第1話 スタンド部員① 山田
【読者の皆様へ】
本作品はフィクションです。実在の人物・団体・高校・特定の大会および行政機関・制度等とは一切関係ありません。
「負けろ……負けろ……!」
俺は胸の奥、歯を食いしばるその裏で、呪いのように叫び続けていた。
八月の太陽が叩きつける甲子園、三塁側のアルプススタンド。カンカンと響く金属音とブラスバンドの狂乱の中、俺の眼前には巨大なテレビカメラのレンズが迫っていた。ニヤついた笑みを浮かべるカメラマンの手元で、赤ランプが点滅している。
最前列に立つ応援団のリーダー、相沢が、汗だくの顔をこちらに向けて吠えた。
「おい、山田!もっとキレを出せよ! 俺たちの最後の甲子園なんだぞ!」
渋々従い、俺は全力で珍妙なダンスを踊った。
顔を引きつらせ、必死で笑顔を作り、泥にまみれてグラウンドを駆け回る同級生を応援するフリをしながら、泥ひとつないきれいなユニフォームのまま、心の底から自校の敗北を祈っていた。
負ければ、この地獄が終わる。
負ければ、猛暑の中でピエロを演じ続けずに済む。
負ければ——俺の崩れ落ちた尊厳の、残りかすだけでも守れる。
3年間、ただの一度もベンチに入れず、球拾いと走り込みだけで終わった高校野球。その集大成が、この惨めな踊りだというのか。
隣には、まったく同じ3年間を過ごしてきた田村がいた。相手打線の打球が外野を抜けるたび、俺たちは一瞬だけ目を合わせる。声には出さない。『やったな』『よし、いける』言葉のないアイコンタクトで、黒い祈りを確かめ合っていた。
だが、祈りは届かなかった。
ダンスの振り付けで後ろを向いていた、その時だ。
乾いた金属音が甲子園に響き渡り、すぐ近くに座っていたマネージャーの彩花が悲鳴のような歓声をあげた。
9回裏、二死からの4番佐竹のサヨナラ本塁打。
バットを放り投げた佐竹は、スタンドの彩花に向かって指をさしながら、ゆっくりとダイヤモンドを回った。歓喜に爆発するスタンドの中で、俺はカメラに向かって必死に飛び跳ねなければならなかった。笑顔は…つくれていなかったと思う。
『アルプススタンドも一体となり勝ち取った勝利です!』
夕方のニュースで、中村監督は誇らしげにカメラへそう語っていた。そしてその夜、俺たちのダンスの切り抜き動画はTikTokでバズり、数百万回再生された。コメント欄には「全力で応援する姿に涙」「一生の宝物だね」という無責任な感動と、「哀れすぎて見ていられない」「完全に罰ゲーム」という嘲笑が溢れかえった。
——あれから、15年。
「……以上が、高野連および各加盟校に対する『部員出場機会均等化命令(仮称)』の概要です」
静まり返った霞が関、スポーツ庁の第1会議室。
効きすぎたエアコンの冷気が、薄くなったスーツ越しに肌を刺す。俺は感情を完全に削ぎ落とした声で、プレゼンテーションを締めくくった。
15年間、あのアルプススタンドでのダンスに対する議論は、毎年恒例、もはや夏の風物詩と化していた。
『あまりに惨め過ぎる。見ていて不快だ、今すぐやめさせろ』
『これを否定する奴は団体競技をやったことがない。スタンドもチームの一員だ』
『悔しさをバネに道化までやり抜く姿は立派。こういう人は将来大きくなるよ。経営者として私はこういう若者を採用したい』
『チームの力になる? あの珍妙なダンスが? ただの承認欲求だろ』
外野が好き勝手に語り合う空疎な議論を、俺は冷ややかな目で眺め続けてきた。そしてキャリア官僚となり、ようやくこの「狂気」に制度として手をかけられる立場に辿り着いたのだ。
球拾いで終わり、最後に惨めに踊らされる悲劇は、俺の代で終わらせる。
「改革案の柱はふたつ。各校の複数チーム、つまりAチーム・Bチーム等による予選出場の解禁。そして、不当な補欠放置や応援強制を行った学校に対する、段階的な高野連からの除名処分です」
マイクを置き、ずらりと並んだ会議の出席者たちを見渡す。
彼らの顔には、かつて甲子園のスタンドで俺に向けられたカメラマンと同じ、歪んだ笑みが浮かんでいる気がした。
「君の言いたいことはよく分かった。まあ、まずは世論に投げかけてみて、国民の反応を見てみようじゃないか」
スポーツ庁長官の重厚な声が、第1会議室に響いた。
「そうですね。まずはパブリックコメントの募集やアンケート調査から始めるのが現実的かと」
脇を固める幹部たちが、事もなげに頷いて追従する。だが、彼らのどこか浮ついた返答と眼差しは、誰一人としてこの問題を真剣に捉えていないことを雄弁に物語っていた。
無理もない。長官をはじめ、この部屋に座る幹部たちはみな元超一流アスリートだ。幼少期から圧倒的な才能を見出され、常に「光」の中を歩いてきた者たち。
それにスポーツ庁幹部は伝統的に五輪競技出身者で固められる。彼らにとって野球は国内外の興行団体、スポンサーである民間企業が口を出してくる厄介な聖域であり、本音では「関わりたくない面倒事」なのだ。
彼らの関心は「国際大会でメダルを何個獲れるか」と「自分の出身競技をいかに発展させるか」、その二つだけ。
だがどの競技であっても関係ない。競技を発展させるために底辺を広げれば広げるほど、そのピラミッドの暗がりに「一度もチャンスを与えられず、影に生きる者たち」が大量発生するという現実を、その者たちの歪んだ心理を、彼らも知るべきだ。
彼らの能天気な顔を見つめる俺の胸中に、密かな苛立ちが湧き起こる。それと同時に、ふと、あの日の不快な記憶が鮮明に蘇ってきた。
1回戦を突破したあの日。
試合が終わっても、スタンド組の俺たちが勝利に湧くベンチ入りのメンバーと顔を合わせることはなかった。パタパタと今日のヒーロー、佐竹のもとに走っていくマネージャーの彩花を目で見送る。彩花は春頃まで、田村の彼女だった。田村は今どんな思いだろうか。俺は、隣に立つ田村の顔を見ることができなかった。
俺たちは勝利の輪に加わるどころか直接「おめでとう」を言う機会すら与えられず、そのまま大型バスに押し込まれ、プレハブ小屋のようなボロ宿舎へと連れ戻された。
バスを降りるなり、最前列でダンスを指揮していたリーダーの相沢が、興奮気味に声を張り上げた。
「おい見ろよ! 俺たち、TikTokでめっちゃバズってるぞ!」
スマートフォンを掲げる相沢の周りに、相沢とともに前列でダンスを踊っていた数人が集まり、「マジか!」「俺たち有名人じゃん!」と歓声をあげてハイタッチを交わす。
俺はその光景を、吐き気にも似た苦々しさで見つめていた。
お前ら……こんな惨めな姿を全国に晒して、なんでそんな誇らしげに笑えるんだ。
なぜ怒りを感じない?
カバンの奥から重い手つきでスマートフォンを取り出す。画面の通知欄には、母からのLINEが表示されていた。
『テレビ映ってたよ! 楽しそうに踊ってたね!』
視界が歪んだ。
俺が……俺が、こんな惨めな姿でテレビに映りたかったわけがないだろう……!
3年間、毎日泥だらけになって白球を追いかけてきた結末が、これなのか……!?
なぜ誰もわかってくれないんだ!
心の中ではち切れんばかりの声で叫びながら、俺はスマートフォンの画面を固く閉じ、ポケットに押し込んだ。
——あれから15年経った今も、目の前にいる光の世界の住人たちは何もわかっていない。
「……承知いたしました」
俺は感情を殺した声で短く応じ、手元の資料を整えた。
「パブリックコメントの実施要綱はすでに起草済みです。明日付で官報に掲載し、高野連側へも同時に通知を行います。反対意見の集約も含め、スケジュール通り進めさせていただきます」
「……あ、ああ。よろしく頼むよ」
淡々と書類を鞄に収める俺の手元を、長官たちがどことなく気圧されたように見つめていた。
熱弁など振るわない。彼らの「お茶を濁そうとする意思」すらも織り込み済みで、淡々と手続きを進める。
俺の戦いは静かに進む。一歩一歩。
一回戦を突破した日の夜。ボロ宿舎の大部屋は、汗の臭いとカビ臭さ、そして蚊取り線香の煙が混ざり合った独特の空気で澱んでいた。
消灯前、俺は隣のパイプベッドに横たわる田村と少しだけ言葉を交わした。
「おれが正気を保っていられるのは、お前がいるおかげだよ」
「俺こそそうだ。お前がいなければ完全に狂ってたかもしれない」
そう言って泥のように眠りに落ちた夜中——。ふと目を覚ますと、窓際の暗がりにぽつんと人の影があった。
相沢だった。
背を向け、床に直接座り込んだまま微動だにしない。昼間、誰よりも大きな声で「バズった!」と騒ぎ、最前列でダンスを先導していたあの応援リーダーだ。
「……相沢?」
潜めた声で呼んだが、返事はない。不審に思い、音を立てずに近づいた俺の足元に、青白い光を放つスマートフォンが転がっていた。
画面は開いたままだ。意図せず目に入ってしまったトーク画面には、弟からの短いメッセージが表示されていた。
『父さん、テレビの前で泣いてたよ。「こんなことをさせるために、今まで……」って』
息が詰まった。
相沢の背中は、相変わらず微動だにしない。
……これは、応える。
硬式野球を続けるために親がどれほどの金を負担し、どれだけの時間を費やしてくれたか、俺たちには痛いほど分かっていた。道具代、遠征費、食費。親父さんは、息子の晴れ姿を、グラウンドで活躍する姿を夢見て必死に支えてきたはずだ。
その集大成が、全国放送で晒された「珍妙なダンス」だった。
バズったと無邪気に騒いでいた相沢のあの笑顔も、惨めさを誤魔化すための虚勢に過ぎなかったのだろう。俺は何も言えず、そっと自分のベッドへ戻ることしかできなかった。
——あれから15年。
スポーツ庁の執務室。俺はノートパソコンの画面で、朝の情報番組の特集コーナーを無表情に見つめていた。
『甲子園の華! 応援ダンスに迫る廃止の危機』という扇情的なテロップの下で、街頭インタビューに答える男が映し出されている。
少し肉付きは良くなったが、間違いない。相沢だ。
「いやあ、あのダンスは僕らの青春そのものですよ!」
マイクを向けられた相沢は、カメラに向かって、15年前と同じように変顔をしておどけてみせた。
「俺たち全員にとってあれはかけがえのない思い出です! あれをなくすなんて、とんでもない。後輩たちの輝く場所を奪わないでほしいですね」
吐き気がした。
お前……それ、親父さんの前で言えんのかよ。
あまりにも惨めな過去を直視できず、「かけがえのない思い出」という嘘で上書きして自分を慰めているのだろうか。それとも本当に、プライドという概念を持ち合わせていない男だったのだろうか。
俺には理解しがたいが、あれを美しい思い出と本気で思う人間も、きっと世の中にはある程度いる。……恐ろしい勢力になる。
俺が仕掛けた『部員出場機会均等化命令』のパブリックコメントに対する国民の反応は、真っ二つに割れていた。
「よくぞ言ってくれた」という賛同の声と、「青春の絆を官僚が壊すな」という猛反発。
俺はパソコンの画面を閉じ、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
反対意見が出るのは織り込み済みだ。勝負はここから世論がどちらに傾くか。今まで泥水をすする思いで駆けずり回ってきた、そしてこれからも回り続ける地道なロビー活動こそが、この巨大な聖域を崩す鍵になるはずだ。
甲子園開幕の二週間前。炎天下のサブグラウンド。
ベンチ入りから漏れた俺たち「スタンド組」のために用意されたのは、近隣のしがない公立高校との練習試合だった。
スタンド組とはいえ、俺たちは中学までは地元で負け知らずの猛者たちだ。対戦相手を見ながら、俺は田村と小声で話し合った。
「お、あいつ見たことあるわ。確かあいつからホームラン2本打った」
「あ、あいつもある。なんかへっぴり腰でエラーしてたから覚えてる」
中学時代に手も足も出せず、俺たちを憧れの存在だと思ってたであろう連中が何人かいた。
相手ベンチに座る彼らは、強豪私立である俺たちのユニフォームを見て、最初はどこか萎縮しているかのようだった。だが、試合前の整列で、お互いに違和感に気づいた。
身体の厚みが、まるで違う。
まともな打撃練習もさせてもらえず、三年間ただボール拾いと走り込みしかしてこなかった俺たち。筋トレ用のトレーニングルームの使用許可すら与えられなかった俺たちの身体は、線が細く、頼りなかった。対する相手の胸板は分厚く、太ももはたくましく太かった。
試合が始まると、現実は残酷なまでに俺たちの首を絞めた。
「ストライク! バッターアウト!」
三振。エラー。連携ミス。投手陣は制球が定まらず、四球で走者を溜めては痛打された。
パワーでも、技術でも、試合勘でも、俺たちはまるで敵わなかった。
回が進むにつれ、相手の公立校のベンチから熱気も、笑顔すらも消えていった。一塁手だった俺のすぐ近くで、出塁してきた相手選手が吐き捨てるように呟いた。
「チッ。なんだよこのつまんねー試合。一軍出せよ」
言い返すことも、目を合わすこともできなかった。
見下していたはずの格下に、声も出ないほどのボロ負けを喫した。
試合後、相手チームが無表情でバスに乗り込んでいくのを、俺たちは砂だらけのグラウンドで立ち尽くして見送った。同情も、尊重もなく、ただの「時間の無駄だった」と言わんばかりの冷ややかな空気。
三年間の誇りも自負も、その日、すべて粉々に打ち砕かれた。
……せめて当時、「走り込みは筋肉を落とす」って現代知識さえ持っていればな……。
ふと思い出し、心の中で虚しく苦笑した。
そして今また、俺は足りない者であることを突きつけられている。
「確かに、君の言う通りだよ。時代に合わせて高野連も変わっていかないとね」
スポーツ議員連盟のベテラン議員が、高級そうな革の椅子に深く腰掛け、大きく頷いた。
「部員の負担軽減や補欠問題は、我々としても長年の課題だと思っていたところだ。非常に前向きで、素晴らしい提案だよ」
省庁の廊下、議員会館の応接室、高野連の外部理事たちとの会合。
パブリックコメントの開始以降も、俺は連日連夜、関係各所を回って根回しを続けていた。どこへ行っても、返ってくるのは肯定的な言葉ばかりだった。
「君のような若い官僚が熱意を持って改革を進めるのは良いことだ」
「われわれも全面的に協力させてもらうよ」
だが、誰一人として俺の目を見て話す者はいない。
彼らの口から発せられる言葉には、恐ろしいほど「体温」がこもっていなかった。
好意的な反応の裏にある、決定的な無関心。
これまでのロビー活動で熱心にサポートを約束してくれていた人達でさえも、パブリックコメントが始まり、ネットやメディアで賛否両論の激しい嵐が巻き起こるのを見た途端、あからさまに腰が引けていくのが如実に分かった。
「まあ、パブコメでこれだけ反響があるということは、国民的な議論の成熟を待つ必要があるかもしれんね」
調子のいい言い訳で保身に走る大人たち。彼らにとって、この『部員出場機会均等化命令』は政治生命を賭けるほどのテーマではないのだ。「正義感を燃やす若手官僚」に適当に調子を合わせ、波風を立てずにやり過ごそうとしているだけ。
それは、あの夏のサブグラウンドで、俺たちを「つまらない消化試合の相手」として無感情に眺めていた公立高校の選手たちの目と同じだった。
実利と政治的駆け引きの世界で何十年もメシを食ってきた彼らと、理想論と過去の怨念だけで突き進む俺。
政治家としての「筋力差」は明らかだった。俺は一人で戦っているつもりで、大人たちの巨大な手のひらの上で、ただ空回りしているだけなのではないか。
このままでは命令など通らず、高野連の形ばかりの「自主改善方針」という骨抜きにされた回答でお茶を濁され、すべてが闇に葬られる。
夜の執務室。書類が山積みになったデスクで、俺は一人、両手で顔を覆った。
胸の奥から、冷たい悪寒がせり上がってくる。
——俺は、また負けるのか。
あの炎天下のグラウンドで、かつて格下だった相手に「一軍出せよ」と吐き捨てられた時の、あの惨めな敗北の予感が、ひしひしと俺の首を締めつけていた。




