ジャック・ザ・リッパー 3
通りを歩き、自室に戻った。
彼が住居とする部屋はデウス・エクス・マキナ以降に建てられた比較的新しい部類の集合住宅だ。初老の女性が大家を務め、食事や洗濯掃除などを請け負ってくれる。
元はそれなりの資産家の妻だったという女性は、夫が亡くなって以降安定的な収入のためにこの集合住宅を建てたのだという。
名はマーガレット・アボット。昔は家庭教師として様々な上流階級の子女を教えたという女性だ。もうすっかり髪は白くなってしまったが、ぴんと背筋を伸ばした姿勢からは気品と知性が覗く初老の女性だ。
そんな女性であったから夫の死後、親族からは何度も再婚を勧められたが結婚はこりごりよとは彼女の口癖だった。
サウロンが自室に戻ったのは夜の九時半を過ぎた頃で、大家の女性はまだ起きていたようだった。
「あら、ウォンさん。こんばんは」
「ええ、アボット女史。こんばんは」
彼の部屋は二階にあったので階段を上る途中だ。
「今日はまた可愛らしいものを持っているわね」
咲に包んでもらった二つの朝食が彼の手の中にあった。
「ええ、朝食用です」
はきはきとした口調でしゃべるこの女性は、存外に世話焼きだった。
「そう、あなた本当にちゃんと食べているの?私がしてるのは洗濯ぐらいじゃないの」
無論自室に所属に繋がる物証を転がしてはいないが、サウロンはあまりこの大家の手を借りて生活をしていなかった。
「ええ、食べていますよ。女史」
この手の年を重ねた女性は自分より若い人間にどうしてかちゃんと食べているかを尋ねたがる。
それが紛うこと無き親切心からであるので、サウロンは何回目かの問答であっても丁寧に返答した。
そうやって毎度毎度答えるからこそアボット女史は質問するのだが、彼のあずかり知らぬところだ。
「そう、あんまり無理しないでね」
この集合住宅に住み始めてから二年ほど経つが、この手の年配女性にありがちな「結婚をしろ」というお節介は一度も彼女はしなかった。
当人が再婚をせずにいたことと何か関係があるかもしれないが、サウロンは確かに心を配ってはくれるが、あまり踏み込みすぎないこの大家のことを気に入っていた。
「いい夜を、Mr.ウォン」
「ええ、おやすみなさい、アボット女史」
挨拶を返し、サウロンは自室のドアを開けた。
備え付けのベッドと、小さなテーブルとイス。暖炉にベッドボードとクローゼット。
小さなキッチンと一つのコンロに、シャワーとトイレ。
殺風景としか言い様がない部屋の中で、一つだけ異様なものがあった。
大きな姿見と、その前に置かれた薄っぺらいマットレスだ。
それ以外は本当に、この手の集合住宅において備え付けられている家具ばかりだ。
生きるために必要最低限の設備。
それがサウロンの住処だった。
コートを脱ぎ、着ていたスーツをクローゼットにしまう。
シャツとズボンだけの格好になり、サウロンは鏡の前に立った。
呼吸を整え、足を肩幅に開く。
鏡を見つめながら、叩き込まれた動きをなぞっていく。
ゆっくりと、しかしぶれることなく、ずれること無く、一つ一つの動きをこなしていく。
自身の筋肉が、腱が、骨が、十全に動く事を確認する。
脂肪の無い痩せた体では、皮膚の下にある筋肉の動きがよく見えた。
套路と呼ばれる一連の連続した型を繰り返し、サウロンは自身の懊悩をそぎ落とそうとする。
―お前のせいだ!
刹那、彼の脳裏に鋭い声が蘇る。
忘れることなど出来ない、罪の記憶だ。
―お前さえいなければ阿爺は死ななかった!
そうだ。自分さえいなければ父は死なずに済んだ。
自分さえ拾わなければ、自分さえ育てなければ、自分さえ愛さなければ。
―寿郎
父が自分を呼ぶ声がする。
忘れたくない、あの声。そして、
女の愉しそうな笑い声。
「――……っ」
はっとして視線を上げる。
汗だくになった痩せた男が鏡の中にいた。
知らず、握りしめていた拳を解く。爪の跡が残っていた。
「【父さん…】」
終ぞその人に呼べなかった呼称を呟く。
その為に生きている。
その為だけにこの命は使われる。
どれだけ騎士団が心地よくても、どれだけ仲間達を好ましく想っていても。
自分は『痩せた錆狼【サウサウロン】』だ。
套路を切り上げる。やはり血が足りないのか、頭がぼんやりとした。
シャワーの蛇口をひねり、まだ冷水のままのそれを頭から浴びる。
赤錆色の髪が濡れて血のような色になる。
「はっ」
小さく自嘲した。
所詮自分は、娼婦の息子だ。
体には客を取らされていた時代の古傷だって残っている。
どうしようも無い野良犬だ。
どれだけ身ぎれいにしていたって、それは変わらない。
水が温かくなる前にサウロンは水を止めた。
冷え切った部屋の中、水を拭うのもなおざりにしてサウロンはベッドに倒れ込み、何も考えないようにと目を閉じた。
朝になり、カーテンも無い部屋に朝日が差し込みサウロンは目を覚ました。
顔を洗いアルビオンの紅い茶を淹れて、粗末なイスに腰掛ける。
昨晩から暖炉に火を入れていないため、部屋は息が白くなるほど寒いが、彼は気にも留めなかった。
いつもなら紅茶を啜り一、二枚の焼き菓子か黒パンの一つを腹に収めて事務所に向かうのだが、今朝は『ご飯屋さん』の軽食があった。
包みを開けると、更に笹の葉で包まれたオニギリがふたつと、密封容器が出てきた。ホーロー製だ。
『そのまま温めて下さい。味噌のスープが入っています』
几帳面な文字が書かれた紙片が挟まっていた。
紙片の片隅にはオニギリの小さな絵が描かれている。子供が描いたのだろうか、拙いそれがやけに可愛らしい。
朝日に照らされて、インクが白く光る。
コンロに火を付けて容器を温めている間、サウロンはオニギリを頬張ることにした。
オニギリは色んな具材を一緒に炊いた炊き込みご飯で、何かの葉で一辺を包みそこを持つようになっていた。
「…」
心持ち大きく開けた口に入れる。
キノコと鮭、それから根菜が混ぜ込まれたそれは滋味があって、少し辛い葉が味を引き締める。
美味い。
合間に紅茶で喉を潤すとあっという間にサウロンはその二つを平らげた。
続いてホーローの容器を火から外して蓋を開ける。ふわりとした湯気と共に出汁と味噌の香りが立った。
味噌のスープは油揚げと大根が入っていて腹の内から良く温まった。
ふ、とサウロンは唇を綻ばし、そして自分の手で口元を押さえた。
「………………」
ああ、駄目だ。
本能でそう悟った。
この命は一つの目的のために使われなければならず、この命はその為だけに生きることを許される。
あの、花のような人はそこにいるだけで自分の心を優しさで満たしてしまう。
それは、分不相応な幸福であり、目的の妨げになってしまうのだ。
「………………はぁ」
大きく息を吐いた。
胸の内で何かが引っ掻くような痛みを、彼はいつも通りに無視をした。
「よう、おはよう」
事務所に着くと、やけに機嫌の良いアレックスが手を上げて挨拶をした。
「ああ」
こちらも軽く手を上げて返す。
「その様子だと交渉は上手くいったようだな」
「ああ」
力強く頷く親友に彼は微かに笑って見せた。
「大将はどうした?」
持ってきたぞと軽食の包みを掲げてみせると、アレックスは肩をすくめる。
「昨日の会食で出た飯が古い油使ってたせいで胸焼けだと」
「非公式とはいえ良くそんな店を指定したな」
さしものサウロンも鼻白む。
「相手がいつものブラウン警部じゃなくてハリス警視正だったんだよ」
「ああ…」
ブラウン警部は叩き上げの警察官で現場にいち早く駆けつける男だが、ハリス警視正はいわゆるキャリア組で現場に出ない代わりに宮廷とのコネクションが強い男だ。
間に挟まる警視階級にロビンソンという男がいるが、正反対の上司と部下に挟まれていつも苦労している。
「多分今頃ロビンソン警視も胸焼けに苦しんでるだろうよ」
ちょっと遠い目でそんなことを言う相棒に、サウロンも彼方に視線をやる。
「結果は?」
「一律で警部補以下は暗示を掛ける対象になった。警邏と通報の情報の共有、それから神話事象と確定した場合の速やかな引き渡しだな」
「随分勝ち取ったな」
ブラウン警部ならまだしもハリス警視正相手にそれだけぶんどったと言うことは、彼の弱みを存分に活用したのだろう。
どんな弱みを握ったのかは恐ろしいので聞きはしないが、相棒の上機嫌ぶりを見るに、致命的な弱みなのだろうなとサウロンは考える。
「しかし昨日の今日で会食だが、胃は大丈夫か?龍港の料理はそれなりに油を使うぞ?」
「俺なら平気だし、レオの奴も大丈夫だろう。俺らより若いし」
胃薬でも地下にもらいに行ってやるべきか、などなど考えていると若干げっそりしたレオンハルトが入ってきた。
「おう、大丈夫か?レオ」
「あ、ああ…」
心なしか、逞しい身体が萎んで見える。
こういう仕事なのでレオンハルトもお上品な料理だけではなく多少は粗末なものを食べることもあるのだが、それにしたって妙に疲れてるようだった。
「サウロン君、それで…」
「ああ」
縋るような目をする上司に猫柄の包みを手渡す。途端「おお!」という歓声をあげ、レオンハルトが目を輝かせた。
出てきたオニギリと味噌のスープに小躍りしそうな程に喜んでいる。
「茶のついでだ」
と言ってホーローの容器を取り温めようとすると、レオンハルトは嬉しそうに「ありがとう」と言った。
茶の準備をしながら先に容器を温める。
アレックスに確認すると彼も茶を飲むと言った。
人数分の茶葉をいれ、それぞれのコップを用意していると良い具合にスープが温まった。
それを持って行ってやると、既にオニギリを食べ終えたレオンハルトがそわそわしながら待っていた。
「ここの優しい味付けのせいだ…」
ぼそり、とあまり聞かない言葉をぼやくレオンハルト。
「何がだ?」
普段この男が誰かのせいにするなどあり得ないので首をかしげると、年下の上司は深くため息をついた。
「昨日の会食の料理は残念ながら酷かった…。ここ数日、秋津料理の味付けを楽しんでいたから余計にそう思ったんだ……」
なるほど。
なんだか妙にあっさりと納得してしまう。
「あー…」
聞こえたのだろうアレックスも腑に落ちたのか何度も頷く。
「けどよ、それにしたって随分感じが違うよな。何というか、味が丸い」
「水自体が違うのかもしれないな。サウロンに聞いた限り雨が多い地域ならば、アルビオンのような硬水ではなく、軟水が主な飲料水だろう」
デウス・エクス・マキナが起こり、様々な変革が起こった。
医学が発達し、それに併せて公衆衛生という概念が普及した。
油や重金属が垂れ流されていたテムズ河は徐々に元の姿を取り戻し、水を濾過し消毒すると言う技術が生まれ普及した。
その結果、現在のニュー・ロンディニウムでは貧民街でも無い限り、飲料水に適した水を、蛇口をひねれば皆が飲めるようになった。
裏を返せば、東地区の貧民街では今でも汚染された水をのみ、健康を害している労働者や浮浪者がいると言うことでもあるのだが、今は置いておこう。
詰まるところ、水という生きるのには欠かせない存在への興味探求もあり、国によって飲まれる水が違っていることにも人間は気付いた。
そうして水の濾過や無毒化等の技術の発展の中で硬水を軟水にする技術も反対に軟水を硬水にする技術も生まれ、今ではその技術に一般の人々が手を出すことも可能になった。
「同じ調理法でも水が違えば味が異なるときいたことがある。もしかしたらこちらのお店は極力秋津に近い素材で料理を作ってるのかもしれないな」
そう告げるレオンハルトの目には作り手への敬意があった。
実際どうなのかも分からないのに、随分と彼は咲をいう存在を買っている。
まあ、浮いた話が一つも無い上司にとっては良い傾向なのかもしれないな、等と思うサウロン。
胃薬は不必要そうだと判断した彼は、湯が沸いた音がしたので給湯室に戻った。
「おはよう皆の衆!」
本日は昨日と同じコートだが、下にクリノリンスカートを着込みふんわりとしたシルエットのルチカが出社する。斜めにリボンで固定した小さめの帽子は流行の店のものだろう。
「おはよー」
次いでロザがやってきた。
「サウロンー。アタシも昨日グルル見ちゃったぁ…」
出社早々にサウロンに抱きついてぶらさがりながら報告するルチカ。慰めてと甘えるので彼女の背中をぽんぽんと撫でるサウロン。
「またか。場所は?」
黒板をひっくり返し地図を出すアレックスに、ひょいと身を離したルチカが此処!と指差した。
「ゴミ捨て場の近くで、近辺の浮浪者に話聞いたらここ二、三日見るようになったって言ってたわ」
「下水掃除確定だなぁ…」
ぼやくアレックスに天を仰ぐロザである。
「あああああああ」
魂からの呻き声を上げるロザにそっとサウロンは茶を差し出した。
「ありがとーサウロンー」
「俺だって病封じの術式があるとはいえ、不衛生な場所には流石に長居したくない。大将、グルル=マセクの掃除は情報部に任せる事は出来ないか?最近だと石油から効率のいい燃料が採れると聞く。問題は延焼して火災に発展する事だが、それくらいの術を彼らなら使えるのでは?」
情報部で求められるのは情報を収集し分析することであって戦闘は門外漢だと言われればそれまでだが、グルル=マセクの性質上これからもこの掃討戦は定期的に行われると予想できた。ならば最初から定期的に情報部が情報収集ついでに掃除をすれば、実行部という戦闘が主な任務である部署に頼らずとも良いのではないか。
少なくとも、実行部は任務の為に負傷し動けないこともざらにあり、少ない人員をどうにかやりくりして運用しているのが現状だ。今のところ補充要員の話も聞いていないし、人手不足にあえぐのはしばらく続くだろう。
「燃料ねえ…それとは違うが噴霧器はどうだ?グルルに効く薬剤を撒ければ火災の心配も無いだろう」
ガキの頃金持ちの農場で見たぜ、とアレックスは言う。
「噴霧器?」
「ええ、農薬やら殺虫剤やらを入れて霧状にして作物に吹き付けるんです」
農場とはほど遠い所にいるレオンハルトに説明する貧農の息子であるアレックス。
「それなら錬金術師達が作れそうだな…」
ふむ、と顎に手をやり考えるレオンハルト。
永続的な問題故に、創意工夫を以て容易に討伐できるならそれに越したことは無い。
「すまない、アレックス。提案書を書いてくれないか?出来次第本部に奏上しよう」
「承知しました」
早速だと机に向かうアレックスに、後でコーヒーでも淹れてやるかとサウロンは思った。
「こんにちはー!」
そして今日も元気な声は聞こえてきて、いそいそと女性陣とレオンハルトは出迎える。
頬を紅潮させて子供達は弁当を差し出すが、今日は男の子は後ろに隠れいていた。
一つ増えた包みを受け取るとレオンハルトはそわそわしだす。
「あのね、旦那様…」
しょんぼり、という表現がぴったりな表情でおずおずと男の子が前に出てきた。
差し出された大きな手のひらには、最初の時と同じ鶴がのる。
「ごめんなさい。サキ姉ちゃんこれ以上難しいの知らないって…」
聞いてみたらそれはそうだ。子供の遊戯であり、幾つか作り方を知っていても忘れて仕舞ったものもあるだろう。
「ごめんなさい、チップ沢山頂いたのに…」
悲しげに男の子は謝って、前掛けのポケットからちゃり、と硬貨を取り出した。
「お返しします。約束破って、ごめんなさい…」
その金額は殆どレオンハルトが差し出したものと同じだった。
「…………そうしなさいと、ご店主は言ったのかい?」
「んーん。でも、旦那様とお友達になりたいなら、お金を貰うのは違うよって」
この子供達の正体なら、少し考えれば分かることだった。
ストリートチルドレン。ニュー・ロンディニウムに溢れかえる「不要」として切り捨てられた子供達。
大抵は何人かで固まって物乞いや窃盗をして生きている。
地区ごとに、元締めがおり上前をはねていく。
ゴミのようにいつ死んでも誰も気に留めない、そんな存在。
どうして咲が子供達を雇い上げたのかはわからない。
けれど、彼らの身なりや言葉遣いを見るに大切にしていることは分かった。
そんな、言ってしまえば金銭のありがたみを、格差の残酷さを文字通り骨身に沁みて知っている子供が、それよりも、叶うかすら分からない願いを取った。
べそべそと泣きそうになっている男の子に、レオンハルトは膝を突いてその子の目を真っ直ぐに見た。
「ありがとう。君の気持ちはよく分かったよ、お金は受け取っておこう。僕もね、君のお友達になりたいと思っていたんだ。…だから」
まず初めに、君の名前を教えてくれないか。
男の子は、今度こそ堪えきれずに大粒の涙を流しながらレオンハルトに抱きついた。
この大将は、貴族に生まれ何不自由なく育ち、けれどその分の責務を背負って生きてきた。
少しばかり世間知らずのこの青年を大将として頂くと決めて、サウロンは同じく貧しい生まれのアレックスと共に彼のフォローをしていくと決めているのだ。
ちら、と相棒の方を見やるとあちらもこちらに気がついて、肩をすくめて見せた。
世知辛い浮世のあれこれを少しずつ教えていかねばと、妙な責任感すら感じていたのにどうしてか、この大将は自分たちが見た事も無かった優しい光景を見せてくれるのだ。
だから、他者に踏みにじられた人生を送った男達は、年下の青年に忠誠を誓っている。
男の子の名前はジョージ。女の子の名前は年長の方はエヴァ、小さな子はミアと言った。年齢は思った通りに彼らはストリートチルドレンで正確な年齢は分からないそうだった。
そこまで話して他の配達は大丈夫だろうかとレオンハルトはおろおろし始めたが、店主に配達は最後になるようにとルートを設定してもらっていた為に時間的に余裕はあるとのことだった。
「あの…」
おずおずと、エヴァが真っ白い封筒を取り出した。
「お姉ちゃんからです」
一つ頷いてレオンハルトがそれを受け取る。
「ああ、ちゃんと読もう」
レオンハルトの太い首にはミアとジョージがぶら下がっている。
子供達が安心しきって身を任せてくれることにレオンハルトは嬉しそうにニコニコと笑う。
渡し終えたエヴァは俯くと、もじもじと後ろ手に回した指を弄り始める。
その様子を認めたルチカがにぱっと猫のように笑うとエヴァの手を取った。
「ねえ、あなたおしゃれに興味は無い?」
天使のように可憐な女性にそういわれて、エヴァの目にみるみる膜がはる。
その光景に今度はアレックスがちらりと視線を寄こし、サウロンは軽く肩をすくめてみせた。
自分たちにも覚えがあった。
大人に優しくされることなぞ無かったから、子供として扱って、一人の人間として認めてくれて、優しくされると、泣いてしまうのだ。
その後一緒に折り紙を折ったり、教わったばかりだと言う文字の書き取りをする子供達を見守ったりとして、時間は過ぎていった。
途中で仕事の邪魔ではないかとエヴァが狼狽する一幕もあったが、すっかり子供達をちやほやすると決めてしまった上司と同僚に、「あいつらの気が済むまで付き合ってやってくれ」等と言いながらサウロンとアレックスは少し離れたところで書類を作ったりしていた。
「紅茶の方がいいか?」
「焼き菓子まだあったっけ」
昼も二時を過ぎ、アフタヌーンティーには随分早いがサウロンとアレックスは茶の容易をしていた。
そろそろ子供達を帰さないと咲が心配するだろう。という配慮だ。
苦みの強いコーヒーよりも紅茶の方が慣れてるだろうと言うことで、紅茶と数日前に誰かが買ってきた近所のベーカリーのパウンドケーキだ。
基本的に定時出社定時退社の事務所だが、当然任務によっては二日三日徹夜で動く事もあるし、全て終わって這々の体で戻ってきたのが夜が明ける前という事もある。
そういう時に軽くつまめるものを、という事でいつからか焼き菓子が常備される様になった。
日持ちし、簡易的な補給にも良い。
そもそも、砂糖と茶によって労働者が働いていた国だ。
甘い物が活力となる事は周知の事実であった。
「兄弟間でだれが一番大きいかでもめるんだよ…」
パウンドケーキを慎重に切り分けながらアレックスはぼやく。
お互いの過去をあけすけに開示した事は無いが、こうして時々ぽつぽつと親友は自身の事を話す。
「そういうものか」
「そういうもんなんだよ、サウ。兄貴は殴るし妹は泣くしで面倒くせえ」
「そうか」
「それよりお前、ミリ単位で紅茶を量るな!執事にでもなるつもりか?」
「いや、だが客人だろう?」
「こだわり過ぎだっていつもいってんだろうが!」
「……」
「無表情で悲しむな」
「……」
「今度は怒るなよ」
「これでも譲歩してるんだがな…」
説得の末に漸く事務所の面子には多少手を抜くようになったが、根本的に凝り性のこの男は客人が来るとミリ単位、秒単位で完璧な紅茶を淹れたがる。
その姿勢は褒められるべきなのだが、客人と言っても限度がある。
そういった融通が利かない部分がサウロンにはあった。
来客用の白い磁器に切り分けた菓子と茶を淹れて、応接コーナーで遊んでいる上司と子供達に声を掛ける。
「そろそろ休憩してやれ、レオ。子供ったって、お前さんの体力には敵わねえよ」
ジョージとミアはレオンハルトの膝に座ったり、寄りかかりながら思い思いに遊んでいた。
けれど確かにミアなどはうつらうつらしながら鉛筆を握っており、反対にジョージは興奮が過ぎて少し熱があるようだった。
「あ、ああ!」
自身も夢中になっていただけに、はっとなったレオンハルトは子供達の顔を覗き込む。瞬時に自身の失態を悟った彼は慌てて子供達をソファーに座り直させ、真っ赤になったジョージの頬に手をやる。
「すまないジョージ。無理をさせてしまったな」
少年の体温はぽかぽかと温かく、明らかにぐったりしている。
「んーん、楽しかったもん」
草鞋を脱がせソファに横に寝かせる。
ロザが濡らしたタオルを額に乗せてやると、ジョージは気持ちよさそうに目を閉じた。
「サウロン、店に電話を頼めるか?」
「ああ。分かった」
頷いてカードに印字されていた電話番号のダイヤルを回すと、すぐに咲の声が聞こえた。
「はい、『ゴハンヤサン』です!」
いつもよりややうわずった声音に、先に連絡を入れるべきだったかと胸中で舌打ちをする。
「すまない、サウロンだ。ああ、そうだ。ジョージ君が熱を出した。大丈夫だ。うちの上司が付き合わせたせいだ。…あー、当人は酷く反省している。そうか、君が来るのか。分かった、感謝する」
電話口で狼狽する咲がいっそ哀れなほどだった。
「大将。店主が迎えに来るそうだ。いつまでもいじけるな、紳士だろ?」
身体を縮こめている王子様然とした男を雑に扱う。
「おら、しゃんとしろって」
同じく雑にアレックスがレオンハルトの背を叩き立ち上がらせる。
おねむのミアはロザに抱っこされて眠っているし、エヴァはルチカの化粧道具に目を輝かせ、マニキュアを塗って貰っている。
「妙齢のレディに初めて会うのにそんなざまで良いのか?」
そう発破を掛け、顔を洗いに行かせるアレックスに、「もう一回茶を淹れるか…」と考えサウロンは給湯室に向かった。
果たして電話から二十分が過ぎる頃にチャイムは鳴った。
「し、失礼します!」
現れたのは息を切らせた咲だった。
汗をかき、取るものを取らずに走ってきた、という風体だ。
はあ、はあと大きく息をし、けれど、事務所に入った途端に「ねえね!」とミアの声が聞こえて彼女は目を見開く。
「【みあちゃん】!」
秋津語の発音で彼女はミアを呼んだ。ミアはロザの腕の中でご機嫌に手を振っている。
はぁあ、と安心したと一際大きな息を吐くと、彼女ははっと居住まいを正して顔を上げた。
「改めまして、サキ ツキハマと申します。この度は当店の従業員がご迷惑をおかけし大変申し訳ございませんでした」
深々と下げられた頭にようやく、レオンハルトが反応する。
いつもならもっと早くにするだろうにと不意にサウロンはレオンハルトの方を見た。
―ああ。
人が恋に落ちる瞬間というのを、初めて見た。
思慮深く、常に紳士で在ろうとする上司が、ただの青年として一人の女性に恋をした。
「あ、い、いや、こちらこそ済まなかった。ジョージ君の体調も考えずに無理をさせてしまった」
大きな体を丸めるようにしてこちらも頭を下げる。
「ふふっ」
花が綻ぶように、咲が笑った。
「あっ申し訳ありません。ジョージ君達がずっと言ってたんです。とても素敵な紳士さんがいるんだって。初めまして、紳士さん。この度は当店の料理を気に入って下さって、そして私の大切な家族と仲良くして下さって、本当にありがとうございます」
柔らかく笑む様は、優しかった。
「い、いえ、僕はその、紳士などと…。あ、いえそうではなく。あなたがその…」
珍しく口ごもるレオンハルトにふと見渡せば事務所のメンバー全員が注目している。
特にロザと恋話が大好きなルチカなどは目を輝かせてかぶりつかんばかりだ。
「…」
最早レオンハルトの顔は赤く染まり、傍目にも狼狽が見え、口は魚のようにぱくぱくと動くばかりで言葉が出てこないようだった。
「あの」
「はい!」
声が裏返る青年を見上げて咲は尋ねる。
「当店の料理は、お口に合いましたか?」
「え、ええ、とても!」
「それは良かったです。三日後にはお越しになるとお聞きしました。精一杯おもてなしさせていただきますので、楽しみにしていてくださいな」
そういって咲は微笑むと、「みんな、帰るよ」と声を掛けた。
「ほら、ジョージ君」
寝かされていたジョージを背負い上げ、しゅるりと紐で固定する。
「ミアちゃん歩けるかな?疲れたら言ってね。エヴァちゃんは爪を綺麗にして貰ったんだね。うん、良かったね」
子供達の手や、肩や背中を撫でる指は優しく、向けるまなざしも温かい。そこに確かな愛情があるのは確かだった。
「またのご利用を、お待ちしております」
最後に、一瞬だけ咲と目が合った。
へにゃり、とした笑みを彼女はサウロンに向けて去っていった。
さて、残されたのは魂が抜けたようになったレオンハルトである。
「おーい、レオ?」
とりあえず正気に戻そうとアレックスがペチペチと頬を叩いているが無反応だ。
女性二人はきゃっきゃと盛り上がっている。
「レオ、戻ってこーい」
何度目かの打擲の後、漸くレオンハルトははっと目を見開いた。
「あ、その、僕は…」
「いいっていいってレオってばわかりやすすぎー」
にまにまと三日月のように笑うルチカの後ろには、ルチカほどでは無いが生暖かく笑んでいるロザがいる。
「そっかー遅れてきた春かぁ!」
固まっているレオンハルトの周りを何故かぐるぐると回る女性陣。
「とりあえず頭を冷やせ」
一杯の水を飲み干すと、レオンハルトはぐしゃぐしゃと自分の髪をかき乱した。
「すまない、サウロン…」
「落ち着いたか?」
いつもきっちりとなで付けている髪を乱し、綺麗に結ばれたネクタイを緩めて、レオンハルトは大きく嘆息した。
「ああ、…けどさ…」
「どうした?」
問うアレックスに、まだ頬の赤みが引かない青年が苦しげに呻く。
「あんなに可愛いなんて聞いてない!!!」
一気に生ぬるくなる事務所の空気。
「…元々、どんな人だろうって思ってたんだ。なのに、あんなに可愛いとか、ずるいじゃないか…」
冷静に見れば確かに咲という女性はレオンハルトにとってこれ以上ないほどうってつけの女性だった。
レオンハルトが焦がれてやまない秋津神国の若い女性であり、その秋津料理は美味だ。ストリートチルドレンを雇い入れて家族と呼び大切にしている。
チラリと見た応接テーブルの上には拙いながらも子供の文字で言葉が書かれていたことから、教育も施しているのだろう。
そんな愛情深い女性だ。
そもそも、言語も文化も違うアルビオンに単身で店を開いている時点で教養があり、度胸が据わっている事も分かっている。
考えれば考えるほどレオンハルトが惚れ込む要素が積み上がっていく。
問題があるとすればそれはレオンハルトの方だ。
三男坊であり家督からは離れているとは言えアイゼンシュタイン家は歴史ある家であるし、こうした世界の裏側の存在に対処することを生業にしている以上、咲はどこかで異常存在に接することになりその精神を蝕まれる事になる。
後者の問題が何より難点だった。
月浜咲という優しく聡い女性のその精神性をただ側にいて欲しいからと損なうことは、何よりレオンハルトが拒むだろう。
「ま、今んとこ彼女はフリーだろ?な、サウロン」
「確信は持てないが、少なくとも彼女の家には子供達以外に誰もいないようだった」
秋津神国は巫皇と呼ばれる女王を代々頂いていた為、女性の社会的地位は昔から高く、そのため家督や財産を受け継ぐ女性達も多かった。
近年の西晨化の影響もあり男尊女卑の考え方が都市部では多く見られるが、流石にサウロンもそのような事情は知らない。
もっと言えば武家と呼ばれる軍事階級の台頭から武家では女性の地位が相対的に低くなり、その武家が今の秋津の政治をになっているからというものもある。
何にせよ、ニュー・ロンディニウムで異邦人の女性が店を持つのなら、成人男性が身内にいる場合は男性名義で店を持った方が合理的である事は本当だった。
一般にニュー・ロンディニウムで若い女性が自分で持つのならその女性は未亡人か裕福な男性の愛人だ。
だが、そう言った男に囲われている匂いはしなかった。
ならば月浜咲という人物は未婚であり恋人の類いもいないだろうというのがサウロンの結論だった。
「だってよ、レオ。彼女に特定の相手がいないならチャンスはあるぜ」
遅くに春がきた年下の上司に、早いとこアプローチして行けとせっつくアレックス。
「…まあ、強いていうなら後ろ盾はチュワンだろう。セシルはまあ大丈夫だと思うが、筋は通しておけば後々面倒にはならないはずだ」
今夜の会合では組織対組織の関係のすり合わせを目的にしているのに、なぜだかレオンハルトの恋愛事情という大変個人的な問題も目的になってしまった。
「ま、とりあえず仕事だ。レオ、書類作っとけ」
「あ、ああ」
まだどこか夢心地のレオンハルトの背中を叩いて、各々午後の業務に移った。
夜になり、ガスライトが通りを照らす。
初冬のニュー・ロンディニウムは足元から寒さが上るようで、仕事を終えた勤め人たちは急足で家路を歩いた。
その中を、サウロンの運転する自動車に乗り込んだ三人が移動する。
後部座席ではアレックスがレオンハルトとの最終的な打ち合わせをしている。
中央区から外れて西区の外れへ、だんだんと寂れていく街並みはある通りを横切ると一気に明るくなった。
華国の特徴的な赤いランタンがそこかしこに掲げられ、街全体を赤く照らしている。
華国の住人たちが集まるフェニキスタウンだ。
華国の民族衣装を着込んだ屈強な男たちが数人門番にいて、悦域語で話かけてきた。
サウロンが同じく悦域語で対応する。
「ここで降りろだそうだ」
振り返り、後ろの二人に声をかけると、やや緊迫した面持ちで二人は頷いた。
車を降り、キーを門番に渡す。アレックスが声をあげるが視線を向けて制し、サウロンは二人を促す。
「俺たちはチュワンの大事な客人だ。客人の持ち物を損なうことはチュワンにとっての恥になる」
案内役の旗袍を纏った若い女が何人も出てきて、三人を取り囲むようにして案内し出す。
裏社会の組織と一口に言っても、それぞれの国の文化や成り立ちによってその矜持もあり方も異なる。
「反対に、キーを渡さなければ俺たちはチュワンを信頼していないということにもなる。あと、純粋に吝嗇家として思われるな」
そう華国での考え方を伝えると、アレックスなどはふんふんと頷いた。
「なるほどなあ…。このお嬢さんたちももてなしの一環か?」
「そうだな。うち何人かは男だ」
「……なるほど」
旗袍の裾から覗く白い手足や、後毛をなでつけた頸など、美しい女性とそれとみまごう少年たちだ。
本命の恋人ができてから女遊びこそしないが、それでも女好きの親友は大輪の牡丹のような案内人たちに相合を崩しかけていたが、同性愛も当たり前にある華国の文化に少しばかり及び腰になった。
反対にレオンハルトは周囲の光景に目を奪われてばかりだ。
フェニキスタウンの屋台や露天、そこに売られている華国の物品を楽しげに眺めている。
時折、娼館の呼び込みが聞こえてきてぎょっとして頬を赤らめるのもご愛嬌だ。
一方でサウロンは、仕事関係で立ち寄る以外にフェニキスタウンにきたことなどなかったので、感慨深くその空気を吸い込んでいた。
屋台で売られている饅頭の匂い、吊るされて売られている布やら糸やら、如何わしい目的のために使われる漢方薬などなど。
雑多とした匂いが懐かしかった。
煌々とした明かりが一際輝く場所に出た。
装飾を施された金色の看板には華字で【胡蝶】と書かれ、舞う蝶の意匠が彫り込まれていた。
「なんて書いてあるんだ?」
肘で小突いてきたアレックスが問う。
「butterfly…この場合は故事だ。夢が現実か現実が夢なのか。そういった意味合いになる」
「へぇ…華国の故事かなんかか?」
「そうだ」
店の前には長袍を着た若い男達が並んでいる。
「お待ちしておりました」
その中で一際若い、まだ二十歳そこそこの男が一歩前に出て挨拶する。
右手を握り込み、それに親指のみを折りたたんだ手のひらを立てる華国式の礼だ。抱拳礼という。
こちらはアルビオン式の挨拶を返すと「支部長がお待ちです」と中に案内される。
店の中は阿片特有の甘酸っぱい匂いで満ちていた。
朱塗りの扉の向こうでなにが行われているのかは知らない方が良いだろう。
時折、女とも男ともつかない嬌声が聞こえてくる。
「兄弟」
「………平気だ。大丈夫」
僅かな沈黙の後に視線を親友に向けた。
自分がいた娼館は、こんなにお上品じゃ無かった。
場所も悪ければ建物もぼろぼろの、病気か阿片漬けの娼婦達が客を取る様な、そんな場末の娼館が生まれた場所だった。
そんな店だから来る客もみな貧しくて、そして鬱屈を貯めていた。
客は娼婦にその怒りをぶつけ、娼婦達は生まれてしまった子供達にまたぶつける。
そんな場所で生まれたものだから、当然客を取らされた。
殴られて蹴られて、煙草やら阿片やらの火を押しつけられて、犯される。
それでも死ななかったのは死ぬと余計に店に金を支払わなければならないからで、店を追い出されたのはそんな状況でも二次性徴を迎えた体では客が着かなくなったからだ。
野良犬のように生きた。
ゴミを漁り泥の中で眠り、雨水を啜って、なんとか命を繋いだ。
美しいものが好きだったから。
もっと、美しい世界を見ていたかったから。
それは今でも、変わらない。
「こちらです」
娼館の最上階に着いた。
金と朱で彩られた透かし彫りの扉は、けれど派手すぎない上品さがあった。
「【お通しして】」
セシルの声が聞こえ、扉が開かれた。
「はじめまして、夜の騎士団の皆さん。アタシがチュワンアルビオン支部の支部長、セシル・リーよ」
こちらも朱色の生地に金糸銀糸で吉兆紋を刺繍した旗袍姿のセシルがソファから立ち上がり出迎える。
朱で目尻と唇に紅を引き、彼の妖艶さを引き立てている。
はっと息を飲む音が同行する二人からしたのをサウロンは聞いた。
「こちらこそ、お初にお目に掛かります。『夜の騎士団、アルビオン支部実行部部長レオンハルト・V・アイゼンシュタインです」
こちらも挨拶を返し、部屋の中に入る。
美しい彫漆のテーブルと絹を張った椅子。
その上に並べられているのは龍港の料理だ。
まず席にすわり、酒の入ったグラスを掲げる。
一口で飲み干した酒は、酒気の強い白酒で果実のような香りと甘みがあった。
事前にどういったものが飲まれるか、飲むときの礼儀は等と説明はしていたが、なかなか強い酒なのと飲み慣れていないのでアレックスとレオンハルトは少し驚いているようだった。
セシルが料理に手を付けたので、こちらも料理に手を付ける。
サウロンの興味を引いたのは、こう言った会食ではよく出される魚の姿蒸しで、メインになる事も多い料理だった。
30センチはありそうな立派なハタがそれぞれの前に出されている。
「………ふっ」
それを見てサウロンは少しばかり視線をセシルに向けると微笑んだ。
「何かしら?」
「【いや、何故魚介類が乏しいニュー・ロンディニウムであんなに良い魚が仕入れる事が出来るのかが分かった。そうか、チュワンは元々荷役から生まれた組織だったな】」
龍港は名の通りに港町だ。幾つもの河川を有し、水路による運搬が盛んである。
そも、蜘蛛の巣を意味するチュワンの名は張り巡らされた水路に由来するものだ。
「【だってさあ、こっちに来て不味いアルビオン料理だけなんて流石にやだよ】」
部屋には彼らだけでは無くセシルの部下が背後に着いていたが、気安く、そして何処か甘えた口調で話すボスに何人かが動揺しているようだった。
それを察し、クスクスと笑った後セシルはす、と表情を引き締めると訛りの無い綺麗なアルビオンの言葉で話し始めた。
「さて、ビジネスのお話をしましょうか」
お互いにお互いの商売を邪魔しない。
言うのは簡単だが、その為にはある程度相手の事を知っていなければならない。
その部分が騎士団の弱点だった。
騎士団の理念では、マフィアであろうと『神話事象』から守るべき人々なのだ。
だが相手は長年裏社会で幅をきかせてきた組織であり、今相対しているのはサウロンが親しくしている男だった。
本来ならばお互いの腹を探り合い、情報を収集分析して妥協点を探り合うものだが、セシルは既に覚悟を決めたようで、視線を僅かに動かすと数人の部下が退出した。
「こちらが提示できるのは、騎士団が『神話事象』と呼ぶものを、チュワンは既に知っていると言うこと、そしていくつかの支部で我々は彼らと取引をしているわ」
その言葉にレオンハルトが目を細める。
「今食べてる料理、美味しいでしょう?いくら新しいエンジンが開発され、いくら冷蔵技術が発達しても、海運ではどうしたって時間がかかる。潮や天候によっても左右されるわ。でも彼らの助力を乞えば自然現象の方は解決出来る。ここまで言えば分かるでしょう?」
「深き者どもか…」
「私達は『海友』と呼ぶわ」
「サウロン」
当然ながら水を向けられサウロンは頷いた。
「残念ながらチュワンは敵対する組織だった。俺の所属していた『無城幫』はアルビオン占領下で生まれた組織だ。歴史としてはチュワンの足下にも及ばない。だから荷役での仕事は少なく、賭け事や金貸しが主な収入源だった」
なんと言っても裏社会だ。お互いがお互いを食い合うのは表社会よりも激しく、暴力がつきまとう。
そんな中でわざわざ新参に自分たちの仕事の内容を教える訳もなく、お互いの仕事内容を表向きは干渉せず、しかし裏では激しい諜報の応酬があり時には人死にがあった。
元は阿爺と呼ばれる男が占領下で新に生まれ貧困層を守る為に作った互助組織だ。
貧しく寄る辺の無い者達に調和を求めて立ち上げた組織は、徐々にけれど着実に勢力を伸ばし、やがては龍港の覇権を握るまでになった。
けれどそれは十年前までの話だ。
尊敬と忠誠を集めていた阿爺が十年前に死してから、無城幫はいくつかの組織に分かれ、かつての趨勢は見る影も無く、また阿爺が願った調和は消え失せたと聞いた。
阿爺の名は王徳明。サウロンを拾い上げ、息子として愛して、育ててくれた父だった。
「セシル殿、感謝する」
深く頭を下げ、レオンハルトが口を開く。
「おっしゃったように、我々は本来ならばこの世界に存在してはならない存在『神話事象』に対処する組織だ。『世界正常性維持機関』であると我々は我々を定義している。もしくは抗神組織とも。貴殿らのようないわゆる裏社会の組織はその性質から表社会よりも『神話事象』と関わる事が多い。故に我々は貴殿らの仕事を時に阻害し、時に迎合してきた。このたび不可侵の協定とのことだったが、貴殿らの望む不可侵について先にお聞きしたい」
「あら、そこまで直接で良いの?」
「既に貴殿は示した。ならばこちらも胸襟を開くべきだと考える」
面白そうにセシルは唇を歪めたが、やがて分かったわ、と頷いた。
「こちらの海運の邪魔をしないで頂戴。運輸はうちの主要な産業よ。これはカタギにも影響がある重要な仕事。それはアンタたちもよく分かっているはず。こればっかりは邪魔しないで」
強い口調でセシルは言い切った。
彼の言うカタギは月浜咲はもちろんのこと、フェニキスタウンに住む華国人の事も含むのだろう。
遠い異国の地で、差別偏見に逢いながら生活する同胞の、そのよすがにある食料。
それはどれだけ彼らの支えになるだろうか。
例えその裏で、どれだけ誰かの犠牲があったとしても。
「………………」
予想はしていた分、ここまではっきりと言い切られてレオンハルトは押し黙る。
「うちであんた達の言う『神話事象』に確実に関わってるのはそれだけよ。それ以外はそれぞれの幹部が勝手にやってる。こういう商売だから金と人脈のために何でもするの。お互い実際に何をしているかなんて知らない。そういうことになっている」
妖艶に笑む美貌の青年に、レオンハルトは喉を動かした。
「承知した。貴殿らが我々の業務に協力して下さるというのなら、こちらもそのようにしよう」
「話の分かる男は好きよ」
にっこりと傾城の笑みを浮かべるとセシルは手を叩いた。
事前に用意したのだろう書面が朱塗りの盆にのせられてやってくる。
竹の繊維を漉いて出来た上等な慎紙(華国で使われる紙)だ。中央に一つの角を持つ獣が透かされている。
筆で書かれたのであろうアルビオン語の誓約を、レオンハルトはサウロン達にも見せ確認を取った。
用意された万年筆でレオンハルトは誓約書にサインをする。
男性的な堂々とした、けれど優美な筆跡だ。
それを認めたセシルの配下が一礼をして盆を下げ、もう一枚の誓約書が目の前に置かれた。
それもまた二人に確認をとったレオンハルトはもう一度内容を確認し、繊細で優美なセシルのサインの隣に、また自身の名を書いた。
セシルのサインを見て、サウロンは目元を和らげた。
一瞬、セシルが気恥ずかしそうに視線をそらすが、すぐにチュワンの幹部としての顔に戻った。
アレックスは親友と親友が可愛がっていた弟分のそのやりとりに、胸中でため息をついた。
この兄弟は、不器用な程優しくて、そして愛情深いのだ。
不可侵の協定は結ばれ、小休止の茶が運ばれてきた。
懐かしい龍港の茶に微かにサウロンは目を見開く。
「さ、お仕事も終わったし、楽しみましょうか」
そう言ってセシルが手を叩くと、部屋の舞台に何人もの少女達が現れる。
皆化粧を施し、華国の伝統衣装と領巾を手にしている。
セシルは立ち上がると部下から胡弓を渡され舞台の隅に腰掛けた。
弓が弦に触れ、舞が始まる。
くるりくるりと少女たちが踊り、ひらりひらりと領巾が浮かぶ。
慶事を祝う伝統的な舞だ。
サウロンも教養として演奏を叩き込まれた経験がある。
それを知っているのか、セシルの部下がサウロンの前に琵琶を捧げ持った。
ちら、とセシルの方をみるが、彼は少年の顔で笑うばかりだ。
「【もう十年は触ってもいないぞ】」
そう断ってサウロンも琵琶を受け取り、セシルの反対側に腰掛け、指に義甲と呼ばれる爪を付けた。
息を一つ、二つ。
セシルの音に合わせて奏でる。
主旋律すら曖昧だったのに、いざ弾いてみれば案外体が覚えているもので、下積み時代のしごきを思い出しながらサウロンは琵琶を演奏した。
視界には驚愕を隠さない親友と上司がうつる。
一応は秘密結社なのだからもう少しその表情はどうにかならないかと思いながらも、彼は視線をかつての弟分に移した。
嬉しそうに演奏するセシルがいた。
途中で放り出すように、彼の前から自分は姿を消した。
父の仇を討つ。ただそれだけに自身の全てを費やした。
そうでなければなかった。
あの日、父が自分を拾ってくれなかったら自分はとっくの昔に死んでいた。
初めて人間として扱ってくれた。息子と呼んで育ててくれた。
沢山の愛を注いでくれた、父。
返しきれない恩を一つとして返せなかった。
だから自分は、仇を討つその日まで安息など持ってはいけないのだ。
その為にそれまでの地位もつながりも全て投げ出して、復讐に費やした。
正直、恨まれていると思った。
中途半端に手を差し伸べて、勝手にいなくなったのだから。
なのに、あの日の少年が今こうして笑っている。
ああ、美しいな。
美しいものが好きだ。
子供の頃から、それは変わらない。
美しいものを見続けたい。
この世界は美しいもので溢れている。
本当は、騎士団に勧誘されたとき、余分な願いを抱いたのだ。
美しいものを守れると。
また、彼の世界に美しいものが増えた。
余分な願いと分かっていながら、それが彼には幸福だった。
日付が変わって幾分たった頃に、会合はお開きになった。
車は来た時よりも美しく磨かれ、暗がりでも顔が写るくらいだ。
「【にいちゃん】」
お土産、と言ってセシルが紙袋を渡してきた。
「【たまには遊びに来てよ。昼で良いから】」
「【ああ、そうだな。また来るよ】」
頷くと子供みたいに破顔する。
運転席に座るサウロンに、少年は手を振った。
彼が渡した紙袋の中身は、龍港でよく飲まれる黒茶と、その茶器だった。
後部座席で眠り込んでいるアレックスとレオンハルトを事務所まで送り届けたサウロンはそのまま二人を地下に詰めている医療班に引き渡すと、徒歩で自宅へと戻った。
街灯も消えて辺りは真っ暗で、当然のように人通りなど無かった。
しかし、暗がりの中で何人かの女が寒さをしのぐためだろう、お互いに抱き合って立っていた。
―……。
少し考え、彼は踵を返した。
「おい」
彼女らはびくりと体を震わせる。
「全員来い。いくらだ」
そうしてその日サウロンは家に帰ることも出来ない娼婦を三人、一晩買うという契約で家に引き入れた。
暖炉に火を入れ、ベッドに彼女らを寝かせた彼は、自身は外套で体を包んで、部屋の隅の薄っぺらいマットの上で眠った。
幼い自分がごみを漁っている。
不要になったものがそのまま投げ捨てられて積み上がった、ごみの山。
その中に上半身を半ば埋もれるようにして、真っ黒に汚れた自分が漁っている。
それこそ、野良犬のようだった。
ごみをかき分けていると丁度ゴミを捨てに来た男が自分を蹴り飛ばした。
罵倒と暴力。呻き声を上げないように蹲り、男が去るまで耐える。
別に男はごみを荒らされたことを怒っているのではない。
溜まった鬱屈をぶつける相手が居たからぶつけただけだというのは、経験上よく知っていた。
男が立ち去ってから、また捨てられたごみを漁る。
何か食べる物。何か、価値のあるもの。
ゴミのように無価値な命を繋ぐために、ただただごみを漁った。
「―あ」
変声期を迎えた、掠れた声が漏れる。
使い古しの新聞紙に包まれた、冷たい塊。
胎盤すらくっついた、赤ん坊の死体だった。
女の子だった。
その子をどうして抱き上げたのか、抱きしめたのか、その時の自分は分からなかった。
ただ、「埋めなくちゃ」という気持ちが湧き上がって、自分はそっと大事にその女の子を抱いて歩き回った。
バラックが密集したスラム街は、空いた土地が無い。
水も空気も汚れきって、土もなんだか変な匂いがした。
どこか、どこかせめて、綺麗なところ。
死体を抱えながらふらふらと歩く。
ろくに食事を取ってない。
ろくに睡眠なんぞ取れるわけが無い。
娼館という場所から追い出された自分に安心できる場所など何処にも無かった。
歩いて、歩いて、やがて少しだけ綺麗な通りに出た。
人々が自分に向ける目つきは、その分だけ鋭くなった。
棒や刃物で追い立てられた。
逃げて、逃げて、それでも綺麗な所を目指した。
それでようやく、雑草の生えた小さな空き地に辿り着いた。
裕福な者から見れば、汚らしい場所だろう。
けれど、彼にとっては天国のように思えた。
赤ん坊を膝に乗せ、そこに跪いて地面を掘る。
爪は割れた。指も傷ついた。けれど掘り続けた。
いつしか雨が降っていた。
「なぜ、掘っているんだい?」
もとより栄養失調だ。たいした力も無い。遅々として地面は掘れなかった。
指の三本分ほど掘り進めたところで、雨が止んだ。いや、傘を差して貰っていた。
「…あ」
野良犬になってから人と会話などしたことがなかったから、声を掛けられてとっさに声が出なかった。
振り向けば、身なりの良い壮年の男性が自分に傘をさしていた。
「旦那様、濡れますよ?」
絞り出した声は掠れていた。
男性が顔を顰める。ああ、なぜ、か。
「ああ」
とだけ呟いて、膝の上の望まれなかった死体を見つめる。
大して豊富では無い知識の中から、どうにか理由を探し始めた。
―どうして?
放っておけなかったから。
―なぜ?
可哀想だった。…いや、可哀想とは持っている者が持たざる者に抱く感情だ。
自分とこの子の違いなど、生きているかいないかの違いでしか無い。
―では、なに?
しばらく考えて、漸くふさわしい言葉を探し当てる。
「悲しかったから」
もう一度男性の方を向いてそう答えると、男性は「悲しい?」と聞き返した。
「だって、俺が、悲しかったから」
そっと、脂すら拭われてないぬるついた赤子の肌を撫でる。
「この子が、悲しかったから」
どんな風に笑ったんだろうな、と小さな握りこぶしを指でつついた。
「そうか…」
男性は、何を納得したのだろう。何度も頷いた。
「濡れますよ?」
傘は、ずっと自分に傾けられている。
「君は、優しい子だね」
男性は、そっと、少年を抱きしめた。
「いけません旦那様、汚れてしまいます」
その後に予想された暴力がいやで、彼は腕から逃れようとした。
けれど、暴力は無くて、腕も振りほどくことが出来なかった。
「君の名前は?」
「…サウ」
「サウ?」
名前というものにいまいちピンとこなくて口ごもったあと、そういえばそう呼ばれていたな、と思い出した。
「痩せていて、この色だから」
そう言って、汚れた髪を引っ張った。汚れの下から覗く色は赤茶けていた。
『痩』で『銹』だから、サウ。
「そうか…サウ。サウ君か。ねえ、サウ君、君さえ良ければ私の息子にならないか?」
男性は腕の力を緩めて、自分の顔を覗き込む。
男性の背後で、こちらも身なりの言い男達が何か叫んでいる。
「旦那様、お付きの方々が、困っていらっしゃいますよ?」
その提案が、突拍子もなくて様々な面倒事に発展するのは自分でも理解できた。
「構わないさ。君のような子をね、守ることが私の役目だ」
べたついて絡まった髪を男性が撫でる。
「おいで、君は今日から私の息子だ」
夜明け前には帰宅するようにと言い含めていたので、サウロンが目を覚ますともう彼女たちはいなかった。
盗むものもない家なので窃盗は心配してはいなかったが、折角弟分に貰ったのだからと茶葉と茶器は自分の近くに置いていたのだが、彼女たちは盗むそぶりなど一つも見せなかった。
ただ、ありがとう、と。何度も礼を言って彼の手を握っていた。
どうか、彼女らがジャック・ザ・リッパーの被害に逢わないようにと、彼は祈った
朝起きたサウロンは茶の為の湯を沸かす間にシャワーを浴びた。
久しぶりに龍港の料理を食べたからか、懐かしい顔を見たからか、昔の夢を見た。
温かなシャワーに打たれながら、自分の髪を見つめた。
あの日、養父は自分を連れ帰り、汚れきった自分の身体を手ずから洗ってくれた。
犬のように身震いをする自分を楽しそうに笑い、温かな布でくるんでくれた。
痩せて錆びた色の自分を同じ音を持つ文字を当てて『寿郎』と名付けた。
初めは戸惑った。
いつ殴られるのかいつ捨てられるのかと怯える自分を抱きしめて養父は様々な事を教えてくれた。
読み書きも計算も、礼節も武芸も。
「知識は、技術は誰にも奪われない財産なんだ」
そう言って教師を付け、時には苦手な分野を一緒に練習したりもした。
父の役に立ちたいと思ったのは当然のことだった。




