ジャック・ザ・リッパー 6
「あーお前らか。悪いな、ハリス警視正は『体調不良で休み』だそうだ。代わりに俺とロビンソン警視が聞く」
警察署に着くとブラウン警部がばつが悪そうにしながらも出迎えてくれた。
「そんな目で見るなよ。上の上がお冠でみっちりお説教食らってる所なんだ。俺に取っちゃ業腹だが、今後はお宅らのやりやすい風になるだろうぜ」
ぽりぽりと頭を掻きながらも、彼は一同を会議室に案内した。
部屋にはいくつかの長机と簡素なイスが並んでいる。
既に何人かの警察官達がおり、最高責任者の席にはロビンソン警視がいた。
「ああ、来たね騎士団諸君。これからこの事件は私が担当するよ。ジョンから聞いた通りだ。…これでやり易くなる」
ふぅ、と息を吐きロビンソン警視は笑う。いつものへらへらとした笑みではなく嫌に野生的な笑みだった。
「そっちが本当の顔なの?やだ、男前じゃない」
軽口を叩くのはルチカだ。
肩をすくめ、ロビンソン警視は席につくようにと促す。
「さて、お嬢さんの話を聞こうか。確か、男性経験がなく、月経中の女性が狙われているという話だったね。どうしてそう思ったのかも一度話してくれ」
電話で概要は伝えていたが、実際に咲の口から語られることに意味がある。
咲は両隣をレオンハルトとロザに守られながら立ち上がり、もう一度エヴァについて語った。
室内には鑑識課や捜査一課の刑事達もおり、何名かは「娼婦」という言葉に嫌悪感を隠さずにいた。
そういうやつはいるのだ。
好き好んで体を売る人間など居ないのに。
話を聞き終え、はロビンソン警視は少しの間黙り、唸った後に頷いた。
「こちらも新情報が入った。三人目のサラ・ボーン嬢について。昨日、父親に付き添われてマリア・コーム嬢が証言しに来た。マリア嬢はその日の夜、サラ嬢を連れて『男友達』の所に遊びに行った帰りに後ろからハットンに襲われたそうだ。写真を見せたが襲った男に似ていると証言してくれた」
自身の夜間の無断外出と不純異性交遊を咎められるのではと最初は口を噤んでいたが、仲が良かったメイドを失った罪悪感から彼女は証言しに来たのだという。
「で、鑑識ではどうだった?」
鑑識官は資料を手に立ち上がり、ちらりと女性達をばつが悪そうに見たあと、口を開いた。
「被害者が女性と言うことで性的暴行の有無を確認はしました。その際に性器内の血液が固まっていない物が多かった事を確認しています。医学的な説明を行いますと、月経とは子宮内で子宮内膜と呼ばれる粘膜が剥がれ落ちる現象を指します。…大変乱暴な言い方になりますが、血液を使って赤ん坊のベッドを作り、それが使われなかったら古い物は排出される。そのように考えてください。ベッドとして固定するために血液は凝固しておりますが、排出の際は反対にそれがスムーズに行われるために「プラスミン』と呼ばれる酵素により分解され、元の液体となって流れやすくなります。つまり、出血しても血液が凝固しない。また凝固しようとしてもそのプラスミンの効果により、分解されてしまうのです。以上のことをもちまして、鑑識としては被害者達が月経が来ていた状態だったと申し上げます」
途中あんまりにも一部の男達がつまらなそうな顔をしたため鑑識官は咳払いの後に大雑把な説明に変更した。
「被害者の死亡時刻と照らし合わせてか」
「はい。他の部位の血液は既に凝固しておりましたが、その部位のみ固まっていませんでした。あー…これの報告が遅れたのは流石にその…」
言葉を濁す鑑識官にロビンソン警視とブラウン警部はため息をついた。
娼婦を見下す警官も多い中でそういった性的な部分は口に出すのもはばかれたのだろう。
「これは今後の課題だな…」
ぼそりとブラウン警部が呟く。
彼自身もいわゆる古い男だが、長年刑事として働いていれば男だから賢く女だから愚かだとかそんな事は思えなかった。
酒浸りの父親のために娘が体を売るなど典型例だ。
蔑まれる娼婦になったのは娘が望んだことだろうか。誰が悪いのだろうか。
地位が低いためにそうやって犯罪に巻き込まれる女性達を嫌というほど見てきた。
デウス・エクス・マキナは良くも悪くも世界を変革しすぎた。
従来の価値観はそれが許される社会だったが、社会が代わったことによって軋轢が生まれる。
価値観を変えていくことは今後犯罪に立ち向かうために必要な事だ。
と、そんな今後に一瞬頭を痛ませたが、喫緊の課題に立ち返る。
「しかし、今考えるべきはダグラス・ハットンをどう捕まるかだ。ここ数日、事件の影響でどんどん娼婦達も外出を控えるようになっている。協力を仰ぐにしても、一体誰に…」
今必死にハットンを探しているが、人の移動が多いのがこのニュー・ロンディニウムだ。日雇いや浮浪者に交じっていては見つけるのは困難である。
その為、囮捜査をブラウン警部は提案したいが、『男性経験の無い月経中の女性』を見つけるのはハットンを見つけるよりも難しいと言えた。
警察内部にいるのは大抵既婚者の女性だし、そうで無くても月経中という限定された条件とその内容の繊細さに触れることは紳士として信条に反した。
ひとつ、月浜咲が息を吸うのを、サウロンは聞いた。
「私を囮に使って下さい。今、私は丁度月の物が来ております。男性とのお付き合いもしたことはありません」
その言葉が響いた瞬間、騒がしかった会議室がぴたりと呼吸を止めたようだった。
彼女は立ち上がり、凜として顔を上げてブラウン警部を見つめていた。
花のような人だと思っていた。優しく穏やかな、日向にいる人。
どこか儚い印象を抱いていたその人は今、射貫くような透明な光を両目に湛えている。
美しい、と思った。
「さ、咲殿。だがそれでは」
隣に居たベルンハルトがとっさに立ち上がり、彼女を押しとどめようとする。
けれど、彼女は微塵も引きはせずに上背の男を見上げた。
「構いません。危険は百も承知です。皆さんの邪魔どころか危険にさらしてしまうことも、けれど私は……」
言葉を切るが、それは迷いでは無く覚悟だった。
花のようだ、と思った。
「私の意地を通したいだけなのです」
美しいのものが好きだった。
雨の雫が落ちるのも、昨日芽を出した双葉が開くのも、雲間から見えた青空も。
世界は美しいもので溢れている。
美しいものをもっと見ていたくて、生きながらえていた。
ただ、見つめるだけで満たされていた。
それ以上求めるのは、分不相応だと思っていた。
―彼女は咲く人だ。
どれだけの風雨にさらされても光に向かって咲き続ける。烈しいもの。
名を付けるならば恋だろう。
この人の咲く姿を守りたい。
この美しい人を見つめ続けたい。
その為ならば、この命がどうなろうと構わないほどに。
願ってはいけない願いだ。
この命はこの魂は父の仇を討つためだけに存在を許されているのに。
そう自身を戒め続けていたのに。
あの優しく烈しい人を守りたいと祈ってしまっている自分がいる。
それは、あの日父が自分に手を差し伸べてくれたのと同じくらいに鮮烈にサウロンの魂に焼き付いた。
焼き付いてしまった。
結局、ロビンソン警視もブラウン警部も、そしてベルンハルトすら月浜咲という烈しさには叶わなかった。
精々が彼女が囮になるのは三日間だけと定めることが出来たくらいだ。
実際、今夜にでも条件に当てはまる女性が殺されるかもしれないのだ。
これ以上の被害拡大は市警としても防がなければならなかった。
苦渋の決断ではあるが、『被害拡大阻止』という建前で彼らは彼女の要求を飲み込んだ。
月浜咲は既に医師の診察も終わり「男性経験の無い、月経中の女性である」確認も取れた。
今は警察官に付き添われ一度店に戻って数日間警察署で寝泊まりするための準備とミアのを引き取りに行っている。
目下の問題は月浜咲への暗示だ。
彼女は一般人だ。
暗示を掛け、神話事象に遭遇しても取り乱さず、そして事が済めば忘却させる。
言ってしまえばそれだけだ。
暗示に掛かりやすいか否かは個人差はあるが、騎士団であればそれ専用の術士もいる。
ウォッチャー達にも混乱を避けるために暗示は掛けている。それと同じ事だ。
いつもと同じことなのに、だのに、レオンハルトは思い悩んでいるようだった。
「なぁに思い悩んでやがる、レオ?」
巌のような肩をアレックスが叩いた。
「いや…、やはり、咲殿を囮にするのは…」
「はぁ…、見ただろ?彼女は本気だ。梃子でも動かないって覚悟だ。何だっけ?ハラキリ?」
「俺を見るな、アル。秋津の文化は残念ながら明るくないんだ。…大将、彼女の覚悟は本物だ。曲がった釘より頑なだぞ。俺みたいに錆び付いても居ないしな」
髪を引っ張り、サウロンが自嘲する。
「しかし…」
「ライフルを用意してくる。安心しろ、大将。彼女は守る、そうだろ?」
彼もまた逞しい青年の腕を叩く。
彼女は覚悟を決めた。
「意地を通す。いいじゃねえか、俺は好きだぜ?そういうの」
あの澄んだ透明な光は、美しかった。
だから。
「仕事をしよう、レオンハルト。彼女を日の当たる場所に戻すために」
彼女が温かで穏やかな場所で咲いていられるように、戦うのだ。
少しあって、夕方には暗示専門の人員が派遣され、滞りなく月浜咲への暗示は完了した。
ミアもまた暗示を掛けられ、必要になればここ数日の記憶が消えるように調整される。
調整など、人間に使うべき言葉では無いがそれでも彼女たちの平穏を守る為の処置だ。
それでも、裏切ってしまったようなそんな後ろめたい気持ちになるのは、まだ何処かに良心を残しているからだった。
冬に近づくニュー・ロンディニウムの日の入りは加速し、すぐに夜になった。
月浜咲はニュー・ロンディニウムの治安の悪い東地区の大通りに娼婦に扮して立っていた。いつもの民族衣装では無く、木靴を履き襤褸布の様な衣服を纏う。暗がりとはいえ肌の色が違うので頭には色あせたショールを被り顔を隠した。
急ごしらえなので本当にその辺りの浮浪者やストリートチルドレンから買い上げた物なので酷い匂いがしたが、彼女は眉一つ潜めることは無かった。
事前に地図と下水の配管図を照らし合わせ、すぐに人が駆けつけられる場所だった。
周囲には数メートル間隔で警官が拳銃で武装して潜伏し、大通りの路肩に止められた車にはブラウン警部とレオンハルトが簡易的な捜査本部として待機。
アレックスは路地裏で物乞いに扮して、ルチカとロザは二つ通りを挟んだところで娼婦に紛れて息を潜めている。
サウロンはというと、一帯を見渡せる東地区にたつ教会の鐘楼に陣取っていた。
この時代、後世に言うスナイパーライフルというものはまだ生まれていなかったが、射程が長く命中精度の高い物を望む声は無かったわけでない。
特にこうやってこの世あらざるものと相対する騎士団の中ではそういった精密射撃を行える小銃を求める声は銃というものが生まれてから常にあった。
そこで錬金術師達が金属を作り、それを技術者達が形にした精密射撃用ライフルが生まれた。
従来のライフルの設計を流用し、精密性や長距離射撃を目指して改造を繰り返した物で、それに特殊な弾丸を込めて問題なく射出できるようにと作られている。
最高射程は1200m、通称は「イーグル」。
小さな望遠鏡―スコープ―を覗きながらサウロンは鐘楼に身を伏せる。
早く来い、と、決して来るな、という相反する感情を彼は胸の内で握りつぶした。
月浜咲は東地区の大通りに立ち、時折男に声を掛けながらハットンを待った。
声を掛ける男は無論みな警官で、彼女に向かって警官徽章を袖口の中で見せた。
当然この様な客引きは初めての月浜咲は、それが返って初物の娼婦の様でおどおどとした雰囲気を醸し出して見せていた。
少し時間が経ってから、別の通りに向かう為に路地裏を通る。そこでも客引きをし、また大通りに戻ってくる。
それを何度も繰り返す。
午後八時から始まったこの囮作戦は、時刻が十時を回り人が疎らになった頃にも続いた。
警官は交代制だが、冷える中歩き回る咲は粛々と囮の役をこなしていた。。
何度かロザやルチカが休憩を提案したが、彼女はそれを頑なに拒んだ。
後に『殉教者の目』だとロザは溢した。
分かってはいたが、彼女の覚悟は鋼のように固かった。
そして十時も半分を過ぎ、時刻は深夜に近づいてきた。
人通りは益々疎らになり、娼婦達の姿も少なくなった。
静寂が、温度の無い水のように寂しくなった大通りを満たしていく。
最初に気付いたのは誰だったか。
排水溝の隙間から、ぞるりと音も無く粘体が這い出てきたのを見た。
捜査本部に置かれた無線機が小さな音を発した。
デウス・エクス・マキナにより小型化に成功したそれは、受信機は専用に受信室を作る必要がなくなり、近距離ならば傘ほどのアンテナと一抱えほどの本体。送信機は大型キャビネット程の大きさから両手に乗るほどの大きさまでになった。
それでも、外で使うには目立ちすぎるため、無線機を持っているのは浮浪者の変装をした警官や騎士団の構成員しか持っていない。
また、送受信という機能はこの時代にはまだなく、また音声通信こそ生まれていたが実験段階であった。その為、今現在信頼性のおける無線通信の一番上等な物がこの大きさだと思っていただきたい。
しかして、打鍵された信号が静かな車内に届いた。
車がライトを灯し、ゆっくりと動き出す。それが他の捜査員に対しての合図だった。
緊張が走る。
それは現場にいる全ての捜査員、そして一人狙撃手として待つサウロンにも平等に訪れた。
「…」
いつもならば、数時間同じ体勢で微動だにしないことも平然と行えるのに、今日の彼は喉元に手をやって、シャツのボタンを一つ外した。
スコープを覗き込み、ハットンを探す。
人の歩き方には癖が出る。
警官達は背中を丸めていてもきちんと踵から歩くし、情報部の連中は気配を消しすぎている。
道を通る一般人は酔って足取りが覚束ないか、早く帰ろうと早歩きだ。そうでない、娼婦を買おうとする者はどこか、鼠をいたぶる猫のようなねっとりとした歩調で歩く。
その中で真っ直ぐに、ややせせこましく、月浜咲に近づく男がいた。
厚手の外套と帽子を纏い、正確な体格は分からないが、ハットンに近しい体格だ。
それに他の捜査員も気付いたのだろう。何人かが僅かに体勢を変えいつでも飛び出せるように構える。
ハットンらしき男が、咲に声を掛ける。
咲が顔を上げ、男の顔を見た。彼女の顔が強ばるのを、サウロンは視認した。
男は、咲の腕を掴み強引に路地に連れて行こうとする。
彼女はその腕の強さに顔を顰めるのを見た。腕をせめて緩めてくれと彼女の唇が動くのを見た。
―もう、いいだろう。
静かに引き金に指を掛け、サウロンは男のこめかみに照準を合わせる。
夜を切り裂くような高い破裂音と共に弾が発射され、サウロンは反動を肩に受ける。 たたきつける様な痛みを無視し、覗き込んだスコープから離れずに状況を見る。
殆ど習慣化された動きで第二弾を装填するその時、男がライフル弾の音に気付いたのか僅かに顔をこちらに向ける。ハットンだ。
彼は目を見開き、そのままならば眉間を打ち抜かれただろう。
だが、違った。
何かが、ライフル弾―もっと言うならばマグナム弾と呼ばれる威力の高い重く強い弾―を遮っている。何か、弾力のある膜のような物が弾を受け止め威力を殺した様に見えた。
装填が完了し、サウロンは今度は標的を僅かにずらし、ハットンの足に向かって撃った。
長距離による暗殺が失敗した今、彼が取るべきはグルル=マセクの排除と咲の安全の確保だ。
現に、スコープ越しの現場では戦闘が始まろうとしている。
最初に飛び出したのはアレックスだった。
彼はまず、咲をハットンから引き離すべく一気に駆け寄り、拳を大きく振りかぶって殴りつける。
それは冷気と真空を生み出し、ハットンを覆っていた障壁にぶつかる。
これも威力を殺されるが、一気に冷えその障壁を霜が覆った事と足下の銃弾に気を取られたハットンの腕から咲を引き離し彼女を抱いて一足飛びに10mの距離を開ける。
ハットンの口が動き、何かを唱えるのが分かった。
障壁の強化か、グルル=マセクの使役か。
この時点でサウロンはライフルを置いて鐘楼から飛び降り、家々の屋根伝いにかけだしていた。
長距離ではどうしても視界に制約があり、時差が生じるからだ。
さて、サウロンが走りだした事によって一時的に援護射撃が行われなくなった大通りでは、警官達によるハットンへの射撃が行われていた。
囮であった咲の保護は、車を回したブラウン警部が担う。
警官達に所持していた拳銃はいわゆる六弾倉のリボルバーであり、それぞれがリロードを行い予備を残して十八発を撃ち終えるまでの間に、咲は無事に車内に保護され、入れ違いにレオンハルトが外に出た。
彼の持つのは異様な大剣だった。
彼の始祖が隕石より打ち出したと言われるそれは真っ黒な金属であるが、ラピスラズリのように内側にキラキラとした金色の光が見えた。
装飾品にもなりそうなものではあるが、非常に重く固い。
分類としては両手剣と呼ばれるもので、規格自体はそれに準じている。
全長1.6m。刀身1.3m。しかしながら総重量は100kgを越える。また、古い祈りの句が刀身の両面に刻まれている所も特徴の一つだ。
それだけで十二分に殺傷能力は高そうな物だが、彼の家はその血筋にのみ大剣に対して特殊な能力を付与することが出来た。
神話事象に対する圧倒的な破壊力である。
その馬鹿のように重たい大剣を振るうレオンハルトはしかし中世のような甲冑姿ではなく、革のズボンと綿のシャツしか纏っていない。無論魔術を施し、耐久力を増したものだ。
此処で、華国にある気功というものの説明をしよう。
簡単に言えば人体に流れる「気」と呼ばれる力を体内であやつり超常的な能力を行使する技術であるが、そのうちの一つに内功というものがある。
内功とは体内に巡る「気」を操り、循環自体を操作したり一箇所に留めたり、または気を発する場所でそれを貯め増やし凝縮する(これを気を練ると言う)事で攻撃や防御、または治癒にすら使う技術である。
達人ともなれば拳一つで大岩を砕き、跳躍すれば鳥の様に飛び上がるという、
そしてその技術は交易路を通って西晨にも伝わった。
当時は迷信深い時代であり、東辰の野蛮人な人食い民族たちの魔術の一つと捉えられ、世に広くは広まらなかった。
しかし、それに技術体系があると知った抗神組織の人々は、その未開の野蛮人に教えを乞うた。
結果として、その気功とは才能の有無はあるが、当人が心身を鍛えその「気」を感じ取り操るための修練を積めば習得可能な技術であることが判明した。
そして、東晨の言うところの「気」とは、西晨の言うところの「魔力」であることも。
それまで彼らの持っていた技術では呪文や薬品、なんらかの儀式を行えば魔力を消費し誰でも修練も無く可能な物であったがその反面、常に精神が削られ狂気に陥る危険性があった。
常に冒涜的な神話事象と相対し、精神そのものを削り続ける彼らに取ってみれば、気功の技術体系は多大な修練を積むというコストを鑑みても魅力的だった。
騎士団の実行部隊の隊員は、この気功を習得することを推奨されている。
レオンハルトもまた、この技術を習得していた。
ずしりとした足音と共にレオンハルトは一歩一歩ハットンに歩み寄る。
警官たちの銃撃も残念ながらハットンの障壁を壊すことはできず、300発近い弾丸がその威力を殺されて地面に落ちている。
その間に車を発進させたいが、目の届かぬところに居てグルル=マセクに襲われては叶わないために動く事は出来ない。
ぶんっ、と空を切る重々しい音が響き障壁に大剣が振り下ろされ障壁にぶつかった。
これもやはり、ぐにゃりと衝撃を吸収して受け止める。ハットンは詠唱を止めない。
しかし、レオンハルトはさらに力を込め、障壁を切り裂こうと踏み出した。
その時になってようやくハットンと目が合う。資料にあった通りの男の目は、けれど油でも塗ったかのようにてらてら不気味に光っている。
そしてレオンハルトが踏み込むごとに 分厚いゴムでも斬るように障壁が裂け始める。
ずず、ずず、とゆっくりとだが着実にその切っ先はハットンに向かう。
「馬鹿力が!!!!」
この時初めてハットンの表情に怒りが見えた。
それまでは熱に浮かされたような、何かに執着しそれだけを見ていなかった男が漸くレオンハルトを排除すべき敵と認識した。
ハットンの手元で何かが反射したのをレオンハルトは見た。
「いぐ く・すん く・る・おずと ぶるぐと に・ぐしゅ ふ・ぅ・ぐぐぁ!」
ずるり、とハットンの影から幾つものグルル=マセクがあふれ出た。同時に悲鳴が幾つも上がる。他の警官達の所にもそれは出現したようだった。
不浄な粘体は強力な溶解液を出して周囲の物を溶かし出す。
同時に悲鳴が幾つも上がった。その溶解液のために皮膚を焼かれた者達が出始めたのだ。
「魔術装甲の無いものは一時撤退だ!後は騎士団に譲れ!」
ブラウン警部の怒声が飛ぶ。
一拍後に警官達がそれぞれブラウン警部の乗る自動車にわらわらと集まった。パニックに陥った同僚を複数人で運ぶ姿も見られる。
同じようにグルル=マセクの溶解液はレオンハルト達の衣服を溶かし皮膚を焼こうとしたが、残念ながら彼らは超常の物を相手取る抗神組織の一員だ。
気功で以て外皮を強化し、同じく超常の存在の皮革で作った防具を身に纏っている。
目下、障壁を切り裂こうとするレオンハルトにグルル=マセク達が群がるが、それを許すような騎士団の実行部ではない。
ルチカの投擲したナイフがグルル=マセクを的確に捉え、穿たれた粘体はまとまりを失って水のように溶ける。
「ああもう!邪魔!」
ロザの苛立った悲鳴と共に炎が周囲を明るく照らす。
一瞬だけ熾きた白い炎に照らされてハットンの顔がよく見えた。
写真にあった色白の顔は眠れていないのか土気色で、熱に浮かされた様な目は今は驚愕と敵意に満ちている。
何を考え、何を信じてこの様な犯行に及んだのかは分からない。
ただ、此処で彼の凶行を止めねばまた誰かが犠牲になる。それだけは防がねばならなかった。
炎に巻かれ体液を熱せられたグルル=マセクがボトボトと落ちる。死んでは居ないがこれで大分動きやすくなった。
「―ふぅ」
息を吐く。
レオンハルトは剣を障壁から引き抜き呼吸を整える。
彼の鍛え抜かれた筋肉が盛り上がる。
重く、鋭い音が獣の咆哮のように響いた。
音もなく障壁が切り裂かれていく。一枚一枚薄皮を破く様に、けれど裂けた障壁は元に戻らない。切っ先が、ハットンの額に届き、突き刺さる。血が流れる。
その間、カッと目を見開いたハットンはぶつぶつと口の中で呪文を呟いている。
その手に何かしらの像の様な物がみえ、これもまた厄介な物だとレオンハルトは考えた。
あと一歩踏み込めればハットンの頭蓋を砕けただろう。しかしそれはグルル=マセクのさらなる召喚とハットン自身の強化によって阻まれた。
「アレックス!」
「あいよ!」
湧き出てくるグルル=マセクをその風と冷気で屠っていたアレックスが応える。
駆け寄る際も何匹かのグルルを凍てつかせて切り裂き砕いている。
「ロザとルチカは警官たちを守れ!」
ボスの命令の元にそれぞれが役割に向かう。
「アレックス。温度を下げてくれ。彼は魔術補助具を持っている」
「了解した」
がしゃん、と剣を地面に突き立てたレオンハルトはハットンを見据えた。
彼の持つ大剣の祈りの句が一部、星のように淡く輝き始めている。
アレックスは靴を脱ぎ、上半身を裸にした。そしてポーチから小さな齧歯類の頭蓋骨を取り出すとそれを額に翳した。
次の瞬間、彼の身体は一瞬膨れるように盛り上がり、一気に伸びた。
質量保存の法則など無視して、裸足になった足が地面にめり込む。手足が長くなり、青みがかった灰色の毛皮で体中が覆われる。3mを越す身長になった彼の顔は、その齧歯類の頭蓋骨に覆われており見ることは叶わないが仮面のようなその眼窩から赤い光が覗き、奇妙な事に齧歯類の頭蓋からは青白い炎が冠のように幾つもの枝角が生えていた。
洞窟に響く風のような声を上げ、アレックスが障壁につかみかかる。
衝撃を吸収するそれはアレックスの腕も拒んだが、流石に気温の変化までを防ぐことは出来なかったらしい。
一気に凍てついた空気はそこにあった水分も凍らせ、ハットンの肺を刺す微細な氷になった。
これが朝であれば美しいダイヤモンドダストが見えたであろう。
ハットンが咳き込む間にもアレックスは周囲の気温を下げ続ける。
肉体の強化とグルル=マセクの召喚と使役。他に手を持っていないのならば、彼に残るのはじり貧の末の敗北だ。
であればどう出るか。
「―クソ!何故?何故神よ!私は邪魔されなければならない!?」
ふっ、と障壁が消え失せる。
同時に飛び退いたアレックスに代わるように大口径の銃撃がハットンを襲った。
「すまん、遅れた」
サウロンだ。
弾丸はハットンの額に螺旋を描いてのめり込みかけたが、ぼとりと落ちた。
「援護に回る」
一息に跳躍し、サウロンは咲の居る車の前に立った。
湧き出るグルル=マセクは更に数を増し、もう大通りを埋め尽くさんばかりだ。
警官達は負傷した同僚達を連れ、ブラウン警部の乗る車の側で固まっている。
情報部とロザたちが、にじり寄る不浄の粘体を処理して居るが、そこにサウロンが加わったことで、彼らの安全は保証された。
冷静に一発ずつ粘体に彼は銃弾を撃ち込み、それらを屠っていく。重たい音を立てながら薬莢と空になった弾倉がガラガラと地面に落ちた。
幾つも弾倉を取り替え、辺りが硝煙の臭いにに包まれる頃、あれほど居たグルル=マセクの数は、数えるほどに減ってしまった。
「…」
ひとまずの驚異を取り除く事が出来たとサウロンは胸中で安堵の息を漏らすと弾薬を確認し自動車に近づいた。
恐慌状態であった警察官も目に見える敵個体が一気に消え失せたのを見ていくらかの冷静さを取り戻したようだった。
「おう、ラスティ。ご活躍だな」
窓を開けたブラウン警部が軽口を叩く。
「護衛はするが、状況によってあちらに加勢する。その場合どうするかの確認を取りたい」
一般人たる月浜咲の安全が最優先であり、最悪の場合なら車すら捨てて彼女を逃がすようにとの指示があったはずだ。
「わーってる。部下見捨てて嬢ちゃんを逃がす。極力そうはしたくねえが、一般人の保護が最優先だ。おい、おめえら聞いてるな?今のうちに足が動くようにしとけ」
ひらひらと手を振りブラウン警部は嫌そうな顔をしながらそういった。最後の一言はへたり込んでいる警官達に向けたものだ。
犬のような短い息を繰り返していた彼らも、その一言にはっとしてお互いに動けるかどうかを確認している。
「はいはい、順番ね」
視界の端でロザが怪我を負った警官や情報部員の手当を行っているのを確認し、サウロンは護衛と牽制の為にまた銃を構えた。
数十メートル先ではアレックスとレオンハルトがハットンに対して猛攻を仕掛けていた。
肉体を強化したハットンは、異常な筋力と動体視力、それと同時に驚異的な再生能力を手にしていた。
アレックスの蹴りがハットンの腹に当たりその部位を凍らせ、えぐり取る。
肉片は地に落ちて砕け、血液が噴き出すが、みるみるうちに肉は盛り上がり、元のたるんだ腹が再生される。
レオンハルトは超重量の大剣をまるで細剣かのように巧みに扱い、ハットンの首やら手足を切り落とそうとしていた。
実際、既にハットンの指のいくつかは切り落とされており、地面で凍り付いて砕け散っている。
しかしながら、その異常な再生能力は切り落とされた先からそれを再生した。
中には皮一枚でぎりぎり落ちなかった指を巻き込んで新たな指が生えたことによって、グロテスクな様そうになっている箇所もある。
嵐のようなレオンハルトの剣戟がハットンを切り刻む度、刀身に刻まれた句の輝きが増していく。
ハットンはそんな攻撃をひたすらに避け、時に手にした医療用のメスで応戦する。
切れ味は鋭いものの、やはり小さな刃物ではしかし騎士団の身体を傷つける事は叶わない。そして、そんな状況であっても、ハットンは何かの呪文を唱え続けていた。
これが危険なものではないとはここに居る誰もが考えていなかった。
文字通りに凍り付くまでに冷えた空気を吸い、肺が傷付いて時折血の塊を吐いている。
握り込んだ何かを奪おうとアレックスが何度目かの拳を振り下ろす。
冷気を纏ったそれは一気にハットンの右手を凍てつかせ砕いた。
当然その端から再生は始まり、取り落とした何かをその手は取り戻そうと伸ばされる。
アレックスが吠える。
凍てついた山に響く虎落笛のようだった。
その刹那、彼の枝角が消え失せる。眼窩の炎が更に赤く燃えた。
寒い等という生やさしい言葉では言い表せない冷気が彼から生まれ、それに伴い冷気の先に一気に風が吹く。
アスファルトは破砕しその風に乗ってハットンに襲い掛かった。
無論急激に冷やされたハットンも無事ではなく、皮膚が裂け先から再生を続けている。
何より、彼の眼球はその水分が凍り付いたことにより、白く濁って光を失っている。
すぐに回復するとしても、視覚を失った男の腕を切り落とすには十分な隙だった。
凍り付いたために硬質な音を立てて腕が落ちる。
その手のひらに握り込んでいたのは、何らかの儀式的な装飾が施された小さな鏡と、小さな彫像だった。
樽状の胴体の上に星形の頭部が乗っている。
何を模したものであるかすぐに分かった。
そしてそれを触媒として呼び出すものは、なんであるか。
「いあ いあ しょごす…!古き兄弟よ。隷属のために生まれた生命よ。共にいこう。いあ・くとぅぐ=ふたんぐる、しゅぐ るぅ なぐ…」
祈りの様な呪文が凍り付き何度も何度も砕け散った舌から生まれ落ちた。
瞬時に首を切り落とそうとレオンハルトが剣を振るう。
気道を切り裂き、肉も骨も砕いて、しかし飛び散るのは赤い血液ではなく、玉虫色に光る漆黒の粘液であった。
切り裂かれた喉笛の中に人間の舌のような器官が覗く、アレックスが更に冷気を強め、更に蹴り上げてハットンの四肢を砕く。
しかし、その砕かれた箇所もまた玉虫色の粘液があふれ出て、その中に歪な人の咥内を模した器官を生み出し呪文を紡ぐ。彫像はすでに粘液に呑まれて見えなくなった。
凍り付き、砕き、損傷すればするほどに、口は増える。呪文を唱える舌は増える。
粘液の中からいくつもの目玉が浮き出た。
ぎょろぎょろと視神経もないのに無数の目玉はうごめき、やがて一点を見つめた。
咲が乗る自動車だ。
溢れた粘液はみるみるうちにハットンの身体を飲み込んで、更に巨大になっていく。
自分の内側にショゴスを呼び、それと同化する。
全きの狂気の所業だ。
しかし、明確な意志を持ってショゴスを体内に呼び続けるハットンは、最早ぼろきれがまとわりつく程度になった足を先の方に向けた。
ずしん、と重たく粘ついた音がする。
ハットン自身が人間だからなのか、ショゴス達はハットンの身体をまねて幾つもの人間の手足をその巨大な粘液から生やした。
「不味い…!」
傷つければ、傷つけるほどにショゴスは、神話生物は呼び込まれる。
どうすればいい。と二人の男はこの時初めて焦りを感じた。
「ルチカ。ナイフを借りるぞ」
「え?あ、ちょっと!サウロン!」
ずしん、ずしん、とショゴス単体の大きさよりも更に何倍かの大きさに膨れ上がったハットンに相対し、サウロンは至極冷静にルチカから細いナイフをもらい受けた。
警官達はお互いをかばいながらじりじりと後退する。
自動車の周りを取り囲むように避難してきたので、彼らがいくらか離れないと自動車は発信できないでいた。
『白鬼』と『黒鬼』を構えサウロンはショゴスと同化したハットンに狙いを定める。
何処かに像があり、何処かにハットンがいる。
ショゴスがまとわりついていても、核となるものを破壊すれば幾ばくか楽になるはずだと引き金を引いた。
その間にもアレックスとレオンハルトがショゴスを攻撃し削り取る。
再生するならばそれを上回る破壊をすれば良い。
言うには易しだが、当然ショゴスも自身を攻撃する二人に無抵抗で居るわけでもなく、偽足を用いて彼らを叩き潰し、または取り込もうと攻撃する。
ハットンが中に居るからか、ショゴス達の攻撃もまた、繰り返すごとに知性を獲得したかのように巧妙に、厄介になっていく。
ムチのように一つの指しか持たなかった偽足から、幾つもの指を持つ偽足にてつかみかかり、その次には更に細分化され、または複数の偽足を連携させての攻撃になった。
それに対処しながら、アレックスとレオンハルトはショゴス達を削り取っていく。
相反してサウロンは連射速度の勝る『黒鬼』を用いてこちらを向くショゴス達の前面を叩いていた。それに混ざるように『白鬼』の高火力を何発も叩き込む。
その箇所に着弾した弾丸に、どのような反応が起こるかを彼は冷静に観察していた。
自動車との距離があと十数メートルになった時点で彼は一点に向かい二つの拳銃にて攻撃を行う。
明らかに嫌がるような仕草を見せるショゴスに、傷を負いながらも攻撃を続けていたアレックス達が気付く。
気がついてしまえば、粘液の動きを冷静に見定めることが出来るものだ。
呪文を唱え続ける無数の口は、それぞれが好き勝手に唱えるために、不愉快な輪唱のようだった。
しかし、それも本体となるハットンを見つけられたとなれば、詠唱ではなく彼を守る為の偽足にと舌は変異する。
未だ増えようとしているが、その速度が緩やかになったことで対処がしやすくなった。
サウロンもまた、ショゴスの中を移動しようとするハットンを補足するために容赦なく弾丸を叩き込む。
いかにショゴスという外付けの装甲を得たとしても、それから得られる情報を処理するのはハットン自身なのだ。
人は、なかなかに自身の肉体を越える情報を処理するということは出来ない。
損傷としてはアレックスとレオンハルトの攻撃の方が勝るが故に、サウロンの探査のための攻撃に対処出来ていない。
だからといって、気を抜くことは誰一人としてしていなかった。
ショゴス達の進行速度が落ちたことで、警官達は冷静に離れていく。それに付随して護衛のためにロザとルチカも離れる。
あと少し、あと少しで咲の乗った自動車も移動できる。
それはハットンも分かったのだろう。
刹那にも満たない逡巡の末にハットンはまた増えるという選択をした。
みるみるうちに質量を増すショゴスたちに緊張が走る。
しかし、此処でレオンハルトが高く飛び上がった。
鍛え上げた体躯でもって、馬鹿のように重たい大剣をたたき付ける。
その祈りの句は今全てが煌々と光っていた。
ショゴス達は甲高い悲鳴を上げて天頂部から地面まで竹のように割れた。
二階建ての建物ほどに膨れ上がったショゴス達が一気に萎む。
更にレオンハルトは大剣を振るい、ショゴス達を切り刻んだ。
これまではハットンをあくまでも生きたまま拘束することを目的としていた。
けれど、もうそんな余裕はない。
殺さなければ為らない。
小さく切り刻まれたショゴスはまとまりを無くして溶け、また一方でその破片をアレックスがアレックスが凍り付かせて砕く。
彼の頭には角あった。けれどそれは青白い炎ではなく、赤黒い光が内側で揺らめく氷だった。
されど止まらない、自動車との距離はもう数メートルしかない。
まだ、止まらないそれに向かい、レオンハルトは剣を振るい、サウロンもまた銃弾を叩き込む。
びしゃり、と突然ショゴス達が内側から爆ぜた。
それはレオンハルトとアレックスに襲い掛かり、彼らを拘束する。
そこから生まれ出たのは、ぬらぬらとした粘液を滴らせるハットンだった。
サウロンは『白鬼』の弾丸をハットンに撃ち込む。
確かに眉間に当たったはずのそれは、まるで粘液かの様にハットンの頭蓋をすり抜け向こう側に飛んで行ってしまった。
ねばついた音をしながらハットンが走ってくる。
サウロンは両手の銃を放すと、ルチカから借りたナイフを迷うこと無く自身の右手に突き刺した。
息を吐く。
左足を半歩下げ両の踵を僅かに浮かせる。
軽く握った拳を構え、肉薄したハットンの膝を押しとどめるように蹴る。
だが、それもまた粘液に飲み込まれる。
ハットンが嗤った。
何もかも溶けた様に彼の輪郭は粘液によって形を失い、元はあったはずの器官は今、浸食されたようにそれぞれを区切っていた皮膜を失い、ゆるやかに結合していた。
けれどサウロンは飲み込まれた右足を軸にして独楽のように周り、ハットンの肉体に飛び込んだ。
不快な臭いと、自身を蚕食しようとする痛み。
全てを無視して、冷徹な『銹びた狼』は刺したナイフをそのままに右手を手刀として胸を貫いた。
血まみれのそれをハットンは嗤おうとした。
しかし、嗤えなかった。
「あ…あ…」
途切れ途切れの音が不明瞭にその喉からこぼれる。
彼の感じている感覚を表現するならば、アレックスの冷気よりも冷たい何かが心臓を握っていると言えるだろう。そしてそれは自分の心臓から流れる血液をその冷たさに塗り替えてしまう。
毒。
医師であったハットンはそう理解した。
血液を凝固し死に至らしめる毒。
体中の筋肉を弛緩させ、呼吸を奪う毒。
神経を抑制させ、痙攣と硬直をもたらす毒。
毒だ。ああ、毒だ。
毒が、彼の心臓に打ち込まれた。
血濡れの右手がハットンの心臓を握りつぶす。
ぐちゃりと嫌な感触がして、その後には骨も内臓もないハットンがずるずると形を失って地面に伏せる。
その中に、彫像と鏡を見つけたサウロンはそれらを拾い上げた。
しゅうしゅうと空気が抜ける音がして、それに紛れて声がした。
「ああ…ウォルナト=マヴァイは遠い…なぜ…神よ、なぜ私をお見捨てになったのか…」
祈りの言葉だった。
何があって、この男は凶行に及んだのだろうか。
どうしてあのような非常なことが出来たのであろうか。
資料が見つかって、何か分かるかもしれない。
けれど、この男自身の口からは真相が語られることは二度と無い。
ショゴスと同化した男は衣服も頭髪も失って、まるで赤子の様に丸まって死んだ。
サウロンは、そうやって死んだ男に、静かに目を伏せた。
「アル!大将!」
召喚者が死亡したことで増殖が止まったショゴス達を処理した二人に声を掛ける。
二人とも、あちこちに傷があり血が流れている。
「おう、お疲れさん」
「ああ、助かったよ」
少なくとも骨折などの大けがはなさそうだと、サウロンは小さく笑んだ。
「しかし、すまない。捕縛はできなかった」
犯人の逮捕が出来なかったことを詫びるが、レオンハルトは柔らかく微笑んでサウロンの肩を叩く。
「いや、これは我々の失敗だ。君だけのせいじゃない。少なくともこれ以上の損害は食い止められた。僕は今、それを喜びたいよ」
年下の上司に慰められ、野良犬だった男は苦笑する。
「流石に疲れなあ…」
「腹減った…」
「俺は風呂に入りたい所だ」
そんな風に軽口をたたき合って、ロザ達に合流する。
「ルチカ、すまない。助かった」
自身の血に濡れたナイフを流石にそのままにするわけにも行かないので拭って返すと、べちべちべちとちょっと痛いくらいの強さで腕を叩かれる。
「痛いぞ、ルチカ」
「もー!!!」
べちべちべちべち。痕に残るほどの強さではないが一応抗議するもルチカの攻撃は止まらない。
「あのねー!サウロン!?アンタなんてことしてんのよ!?」
次いでロザも上背のサウロンの襟首をつかみかかる。
サウロンはすこしだけかがみ込み、がっくんがっくんと揺すられるのをされるがままだ。
「何がだ?」
「何リットル血を抜いてるのアンタって子はー!」
さて、何回だったかな、と思いはするが問題は無いとサウロン自身は思っている。
「もー!そんなんだからやせっぽっちなのよー!」
べちべちべちべち。ロザもルチカと同じく痕に残るほどではないが、絶妙に痛い強さで叩いてくる。
「まあまあ、姐さん。その辺にして…」
「アンタもけっこうギリギリだったでしょーがー!」
ぐりん、とアレックスの方を向いたロザがそちらに矛先を向ける。
べちべちべちべち。
また絶妙な強さで叩かれる。
「いてっ、姐さんそこやめてって!ちょっと溶けたんだから!」
レオンハルトは賢明な事に彼女らによるちょっと理不尽な攻撃に対しきゅむっと口を噤む選択をした。
「兎も角!サウロン!」
「はい」
「ちゃんとご飯食べなさいって何回行ったら分かるの!?」
「…ごめんなさい」
素直に謝るとロザは何を思ったのか、つかつかと自動車に近寄り、中に居た咲に話しかけた。
「ちょっと聞いてよ咲ちゃん!この馬鹿ったらいっつもいっつも碌な物食べてないのよ!?信じられる?その上で何度も自分の血液抜いてるの!神話事象にとっての猛毒になるからって弾丸に仕込むために何リットルも月に抜いてるのよ!?だからこんなにガリガリなの!」
その情報を伝えて良いのだろうか…。とは思うが、暗示で記憶を消されるからいいのだろうな、と半ば納得する。とにかく愚痴を言いたいのだろう。
「この馬鹿お弁当要らないって言ってるけど、悪いけど毎日届けて頂戴!せめて一食はきちんとした物食べさせたいの!」
べちべちと叩いていたルチカも、うんうん、と同意を示す。
「健康診断では何も問題なかっただろう」
「だからっていってあんな味気ない料理どころか素材だけ食べてるんじゃないわよ!」
反論をしたかったが、ものすごい勢いで怒られた。
ルチカも同意なのか、何故か腕に関節技を決められる。逃がすつもりはないらしい。
女性達の勢いに、アレックスも口を噤んで沈黙を選んだ。
ここで親友をかばえば火の粉が降りかかるのはわかりきったことだ。
窓が開けられ、中から目を丸くした咲が顔を覗かせる。
「まあ、そうなのですか?サウロンさん」
今夜は怖い思いをしただろうに、優しい女性は心配そうにサウロンの顔を覗き込んだ。
「あ…」
心配しないで欲しいと口を開きかけたが、固められた間接を更に男の筋力で締め上げられたため声にはならなかった。
「ふふ…はい。でしたら、サウロンさんの分もお弁当、お届けしますね」
へにゃり、と何の心配も無い、安心しきった顔で咲が笑う。
この顔に弱かった。
「…ああ、よろしく頼む」
朝日が差してきた。
また、新しい一日が始まる。
「で?ハットンの狙いって分かったんです?」
「『新しい神を生み出す為』。他はさっぱり」
事務所の屋上は喫煙室を除いて灰皿がある唯一の場所だ
二階にある喫煙室という部屋は男同士の社交の場であり、言ってしまえば接待専用の部屋だ。反対に屋上は男女問わず煙を楽しむ場所になっている。
諸々の手続きに追われ、漸く一息付けるとなった事件から五日後。疲れ切った顔で紫煙を吐き出しながら、レオンハルトはアレックスの質問に答える。
「その『神』の定義ってのも…」
「そうだ。全く不明だ。既存の宗教における神なのか、神話事象における神なのか。それとも、全く別の神なのか。彼の残した手記からは何も」
彼が吸うのは細く長い葉巻で、花のような香りが特徴的なサザン・クーバ領産だ。本来ならこんなところで吸うような安物ではないが、レオンハルトはこちらの方が気楽だと屋上で吸いたがる。
アレックスが吸うのは紙巻きの煙草だ。戦時中にパイプがなかった兵士達が紙に巻いて吸ったのが始まりで、今では工業的に作られている。つまるところ大量生産の粗悪品だった。
今は昼前、晩秋は初冬へと変わり空気は冷えている。
薄青い空に紫煙が昇る。
「ああ、此処か」
屋上に出てきたのはサウロンだった。
「おう」
ひらりと手を上げる親友に彼は近づき、その手から一本煙草を奪う。
「お、おい、サウ」
「一本貰うぞ」
彼が煙草を嫌っているのは皆が知っていた。
サウロンは慣れた手つきでマッチを擦り、口にくわえて煙草に火を付ける。
深く息を吸い、嫌そうに顔を歪めながら煙を吐いた。
「……吸えないわけじゃない。…吸い方を教えてくれた人だっているんだ」
やせっぽっちの、異国の血を引いた子供に「こうすりゃ格好良いんだ」と笑って教えた男がいた。組織の下積み時代に世話になった男だった。
「大将。資料は読んだ。所々歯抜けがあったな」
それはハットンの残した手記。誰かに会っていたという記述。しかしその相手を示す単語が綺麗に空白に置き換わっていた。
まるで最初から無かった様にインクの染みすら見当たらなかった。
「あいつの残した資料で引っかかるのは『神』の存在と、その『誰かさん』だな」
灰を落としながらアレックスは呟く。
「大将。これまでの記録で、そういう事をする存在は居たな」
「ああ、君が追っている神格だね。這い寄る混沌、無貌の神。君が相対した時の化身は」
「ああ、美しい少女に見えたよ。黒い扇子と鎌が父を切り裂いた」
「サウ」
自分を傷つけた煙草を、自ら口を付けるということの意味を分からない友ではない。
「…近くに居たんだ、あいつは。父を嗤ったあいつは…!」
妖艶な笑みを浮かべて、この世の物と思えないほど美しい少女は、父を捕らえ嬲り、そして切り裂いた。
苦い煙が彼の肺を満たす。
父もかつて自身がそれにて虐待されていたと知ってからは煙草をやらなくなった。
いくら自分が気にしなくて言いと言っても、微笑んで首を振った。
唯一何かを決断した時、あの人は一人で葉巻を吸った。
父を支えるのだとあの時決めた。
この命は父のためにあるのだと自分で定めた。
だと言うのに、父は言うのだ。
「幸せにおなり、寿郎」
―いいえ、俺はあなたに救われたのです、阿爺。
拾い上げ、文武に渡り教えてくれて、一人の人間として、一人の息子として愛してくれた。
最期の瞬間すら、父は笑ったのだ。
「息子よ。どうか、幸せにおなり」
―いいえ、父さん。あなたに受けた恩を何一つ返せない自分など、幸せになってはいけないのです。
近くに仇がいた。
その事実がサウロンの神経を苛立たせていた。
「……」
葉巻の灰を落とし、レオンハルトは口を開いた。
「ねえ、サウロン。今日からまた、お弁当の配達がはじまるんだけどさ」
「なんだ。大将」
配達を手伝うのはまた別のストリートチルドレン達だという。
「容器を返しに週に一回あの店に行ってくれないか?」
基本的に毎日配達に来るため、前日の弁当箱はその時回収するのだ。
それで問題は無いはずなのに何故?と短くなった煙草を灰皿に押しつけているとレオンハルトは微笑んで言った。
「毎週金曜で良い。君の体調管理もかねて、きちんと食べるべきだ」
上官命令だ。と言われると拒否しづらい。
「ああ、命令だからその分の代金は出すよ」
そう言われてしまうと断ることが出来なくなった。
「…いや、それは自分で出す」
「そう?遠慮しなくていいんだよ?」
「結構だ」
ここで固辞しないとこの上司は相場の倍くらい軽く出してくるだろう。それだけは止めたかった。
「じゃあ決まりだね。彼女の優しい味は君の心身を柔らかくしてくれるだろう」
にっこりと王子様の笑顔で上司は言う。
そろそろ昼だと煙草の火を消した彼らは事務所に戻ろうとした。
「なあ、レオ。いいのか?」
咲への恋心を隠す気が無い青年にアレックスは尋ねた。
「なにがだい?」
「何って…お前さん、あの嬢ちゃんに惚れてんだろ?」
敵に塩を送るの敵と認識していないだけかもしれないが、部下とは言え男を送りつけるのはいかがなものかと尋ねると、王子様然とした男はそれこそ王子のように泰然として答えた。
「彼は彼の感情を認めていないだろう?認めていないうちは敵にすらならないよ」
「……やっぱ貴族ってこえー」
傲慢ですらあるが、真理でもある。
「それに、彼女のことをサウロンから聞けるなら、それだけで彼女の事が分かるしね」
自分にも利があるといってのける豪胆さ。
この年で事務所の所長を務めてるのだ。狡猾でもあり、深い慈悲の持ち主でもある。
器の大きさを見せつけられたアレックスは、肩をすくめて「どーすっかなー」とどちら側に着くべきかをまた悩み始め、レオンハルトは軽やかに笑った。
「あ、いらっしゃいませ!サウロンさん!」
金曜の夜に、サウロンは『ご飯屋さん』の戸を開けた。
店内はもう客が何人も入っていて、忙しそうに咲が動き回っている。
「今日はいいお魚が入りましたよ。何になさいますか?」
穏やかな笑みを浮かべて彼女はそう言う。
陽だまりのような場所だ。
客が彼女を呼んで、彼女は答えて注文を取る。
「あ、そうそう。サウロンさん」
メニュー表を眺めていたサウロンの前にそっと腕が差し出される。
老火湯だ。寒くなってきたからと大根と牛すじをよく煮込んでいる。
自分の為の椀に、食べる前からじんと胸が温かくなった。
そっと口を付ける。
龍港で食べたものと同じ味がした。
「ああ、美味いよ。…感謝する」
へにゃり、とその言葉に咲は笑った。
安心しきった顔で、嬉しそうに笑う。
胸に存在する温かさに、サウロンも小さく笑い返した。
優しい、優しい場所。
ここに居るだけで、優しくなれる。
この人のへにゃりとした笑顔を守りたい。
月浜咲という人が、咲き続ける事が出来るように。
それを恋と呼ぶのなら、それでいい。
その日、王寿郎は自分の中に月浜咲という人が咲く場所を許した。




