中に走った。
「がはっ……!?」
息が詰まり、思わず前かがみになる。
思いっきり叩かれた…。誰だ……!?
振り返ると、人混みを押し分けてざっざっと立ち去っていく後ろ姿が見えた。
彩花だった。
彼女がなぜあの時、そんな行動に出たのか。15年経った今でもわからない。
——そして今、俺は居酒屋で山田と向かい合って酒を飲んでいる。
「どうだ? 少年野球チームのコーチは」
「どうもこうも……聞いてくれよ……」
俺は最近の鬱屈や、卒団する子どもから投げかけられた絶望的な言葉を、一通り山田に打ち明けた。
山田は静かに俺の愚痴を聞いた後、手元のグラスを見つめたままボソリと漏らした。
「……実は俺もな、弱気になってるんだ。政治家も高野連も誰も本気に受け止めてくれない。……勝てないかもしれない」
あの冷徹で、15年間復讐の刃を研ぎ続けてきた山田が、弱音を吐いている。
そうか……。相手は高野連で、政治家たちで、一人で制度を変えようってんだ。
仕方ないよな……俺たちみたいな補欠男が、勝てるわけないんだ……。
仕方ないよな。
仕方ない。
今日はとことん飲もうか。
あ、だし巻きうまそうだな
…
…
バシィン!!
背中に、強烈な衝撃と熱い痛みが走った気がした。
思わず後ろを振り返る。誰もいない。当然だ。ここは居酒屋の個室で、俺と山田が二人で座っているだけだ。幻覚だ。
だが、あの日彩花に叩かれた背中の感触だけが、皮膚の奥で確かに脈打っていた。心を折ることを許さなかった、あの拒絶の一撃が。
俺の口は、目の前の山田に向かって、唐突に早口で言葉を吐き出し始めていた。
「俺、相沢に会ってくるよ!」
「……え?」
「あいつ、いまやこの問題で物申す系Youtuberとしてプチ炎上して注目されてるだろ。あいつのスタンスを変えさせられたら、世論の空気だって変わるかもしれない。それから中村監督にも会いに行く。今さら会って何になるか分かんねえけど、何か意味があるかもしれない!」
一息に捲し立てた後、俺はしばらく言葉を詰まらせ、ゆっくりと付け加えた。
「……佐竹にも、彩花にも会ってくる」
俺の背中にはまだ、あの日の痛みが残っている。
ただ悲鳴を上げて引き下がるだけの15年前の俺たちとは、もう違うはずだ。




