ジャック・ザ・リッパー 4
その日の夜に、アレックスから飲みの誘いがあった。
断る理由もなかったのでサウロンは頷き、定時で上がったその足で中央区から少し外れたパブに入った。
酒とタバコの匂いが満ちたそこはすでに客が何人も入っていて、アレックスとサウロンは店の奥の小さなテーブルについた。
エールとフィッシュ&チップスを頼み、二人は息を吐く。
「で?」
口を開いたのはサウロンだった。
「レオのことだよ。今日のあいつひどかったろ?」
「……否定はできないな」
昼にまた子供達が弁当を届けに来て、10分ほど子供らと遊び、彼らは次の配達先に向かっていった。
チュワンとの協定が結ばれ、気が抜けたというのもあるだあろうがそれにしても今日のレオンハルトは何に対しても上の空だった。
「俺としてはあいつの恋を応援したいところだが…。サウロン、おまえはいいのか?」
「何がだ?」
「お前、彼女のこと、気に入ってるだろ」
「ああ、そうだな。大将なら、彼女は幸せになれるだろう」
運ばれてきたフィッシュ&チップスを一口齧り、アレックスは静かにこういった。
「お前、そういうとこ、バカだよな…」
「?何の話だ?アル」
サウロンという男は、そういう男だった。
無口で、表情に乏しくて、陰気な印象すら受けるというのに、その心根はどこまでも優しくて、献身的なのだ。
敬愛する上司と、兄弟と呼ぶ親友。
どちらを応援するべきかとアレックスは運ばれてきたエールのジョッキを打ち合わせながら考える。
安っぽいエールは、古い油を使われたフィッシュ&チップスが妙にしっくりくる。
合衆国で飲まれたビールもどんな混ぜ物がされていたのか、変な味がしたしよく悪酔いしたものだ。
今ならば美味い酒も美味い料理もたらふく食えるというのに、時折無性に彼は不味い酒と不味い料理が食べたくなった。
子供の頃から粗末な料理を食べていたから。というのはあるだろう。
でも多分、自分が不味いエールを飲みたくなるのは、あの日、数週間ぶりに地上に戻ってきた自分を見つけた農夫達が差し出してくれた飲みかけの安いビールの味を思い出したいからだ。
「ま、いいや。それよりサウロン」
「なんだ?」
「近所のベーカリーの店員なんだが…」
「ああ、そばかすの子か?」
言いたいことはあったが、それを飲み込んでアレックスは大した中身も無い無駄話を親友と語り合うことにした。
寒さでサウロンは目を覚ました。
外はまだ真っ暗で、吐く息も白い。
寝間着を脱いだ彼は姿見の前に立ち、套路を始める。
辺りが明るくなる頃には体中から汗が滴っていた。
シャワーを軽く浴びる間に湯を沸かす。セシルのくれた茶を飲みたかった。
黒パンを一つと、黒茶を茶壺一杯分。
久々の香り高い黒茶だというのに味気ないと感じるのは、ゴハンヤサンの料理になれてしまったからだろう。
これでいい。と彼は思った。
これでいいのだ。
自分は、日向にはいられない。
少しくすんだ窓の向こうでは、人々が日常を営み始めていた。
注文していた弁当が今日も子供達が届けてくれた。
空になった弁当箱も一緒に回収される。
「明日も注文なされますか?」
鉛筆とメモ帳を手にしたエヴァが尋ねる。
サウロンは一ミリも動かさないで、目を伏せた。
「―いや、俺は…」
もう、頼まない方が良い。
これ以上は分不相応だ。
「俺は、結構だ。すまない」
エヴァは少しだけ悲しそうな表情を見せたが、良くある事なのだろうすぐに「かしこまりました」と頭を下げた。
これでいい。
胸中にて繰り返す。
一瞬、親友がこちらを睨めけた。
元々、自分にとって食事は生きるためのものであり、味や見た目など不要なのだ。
そもそもからして自分は野良犬だ。
残飯だろうとゴミだろうと喜んで食らう悪食だ。
だから、これでいい。
美しい世界に、自分は必要ない。
翌日はもうレオンハルトが朝から事務所の中でそわそわしており、書類仕事が一向に進まないなと判断を年長組より下された為、彼は地下にて一人トレーニングを行う事になった。
残された事務所の面子は情報部が持ってきた資料を呼んだり、自身の装備の調整のため地下の技術班と打ち合わせをしたり、またはチュワンとの協定についての報告書をまとめるなどした。
一応昨日おとといを掛けてレオンハルトが作成していたが、精々がたたき台になるかならないかの出来だった。
「恋は盲目とはよく言うが…」
「ねえ、レオって本当に27何だよね?十歳くらいサバ読んでない?」
「いや、流石に俺でも17の時はもう少し分別あったぞ」
「ティーンになりたてぐらいかぁ…」
それを目にしたアレックスとルチカは顔を見合わせて肩をすくめたのもご愛敬だ。
そんな風に好き勝手言いながら二人は報告書に手を付け始めた。
ロザは自身の装備の調整と新素材の試験を行うために技術班の元へと向かい、サウロンは情報部から上がってきた新しい調書を読み込んでいた。
なんとか現在まで分かっている被害者の生年月日や家族構成、出身地などの基本的な情報がそろってきた。
一人目の娼婦はマリア・スミス19歳。近郊の農夫の娘で、最近父親が足を怪我して仕事が出来ず家族が貧困に喘いでいるらしい。元々ニュー・ロンディニウムの工場で働く労働者だったがその仕送りだけでは家族は飢えてしまうと夜の街に出たのだろうと同じ工場で働いている女工の証言が載っていた。
二人目の花売りはストリートチルドレンだ。名前はケイト。年齢は14歳。元は農村部にいたがある日人買いに逢い誘拐され逃げ出したのだそうだ。
逃げ出した先の路地で知り合ったストリートチルドレンの少女達と共に行動し、花売りとして生活していたらしい。
その少女達の証言として『当日体調不良を訴えていた』それから『親切な老婆に古いスカーフを貰った』とあった。
三人目のメイドは勤務態度も勤勉であり、また主人による性的な搾取はされてないとの証言があった。他の使用人達とも仲は良く、執事は60歳を越え彼女を孫のように可愛がっていたらしい。こちらはそもそも男性機能がまだあるのかという問題もあるのでまあ除外して良いだろう。
また、サラは主人の一人娘であるブリジッドと年齢が近い事から彼女の専属のように使われていたらしい。
痛々しいそれに内心眉をひそめながら、サウロンは彼女たちの動きを、もう一度想起する。
「………」
だが、精々マリアは転倒の際に背中を打った事と、サラが腰に巻いたスカーフを捕まれた事が見えた位で、犯人に繋がりそうな手がかりは見えてこなかった。
小さく息を吐いたサウロンは、写真に写る少女達の顔を静かになぞる。
皆、安らかとは言えない恐怖に固まった表情をしていた。
昼が来る前に、サウロンは地下へ向かい自身の愛銃にて射撃訓練を行った。
入れ違いになったレオンハルトは浮き足立っていて、きっと午後も使い物にならないから地下で一人鍛錬だろう。
「ああ、サウロンさん。丁度良かった、新素材について感想をください」
弾丸を受け取りにいくと技術班の一人が新しい素材だと言って真新しいベストを差し出した。
「これは?」
「ええ、最近討伐された『忌まわしき狩人』の皮を使った装備です。元の生物が元の生物なので日光に晒されると劣化しますのでこうして裏地に使っているのですが…」
触ってみれば表は上質なウール生地だが裏地に使われているのはひんやりとした何かの革だ。
若干の弾力性を持つそれは、しかし確かにその薄さに比べれば恐ろしく頑丈だった。
「防刃防弾として機能します。実験ではピースメーカーのゼロ距離でも破損しなかったと」
「ほう…」
仮に大口径の拳銃の弾を防いだとしてもその衝撃を逃がすわけでは無いから相当のダメージを装着者は受けるだろうが、それでも貫かれないというのは重要だ。
「で、今実行部の人達に感想を貰う段階でして」
「ロザたちにもこれを?」
「ええ、ロザさんにはコルセット型ですが…」
「ふむ…」
この時代の女性の美しさの基準に腰の細さがあり、コルセットによってきつく締め上げる事が普通だった。だが、当然女性には息苦しさや動きづらさを強いることになる。
最近では健康被害があるとしてコルセットの着用やきつく締め上げる事を反対する活動も出てきたが、人の常識や感覚というものはそう簡単に塗り替えられない。
それを指摘すると技術班の彼は「ああ」と呆れた様に頷いた。
「結局、企画製品にゴーサイン出すのって爺どもですから…」
「そうか…」
どれだけ現場で実験を繰り返し、どれだけ女性達の健康に沿った製品を作ったとしても、それに頷かないのが年寄りと言うものだ。
彼にもいくらか覚えがあったので、ぽんと思わず技術班の男の肩に手を置いてしまった。
「ほんっと早くくたばってくれねえかな…」
虚ろな目でぼやかれた言葉をサウロンは聞かなかったことにした。
昼食も取らずに、射撃訓練を続ける。
いかなる精神状態であっても、目標を見定め引き金を引く動作はぶれてはいけない。
そういう風に教えられてきたし、そうあろうとサウロン自身も務めてきた。
実際、彼が弾倉の弾を撃ち尽くした後に確認した人型の標的は、確かに心臓と眉間を何度も打ち抜いていた。
―………。
それを見て、サウロンの心は凪いでいく。
自分は殺し屋だ。
殺す以外に能が無い。
だから、その本分を務めている間は、安心する。
規定の弾を撃ち尽くし、サウロンが銃の分解清掃を終わらせても、まだ終業には時間があった。
そろそろライフルの長距離射撃訓練をしたいものだと思いながら、彼は階を上がって鍛錬を行う。
「ねえさ、サウロン」
「なんだ」
地下に降りてきたルチカは懸垂を行うサウロンの足におもむろにしがみ付いて口を開いた。
「汚れるぞ?」
運動着に着替えることもせず彼女のお気に入りの服が汚れることを心配したが、ルチカは続けた。
「いいの?」
「何がだ?」
ぎゅう、とルチカが腕の力を込める。
「どうした?ルチカ」
黙り込む彼女に心配になって声を掛けると、ぐっとルチカは唇を噛み更に強くしがみ付いた。
「ルチカ?」
優しい声で心配する男にルチカは無言を貫く。
「…………」
重しになったルチカに内心軽くため息をつき、サウロンはそのまま鍛錬を続けた。
終業の時間になり、汗を流して上に上がるとレオンハルトが緊張のあまり狼狽さえしており、アレックスが雑に宥めていた。
「…平気か?大将」
「あ、ああ…」
傍目から見ても全く大丈夫ではないのだが、ちらりと親友を見ると大仰に親友は肩をすくめ彼もまた肩をすくめてみせた。
「手土産は?ああ、そうか、準備しているな。いや、いいから落ち着け大将」
移動手段は特に決めていなかったが、レオンハルトの様子からサウロンが車を回すことにした。
昨日と同じく運転席に座ったサウロンは緩やかに車を発車させる。
ルームミラーでは子鹿のように年下の上司が震えている。
アレックスに着いてきて貰って正解だったな…と彼は前を向き直りながらそう思った。
「いらっしゃいませ」
店に着くと明るい咲の声が出迎えてくれた。今日は貸し切りだ。
「カウンターへどうぞ」
にこにこと嬉しそうに咲は三人をカウンター席に案内する。
「沢山料理を用意していますから、どうぞ色々食べて下さいね」
特別ですよ、と悪戯っぽく笑って差し出されたのは厚手の紙片で、子供達が一生懸命書いたのだろうクレヨンやペンで料理名や説明、それからイラストまで添えられた特製のメニュー表だった。
「これは素晴らしい!」
ガチガチに緊張していたレオンハルトも心尽くしのもてなしに感嘆の声をあげる。
―『タマゴヤキ』と言うのか…
ミアが描いたのだろう黄色い渦巻き模様の下にエヴァが書いた丁寧だがまだ拙い文字で「Tamagoyaki オムレツ」とあった。
見ているだけで心が温まるようなメニュー表だ。
嬉しそうに誇らしげに咲は微笑む。
―ああ、美しいな…。
目を細めてその笑みを見つめる。
日向に咲く人だ。自分には眩しすぎる。
まずは乾杯だとアレックスが酒を頼んだ。
米で作られた透明な酒は、澄んだ果実のような香りがした。
一口、舐めるように口に含み、その香りと切れのある辛みを楽しむ。
だがそれだけだ。
運転において明瞭な意識を保つためにこれ以上は飲まない。
そういうことにして、サウロンはそれ以上の酒精を求めなかった。
レオンハルトはあれこれと料理を頼んで咲に説明をしてもらい、アレックスは酒が気に入ったのか違う銘柄を飲み比べしている。
「なあサウロン、ラベルの文字は読めるか?」
茶を貰いながら大量に運ばれてきたレオンハルトの注文を片付けていると隣に座ったアレックスがそんなことを言った。
アレックスの前には小さなコップになみなみと注がれた酒が幾つも並んでいる。
「こっちはシラユキでこっちはチヨギクだそうだ」
すい、と指さされた酒瓶のラベルには崩されているが確かに華字が書かれている。
「シラユキはそれぞれwhite snow。チヨギクはthousand、generation、chrysanthemum。前者は白い雪、後者は菊は長寿や繁栄の象徴だからな、そういう意味だろ」
「へえ。菊って東晨ではそういう意味があるのか」
「重陽の節句といってな、華国だと季節における節目の日に菊を浸した酒を飲んで長寿を願う風習があるんだ。それが秋津にも伝わってるんだろ」
偉大なる華国。
長い歴史を持ち華やかな文化を誇る華凰央国。
確かに大国ではある。だがそれも阿片に沈むまでの話だ。
サウロンは龍港のような沿岸部が主な生活拠点であり、大陸で大きな国土を持つ華国の内陸部にはあまり行った事が無い。
少なくとも、彼が見てきた沿岸都市はどこもかしこもアルビオン連合国の支配下にあり、阿片が蔓延していた。
内陸部でどうなっているのか分からないが、もしもそこまで阿片に汚染されているとしたら、あの国は沈むしか道はないだろうなと漠然とした諦観がある。
だからこそ、山岳部の少数民族はデウス・エクス・マキナを起こしたのだろう。
デウス・エクス・マキナを起こした被差別階級の者達はどこも似たようなものだ。
人間の矜持として手を出さなかった禁忌を人間としての尊厳を踏みにじられたからこそ破った。
そんなことを考えている間にも、レオンハルトはどうにかこうにか咲との関係を築くべく悪戦苦闘していた。
土産の品は高級な茶葉とチョコレートで、子供達と一緒に楽しんで欲しいとしどろもどろになりながら手渡していた。
彼は母国語はもちろんアルビオン語を含めた四カ国語を流暢に話せるし、それぞれの文学や芸術にも精通している。
そういった教養から豊富な言葉を紡げるはずなのだが、どうにも上手く言葉が出ないらしい。
こう言った色恋には古典等から言葉を引用する事が一つのステータスになるのだが、それは相手がその古典を知っている事が前提になる。
アルビオン語を訛りも無く話せる咲ではあるが、アルビオンの古典に通じているとは限らないのだ。
その為、レオンハルトは先達に頼ることが出来ずに自分自身の言葉を選ばなければならず、今見ている限りではそれが上手くいかないようだ。
「あ、あの、咲殿…」
「はい、なんでしょうか?」
いつもの紳士らしさは何処へ行ったのか、おどおどと子犬の様な表情でレオンハルトは咲に声を掛ける。
「あなたの好きな花はなんでしょう…か?」
アレックスはコップに口を付けることで吹き出すのを我慢した。
「好きなお花…ですか…。そうですねえ、みんな綺麗で好きですけれど…強いてあげますなら、やはり桜でしょうか」
のんびりとした長閑な笑顔で彼女が答える。
「おお、桜!秋津の国花ですね!」
「ええ、先の聖聴巫皇の御代に芦名河沿いに植えられた桜並木がとても好きなのです」
その唇が名のように綻ぶ。
「そうですか…ですが残念です。桜では私はあなたに贈ることができない」
「あら、お花を下さるんですか?ありがとうございます」
しょんぼりとした貴公子にクスクスと小さな笑い声を上げる咲。
「その時はお店に飾らせて貰いますね」
まあ、そう簡単に思いが成就するとは限らないのだが。
こう言った商売だ、言い寄ってくる男のあしらい方の一つ二つ知っていて当然だろう。
何も、声を掛けてくる男が全員本気の訳もないし、それに本気でいちいち付き合ってはいられないものだ。
だからこそ、あっけらかんとした調子で言葉を掛け合って、相手を楽しませておきながらもそれ以上踏み込ませない様にと線引きする。
無発酵の茶を飲みながら、レオンハルトの悪戦苦闘ぶりを鑑賞しているとふとサウロンは気付いた。そういえば、この店では煙草の匂いがしない。
今のご時世、どこもかしこも煙草を吸うのが当たり前だったし、職場で吸うのも普通のことだ。
事務所の屋内が禁煙なのは自然と決まったことで、これはサウロンが煙草嫌いなことが理由だった。
気にしなくて良いとサウロンがいくら言っても、幼少期に煙草の火を何度も押しつけられた経験がある事を知った親友達は、彼の前で煙草を吸うことをやめた。
故に忘れていたが、飲食店でも当然灰皿は据え付けられているものだ。なのに、この店にはそれらしいものは何処にも見当たらなかった。
何か理由があるのかもしれないが、それが彼女にとって嫌な記憶が起点でなければいいと祈る。
レオンハルトはそれ以降も咲に懸命に話しかけ続け、彼女の生年月日や生まれた場所、家族構成などを聞き出していた。
漏れ聞いた限り、月浜咲は今年26歳であり生まれは統都だということ、家族は父が一人だという。
一般に、男親というのは娘をことさら可愛がるものだと聞いているので、よくもまあこんな離れた国にひとりで店を持たせたものだと感心する。
あれこれと無節操にレオンハルトが注文したせいで、相伴に預かった料理は少量ずつだったがそれでも腹が膨れてきた。
隣に座る親友は楽しげに酒を飲み比べている。
咲の説明を聞くに秋津のあちらこちらで作られた酒らしい。
焼酎という蒸留酒は米や麦と甘芋を使ってつくるらしく、甘芋と聞いていくつかの銘柄を注文していた。
「お、これ美味いな。飲んでみろよレオ」
そういって適度にレオンハルトに酒を飲ませている。
「むむ…」
秋津は水が豊富だと聞いてはいたが、水一つでそれほど変わるものなのかと思った。
「サウロンさん、サウロンさん」
と小さな声で咲が彼を呼び、何事かと視線を上げるとそっと一杯の椀が目の前に置かれた。
「味見してくださいませんか?」
懐かしい匂いがした。
干したアワビと豚肉、それからレンコンのシンプルな老火湯だ。
「これは…」
「ほら、うちはチュワンの皆さんに守って貰っていただいてますから」
こそこそと彼女は悪戯っぽく囁く。
龍港でよく食べられる家庭料理。何時間もじっくりと煮込む料理だ。
本当にチュワンの為に作ったのかもしれない。けれどこれは、この時だけは、サウロンだけのための料理だった。
「……美味い」
「よかったぁ」
へにゃり、と安心しきった顔で、彼女が笑った。
素材の味がしみ出した、柔らかく懐かしい味。
彼女の顔を見ていると、無性に胸が詰まって苦しくなった。
「【ただいま!】」
夜八時半頃に子供達が帰ってきた。多くの空になった弁当箱を抱えている。
「【おかえり】」
優しい声で咲が迎える。
「寒かったでしょう」
子供達の頬を両手で包んで温める。
「お風呂沸いてるよ」
入っておいで。と声を掛けるが、しかしエヴァが首を振った。
「どうしたの?」
エヴァは咲を手招いてこそこそと何かを囁いた。
「え…?」
「だからね、私いかなきゃ」
「そんな…っ」
「大丈夫だよサキ姉ちゃん。俺が着いていくから」
「明日じゃ駄目?私も行かせて欲しいの」
何をもめているのか、心配そうに咲が言いつのる。
「お姉ちゃん。大丈夫。ラルフさんも分かってくれてるの。だから、ちゃんとお話ししてくるの。ね?」
「………」
エヴァはどちらかというと大人しく控えめな少女だった。
その少女が強い意志を込めて咲を説得していた。
「お話が終わったら、すぐに帰ってくるんだよ?」
「うん」
ぎゅっと少女と咲は抱きしめ合う。
「ミア、サキおねえちゃんをよろしくね」
「うん!」
胸を張ってミアが頷く。
「【いってきます】」
荷物を置いて、防寒のための上着を(これも秋津のものだろう)を羽織ったサラとジョージはまた戸口から出て行った。
心配そうに咲はミアを抱きしめる。
「先に一人でねんねできる?」
ミアを抱き上げ、そう尋ねる咲。
「うん!」
「終わったらすぐ行くから、ちゃんと歯も磨くんですよ?」
小さく小言を言う様は、実に堂に入っている。
日頃からよく見ているのだろうなと、その姿を見れば手に取るように分かり微笑ましい。
「ん!」
ぎゅっとミアが抱きしめるのは、以前見たぬいぐるみだろう。
「おやすみ、ミアちゃん」
もう一度ミアを抱きしめ、彼女は帰ってきた。
「すみません、お待たせしました」
ぱっと客を和ませる笑みを浮かべ、また彼女はせわしなく働き始める。
「大丈夫か?ちび共」
アレックスが尋ねると、僅かに困った様な笑みを浮かべて返答する・
「何でも今後のことでラルフさんという方と相談しないといけないそうで…」
ラルフというのはここいら一帯のストリートチルドレンの元締めなのだそうだ。
あの三人は元はラルフの保護下にいたが、咲に拾われたことで路上生活から脱した。
だが、最底辺の生活から抜け出した元同胞を羨み妬む者達もいるだろう。
その為、三人は咲から給金を貰い、それをまた咲に納めることで彼女の家で暮らすという体裁を取っていたそうだ。
そして、ラルフの面子を潰さないために給金の一部をラルフに納めているのだと咲は言った。
相談というのはそういった上納金の金額やそこらの話だろう。そんなことを考える。
咲はまだ心配そうだったが、「咲殿」とレオンハルトが声を掛けると「はい」と笑みを浮かべて切り替えたようだった。
店に入ったのは午後六時半ほどだったのにもう午後九時を過ぎた。
サウロンの隣にはへべれけになった親友と、いまだ咲との関係構築に悪戦苦闘する上司がいる。
こういうものは何度も店に通って徐々に関係を築くものではないのだろうかと思いはするものの、初恋に浮かされているのだろうなとも同時に考える。
紳士たれと教育を受け自身もそう在ろうと常に背筋を伸ばしている男であっても、初恋には敵わないとこうまざまざと見せられると微笑ましいものだ。
「はい、お味噌汁です。アレックスさんはもうお酒駄目ですよ」
もう一杯と酒を頼もうとしたアレックスを咲は制す。
「これ以上は駄目です。二日酔いになりますよ?」
差し出されたのは味噌のスープだ。具材は小さな貝のようだった。
「えー?」
「えーじゃありません。気持ち悪くなったら困るでしょう?」
くだを巻くアレックスにきっぱりと断る辺り、場慣れしているのがうかがえた。
「お酒ならまたのみに入らして下さい。季節が変われば別のお酒も入りますし、違った料理もお出しできますから」
にっこりと商売用の笑みを向けられるとどうにも分が悪い。
「わかったわかった。あんがとな、Ms.ツキハマ」
ひらひらと赤くなった顔でアレックスが手を振る。
「レオンハルトさんは大丈夫ですか?」
レオンハルトもアレックスほどでは無いが酒を飲んでいた。料理は言わずもがな。十二分に食べただろう。
「あ、ああ。堪能させていただいた」
「それは良かったです。またいらして下さい。まだまだお出ししていない料理も在りますし、私もこちらの料理を学んで美味しい物を作りますから」
今度は長閑な笑みを見せる咲。
それに対し、レオンハルトが僅かに息を詰まらせたのをサウロンは見た。
客向けの、いってしまえば本音を隠した笑みでは無く、レオンハルトに向けられたものは本心からのものだ。
自身の料理を楽しんでくれたこと、この店を気に入ってくれたこと、そして、誰かのささやかな幸せになれた事への喜び。
当たり前のものと断じればそれまでだが、当たり前のものを当たり前に持ち続ける事の難しさを裏社会に長く身を置いてきた彼は知っている。
そんな、ありきたりの善性。
花のようだ。
と思った。
ただそこにあって、咲いている。
美しいもの。
簡単に踏み潰されて折れて枯れてしまう、優しいもの。
見つめ続けていたかった、愛おしいもの。
レオンハルトの恋が叶えば、それは彼女を守ることに繋がるだろうか。
ふっとそんなことが泡のように現れる。
そうあるべきだと理性が告げ、胸の何処かで何かが痛む。
―自分は、野良犬だ。
これ以上は望まない。
何度も自分に言い聞かせているのに、彼女を見る度に余計な願いが生まれてくる。
もう逢ってはならない。
余計なものが生まれてくる事が嫌というほど分かった。
これで最後だ。
本当に本当に最後だ。
女々しい自分につい苦笑がこぼれてしまい、彼は残ったスープを飲み干した。
勘定をし、酔っ払い二人を後部座席に押し込み店から離れる。
バックミラーに映った咲は柔らかい表情をしていた。
彼女が穏やかな日々を送れるようにと祈るばかりだった。
だのに、その祈りは叶うことは無かった。




