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遙かなるウォルナト=マヴァイ、あるいは。  作者: 花守野衣


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ジャック・ザ・リッパー 5

 夜明け前、真っ暗な中に飛んできた声にたたき起こされた。

 情報部からの伝令だ。

 窓ガラスを透過して飛び込んできたのは一羽の烏で、それは人の声をしゃべると霞のようにかき消える。後に残るのは一枚の黒い羽だ。

 至急、東地区の三番通りに来るように。

 聞いて、嫌な予感がした。

 三番通りはストリートチルドレンのたまり場だ。

 

 すぐさま身支度を調え、指定された場所に向かう。

 身を切るような風が冷や汗を冷ましていく。

 既にナイトウォッチャーが規制線を張っていた。

「ブラウン警部」

 まだ騎士団の面々は来ていないようで、サウロンは不機嫌そうな中年の男に声を駆ける。

「おう、お前か。錆野郎《ラスティ》」

 ジョン・ブラウン。45歳。ロンディニウ市警、刑事課の警部だ。身長はさほど高くないががっしりとした体つきで加齢による脂肪が多少付いてはいるが頑健さは健在だ。

 その体格と捜査の為ならばどんな障害も突破して進む性格から「暴れ猪」のあだ名がついている。

 本質的には善良な男で正義感が強く、それ故に捜査をかき回す夜の騎士団を嫌っている。

 けれど「神話事象」により人々の生活が脅かされることの方が気に食わないそうで、それ故に騎士団が事件に関わる事を毎度苦虫を噛みつぶした顔で許している。

 そういう、実直な男だ。

「お坊ちゃんと色男は?」

「少し遅れる。二人とも今日は飲んでたからな」

「何だ、パブで飲んだのか?」

「いや、秋津料理屋だ。…被害者は?」

 ブラウン警部は顎でしゃくった。その先には麻布を掛けられた二つ小さなの塊が見えた。

 どくり、と心臓が嫌な音を立てる。

「―っおい!」

制止の声が聞こえたが、ただ彼の耳朶を叩くだけだった。


「―…っ」

 こんな仕事だ。凄惨な死体など見慣れている。

 一息に殺されるならまだまマシな方で、陵辱されたもの、拷問の末に死んだもの、生きたまま獣に食われたもの。

 死なせること無くただただ苦痛を与えながら生かし続けた末に漸く死んだもの。

 嫌というほど見てきた。


 でも、これは。

「―」

 息が喉でつまり、咳き込んだ。

 傍で見ていた。

 自分なぞが触れて良い存在で無いから、だから見つめるだけ。

 ニコニコと笑うのを。誇らしげに胸を張るのを。一生懸命に文字を書くのを。頬を染めて爪先を見つめるのを。

 見ていた。とても美しかった。


「おい、ウォン。知り合いか?」

 固まって動かないサウロンの肩をブラウン警部が揺する。

「…ああ」

 吐息のような声が喉からこぼれた。

 静かに呼吸を整え、ゆっくりと振り返る。

「そうだ」

 遠くから車のライトが見えた。あれは、アレックスの運転する車だ。


「これは…」

「―っ」

 さしもの二人も言葉を失う。

 ランタンの明かりに照らされたのは、血みどろの小さな死体。

 腹を立てに切り裂かれたエヴァと、体中をめった差しにされたジョージの、小さな遺体だった。

「あらかたは錆野郎に聞いた。身内呼ぶ前にお前らからも聞いておきたい」

 手帳を開いたブラウン警部がいつもより静かな口調でレオンハルトに声を掛ける。

「ええ、分かりました」

 レオンハルトが努めて平静に答える。殆ど同じ事を話すだろうにサウロンからだけで無くレオンハルトにも聴取するのは、この男なりの慰めだろう。


「兄弟」

「アル」

 動揺を押さえ込んだ親友がサウロンに声を掛ける。

「最悪だ」

「…ああ」

「警部はなんて?」

「咲嬢への事情聴取の際は取調室の外で待機していていいそうだ」

「大盤振る舞いじゃねえの」

 いつもの対応を知るアレックスは目を丸くした。

「身元が割れてるし、何より彼らは幼い。…諸々の事情込みの措置だと」

「なるほどねえ…」

 顎をこすりながらアレックスは頷く、いくらか指が唇に触れるのを見るに、煙草を我慢しているのが見て取れた。

「アル」

「ん?」

「あんまり俺を甘やかすな」

 敢えて軽い口調で言うと、親友は肩をすくめた。

「じゃ、お言葉に甘えて」

 こちらも軽い口調で会釈して、煙草に火を付ける。

 紫煙がゆっくりと朝ぼらけの空気に溶けていく。

「…最悪だな」

「ああ」

 煙と共に、苦い思いをアレックスは吐き出した。

「あのお嬢ちゃんとチビちゃんが泣くのは…堪えるなあ…」

「ああ」

 頷いたサウロンに、アレックスは煙草を短くする。

「夜はまだ長いな…。畜生」

 日の出が遅くなっていく空を見上げて、小さなため息がこぼれた。


 街が動き始める七時を前に現場の保存や遺体の搬送が済んだ市警と騎士団の面々は警察署へと移動した。

 ニュー・ロンディニウムの警察署は元は歴史ある建造物であったが、デウス・エクス・マキナ以降から犯罪数の増加や犯罪の変異によって根本から見直され、五年ほど前に新しく立てられた物だ。

 地上五階地下四階、鉄筋コンクリートを使いその上を煉瓦で覆った重厚な作りの建物だ。

 ちょっとした城のような外見だが、実際にここに立てこもっての籠城戦も想定しているとの事である。

 夜の騎士団の面々は当然ながら部外者であるが、こちらを出入りする際は基本的に認識誤認の魔術を使用している。

 一般の警察官には「同じ警察官の誰かが通った」という風に認識される物だ。

 当然、騎士団の存在を知っており、魔術のことを認識している職員にはいい顔はされていない。

 しかしながら、いつもなら噛みつかんばかりに睨み付けてくるブラウン警部も流石に今ばかりは青い顔をしたレオンハルトに気を遣っているようだった。

 事情聴取の為にもうすぐ咲はやってくる。

 先に通された控え室で、警察が取った証拠を見直しながら待機する。

「レオ」

 それでもそわそわと平静さを失っている上司にアレックスは声を掛けた。

「邪魔」

 資料が一片も頭に入っていない男を軽く蹴り、外に出るようにと促す。

「すまない…」

「立派な図体でそうも落ち着きが無いんじゃ体積の無駄だ。外に出て落ち着いてこい。カフェに行ってもいいんだぜ?」

 ついでにコーヒー買ってこい。と生粋の貴族である上司に使いっ走りさせる貧農の息子。

「ああ、ついでに甘い物もだ。泣くのには体力がいる」

 だがこの場合はそちらの方が良いとサウロンもついでに買い出しを頼んだ。

「わ、分かった…!」

 そう言って王子様の様な男はいそいそと外に向かう。

 ふう、と肩をすくめる男が二人。

「………なあ、兄弟。レオって買い物したことあったっけ?」

「さあ?どうだったか…。基本的に屋敷に商人が御用聞きに来るんじゃ無かったか?」

 ある程度の財を持つとわざわざ店に行くのでは無く、寧ろ店側が家に来るというのは知っている。

 実際養父のところにもご機嫌伺いに月に何度か立派な身なりの男達が出入りしていたし、養父は養子である自分に対しては何故だか財布の紐が緩いらしく、側近の方々と何度も宥めていたのを思い出し、少しばかり遠い目をするサウロン。

「え、もしかして初めてのおつかいか?」

「…………流石にそれはないと願いたいな…」

 何せあの顔と体格だ。年齢だって二十代の半ばを過ぎている。

 そんな立派な男が買い方が分からなくて騒ぎを起こすなど、考えたくない。

「えー…?どうしよう、俺らレオのその辺の教育もしないと駄目?」

「いや流石にそれはアイゼンシュタイン家がどうにかするだろう…」

 三十路の後半にさしかかった男二人は、そんなくだらない会話をして鬱々とした空気をやり過ごした。

 

 八時近くになり、取調室に憔悴しきった咲が入ってきた。

 一睡もしていないのか、顔色が悪い。その咲には、不安そうなミアがぎゅっと抱きついて離れない。

 事情を聞くとして、この幼いミアをどうするか。

 ブラウン警部とていたずらに幼い子供を怖がらせたい訳では無い。特に、家族と呼んで良い存在が無残にも殺されてしまった子供は。

 若い警官がミアを誘導しようとするが、いやいや、とミアは首を振るだけで離れようとしない。

 不安でいっぱいなのだろう。まん丸い目を涙で一杯にしている。

「はぁ…気が進まねえが…おい、お坊ちゃん」

 ガリガリと頭を掻いたブラウン警部は控え室にいたレオンハルトを呼んだ。

「良いのですか?」

「チビ助泣かせるよりマシだ」

 瞠目するレオンハルトを半ば無理やり引っ張りこんで、ミアに引き合わせる。

「れおちゃ…」

 か細い声で名を呼ばれたレオンハルトは小さな女の子のために跪いた。

「ミア。こちらへ」

 ぐすぐすと鼻を啜るミアを服が汚れるのをかまわず、レオンハルトはそれこそお姫様の様に恭しく抱き上げた。

 咲はなぜここにレオンハルトがいるのかと目を見張ったが、きゅっと唇を引き結び一礼した。

 そして鉄の重たいドアは閉ざされ、彼女はブラウン刑事に向き合った。


「ジョージ帰ってこないの。エヴァもいないの」

 レオンハルトに抱きしめられ、緊張の糸が切れたのかミアはわんわん泣いた後、ぽつりとそういった。

 たくさん泣いて体温が上がったために女の子は汗だくで、ふがふが鼻が詰まって顔中ぐしゃぐしゃで、ぎゅっとレオンハルトにしがみついていた。

 冷たい水をもらってきたサウロンがそっとコップをさしだすと、両手でそれを持ってごくごくと飲み出した。

 時折むせそうに成るのをレオンハルトが背中をさすってやって、涙を流しながら小さな子供は水を飲み干した。

 ひっくひっくとしゃっくりをして、また泣いて、ずるずる垂れた洟を拭われて、疲れ果てたミアは、こてんとレオンハルトの胸板に体を預けた。

「ミア嬢、眠いか?」

 咲だけでなくミアもあまり眠れなかったのだろう。

 そうで無くても緊張という物は体力を削る。そして沢山泣いたのだ。幼い子供が眠くなるのも仕方が無い。

 けれど、幼いミアは眠いだろうに眠ることを拒んでいた。重くなる瞼を懸命にこすり、強くレオンハルトの服を掴んでいる。

 その丸い顔にあるのは恐怖と不安だった。

「……大丈夫だ。君が眠っても、レオンハルトは何処にも行かない」

 逡巡の後にサウロンは膝を突いてミアの顔を覗き込んだ。

「咲嬢も何処にも行かない。俺がそうさせない。だから大丈夫だ」

「ほんと?」

 もう半分眠っているのに、不安に満ちた声でミアはぐずる。

「ああ、本当だ。約束する」

 すい、と差し出されたのは小さな小指だ。

「ゆびきり」

 おそるおそる小指を絡めると、ミアは秋津語で歌い出した。

「【ゆびきり げんまん うそついたら はりせんぼん のます ゆびきった】」

 そして歌い終わると、サウロンに向かってにこっと笑い、そのまますとんと眠りに落ちた。

 そっと、淡雪に触れる様に白い頬を撫でる。

 滑らかで柔らかい子供の肌だ。

 火傷でもしたようにサウロンはピクリと手を止めて、すぐにその指を離した。

「………大将」

「分かっている。私情は持ち込まない。…だが、今はこの幼い友人を慰めさせてくれ」

「ああ、俺も肩入れしすぎている自覚はある。だからだ。警察と俺たちは役割が違う。それを忘れてはならない」

 温かな子供の体を大事に抱きしめてレオンハルトは頷いた。


「しかし、ジョージもか…今回と以前とでは何が違ったんだ?」

 少し外を歩いてくる、と言って退出したレオンハルトを見送り、改めて貸し出された遺体の状況写真をアレックスが見つめる。

「…刺し傷は背中側が多いな…」

 同じく現像された衣服を脱いだ遺体の写真をサウロンも見る。

「あいつも立派な紳士だ」

「…ああ」

 見れば、エヴァの腰の両脇に血の跡があった。丁度ジョージがしがみつけばそこに手を置くであろう箇所だった。

 目を伏せ、サウロンは深く息をする。

 猟犬として残された痕跡を辿る。


並んで子供達が歩いている。

 背後から犯人が付けてくる。ここまではコレまでの事件と同じだ。

 最初に気付いたのはジョージだ。彼は振り向き、そこで殴られる。

 体重の軽い彼は吹き飛ばされ、エヴァはとっさに彼を助け起こそうとかがみ込む。

 しかし犯人はエヴァの髪を掴み引きずりあげ、連れ去ろうとした。

 このタイミングでジョージが立ち上がり二人を引き離そうと犯人につかみかかるが犯人は持っていたメスで下から上にジョージの手を切りつける。

 悲鳴は上がらない。

 どうやって?

 今は良い。

 もみ合いになり、ジョージは何度も刺される。

 エヴァの腕をまた掴み、引きずろうとする犯人にジョージはエヴァの腰に抱きついて止めようとした。

 一閃。ジョージの目をメスが切り裂く。

 それで手を離した彼を誰が責められようか?

 それまでに傷付きすぎた彼はそこで力尽き、引きずられるエヴァは腹を割かれた。

 

「…なぜ誰も悲鳴を聞いていないんだ?」

「なんか分かったか?」

「今回の被害者は二人だ。犯人が単独であるなら、悲鳴を上げられずに犯行に及ぶのは難しいだろう」

「確かに…あれだけの刺し傷だ。あの子達が言っていたラルフが取り仕切るストリートチルドレン達が気付いても可笑しくない」

 確かに治安が悪い地区では夜中の怒号や悲鳴は往々にしてあるが、それでも全ての人が無関心を貫くことはそう無い。

 ストリートチルドレンが徒党を組むのは確かに搾取はあっても、互助組織としての機能が存在するからだ。

「二人の口内に何か残留物は?」

「待て待て、今読んでるから」

 抵抗はされていた。であるならば、意識を刈り取るような薬物は使われていないはずだ。

 では口を何かで塞いで、それを外すより抵抗するより無い状況に持って行かなければならない。

 だが、そんな物が存在するのか?

 一つ浮かんだ疑問から、次々に新たな疑問が生まれてくる。

 今、二人の遺体は検死に回され、詳細な情報が上がってくるのにはまだ時間がかかる。

 だが、初動捜査で目に付いた物は記録されているはずだ。

 鑑識官達が集めた情報の束をアレックスは読み進め、あ、と声を出した。

「あったぞ。…口内全体に若干の糜爛がある。二人共だ」

 その時、サウロンの脳裏にあの、矮小な生き物が蘇った。

「…まさか、…グルル=マセク?」

「おい!」

 アレックスが咎める。誰が聞いているか分からない場所で呟いて良い言葉では無い。

 だが、そう考えるとつじつまが合い始めた。

 そして、もう一つの疑問が頭を擡げる。

「本当に、被害者たちは一人の時を狙われたのか?」

 グルル=マセクに人間一人を消化させることは可能だ。

 分かっている四人分の死体には溶かされた痕跡は無い。

 死体を消してしまえば、犯行は行ったことさえうやむやになる。

「いや、違う。ただ、効率よく犯行を行う為だ」

 だからこそ、神話事象が関与しているかも分からなかったのだ。

 けれど、もし犯人が『ただ悲鳴を抑える為だけにグルル=マセクを使役していた』としたら?

 グルル=マセク自体を使役することはそう難しくない。

 いくつかの手順を踏み、呪文を唱えるだけ。

 それに思い至ったのだろう。アレックスも顔色を変える。

「そうか、俺たちは死体を消せるなら消すだろうと言う合理性を念頭に置いていた。だが、相手がそれを優先するとは限らない」

「『死体を消す』のではなく『ただの猿轡』としての役割を負わせていたらの話だがな。それに、子宮を奪う目的は未だ不明だ。『神話事象』が絡んでくるなら生け贄や材料の線も浮かんでくるが…」

「全部たらればだな」

 話すだけ話したが、証拠が無い。

「結果待ちか…」

 ため息が二人の口から漏れる。

「…なあ、アル。仮にグルル=マセクが事件に絡んでいるとして、何のために召喚されたと思う?」

 マジックミラー越しに、彼女が泣いている。

 ぽろぽろと大粒の涙を流して、ブラウン刑事の質問に答えている。

 必死に背筋を伸ばして、真っ直ぐに刑事達を見据えて、ぽろぽろ泣いている。

 こんな時でも彼女は美しいのだな、と場違いな事が頭を過った。

「証拠隠滅って思考が無い相手だ。しかし道具として使役している。だが一貫性はある」

 普通の殺人なら「殺すこと」自体が目的だ。

「『連続殺人』…それ自体が目的の線は捨てきれないか」

「今のところは。ただ「殺すこと」が目的では無い。「殺すこと」は手段であって、その為にグルル=マセクが使役された」

「奪われた子宮はどうなる?」

「殺したぞというトロフィーか、子宮自体に何か目的を持っているか…」

 ちら、とアレックスはサウロンを見た。サウロンは目線だけで構わないと答える。

「…畜生、あんなチビ共を…」

 苛立ちを収める為に、アレックスは煙草に火を付ける。吐き出す言葉は、明らかに怒りが滲んでいた。

「こうなると子宮が手がかりだな。エヴァは娼婦では無かった。エヴァを殺す為にジョージまで殺した。しくじれば悲鳴が上がるかもしれないのにだ。そこまでして奪いたい理由があるはずだ」

「…………訊きたくねえなあ…」

「ああ…」

鏡の向こうで、まだ花のような女性は、背筋を伸ばし続けている。


「おう、お帰り」

 その後も先への取り調べは続き、時刻は十時を回った所だった。

 外に出てミアをあやしていたレオンハルトが帰ってきた。

 ミアはまだ眠たそうで、ぽやぽやとした表情で辺りを見回している。

 不安故か指しゃぶりをして、ぎゅっとレオンハルトのシャツを握りしめていた。

 レオンハルトのベストとシャツにはくっきりと小さな目と鼻と口の跡が残っている。

 随分ぐずったのだろうな、というのはありありと見えた。

「ミア嬢。お腹はすいてないか?」

 腰をかがめ、サウロンがミアの顔を覗き込む。腫れぼったい瞼をした女の子は、自分を抱き上げる男が買ってきたドーナッツに少しだけ反応した。

「ん」

 小さく頷くミアは、けれどレオンハルトから離れるのは嫌なようで、降ろそうとするとしがみ付いた。

「大将」

 一応確かめてみたが、彼はこの小さな友人が少しでも安心できるならばと椅子に座っても彼女を抱きしめている。

「少し出る」

 そう言い残してサウロンは控え室を出た。

 署内の給湯室に入りアボット女史がアイロンをしたハンカチを水道水に濡らす。

 道すがら購買部があったのでミルクを一瓶購入し部屋に戻った。

「おう」

 軽く視線を上げ、アレックスが迎えてくれた。

 見れば、ミアはレオンハルトの膝の上でちまりちまりとドーナッツを食べているところだった。

 まだ幼い故にドーナッツの幾ばくかはこぼれてしまうのだが、レオンハルトが片方の手をミアのまんまるなお腹に添え、もう片方の手を受け皿のようにしてその破片を受け止めていた。

 甘い物を食べて、少しばかりミアは落ち着いたようだった。

「ミア嬢。飲むか?」

 ミルクをカップに移し、そっと差し出すとミアは「ん!」と両手を差し出した。

 まだ食べかけのドーナッツをレオンハルトの手に押しつけるのは彼女がレオンハルトに安心して甘えている証だった。

 ぷはぁと、随分喉が渇いていたのだろう。ごくごくとミアはミルクを飲み干して、見事な白い髭を作った。

「ほら、ミア嬢。こちらを向いてくれ」

 カップを受け取るとサウロンは濡らしたハンカチで彼女の目元を優しく拭い、それから口元のミルクを拭き取った。

 自分に向けられている優しさを感じ取った小さな女の子は、その時やっと小さく笑ってくれた。

 途端、安堵の声が重なって聞こえ、サウロンも珍しく笑みを浮かべる。

「もう少し、俺たちと咲嬢を待てるか?」

「うん!」

「…良い子だ」

 そう微笑み掛けると、彼女は彼女専用の大きなソファにしがみ付き、自分を守る広い手のひらで遊び始めた。

  

「ミアちゃん!」

 しばらく経って、漸く重たい取調室のドアが開いた。

 咲が真っ先に気にしたのはもちろんミアであり、その子はレオンハルトの胸板を枕に安らかに眠っているのを確認すると、がくん、とその場に膝を突いた。

「お、おい嬢ちゃんっ」

 さしものブラウン刑事も慌てて手を差し伸べる。その手に捕まって、咲はゆっくりと立ち上がりながら詫びた。

「すみません、ほっとしたら力が…」

 無理も無い、と刑事は首を振った。

「アンタもすこし休んどけ。ここはしばらく空けておいてやる」

「はい、ありがとうございます」

 知己の顔を見ていれば多少安心だろう、とブラウンはレオンハルトには打って変わって厳しい視線を投げつけるが、レオンハルトは心得たと頷くだけだ。

「Ms.ツキハマ。こちらへどうぞ」

 動くつもりの無いサウロンに内心舌打ちをしたアレックスが咲をイスに座らせる。

 ほぅ、と深く咲は息をついた。

「ねえね!」

 そうしているとミアが目を覚ました。数時間ぶりに再会した咲に、ミアが嬉しそうに両手を伸ばす。

「すみません、レオンハルトさん。ありがとうございました」

 一言断り、彼女はミアを抱きしめた。強く抱き合う二人を男達は静かに見守った。

「…詮索はいたしません。ですが、今私の口からお話しするのはご容赦を。…流石に、疲れました…」

 普段穏やかな笑みを崩さない咲が、心底疲れ切った顔でそう詫びた。

「ああ、もちろんだ咲殿。ただ、心配なので君が帰宅すると言うなら送らせて欲しい」

「ええ、ありがとうございます」

 だが、彼女たちだけで帰すという選択肢は無かった。

 沢山泣いた彼女の目は真っ赤に腫れていて、うなだれた背から覗く白い首筋は、片手で倒れそうな程に細く見えた。

「ねぇね」

「うん、大丈夫よ。ミアちゃん。大丈夫」

 全く大丈夫ではないくせに、月浜咲という女性は一人で立ち上がろうとする。

 善き人だ。

 守るべき、善き人々の、一人。


「少し、出てくる。咲嬢、軽い物なら食べられそうか?」

 彼女を見つめていると、踏み潰したはずの感情がまた湧き出てきそうで、サウロンは部屋を出ようとした。

「あ…はい、ありがとうございます」

 へにゃり、とまた彼女は無防備に笑ってみせる。

 少しは安心できただろうか、と彼は祈った。


 警察署はニュー・ロンディニウムの中央区にある為、少し出れば様々な飲食店がある。

 中央区はビジネス街も有している為、その働き手たちの需要に応えているのだ。

 時刻はまだ正午には遠く、飲食店は空いている。

 何度かアレックスが利用したと聞いた店にサウロンは足を運んだ。

 親友は粗食には慣れているが、美味いものを食えるならそれを楽しむ質だ。

 どこそこの何という料理が美味かっただの、今度呑みに行こうだのとあれこれ誘ってくる。

 お返しと言うべきかは分からないが、サウロンはサウロンで自身が美味いと思った酒を彼に贈ることにしている。

 ここのベーコンサンドは美味いぜ、と聞いていたのでそれを人数分と、カウンターに置いてあった焼き菓子も二つ三つ買っておく。

 紙袋にそれらをいれ、店を出ると気温差で眼鏡が曇った。

 鬱陶しいが片手が塞がっている状態で眼鏡を拭くのも面倒臭く、彼はそのまま歩いた。

 視界は悪いが、まだ人通りはピークには達していないし、この程度の状況ならば気配を読まずとも歩ける。

 眼鏡の曇りが取れないまま、彼は警察署に戻り、そして元いた部屋のドアを開けた。

「お、帰ってきたな」

「ああ」

 声を掛けてきたアレックスに荷物を渡すと彼は漸く眼鏡を外した。ハンカチで拭い掛け直せば、多少は落ち着いたらしい咲とミア、それからアレックスとレオンハルトがいた。

 レオンハルトが何故か赤くなっている辺り、多少は進展があったのだろうか?

 まあ今尋ねるのは野暮であるので、口に出すことはしないがチラリとアレックスに視線を向けると肩をすくめられたのでそういうことなのだろう。

「…ミア嬢はレオンハルトが預かる。君はゆっくり食べると良い」

 ミアを膝に乗せながら、幼子の食事に気をつけながら自身も食事を取るのは難儀だろうと声を掛けた。

「よろしいのですか?」

 今にもベーコンサンドにかぶりつこうとしていたレオンハルトははっとして、慌てて手を付けていないそれをサウロンに押しつけた。

「え、ええ。もちろんです」

 居住まいを正したレオンハルトの膝に、またミアがにこにこと上機嫌に戻ってくる。

「れおちゃ!」

「ああ、僕のことは気にしないで、ゆっくりお食べ」

 ぷらぷらと足を遊ばせ体をレオンハルトに預けてミアは楽しそうだ。

「ああ、すまない。ミア嬢にはすこし大きすぎたな」

 そう、両手からはみ出して具がこぼれそうになっているサンドイッチを指摘すると、意図をくみ取ったレオンハルトが食べやすい大きさにちぎって彼女に与えた。

 小さな幼子を貴公子然とした男が一生懸命世話する様はどうにも微笑ましく、咲も小さくふふっと笑った。

 それを認めて、小さくサウロンは胸をなで下ろした。


「アイビーんとこのか」

「前美味いって言ってたろ、お前」

 甲斐甲斐しくミアの面倒を見るレオンハルトをよそ目に、サウロンとアレックスは買ってきたベーコンサンドを口にする。

「よく覚えてたな」

「……お前が二日酔いで死にそうになってたからな」

 確か、お付き合いしている彼女と喧嘩したとかでやけ酒を煽ったアレックスが、その彼女とデートするときに買ったとかで印象に残っていたのだ。

 因みに次の日には仲直りしたと惚気られたので、仲が良くて良かったなあ、とだけ思ったのを覚えている。

「お前な…」

「嫌ならやけ酒をやめろ」

 やけ酒した翌日は必ずと言って良いほど二日酔いになり、事務所でぐったりしているのはアレックスだ。

 そしてやけ酒の原因は大体彼の恋人がらみなので、サウロンは「早く認められて結婚できたら喜ばしいが、今度は夫婦げんかの度にやけ酒するだろうな」と思っている。

 抗議なのか軽く蹴られたので、サウロンも親友の足をしれっと踏んでおいた。

 

 全員がベーコンサンドを食べ終え、腹が落ち着くまでの間少しばかり騎士団のことを話した。

 とはいっても、こう言った時のためのカバーストーリーのみだ。

 商社として表向きは活動しているが、裏では探偵や各組織の調整役をしている団体だ。と言った具合だ。

「では、以前サウロンさんとセシルさんがお知り合いでしたのも…」

「ああ、そういった繋がりだ」

 あの時、彼女は何も言わなかった。

 マフィアの幹部クラスと知り合いな時点で後ろ暗い過去がある事など予想が付いただろうに、それでも自分に無防備なあたり、随分と彼女はお人好しなのだとサウロンは再確認する。

「だが安心してくれ、咲嬢。大将は後ろ指指されるどころか、由緒正しいアイゼンシュタイン家の出だ」

 ついでにレオンハルトも売り出しておく。実際この場に居るのは、元はマフィアの殺し屋の自分と、元はギャングの会計士だ。であるならば、彼女を安心させるためにもレオンハルトを前に出しておく方が良いだろう。

「まあ、そうなのですか」

 ほわっと、彼女は長閑に笑う。

「れおちゃのおうち?」

 未だレオンハルトの膝を陣取っているミアが不思議そうに彼を見上げる。

「え、あ、はい。確かに僕の家は貴族と呼ばれるものですが、僕自身は気軽な三男坊です。上の兄弟のように次ぐべき爵位などはもっていません…」

 と、しどろもどろに説明するレオンハルト。

 実際彼の家の資産はどうなのだろうとサウロンは考える。特に尋ねたことは無かったが、長く続く家はそれだけで価値があり、意義が生じる。

 皆が敬意を抱き、尊重される家柄であると考えれば、例え何らかの商売に手を出したとて、さほど苦労はしないだろうなと思いもする。

 それまで培ってきた人脈というのは金銭では計り知れない財産であり、誠実に商売を重ねていけばそれなりの財を築けるだろう。

 冒涜的な存在を厭い近づかなかった面々も、デウス・エクス・マキナ後にそれらが溢れた今であるなら、寧ろレオンハルトに近づいて庇護を求めてくるかもしれない。

 そう思うと当世では大将の家とお近づきになりたい人間など掃いて捨てるほどに居るのではないか。

 等などと考えながらサウロンは一生懸命に咲に対して自分の家を説明している上司を眺める。

「れおちゃ、おうじさま?」

 それらを聞いて、ミアが目を輝かせながら尋ねた。

「い、いえ、王子では…一応古い家ではあるのですが…」

 基本的に温和で冷静、紳士であろうと努めているレオンハルトがこうも調子を狂わされているのを見るのはなかなかに珍しい。無垢な幼子と初恋の相手には形無しということか。

「なあ、アル。俺たちこれを止めなくて良いのだろうか?」

「いやぁ…ここで止めたら後で姐さんとルカ坊にどやされるだろ」

 隣に居る同僚に上司を助けないかと提案したが、同じく同僚に怒られるだろうと言われてしまった。

「まあ…そうだな…」

 少しばかり想像してみて、それもそうかと彼も頷く。

 物語の中から抜け出たような美丈夫が小さな女の子に翻弄されるという絵面は何にせよ微笑ましい。

 もう少し困ってるところ見ておかないと…という親友の呟きは耳を塞いで聞かなかったことにした。

「れおちゃお城住んでるの?」

「え、あ、はい。そうですね、ミア」

「おうじさまだ!やっぱりれおちゃおうじさまなのね!」

 僅かに会話を聞き逃しているうちに、更に目をきらきらさせたミアがかぶりつかんばかりにレオンハルトに迫っている。

 ぽいんぽいんと膝に座ったまま跳ねる小さな体躯が可愛らしい。


 とても、とても優しくて、明るい、綺麗な光景だ。

 日の当たる、陽だまりみたいな光景だ。

 美しいものがすきだ。

 ああ、きれいだ。

 この光景を守れるなら、俺はそれでいい。


 さて、咲達を店に送る時間になった。

 ミアは「おうじさま!」とレオンハルトに抱きついた為、もはや定位置になったレオンハルトの腕の中だ。

 レオンハルトもレオンハルトで、ここまで懐いた子供はなかなか居なかった様で至極柔らかい表情を向けている。

 幼子故に拙い口調で矢継ぎ早にあれこれと話しかけるミアと、ゆったりと応対するレオンハルト。

 しばしの間、彼らに降りかかった悲劇を忘れることが出来たが、しかしそれは店に着いた途端に消え去った。

 「ごはんやさん」は臨時休業の張り紙が貼られ、その文字は丁寧だったが書き手の心の乱れが手に取るように分かった。

 静かに咲が鍵を開け、引き戸を開ける。

「【ただいま!】」

 声をあげたのはミアだった。

 秋津語で帰宅を告げる言葉は、がらんどうになった店に響く。

「…ジョージ?…エヴァ…?」

 声に出して名を呼んだことで、みるみるうちにミアの両目に涙がこみ上げる。

「【オカエリナサイ】」

 とっさに口について出たのは、たどたどしい秋津語だった。

 はっとして、口を引き結ぶが、けれどミアの涙は止まったようだった。

「ん!」

 ばっと手を広げて、小さな女の子は抱っこをねだっている。

 未だレオンハルトに抱き上げられているミアを、どうすればいいのか。

「サウ」

 肩に置かれるのは親友の手だ。

「…大将…」

 思わずレオンハルトを見上げるが、彼もまた頷くばかりだ。逃げ場がない。

「……ミア嬢」

 沈黙の後、恐る恐る、ぎこちない手つきでサウロンはミアを抱き上げた。幼子を抱き上げるなんてこれまで経験していなかったから、痛くないように苦しくないようにそっと優しく。

「んふふぅ」

 途端にぱっと、花が咲いたようにミアが笑う。

 嬉しそうに体を縦に揺らすので、安定のために体に静かに寄せて抱きしめる。

 温かい。

 小さくて、柔らかくて、軽い。

 うつくしい、もの。

 ほぅ、と知らず息が漏れた。

 こんな、汚れた手で触れて良い存在では無いのに、離しがたい。

 丸く、小さな背中をそっと撫でる。

 小さな女の子は、笑いながら何度も目をこすって、こすって、サウロンの服に染みを作った。

 何か、自分の中で温かいものが芽生えるのを感じた。

 同時に、酷く冷たい覚悟も。 


 レオンハルトとアレックスを先に事務所に帰し、サウロンは再び死体発見現場に足を運んだ。

 野次馬による人だかりをかいくぐり、規制線を踏み越える。

 丁度、ハリス警視正とロビンソン警視が捜査員達と情報を共有している所だった。

「っち。野良犬が」

「ああ、雌犬の息子《son of a bitch》の、元雌犬だ」

 実際嘘ではないので悪態にやや毒気の強い自虐を返す。

 ハリス警視正はいわゆる貴族の出身であり、自身も男爵の爵位があると聞いたことがある。

 血筋自体は古く、アルビオン王室の覚えもめでたい。

 それは確かに価値があり、捜査をする上で武器にもなりえるのだが、どうにも彼は地べたを這いずり回り人々を嗅ぎ回る警察という職務を下に見ている節があった。

 こうして現場に出てきたのも、連続殺人事件という事件性によるものだろう。

 反対にロビンソン警視はやや面積の広い額をしきりにハンカチで拭っている。

「それで?犬風情が何をしにきたんだ?」

 敵意を隠さない辺りまだまだ性根は真っ直ぐな部類のハリス警視正に、彼は至極静かに言葉を返した。

「検視官は何か見つけたか?後追いは犬の得意分野だ」

 情報の共有を申し出ると、苦虫を何十匹も噛みつぶした顔で顎をしゃくった。

 許可が下りたのでロビンソン警視からいくつかのメモと現像が終わったばかりの写真を渡された。

 写真にはエヴァとジョージの口内が写っているものや、傷の形などが見て取れた。

 確かにただれたような粘膜の腫れが見られた。

 それに添付されたメモに、口内に鼠と思われる体毛が見つかったとあった。

―グルル=マセク…っ

 確信を得たサウロンは静かに目を細め、チョークで形作られた子供達の跡を見た。

 迷うことなく膝を突き、手を突いて地面を見つめる。

 小さな足跡、僅かな血痕の落ち方。

 どのように犯人があの子たちを殺めたのか。

 瞬きすら忘れた狼色の瞳が跡を嗅ぎ分ける。

 

 細く長い息を吐いて、サウロンは立ち上がった。

「警視」

 低くロビンソン警視を呼ぶと、額を拭うのをやめた男は視線を鋭くして近づいた。

「何か分かったか」

「犯人はマンホールから逃走している。下水道を調べろ。被害者の咥内に残っていた粘液が目印だ。だが、気をつけろ。それは神話事象に該当する。動きは緩慢だが殺すのに手間が掛かる。そしておそらく数が多い。見つけたらすぐに引き上げさせろ。俺たちの領分だ」

「…犯人は、魔術を使うか?」

 囁くような、けれど鋭い問いかけ。

「いや、少なくともこちらの動きを阻害したり攻撃したりという術は持たないはずだ。でなければ被害者をこんなにもナイフで切り裂いたりしない」

「…わかった」

「だが警戒しろ。神話生物…グルル=マセクを使役することは出来ている。ねぐらに近づく敵に対して鳴子の一つ二つ用意していても可笑しくない。こちらもすぐに人員を割くよう手配する。合流した情報部をを連れていけ。魔術を探知出来る」

「…わかった」

 重々しい息と共にロビンソン警視は頷いた。

「一度事務所に戻り、戦闘準備を行う。そちらも武運を」

 ずり落ちた眼鏡を直し、サウロンは踵を返す。

 ハリス警視正に形式的な礼をすれば、野良犬でも追い払うかのように手を振った。


 雑踏に紛れるように歩き出す。

 コートの襟を立て、小さく言葉を紡ぐ。

 認識阻害の魔術と呼ばれる物だ。

 人では発音しにくい言葉を発するごとに、サウロンは周囲の人間から認識されなくなっていく。

 目の前を通り過ぎても気付かれない透明な存在になっていく。

 詠唱が終わるのと同時に路地裏に入る。

 そして助走も付けず跳躍し、一足飛びに屋根に登った。

 そこから屋根伝いに事務所を目指す。

 大通りも、建物の高低差も関係なく一直線に。

 獲物を見つけた猟犬のように、真っ直ぐに。


 十分も掛からずに事務所の屋上へ辿り着いた。

 エレベーターに乗り込み、軽く身についた埃を払う。

 五階の事務所のドアを開ければ、帰ってきていたアレックスとレオンハルトがいた。

 二人はサウロンを認めると表情を引き締める。

「何がわかった?」

 口を開いたのはレオンハルトだった。

「グルル=マセクを犯人は従えている。根城はまだ見つかっていないが下水道を伝って移動していると思われ、ロビンソン警視には伝達済みだ。情報部を動かせ」

「下水か…アレに入るには特殊な機材が必要だったが…不定形のグルル=マセクなら可能か盲点だったな」

 顎をさすり、アレックスが呟く。

「ああ、鍵開けもグルルを使えば容易だろう。…すまん、大将。読み取れなかった俺の落ち度だ」

「冗談でもいうんじゃない。これは、…我々の落ち度だ」

 猟犬として迎え入れられたのにその職分を果たせなかったと詫びるサウロンをレオンハルトが窘める。

「さて、事態が動くには少々時間があるだろうが、我々も支度を始めよう」

 所長がそう決めた。ならば部下はそう動きだす。


 三十分もしないうちにルチカとロザは事務所にやってきた。

 既に情報部は警察と連携して探索に向かっている。

 先に装備を調えた三人は事務所に待機だ。

 レオンハルトはチェロなどが入るだろう大きなケースを携え、アレックスは両腕に装飾を施された骨と革製のブレスレットと腰にポーチを下げている。サウロンはコートの下に愛銃である『白鬼』と『黒鬼』を装備し、予備の弾倉も胸やら腰やらに準備した。

 鎧のような防具を身につけていないのは、万一一般人に見られた場合に備えてなのと、魔術により普段着ている衣服にいくらかの装甲を持たせることが出来るからだった。

 数日前に試着した神話生物の皮革からなるベストも実地試験だと言って着せられている。

 程なくして女性二人が事務所に戻ってきた。

 ロザはコートの下に刃を仕込んだ鞭を、ルチカはワイヤーの付いたナイフを隠している。

「ほんっと、コルセットって最悪だわ」

「いいなーアレックス達はベストなんでしょう?」

 同じく試用として例のコルセットを着せられたようだ。

 流石に彼女たちの動きが阻害される程締め上げては居ないようだが、それでもコルセットの中に入っている骨や胸や腹を押さえつける形が鬱陶しいらしい。

「だったらお前もベスト着ろよ、ルカ坊」

「ルーチーカー!」 

 軽口をたたき合うアレックスとルチカ。

 事を構える前であるが、緊張が連続することは人を疲弊させる。

 自身でも陰気だと思っているサウロンはこうして場を和ませることが苦手だし、大真面目なレオンハルトも論外。ロザもそれなりに冗談を言ってくれるが、こうして緊張を和らげる事を積極的にしてくれるのは、アレックスとルチカだった。


 招集が掛かり、また警察と合流したと連絡が来て二時間。

 事務所に、伝令の鳥がやってきた。

 手にしたレオンハルトは内容を認めるとぐしゃりと紙を握りつぶした。

「…」

 普段ならするはずもない行動に緊張が走り、アレックスが紙を広げる。

「アル?」

「警察の連中が鳴子に引っかかったらしい。一気に周囲にいたグルルが活性化、人員を襲い、ヤサに一時的に近づけなくなっている」

「逃げられるな」

「ああ、今から行っても無駄だ。グルル=マセクの大群に足止め喰らうのが関の山だろ」

「だが、それで全てを持ち逃げも出来まい。…どうする大将?」

「いや、行こう。彼らだけでは手に余る」

 ひとつ、深く息を吐いたレオンハルトは皆を見渡し、それぞれが同意示した。

 ドブさらいのような仕事だが、それも仕方ない。


 かくして、現場に向かった騎士団の面々は先行した情報部と連携して下水道に入った。

 説明役として案内したのは比較的最近配属された男で、こう言った事態に慣れていないからという理由で使いっ走りにされたらしい。

 実際、グルル=マセクの大群に対応できずに仲間に誤射しそうになったのだと、彼は恥ずかしそうに言った。

 情報部はあくまでも情報部であり、護身用に戦闘技術を身につけていても実行部には及ばないのだ。

「端的に言うと、ハリス警視正のプライドによる圧力が原因でした。彼が警官達に檄を飛ばし続け、焦った警官が制止をする前に先に進んだそうです」

 大体予想できた事態だったため、皆はため息を隠すこと無く吐いた。

「ロビンソン警視が宥めていますが、パニックを起こす警官が多く居ます。数日前からこっちで暗示を掛けていましたし、自分もそれに参加していました。だから、こんな恐慌状態で危険な状況になるとは思っておらず、先輩達はまともな警官達と一緒に食い止めている状態です」

「…あのおっさん、なんかやったな?」

 低い声でアレックスが唸る。

「ルチカ」

「ええ、後でとっちめてやるわ。でも、今は先遣隊の救助が先ね」

 状況を説明し終わった新人は走る速度を速める。それに実行部の面々も続いた。

 

「実行部ただいま到着した。状況の説明を」

 レオンハルトが現場に到着すると恐慌状態の警官達は暗示や猿ぐつわなどで強制的に沈静化されており、じりじりと後退しながら持ちこたえている様だった。

「ああ、来ましたか。死者は無し、重傷者二名、軽傷者は十名程。ほらほら、君たち。騎士団の皆さんが来ましたよ。立てる人は立って、手伝える人は動けない人を運ぶんですよ」

 ロビンソン警視がズタボロになった警官達に声を掛ける。

 前に出てグルル=マセクに対処していた情報部の面々から安堵の声が聞こえた。

「情報部の者は一時撤退を。事後は実行部が担う」

 大きくは無いが良く通る声でレオンハルトが告げると、蜘蛛の子を散らすように彼らは下がっていった。

 しかし、彼は戦闘から離脱しただけであり、恐慌状態の警官達への対処や戦闘後の処理、また、これは残っていたならばの話だが犯人の根城の情報をかき集め審査する仕事が残っている。

「終わったら声をかけていただけますか?それまでにジョンを呼んできますから」

 最後にロビンソン警視が一礼をして元来た道を戻っていった。

 

「さて、諸君。仕事だ」

 ボスの一声が上がり、彼らは彼らの仕事を始める。

「先行する。サウ」

「了解した」

 駆け出しはアレックスだった。

 彼が走る度に彼の周囲には小さな空気の渦が巻く。それは天井や壁に張り付くグルルを無尽蔵に切り裂き、散らせていった。

 擬似的に真空を生み出して相手を切り裂く、アレックスはこれを「カビボノッカ」と呼んだ。

 彼の故郷に伝わる北風の精霊を指す言葉だ。

 しかし、切り裂いたとは言え粘液の塊であるグルル=マセクだ。致命傷を与えなければ死ぬことは無い。故に殺し損ねたそれが切られた体を元に戻して這いずり回る。

 後に続くサウロンは愛銃にて取りこぼした物を順繰りに打ち落としていく。

 その後には、ロザとルチカが続き最後にレオンハルト。

 これはロザの炎では根城を燃やしてしまう可能性があるためであり、ルチカはいざという時の大技がない。レオンハルトは殿だ。

 道が分かれる。アレックスが進んだ反対の道をサウロンは進んだ。

 アレックスの側にはロザが、サウロンにはルチカとベルンハルトが続いた。

 サウロンにはアレックスのように範囲で倒せる能力は無いので、時折ルチカの嫌そうな悲鳴が上がるが、仕方ない。

 何度目かのリロードの後に壁に突き当たる。下水が更に一段低い水路に流れ、異物が入り込まないようにと鉄製の柵が刺さっている。上に登るはしごは無い。

「ルチカ。どう見る?」

「…外れね。トラップの類いも何らかの魔術の痕跡も無い。向こうがアタリ」

「だそうだ。大将。戻るぞ」

 肩やら髪やらにグルル=マセクの粘液が付着しているが、生粋の貴族であるレオンハルトは舌打ちの一つもせずに頷いた。、

 踵を返し、今度はルチカを先頭に走る。

 これまで走り抜けてきた道に攻撃性のあるトラップはないとルチカは言う。あったとしてそれは警報の物で、それも既に無効化されているとの事だった。

「一回切りの粗悪物。多分術者は毛が生えた程度ね!」

 犯人は魔術に関してはその程度の腕前と彼女は言う。

 ではグルル=マセクをかように巧みに操るのはどういうことか。

 疑問は湧くがそれは走る速度に霧散する。

 今は根城の制圧が先だ。

 

「こっちこっちー!」

 目印になるようにとロザが火を焚いて待っていた。煌々と光る明かりはしかし、下水道に残る不快な粘液をてらてらと照らしていた。

「アレックスが入ったわ」

 見ればそこは下水の一部に空いた大きな穴のようで、シャベルやハンマーで開けたにしてはやけに綺麗なものだった。

「アル!」

「危険性はない、大丈夫だ。………けど、姐さんはお留守番な」

 上からアレックスの声がした。奥を覗けば途中から階段状になっている。

「…わかったわ。ありがと、アレックス」

「どーいたしまして」

 それだけで、この先がどれだけ凄惨な物か分かった。


「……………」

「【絶対に殺す】」

「確かにロザには見せられないな」

「…だろ?」

 行き着いた先は、少しばかり広い地下の倉庫だった。清掃は行き届き、整然とガラス製の瓶が並ぶ。几帳面な科学者の実験室というところだった。

 ただ一点、そのガラス瓶の中にえぐり出されたであろう少女達の子宮が浮かんでいることを除けば。

 慌てて逃げ出したのは見れば分かった。研究机として利用していたデスクの上だけが散らかっている。

 最低限の必要な資料は持ち逃げされたのは確定だった。

 けれど、決定的なのは被害者の体の一部がある事だ。

 化学の方へあまり知見はないが、様々な薬品や実験器具が並んでいるのは分かった。下手に触らない方が良いだろう。

「ルチカ、魔術痕跡は?」

「少し。でもトラップじゃなくて研究とか実験用みたい。保温だの保冷だの…電気に圧力…」

「化学実験用だな」

 答えるのは高度な教育を受けているレオンハルトだ。アレックスとサウロンはそこまでの教育を受けていない。

 必要な知識は騎士団に入り叩き込まれているが、それ以外は自身の興味がある分野だけだ。

「情報部に引き渡した方が早そうだ」

 肩をすくめるアレックスに、サウロンは一つ頷くと部屋の出口を指して言った。

「大将、俺は後追いをする。ルチカ、『視て』くれ」

「わかったわ」

 立て付けの悪いドアを開けると煉瓦造りの壁があり、上へと続く階段があった。ルチカの見立てで魔術トラップが無い事を確認すると銃を構えながらサウロンは上に向かう。跳ね上げ扉を開ければ次に続くのは何処かの倉庫のようで、埃の舞うそこには布を被されたガラクタが積み上がっていた。

 そこからはサウロンの仕事だ。

 慌てた足跡はガラクタの間を縫うように進み、途中抱えた書類を三回落としてそのたびに拾い上げた。

 一度立ち止まり書類を整理し鞄にでも収めたのだろう。そこで息を整えると表に出た。

 外に出ればそこは東部のさらに端に近い川岸だった。河川を利用した運輸のその荷を保管する倉庫街。足跡は船着き場に向かっていた。

「足の大きさは26.5cm。身長は172cm、ややがに股気味の神経質な男だな。年齢は40代。やや潔癖の気があり、左利き。そこに底鋲の跡がある。ラドリーの店のドクターズバッグ、40cmのもの…だが古い型だな。随分中に書類を詰め込んでいる。革の一部たたわんで床に接触している」

 埃が積もり足跡がこれだけはっきりしているなら、その程度の特定は出来た。

「戻ってくると思う?」

「来なければ追うだけだ」

 静かだがはっきりと彼は言い、ルチカは小さくため息をついた。

 

 地下に戻り、ベルンハルト達と合流する。既に情報部が来ていた。ブラウン警部もだ。

 実験室の様子に気分を悪くしたようで、不機嫌を隠そうともしていない。

「今警視を呼んどるよ。あの馬鹿はこういう現場をきっちり見せねえとわかりゃしねえんだ」

 胡乱げに目をすがめるのはアレックスだ。

「で?それで手打ち?」

「わーるかったって、俺らもあそこまで馬鹿だとは思っちゃいなかったんだ。こってり絞るさ。今は警視正がこんこんと詰めとるよ。温室育ちなんだ。根本的に」

 両手を挙げるブラウン警部にはぁ、と大げさに息を吐く。

「もっとあんとき絞っときゃよかったか…」

 ぼそっと呟いたアレックスにビクッと身を固くするレオンハルト。おそらくは数日前の会食時の事だと思うが、一体何をネタに脅迫したのだろうと僅かに疑問に思う。

 

 ひとまず情報を精査する時間が必要だと、実行部の面々は一度事務所に戻る事になった。

 下水で汚れた衣服を替え、シャワーで匂いを落とすともう夜になっていた。

 家庭があるロザ以外は事務所で詰める事になり、情報部が痕跡の収集精査を行う間に仮眠室で眠った。

「…どうした?ルチカ」

 いざ寝るとなって、ルチカが唇を噛みながらサウロンの袖を引いた。

「爪」

「ああ」

「エヴァちゃんの爪」

「うん」

 二人は静かに次の言葉を待つ。

「伸びてたの。ほんの少しだけ」

「ああ」

 マニキュアを塗ってやった件だろう。キラキラとした目で爪を見つめていたエヴァを覚えている。

「伸びて多分、インクか何かで、染め、て、たの…」

 ぐすぐすと彼女は泣き出す。

「そうか…」

「なんで…!?なんで、あんな、なにも…!何も悪いこと、してない子が…!」

 そっと、頭を抱き寄せて自身の胸に押し当てる。

「口紅だってまだ…あの子に似合う色、みつけてない、…のに…!」

「そうだな…」

 どん、と彼の胸をルチカが殴った。男の力だった。

「ごめん、サウロン。八つ当たり」

「構わない」

 彼女もそれをよく知っていた。

 この無愛想な男は、きちんと誰かの悲しみを受け止めてくれる。

 だから、甘えてしまうのだ。

 何度も何度も涙を拭い、悔しそうに奥歯を噛みしめるルチカ。

「畜生…!畜生…!」

 ルチカは美しく染めた爪を手のひらに食い込ませて泣いた。

 レオンハルトが温かな茶を淹れて持ってくるまで、彼女は泣いていた。 


 警察の方は巡回を強化すると言ったので警邏を任せ、暫し体を休める。

 凄惨な現場を見たとて、頭と体を休めることが出来なければ十全の働きは出来ない。

 それでも、眠れないと言うのならば、地下の医療班が簡単な暗示を掛け眠らせてくれる。

 サウロンは、薄い毛布を被り薄いマットレスの簡易ベッドに身を横たえた。

 自室と大差ない環境であり、アレックスのいびきが少々うるさい位だ。眠ろうとすればすぐに眠れた。

 獣の様な浅い眠りだ。

 全てを手放して安心して眠るなど、あの日に失った。

 静かに呼吸を繰り返し、彼は眠る。

 月浜咲は、ちゃんと眠れただろうかと小さく祈りながら。


 朝になり、情報部がかき集めた情報がまとまった。

 寝覚めに皆コーヒーを流し込みながら資料を黒板に貼り付けて睨む。

 ロザはまだ来ていないが、事態が事態だ。先に共有しておいて損は無い。

「被疑者はダグラス・ハットン。42歳。出身はマープール。エドウィンズ・レスト大学医学部卒。成績は優秀で主席も取ってる。開業医としてマープールにて診療所を構えてたが、五年前突如失踪。その後ニュー・ロンディニウムで格安の部屋に住んでたみたいだが、当然もぬけの殻だった。倉庫を借りはじめたのは二年前。どこでグルル=マセクの使役魔術を覚えたかは不明。また残された資料には一般的な生殖、特に生命がどのようにして発生するかの研究論文が多かった」

 資料をめくりながらアレックスが皆に説明する。

 黒板には大学の卒業記念だろう集合写真を引き伸ばした不鮮明な写真が貼り付けてある。それでも、まだ若く目に光が宿った青年である事は見て取れた。

「被害者たちから取り出した臓器内にて異物を確認。成分の分析はまだだが、おそらくは何らかの単細胞生物ではないかとのこと。うちの検視官は発見時にその生物は既に死亡してから長く、しかしながら細胞の核らしきものを発見した為の見解だそうだ」

「何かを生み出そうとしていた?」

 レオンハルトの問いかけに、アレックスは補足としての資料を読む。

「また、被害者達の臓器はホルマリンではなく電解質?に入れられて保存されていたそうです。俺も良く分かりませんが、死んだ生物や臓器を保存するということではなく、生かし続ける為に保存していたようです。実際、被害者達の臓器は『生きている』状態だったとのこと」

「どういうことだ?アレックス」

 さらなる問いに、アレックスは視線をルチカに向ける。彼女の方が適任だ。

「そうね…、ものすごく大雑把に言えば、心臓が血液を体中に送り、その血液の中に沢山の栄養や伝達物質があるの。それを皮膚だったり内臓だったりのそれぞれを構成する細胞に届けることで代謝が可能になる。ほら、手足に深い傷を負った人が先の方から壊死するなんてのは聞いたことがあるでしょ?あれは血液が十全に送り込まれずに、そこから先の細胞が死んでいったから。電解質は人間の体液に近い濃度の液体の事ね。アレックスの口ぶりから察するに、人間の体内に近い環境をつくり、何らかの手段で臓器を生かそうとし続けていた、ってところかしら?」

「お前がいうんならそう間違ってないんだろう。その為に臓器はほぼ常時と変わらない機能を備えていただろう。というのが情報部の考えです」

「ねえ、アレックス。臓器内にあったのは何かの生物なのよね?」

 言いたくなさそうにルチカが口を噤み、

「どっかの野郎の精液はなかったの?」

「資料には何も。…こいつ試験管の中の小人でもつくりたかったのか?」

 近世代に錬金術師たちが作ろうとした人工生命。

「でも、生命の発生には女性側の卵子が必要なのも、今の医学じゃ常識の範囲よ?ハットンが知らないとは思えない」

 試験管の中の小人は生命の源になるものが男性の精子のみであるという考え方が主流だったから生まれたものだ。

 今の最先端の医学を学ぶのであれば、それは間違いである事を知っていて当然のはずなのだ。

「ああ、あとレオ。お前この文章分かるか?情報部から昔どっかの本で読んだってのは覚えてるらしいが、文芸方面だったんでお前に意見欲しいってさ」

 そういって、アレックスは資料を手渡す。

「『目指すべきは遙かなるウォルナト=マヴァイ。されど遠く。あるいはトルグウルの…』、か。これはハットンの書き置きか?」

「ですね。さっきの論文の端に走り書きされていたみたいです」

 文面を読み、レオンハルトはこめかみに拳をやって思い出す。

「…ああ、思い出した。何年か前に読んだ創作神話の中にあった文言だ。たしか、ウォルナト=マヴァイは神々が幼い頃にいた美しい場所だったはずだ」

「文脈としては理想郷って意味でしょうね」

 皮肉げにルチカが唇を歪ませる。

「新しい救世主でも産みたかった。そんなところかしら?」

「ふむ、臓器は試験管の役割ってことか」

「被害者達は娼婦だから、殺しても良いって考え方か?けど、メイドとエヴァちゃんの説明がつかねえな…」

 顎を撫で苛立たしげにアレックスは資料を睨み付ける。エレベーターが動く音が微かに聞こえた。おそらくはロザだろう。

「…………本当に娼婦なのか?」

 ぼそり、とサウロンが呟いた言葉に皆が動きを止める。

「どういう意味だ?」

 娼館で生まれ育った男は、慎重に言葉を選んだ。

「俺がいた娼館ではどれだけ幼かろうが需要があれば客を取らせた。それこそ男だろうが女だろうが関係なくな。…が、ある程度まともな娼館なら、客を取らせるのは」

 少し口ごもるが、顔を上げて彼は続けた。

「『女になった』。言ってしまえば初潮を迎えてから客を取らせる。体がある程度出来上がってないと商品として長く続かないからだ」

 三人とも息を飲む。エレベーターがこの階で止まる音がする。

「けどよ、兄弟。初物なんてそれこそ夜になればいくらでも居るだろう?」

 一番早くに立ち直り、それでも疑問点を突いたのはアレックスだった。

「だから、もっとそれより狭まった…」


「―月の物が来ていた。とかですか?」

 聞こえた声は、ロザの物では無かった。

 震えて、掠れた、柔らかい声。

「咲殿…!」 

月浜咲がそこに居た。

 手には大きな荷物があった。

 ふらふらとしながら、彼女は歩み寄る。

 危ないとレオンハルトが腕を差し伸べ支え、もとより白い顔を真っ青にした咲を来客用のソファに座らせる。荷物を受け取り適当にローテーブルに乗せ、大丈夫かとレオンハルトは大きな体を丸めるようにして顔を覗きこんだ。

「大丈夫ですか?」

 冷や汗をかく咲にそっとレオンハルトはハンカチを差し出した。

 彼女は何度も胸に手を当て深呼吸を繰り返し、ほぅ、と一つ息を漏らすと顔を挙げた。

「ええ、もう大丈夫です」

 心配そうなレオンハルトを押し留め、咲は立ち上がる

「月のものが来ていた、男性経験のない女の子が狙われていたということでしょうか?」

「それは…」

 言い淀むレオンハルトにサウロンが引き継いだ。

「エヴァ嬢はその条件を満たしていたと?」

 はい、と先は静かに頷いた。

「そのためにラルフさん達のところへ向かうことになったのです。…私の店で働くか、それとも娼婦となって働くかを相談するために」

 まだ血の気の引いた唇から紡がれる貧困層の凄惨な実態にレオンハルトは息を呑む。

「…大将。場末の娼婦なぞ自分ではどうしようもない貧困から『そうなるしか道がない者』がなるんだ。知っているだろう?」

「あ、ああ…だが、エヴァ殿はまだ12歳で…」

 生粋の貴族として、貧困層について知識はあっても実際の様子を知らない年下の男に、幼少期客を取らされた男は静かに告げる。

「もっと酷いところなら、三つ四つで客を取らされる。…それだけ、貧困層の命は軽いんだ。初潮が来てから客を取らせるところはまだ有情ですらある」

「サウが言った通りだ。まだ有情だと思うぜ?レオ。今は切り替えろ」

「あ、ああ…」

 何とか持ち直したベルンハルトは、居住まいを正して咲に向き合った。

「詳しいお話をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「はい」

 咲が話したことは大体この様なことだった。

 元々、エヴァ達はラルフ率いるストリートチルドレンに属していた。その中で三人だけを異邦人の施しで抜けさせるのは色んな所で角が立つ。そのため、彼らはグループからの「貸出」という体を作り、給金の一部を上納する形でグループの体面を立たせていた。

 ラルフ自身はこのまま所謂一般社会にグループの人間が抜けることを良しとしていたが、それは純粋な善意ではなく、一般社会に他のメンバーが進出する足掛かりになればいいと思っていたらしい。

 その為、一昨日の呼び出しは娼婦になるか否かではなく、このまま咲の元で働きながらも他の子供達が日のあたる所に進出する手助けを行うことを誓わせるためのものだったそうだ。


 真っ当な話だ。と話を聞いていたサウロンは思った。おそらく隣にいるアレックスも同じ感想だろう。

 こういったストリーチルドレンは貧困ゆえに犯罪に走りやすい。まともな仕事をもらえることなどほぼほぼ無いからだ。

 故にマフィアやギャングといった反社会組織に使いっ走りにさせられ、そのまま組織に入ることも少なくない。

 そういった「貧困者、弱者」への受け皿に反社会組織があることは決して否定してはいけない。

 だが、本来であれば日の当たるところに誰もが生きるべきなのだ。

 そう思えば、ラルフなる男の考えは真っ当だ。

 反社会組織に入った知り合いの紹介で反社会組織に入るように、日の当たる真っ当な場所に入れたものの紹介で日の当たる場所で生きることができるなら、それが正道である。

 そこに打算があろうがなかろうが、生きるための選択肢を増やしたのなら、それは腹が膨れるわけでもない説教より有益だ。

 貧しさゆえに辛酸を舐めてきた男二人は、そう思った。


「なるほど…」

 話を聞いたレオンハルトはともかく頷いた。

「……その可能性は、あります」

 彼はこれまで読み込んだ資料を思い出し、言葉を選ぶ。

「この連続殺人事件は、ご存知のように子宮が持ち去られていました。そのため、月経であったかどうかは焦点にあたっていなかったのです」

 仮に、そうであったとしても、出血部位である子宮は持ち去られており、腹部を切り裂かれての摘出という犯行故に、女性器内に血液が溜まっていたとしても不自然ではなかったのだ。

「咲嬢。ミリア嬢は?」

 静かにサウロンが尋ねると、彼女は「チュワンの方々に見てもらっています」と答えた。

「私が見ているよりも安全ですから…」

 中々どうして豪胆だ。小さく微笑む咲に、サウロンも小さく笑い返した。

「咲殿。これから、一緒に警察署までご同行願えますか?あなたの推論を共有したいのです」

「はい、私でよろしければ喜んで。…ああ、でも」

「でも?」

「お弁当を作ってまいりましたから、どうそ皆さんで召し上がってください」

 柔らかい笑みを、咲は浮かべる。

 当たり前の優しさを、当たり前に持ち、当たり前に差し出す。

 こんな時だとて、彼女は変わらない。

 それに、サウロンは安堵を覚えた。


 ロザはそのすぐ後に来た。

 咲の推論を聞くと彼女は青ざめ、そして怒り、最後になるほどと納得した。

「まっさらな、『使われていない子宮』ね…。さいってー」

 低い声で吐き捨て、気持ちを落ち着けるために彼女は目を伏せた。

 彼女の薄い肩が震えているのが見えた。

 娘が三人居るのだ。殺人の動機が『子宮』という臓器や機能であるならば怒りや恐怖は殊更だろう。

「犯人は何人も被害者達の子宮を奪ってきたが、実験は成功していない。だから奪っている。地下倉庫にそれが残っているなら、また犯行に及ぶだろう」

 どうアレックスに説明され、ロザはどっかと自身のデスクに腰を下ろした。

「咲ちゃん、ありがとうね。ええ、お腹空いてたら力が出ないもの。美味しく頂くわ」

 最近覚えた箸を持ちロザは、にっと勇ましく笑う。

「いえ、私に出来ることは、これくらいですから…」

 声を掛けられ、咲はほっと息をついた。

 彼女はいま来客用のソファに身を横たえて休んでいる。

 昨日今日とまともに眠れなかったと聞いて、無理矢理に休ませたのだ。

 

 芯の強い女性だ。とサウロンは咲を眺めてそう思った。

 儚げな印象と柔和な笑み、陽だまりのような女性なのに、心の強さを持っている。

 花のように、雨風で散ってしまうような人なのに、しっかりと根を張っている。

 眩しいな、と彼は目を細めた。


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