ジャック・ザ・リッパー 2
午後になり、地下までエレベーターにレオンハルトと共に向かう。
地下はこの事務所の鍛錬場であり、武器庫だ。
地下一階には組み手や身体を鍛える器具が揃い、地下二階には射撃練習場、地下三階は彼らの使う武器のメンテナンスや研究などを行っている。
腹ごなしの運動としてレオンハルトやアレックスと一時間ほど汗を流したサウロンは更に下に降りて射撃訓練を行うことにした。
自身の愛銃ではなく、汎用性のあるリボルバーだ。両手に握りこみ、淡々と的の中心に向けて打つ。
このリボルバーと呼ばれる合衆国で生まれた拳銃もまたここ三十年の技術革新により、また生まれ変わった。
火薬の威力の上昇、薬莢と弾頭の一体化やその軽量化、堅牢化、それに耐えうるボディを作るための構造、高炉の性能の上昇に合理的な金属の配合率。
それらによって急激に伸びた飛距離。
さらにそれを前に推し進め生まれた自動拳銃と呼ばれる更に殺傷力を増した武器。
次にそれらをサウロンは手に取る。
拳銃と一口に言っても、国によって、工場によって癖は出るものだ。いつでも自分の愛銃を使えるとは限らないための鍛錬であり、それぞれの使い心地を知るためのものでもある。
一つ一つの重さ、反動の仕方、体に掛かる負荷、そして撃ったものが当たるという感覚。両手で撃ち、右手だけで、左手だけで撃つ。サウロン自身は両利きだ。故にどちらでも撃てるようにしなければ成らない。
一通りの拳銃と弾丸での射撃訓練を終えた後は自分の愛銃を構える。
一つは合衆国産の精密射撃が得意なパイソンモデルを原型とした回転式拳銃だ。モデルになったものよりも骨太であり肉厚のそれはグリップはサウロンの手に合わせて削られ、銃身自体が更に長くなっている。そも、ボディを構成するのは騎士団お抱えの錬金術師が作ったという特殊合金だ。より軽く、より強固に、より粘り強く。通常の科学技術では向こう百年は超えられないと豪語されたその金属を、『一号』と錬金術師達は呼んだ。
しかし飛躍を続ける科学技術により一号はすぐに追い越されるだろう。そして追い越したものを足がかりに、錬金術師達が二号を作り上げるのだ。
もう一つは自動拳銃で、もう片方が精密射撃を得意とするならばこちら連射を目的にした拳銃だ。元になったモデルは同じく合衆国の同会社のものだが、連射に耐えるべく肉厚で一回り以上大きい。弾倉も同じくモデルの倍数を込められるようになっている。これも同じく一号で作られているが、それでも本体だけで1.5kgを越えた。
最早別物になったサウロン専用の拳銃たち。完成した際に折角だから名前を付けろと事務所の面々や開発に携わった者達に迫られ、彼の故郷である華国龍港で話される言葉―悦域語《ユウィック語》―で「白鬼「黒」と付けた。龍港で信仰されている冥界の役人から取ったものだ。 アレックスなどはもっと格好良い名前にすればいいのにと文句を言ったが、当人は付けろと言われて付けただけなので特にこだわりは無い。
道具を大切に使うことは大事だが、それに引きずられて執着しては本末転倒だとサウロンは思っている。
粛々と射撃訓練を行い、一日で許可されている弾丸数を尽きるまで打ち続ける。
情報部からの連絡が無いためサウロンはひたすらに射撃訓練を行い、そしてそれぞれを分解清掃した。
それを済ませれば定時になった。
こう言った組織が定時というのも可笑しいが、表向きは貿易会社として通しており、規則正しい生活で心身を整えるべしというレオンハルトの方針もあって時間になれば皆退所する。
無論招集が掛かればすぐに動けるようにはするし、情報部は24時間交代制で異常は無いかと見張っているが、それでも実行部は夜に体を休める様になっていた。
そんな、家路につく人々に交じって、サウロンは『ご飯屋さん』への道を歩いていた。
大通りを横切り、通りを歩き、角を曲がる。
―………。
彼の感覚が異常を感じた。
だが、それは神話事象関連では無く、人為的な物だ。
こういう商売だ。心当たりが多すぎて、はて何処の組織だろうといっそ長閑な思考になる。
そうして歩きながら気配を拾っていくと店に向かう程に気配は濃くなり、かといって攻撃的な感触は無くなっていく。
有り体に言ってしまえば、店に向かう人間をサウロン以外排し、サウロンを店に誘導するような、そんな意図を感じた。
―…ふむ。
十中八九チュワンの手のものだろう。
しかし、この街の店の殆どがいずれかの組織と関わっている以上、チュワンのシマの店に入った位では「挨拶」には来ない。
では何が目的か。
あの店主関連では、無い。
あの店主はそういった匂いがしなかった。
日向の匂いしかしない、優しくて穏やかな存在。
たった一度しか会っていない相手に抱く印象として、異質である事をサウロンは気付かないふりをした。
静かな小道に入り、昨日と同じく温かなオレンジの明かりを見つける。
食欲をそそる香りも鼻孔を擽り、サウロンは引き戸を開けた。
「あら、いらっしゃいませ」
聞こえてきたのは咲の声。
「【お久しぶりね、おにいちゃん】」
そして男の悦域語だった。
何処か聞き覚えのある声に視線を店の奥にやると、真っ赤な旗袍に身を包んだ若い男がカウンターに座っていた。
「……セシル?」
「【なあに?】」
小首をかしげて見せる青年は、女物の旗袍を着ていても違和感が無いほど、美しかった。
目映いほどの金糸の髪にサファイアのような青い目。滑らかな肌。顎も眉もしっかりしていて決して女性的な顔立ちでは無いのに、蕩けるような妖艶な表情を作る。
魔性。
一言で言えばそうとしか表せない、そんな青年だった。
化粧を施し美しさを際立たせた青年が、ゆったりとカウンターに肘を置きながらグラスを傾けている。
つられる様に隣の席に座りじっとサウロンはその青年の顔を見た。
「【おにいちゃん、アタシの顔に何か付いてる?】」
「【いや…】」
記憶にあるものよりも精悍になり、艶やかさを増した青年との再会をサウロンは驚きながら、しかし健勝である事に喜び、小さく微笑んだ。
「【久しぶりだな、セシル】」
ふっと彼の纏う空気が和らぐ。それを見てセシルと呼ばれた青年は、子供のような顔をした。
「【にいちゃん】」
男の袖を握りしめ、青年は絞り出すように言った。
「【本当に生きてた…】」
「【…悪かった】」
男が龍港を離れたのはもう十年近く昔になる。青年はまだ少年とよべる年齢で、男の行方を捜す手段など無かったのだろう。
そっと暖かい茶が二人の前に置かれる。
店主は何も言わずに調理場で料理を作り続けている。
「【心配した】」
「【すまない】」
「【そりゃそうだけどさ、何も残さないんだもん】」
「【ああ】」
「【馬鹿野郎】」
「【ああ】」
ぼたぼたと涙を流す様は、迷子のようだった。
しばらく青年が泣くのを見守っていたが、青年がぐいと化粧が取れるのを構わずに袖口で涙を拭った。
「【無城幫の阿爺の訃報、蛛網アルビオン支部支部長のセシル・リーが改めてお悔やみ申し上げます】」
すっと背筋を伸ばした青年は真っ直ぐにサウロンの目をみてそういった。
「【無城幫に籍を置き阿爺を父と仰いだ者としてお礼申し上げる。しかし最早自分は無城幫から絶縁された身。貴公の礼を受け取れる立場にはありません】」
こちらも背筋を伸ばして応える。あの少年が随分と出世したものだと僅かに驚いたが、納得する。
なるほど、だからこちらに来ているのか。確かにこの妖しい美しさを持つ青年なら、このニュー・ロンディニウムでも幅をきかせることが出来るだろう。
胸中に既知の相手が出世したことを喜ぶサウロンに、青年―セシル―は口を開いた。
「【兄ちゃん。兄ちゃんが騎士団にいるって本当?】」
「【ああ、スカウトされた。それからあちこち移動したが、三年前からここにいる】」
そう答えた男に青年は覚悟を決めたと唇を引き結ぶと懐から一枚のカードを取り出した。
「【チュワンアルビオン支部は以降、騎士団と争わないわ。これをあんたんとこのトップに渡しておいて】」
金の箔押しでチュワンのエンブレムが押してある。特殊塗料でなんらかの文言が書かれていることは推して知るべしだ。
「【いいのか?】」
チュワンと夜の騎士団は敵対しているという訳では無いが、それでもお互いの利権が関われば反目することもある。
今のところ直接的に事を構えて血が流れるようなことこそ無かったが、今後はそれすらないようにするということは大変な事だった。
「【良いわ。恩人であるあんたに死んで欲しいわけないもの。アルビオンでの活動の方針はアタシに一任されてるの。本国の爺たちにはいくらでも言い訳が聞くわ】」
「【そうか…頑張ったんだな】」
しみじみとそういう男に、セシルはまた泣きそうに顔を歪めた。
「【やめてよ兄ちゃん】」
ぐすぐすと鼻をならす青年の前にはいつの間にか暖かいおしぼりが置かれている。新しい酒も、サウロンの分まで置かれていた。
「【そうだな。…今は再会を喜ぼう】」
ごしごしと顔を拭い、化粧がさっぱり取れてしまった顔で青年が漸く笑った。
「【ええ、…乾杯】」
「【乾杯】」
その日店が閉まるまでの間、サウロンは昔可愛がっていた弟分と杯を傾けた。
「大将。チュワンアルビオン支部と不可侵協定が出来そうだ。後日こちらに向かってくれ」
翌日、サウロンはいつものように事務所に向かい、既に椅子に座っていたレオンハルトに昨晩もらったカードを渡した。
「なっ…」
いきなりのことに年下の上司は言葉を失う。
実行部隊の長とは言え、彼の仕事の何割かはこう言った組織間の調整であり、それには資本も時間も精神も酷く使う。
それが一晩で為されてきたのだ。驚くのは当然だろう。
「チュワンのアルビオン支部のトップが俺の古い知り合いだった。昨日再会してな、向こうからの提案だ」
普段殆ど表情を変えないサウロンが、少しばかり柔らかい表情をしている。
それがどれだけ希有なことかを知っているレオンハルトは二重に驚いた。
「今までチュワンの幹部とは会えたが、支部長クラスには一度もあったことが無い。どんな人物だ?」
しかしながら、組織をまとめる長として聞かねばならないことがある。
「名前はセシル。セシル・リー。チュワン本部のボスの息子だ。正確に言うと先代のボスの妾の子の息子。腕を見込まれて養子となったそうだ。年齢は…確か二十六とか七だったか。大将と大して変わらなかったはずだ。金の髪にサファイアの目。妖艶という言葉が似合う男だよ。酒は辛口が好きらしい。煙草はやらんが甘いものはまだ好きだったな」
「随分とその…仲が良いのだな。」
すらすらと答える部下に、どんな関係なのだと言外に告げると、サウロンは事もなげに言った。
「まあ、幾晩も夜を共にした仲だからな」
「は!?」
つい紳士らしくない大声を上げて驚く年下の上司に、サウロンは軽く両手を挙げて「冗談だ」と表情を変えずに言った。
「言ったように容姿端麗だ。そして元は貧民街にいた。あとは…分かるだろ?」
アルビオンの占領下にあり、政治も経済も混乱していた。そんな中で貧民に生まれた子供が生きるために体を売るのは、どうしようも無いことだった。
「あいつは見てくれのせいで売れっ子でな、ろくに飯も食えずに眠れもしなかった。だから一晩丸々買って、休ませた。客の情報と引き換えにな。……空腹と睡眠不足が辛いことは身に染みて知っている」
微かに視線を下向ける男に、名門の出として何不自由なく育った男は言葉を紡げなかった。
それに気付いた男が、ふ、小さく息を吐く。
「すまない…嫌なことを思い出させた」
「構わんさ、大将。あんただって貴族として生まれたからこその苦労をしてきたんだろう?責任もだ」
レオンハルトは知っている。この男が一片も偽りも無くそう思っている事を。
漏れ聞いた過去は壮絶なものだ。
けれどこの男は、優しすぎた。
『休ませた』と言ってもただ寝床で寝かせたのでは無く、あれこれと世話を焼いたのだろう。
憐れみでも優越でもなく、ただただ純粋な優しさで手を差し伸べられた。
それは、とても、とても、心に残るだろう。
ならば、この不可侵協定も急な話ではないのだろうとレオルンハルトは理解した。
「おっはよーう!やあやあ諸君元気かい?アタシがいなくて寂しくは無かった?」
事務所に三番目にやってきたのはルチカ・ヴェレンツィだった。
美しいプラチナブロンドの髪を腰まで伸ばし、明るい水色の瞳はけぶるような睫が影を落とす。唇は潤み頬は薔薇色に染っていて、ありきたりな言葉で表現するならば宗教画の天使の様に美しい女性だ。身に纏うコートはファーがふんだんに使われ、その下のドレスもフリルとリボンが惜しみなく使われた豪華なもので、首元にはぴったりとした真珠のチョーカーが何連にも巻き付いている。それでいて派手さよりも優雅さが勝るのは当人の容姿もあるが立ち振る舞いが美しいからだろう。
「ああ、おはようルチカ」
顔を上げレオンハルトは挨拶を返し、サウロンも軽く手を上げて答える。
「ん?なんか良いことでもあった?」
可愛らしく小首をかしげ、ルチカはコートを脱ぎながら近寄る。
「え、チュワン?」
そしてレオンハルトの手にある黒いカードを認めると驚いたと目を見開いた。
「ああ、不可侵が結べそうなんだ」
「どういうこと?サウロン」
くるりとスカートを広げながらサウロンを見上げるルチカ。
「何故俺に言う?」
「いつもより毛艶が良いから」
昨日も聞いた台詞にはぁ、と肩をすくめる。
「支部長が昔に知り合いで昨日再会した」
「どんな関係?」
「何でそうなる」
目をキラキラさせて尋ねてくるルチカに流石に半眼になるサウロン。
「サウロン優しいから」
「…………別に、何も…」
「えー?絶対なんか世話焼いてるじゃーん」
視線をそらすサウロンの視界にわざと入る様は高貴な猫のようだ。
「少しだけだ。少しだけ、休息と勉強をさせた」
それだけだ。と言う痩せぎすの男に、にんまりとルチカは笑った。
この無愛想で陰気な男は、そういう男なのだ。
「それで?お誘いはいつなんだ?大将」
ばつが悪くなったので話題をそらすと、丁度カードの文言を読み取っていたレオンハルトが「ああ」と答えた。
「三日後、華国街の娼館だそうだ。店名は『ウーディップ』。サウロン、何か知っているか?」
娼館と言ってもピンキリだ。だが、その店名には覚えがあった。
「ああ、華国街で一、二を争う高給娼館だ。あそこの阿片は質が良いらしい」
そう、阿片窟だ。阿片で酩酊しながら美しい女や少年達を愛でる。
それが良しとされている、退廃の魔窟。
「………」
事もなげに言うサウロンにレオンハルトは黙り込む。それに彼は気にするな、と小さく笑った。
「あんまり部下を甘やかすもんじゃ無いぞ、大将」
「いや、しかし…
「俺なら平気だ。俺以上に土地勘があってあちらの文化に明るい奴はいないだろう?」
「サウロン」
「なんだ、ルチカ」
見上げてくる猫のような同僚はぐにぐにと薄い頬を揉んでくる。
「無理しないでよね!」
本当にこの事務所の面々は自分に甘い。と、彼は目を細めて「ああ」と頷いた。
十時を回る頃にアレックスが出社してきた。
「で、どんな関係?」
本日三回目になる質問に、面倒臭そうに答える。
「弟分」
ものすごく大雑把な言葉と態度に親友はケラケラと笑う。
「んだよ、それ」
「昔面倒を見た」
面倒臭そうな態度を崩さないサウロンにアレックスはふうんと興味深そうに目をすがめる。
「お前ほんとお人好しだな」
「知らん」
「あ、弁当頼んでくれたか?」
「した」
「あんがとな」
「ああ」
やりとりは短かったが、それで満足したらしく大人しくデスクに戻るアレックス。
「おい、ルカ坊。報告寄こせよ」
そして来客用のソファで紅茶を嗜んでいるルチカに声を掛けた。
「ちーがーうー!アタシはルーチーカ!」
つかつかと赤いピンヒールを鳴らしてアレックスに近づいたルチカはむにーっとその頬を引っ張った。
「いてえってルカ坊」
「ムキー!」
ルチカ・ヴェレンツィ。本名ルカ・ジェンナーロ・ヴェレンツィ。22歳。名の通り肉体的には男性だ。当人は「体がたまたま男なだけ!」と主張する。
紳士であるレオンハルトはルカをレディとして扱い、幼少期を娼館で過ごしたサウロンは「そういう人間はいる」と女性として対応している。
伊達男のアレックスも同じように紳士的にルチカを扱うが、どうにも寄り道したり定時の連絡を怠ったりするのでルカと呼ぶ事がある。
「で、報告。書面に出せっていつもいってんだろうが!」
別件でニュー・ロンディニウムを離れていたルチカに頬を引っ張られながら抗議するアレックス。
「それで?首尾はどうなったんだい?」
「アタシが無事に帰ってきたってことでわかってるでしょう?」
蠱惑的に微笑む姿もやはり優美さが勝るのは流石だろう。
「えっとー、ターゲットの司教様の目的はサバトじゃなくて人身売買だったわ。バントゥーラの各国に輸出するそうよ。いまとなってはあちらの方が羽振りがいい所もあるでしょうしね」
バントゥーラ大陸はエラリア大陸の南方にある大陸だ。アルビオンを始めエラリア大陸の各国が数十年前までそこに住まう肌の黒い人々をその肌が黒いと言うだけで奴隷にしてきた歴史がある。
デウス・エクス・マキナが最初に起こったのはアルビオンだが、その後続々と各国でそれは起こった。
特にバントゥーラ大陸の国々や、リバティア合衆国の先住民族、そして華国の少数民族などもそれを起こしてしまった。
結果、植民地としてエラリアの国々に支配され長年差別に苦しんできたバントゥーラの人間達は反対に力を持ち始めた。
また、一口にバントゥーラ大陸といってもバントゥーラ大陸は広大で多くの民族がいる。無論敵対してきた歴史のある民族もあり、その間での紛争や虐殺はもう十数年続いている。
リバティア合衆国も華国も同様だ。迫害されてきた少数の人々がこれまで自分たちを虐げてきた者達へ反逆の牙を向け、混乱は終わることを知らない。
アルビオンは多くの国を植民地とし、現地住民達を搾取し続けてきた。
それはバントゥーラ大陸でもあり、広大な国土を持つ華国でもあり、また同じく国土が広大なシンドゥラ帝国。
どれもこれもアルビオン国にとって重要な経済拠点であったために、一番最初にデウス・エクス・マキナを成功させた有利性はまだ残っているものの、それまでの歴史のために恨みを買いすぎたこの国は世界で一番の富と栄華と同時に多くの貧困と犯罪の巣窟となった。
今この世界は躍進と混沌のるつぼにあり、悪意のあるところには神話事象が絡むこともある。
故に『夜の騎士団』はニュー・ロンディニウムに支部をおくことになったのだ。
ルチカはこの優美な外見にそぐわずと言えば良いのかふさわしくと言えば良いのか、潜入や暗殺を得意とする人員である。
時に男として、時に女として動き、また全く気配を消してそこかしこに潜むことが出来る。
その為の技として彼女は罠を見つけ魔術を解析する能力が秀でており、銃を武器とし長距離の狙撃も得意なサウロンとも組むことが多かった。
「出荷先は?」
「はい、これ」
持っていた小さな鞄から紙片を取り出してルチカはアレックスに手渡す。
「最初っから出せ。後定時連絡!」
情報部との連携もあり、彼らと一緒の時は定時連絡は来ていたのだが、単独行動になると途端に音信不通になる悪癖がある。今回の場合は一週間だった。
レオンハルト等は大層気を揉んでいたし、ロザももちろんサウロンもアレックスも心配していた。
情報部ではなく実行部に所属している以上、戦闘行動に秀でていることは確かであり、その腕を皆が認めているがそれでも音信不通に心配する。
この事務所は、どうにもレオンハルトが優しすぎるせいで、秘密結社の割には妙に人情味がある。
それが危険な事であると分かっていながら、それでも彼らはそれを捨てられずにいる。
それでいい、と皆が思っている。
「こんにちは!」
正午の少し前に子供達の声が聞こえた。
「ああ、待っていたよ」
とレオンハルトが出迎える。後ろでルチカが「何?お弁当?」と尋ね、アレックスが経緯を説明する。
「ごちゅうもんは、おまちがえありませんか?」
と男の子が一生懸命に尋ねる。
少女が三つの包みを差し出して、礼を言いながらレオンハルトはそれを受け取った。
代金を支払うと小さな指で数えながらまた袋に仕舞い込んだ。
「これ!おれい!」
とと、と女の子が前に出てレオンハルトの大きな手のひらに小さな何かをちょこんと置いた。
「おお、これは!」
その正体に気付いたレオンハルトが目を見張る。
「秋津のオリガミ!」
万博の際に文化として展示された紙を折ることで作り出す秋津神国の伝統的な遊戯だ。
様々な形があり、モチーフがある。秋津びいきのレオンハルトは知っていたが、作り方は分からなかった。
秋津国内でなら教本の類いはあるだろうが、それを翻訳したものは流石にまだ出回ってはいない。
「あら、かわいいわね」
常に紳士であろうとするレオンハルトのらしくも無い興奮に興味をそそられたらしいルチカがどれどれとレオンハルトの手のひらをのぞき見る。
「わたしつくった!」
むふーと女の子が胸を張る。
「そうなのかい?」
尋ねるレオンハルトに得意げな顔で頷く女の子。
「ねぇねにおそわった!」
「ほう…」
しげしげと眺めるレオンハルトに少女と少年も何度も何度も挑戦したのだろう折り目の付いた折り紙をその手のひらにのせた。
「…上手く出来なくてごめんなさい…」
しゅん、としょげている少年にレオンハルトは微笑む。
「いや、嬉しいよ。ありがとう」
ぽっと少年は真っ赤になった。照れているようだ。
「もっと練習します!旦那様!」
張り切って声を出す様が微笑ましい。
「ああ、楽しみにしてるよ」
小鼻を膨らませて少年は何度も頷いた。その様を、少女が嬉しそうに見つめている。
「またのご利用をお待ちしております!」
そう声を揃えて頭を下げる子供達を見送り、レオンハルトはそれぞれに弁当を渡した。
「レオ、俺にも見せて」
レオンハルトの手のひらに大切そうに持たれた紙片をアレックスも覗き込む。
「へぇ…紙を折って作るのか…」
「その通りだ。オリガミは秋津の言葉で紙を折ると言うんだよ、アレックス。これは…おそらくこれは鶴だな」
「器用なもんだなー。そらこんなことしてるから秋津の細工物は細かいのか」
ちらりと視線をこちらに寄こすのは何故なのか。おそらくは地理的に一番秋津神国に近い場所で育ったからだろうがとサウロンは肩をすくめる。
「秋津は島国で水資源が豊富なんだ。首都の統都にも大きな河があるし、水路も発達している。山も多いから紙を作りやすい環境なんだろう。俺が知ってるのはこれくらいだ」
秋津の人間とは何人か会ったことがあるが、大体が裏社会の人間だ。職人や芸術家ではない。
「島国というのはアルビオンと同じだがそうか、山か…」
ふむ、と顎を撫でるレオンハルト。
「ああ、華国もそうだが、基本的にあちらは温暖多湿だ。雨が多い。台風の類いは秋津にばかり行ってたまに華国にも来る。山が多くて河川が多いからそういったときに洪水が起きて人家が飲まれるというのも聞いたことがある」
「なるほど、確か地震も多かったな」
「統都の大地震か」
「ああ」
実際に秋津神国は歴史的に地震が多い国だ。二十年程前の首都で起こった地震で多くの人命が喪われたというのは聞いている。
ふ、とあの店主は何処で生まれたのだろうとサウロンは思った。
もし統都生まれだとしたら、その震災の時には随分怖い思いをしたのだろうな、とそう思った。
「ふぅん、秋津ってあんまり知らなかったけど、そういう国なのね」
世界地図が出来て久しいが、最果ての島国など遠すぎて夢想するのも難しい。
「で、お弁当の中身は?」
身長差のあるレオンハルトの腕にぶら下がるようにして、ルチカが尋ねる。
明日は四人分注文するかもな、とそれを横目で見ながらサウロンも弁当の箱を開いた。
弁当の料理は今日も彩りが鮮やかだった。
今日のメインは揚げ料理のようで、こんがりとした焼き色に生姜の香りが食欲をそそる。
その横には青菜の炒め物。油揚げという豆腐を揚げたものといっしょだ。ごま油と醤油という大豆を発酵させたソースで炒められている。
それから黄色と赤のパプリカのピクルスに、昨日と同じオムレツだ。
揚げ物は鶏肉のようで、カリッとした衣とよく下味の染みた柔らかい肉が美味い。味付けは塩だろうか。
青菜も茎のしゃきしゃきとした歯触りが良い。パプリカは酢で漬けてありピリッとした辛さがまた美味かった。
それを米と一緒にほおばるのは、美味い。
最後に甘いオムレツを口に入れる。
ほっとする味だ。
今日は羨ましそうにじっとこちらを見ていたルチカが入れてくれた紅茶を飲んでサウロンは食事を終えた。
「ルチカ、明日弁当は…」
「注文して!」
「わかった」
すごく恨めしい目で見られてしまった。
同じ店に三日連続で通うのは彼にとって酷く珍しい事で、今日も『ご飯屋さん』への道をサウロンは優しい気持ちを抱えて歩いていた。
今日は誰の気配も感じない。
それが良いのか悪いのかは分からないが、この優しい気持ちを抱いたまま今日を終えるのであれば、それはとても幸せなことだとサウロンは知っていた。
「いらっしゃいませ、サウロンさん」
戸を開けると顔を上げた咲が頬を綻ばせた。
昨日、チュワンというマフィアの男と飲んでいた自分を、変わらずに彼女は出迎える。
客はサウロンの他にも何人か入っており、カウンターの反対にあるテーブル席が二つばかり占拠されている。
そのうち幾人かが箸の使い方に悪戦苦闘しているのが微笑ましかった。
重さの無いコートを脱いで掛け、カウンターに着くと預かってきた弁当の空箱を差し出す。
「すまない、明日はもう一つ追加で頼む」
「いえいえ、ご贔屓いただいてありがたいですよ」
ふふ、と嬉しそうに笑いながら咲は空箱を受け取った。
「お手拭きをどうぞ」
蒸らしたタオルと共に温かな緑茶が置かれる。
コンロの火が灯される音がして、また一層美味そうな匂いが鼻孔を擽るようになった。
「何か食べたい物はありますか?」
へにゃり、と彼女は笑った。
「それなら、魚料理を頼む」
「はい、かしこまりました」
ぺこりと頭を下げる咲に、知らず自身の心も和んでいく。
咲は手を洗い清めると前掛けで拭っててきぱきと料理の準備をしていく。
「付け出しです」と出されたのは豆腐にわさびというスパイスのペーストがのせられたもので、醤油を掛けて食べるものだと説明された。
わさびは独特の辛みがあるから少しだけ舐めてみて苦手だと感じたら食べなくてもいいそうだ。
「秋津でも苦手な方がいらっしゃるんです。他の国の方ならなおさら慣れないでしょう。だから無理はしないで下さいね」
少しばかり心配しすぎだとサウロンは思ったが、忠告通りに箸の先に付けて舐めてみるとなるほどコレはなかなかに刺激が強いと納得した。
わさびは外して醤油を掛け、豆腐を頂く。華国で食べた物よりうんと柔らかくて滑らかだ。
同じ料理でも国によっては大分違うのだな、と感心する。
次にいくつかの小鉢が出てきた。
キュウリのピクルスに、レンコンとニンジン、こんにゃくの煮物。菜の炒め物。
どれも素材の味が引き出され、美味い。
「おまちどおさまです。ぶりの西京焼きとご飯です」
大豆の味噌に漬けた魚を焼いたものだという。味噌の焦げる香ばしい匂いが実に美味そうだ。
それを米と一緒にほおばる。美味い。
行儀悪く椀を持ち上げて掻き込んで食べてしまうが、こんなに一気にものを食べるのはいつ以来だろう。
気付けば魚も米も無くなっていた。
急に恥ずかしくなってごまかすように茶を啜った。
「よろしければ、今のお味噌で焼きおにぎりをお作りしましょうか?」
「頼む」
おにぎりというのはよく分からなかったが美味いことだけは分かった。
にこにこと微笑む咲は手際良く米を握り三角に成形すると、土で作った炭炉を戸棚から取り出して厨房の床に置いた。
―なるほど、粢飯か…。
龍港でもよく食べられる餅米を蒸したものを握って成形したものであり、中に豚肉や漬物を入れて食べる。
携帯したり食べやすくするために握って成形するのは合理的だし、地域が近ければ同じ様な料理が発生するのも納得だ。
炭炉の中に焼けた炭を置くと上に網を置き、おにぎりを焼いていく。。
時折ひっくり返しぺたぺたと味噌を酒で溶いたものを刷毛で塗っていくと、じゅうじゅうと音を立て、時折味噌が落ちていく。一層匂いが立ち、胃袋を刺激した。
「すみません、私達用のご飯も焼いて良いですか?」
「ああ、構わない」
そう答えると、咲は複数のおにぎりを作って網の上で焼いていった。
やがて味噌が軽く焦げ、カリカリになったおにぎりが出される。
「熱いですからお気を付けて」
「ああ」
そう答えるが、冷ます時間が惜しかった。
両手で持ってかぶりつく。思った通りに鼻に味噌の香ばしさが抜けて美味い。
溜まらなくなって更に食べ、やはり熱くて茶を飲んだ。
「ふう…」
若干の苛立ちと共に冷めるのを待つが、その間も店主はいくつかのおにぎりを焼いている。
味噌が切れたのか、醤油を塗っているものもある。
「サウロンさん、醤油味の方も如何ですか?」
物欲しげに見ていたのに気付いたのだろう、咲はそう提案する。
「頼む」
一も二も無く頷き、自分の浅ましさにはっとした。
「オサキチャン!こっちにもヤキオニギリ!ミソとショウユ!」
米の酒を飲みながらくだを巻いていたテーブルの客が声を掛けると、「こっちにもだ!」ともう一つの席からも声が掛かった。
「はぁい」
くすくすと笑う咲は手際良くおにぎりを作っていく。
「遠慮なさらずにご注文なさって下さいね」
見透かされたようですこし気恥ずかしい。
「あーさっきのサイキョーもくれ!ありゃたまらん!」
「そういってシモンさんまだお酒飲むんでしょう?飲み過ぎですよ」
窘められるも唇を尖らせるのは何処かの勤め人だろういかにも紳士然とした壮年の男だ。
「いいじゃないか、もう一杯」
「そういう人は底なしにのむんです。駄目です」
「全く、オサキチャンには敵わないねえ」
「ええ、奥様にもよろしくお伝え下さい。お土産はいつものでかまいませんか?」
「おお、頼むよ!」
「はい、では準備させていただきますね」
いつものやりとりなのだろう。紳士も咲も楽しげだ。
しばらくしてサウロンの前にも他の客の前にも焼きおにぎりが並べられる。件の紳士の前にはサイキョウ焼きもだ。
「はい、シモンさんは焙じ茶です」
「わるいね、オサキチャン」
「はいはい、すこし酔いを覚まして下さいね。はい、スミスさんはお味噌汁です」
「ありがとねー」
店内の客はサウロンも含めて男しかおらず、それも大体が中年以上だ。
だが咲に向ける視線は色を含んでおらず、至って健全な、娘や妹を見るような目だった。
―あいつはきちんと仕事をしてるんだな…
昨日再会した弟分を思い出す。
怖いことは何もなかったと言った咲を裏切らず、彼と彼の率いる組織は咲を守っているようだった。
「サウロンさんにもどうぞ。お味噌汁です」
「ああ」
具材は揚げたナスと油揚げのようだ。ナスに良く味が染みていて美味い。
時刻は九時を少し回った頃だろうか、厨房の奥の裏口がノックされる音がした。
「【おかえりなさい】」
表情を和らげた咲が奥へ戻っていく。その唇からこぼれたのは聞き覚えが無い言葉―秋津語だろうか?
「【ただいま!】」
裏口から入ってきたのは昼間見た子供達だった。背には回収したのか弁当箱を背負っている。
「寒かったでしょう?お風呂沸いてるよ。ゆっくり入ってね」
子供達を店内に入れ、住居がある二階へと向かわせる。その時、子供達の履き物を脱がせていたのが見えた。
室内で靴を脱ぐのは龍港にもあった習慣で、温暖多湿の地域では家の中に汚れを持ち込まないようにするための智恵なのだろうとサウロンはそれを眺めながらすこし懐かしい気持ちになった。
「おう、帰ってきたか」
「はい!」
途中で客から声が掛かるが子供達も慣れているのかぺこりと店の客に会釈して上に上がっていく。
その時見た咲のまなざしはうんと優しかった。
―ああ、花のようだ。
優しくて穏やかで、日向に在る人。
そこにいるだけで和んでしまうような、そんな人だ。
騎士団に入団したとき、彼は世界の正常性など興味は無かった。ただ、復讐だけが心にあった。
だが入団から十年近くたち、無辜の人々を守ることへの喜びもまた彼の中にあった。
月浜咲という女性は、そんな平穏の象徴のようだった。
「咲嬢」
「はい、何でしょう?」
今日も満腹まで料理を食べたサウロンは会計の時に咲に声を掛けた。
「明日は弁当をもう一つ追加で頼む」
「あら、嬉しいですねえ」
ほわほわと長閑な笑顔で咲は答える。
「うちの料理を気に入って下さって嬉しい限りですよ」
春の日差しのようだ、とサウロンは思う。
「ああ、同僚に酷くせがまれた」
不満げなルチカの顔を思い出し、彼は心なしか口元を上げる。
「ふふ、じゃあ頑張って作りますね。あ、サウロンさん朝食用の軽食も承っておりますのでよろしければご利用下さいね」
商売上手な咲に目元を和ませながら、サウロンは口を開く。
「なら、次来た時に頼もう」
釣り銭をサウロンの手に乗せ、咲は笑う。
「ありがとうございました。また来て下さいね」
「ああ」
微かに触れた指先が、少し荒れていることを彼は知った。
―そういえば、「オサキチャン」とはどういう意味だ?
道すがら、そんなことを考える。
あの様子からしてあだ名のような、親しみをこめた呼称である事は察することは出来る。
自分もそう呼んでみようか。
柔らかい気持ちでそう思い、はっと自分をあざ笑う。
―らしくも無い。
彼女は日向が似合う、花のような人だ。
自分のような、汚れた人間が側にいて良い相手ではない。
彼女はマフィアとの付き合いがあるからといってだから何だというのか。
店主と客。
その関係で十分だ。
―ああ、それでいいんだ。
酷く、酷く自分が嫌になった。
深く息をつく、冷たい夜風が肺を満たす。
自分の中に生まれかけた感情を踏み潰した。
翌日はやや曇っており、事務所に着くとまだ誰もいなかった。
情報部からの連絡も未だないようで、追加の資料は無い。
『下に行ってくる』
と黒板にメモを貼り、サウロンは地下一階で一人筋肉トレーニングに励むことにした。
懸垂や腕立て伏せ、腹筋運動といった基礎だけでは無く縄を腕だけで登る鍛錬や反対に高所からの落下と受け身の鍛錬。
一通りやっているとブザー音が鳴った、五階からの呼び出しだ。
時刻は十時過ぎになっていた。
「あら、今日は一人?」
「おはよう、ロザ」
ざっと汗を洗い流したサウロンがスーツを着込んで戻ると、小柄な女性が事務所のソファに腰掛け、コーヒーを飲んでいた。
ロザ・ピーラ。良く日に焼けた小麦色の肌と亜麻色の髪、榛色の瞳。身長は140cmと小柄だがそれ以上に体の内側から生命力が溢れるような魅力的な女性だ。
「今日は確かウォッチャーとの会食があったはずだ。アルと大将はそっちに行ってるんだろう」
「あーなんかあったわねそんなの。サウロンも飲む?」
「感謝する」
コーヒーを飲み干したロザが尋ね、サウロンも頷く。
この事務所の面々はそれぞれ出身地が異なるため、淹れる茶やコーヒーもそれぞれ異なる。
ニュー・ロンディニウムに居を構える為に一通り紅茶の茶器や葉は揃えられているが、ロザやルチカはコーヒーの中でもエスプレッソを好むし、レオンハルトは深煎りを荒く挽いたものを、アレックスは反対に浅煎りのものを好む。
サウロンは出身が出身なので茶を好むが、こちらでは自分が納得できる茶葉が手に入らないことから紅茶でもコーヒーでも特にこだわりは無い。
ロザが淹れてくれたエスプレッソで唇を濡らしつつ、サウロンは自分のデスクに戻る。
「なんだっけ、増員について?」
「ああ、ウォッチャーからの情報漏洩が酷いからな。暗示を掛けるにしても範囲やら許可やらのすりあわせだな」
「あー…じゃあ今日二人来られるかしら?」
「いや、大丈夫だろう。会食は夜だし、大将のやつは弁当が来るのを心待ちにしている」
おおよそ、漏らした人員の特定やらその背景やら弱みやらをアレックスがかき集めている所だろう。
その横で人の良い上司はおろおろしているのが目に浮かぶようだ。
「弁当?」
首をかしげるロザにサウロンは答える。
「ああ、秋津料理だ」
「あら」
レオンハルトの秋津贔屓をよく知っているロザは開いた口に手をやって驚く。
「良い店があったのね」
「四日後には何が何でも店に行きたいそうだ」
だからアレックスがニュー・ロンディニウム市警の弱みを握ることを上司は黙認するんだろうなあとエスプレッソを啜りながら思う。
「あれ?じゃあそのお店誰が探したの?アレックス?」
「いや、俺だ」
そう答えると、すすす、と音も無く近づいてくるロザにサウロンはたじろぐ。
「何だ」
「可愛い子でもいた?」
「何でそうなる」
あからさまに顔を顰める痩せぎすの男に、世話焼きの女がにまにまと笑いかける。
「だって、あなた自分を大切にしないもの。私達がなんて言っても大切にしなかったあなたが、気に入った店が見つかったのよ?嬉しいじゃない」
ついでにお嫁さん候補が見つかったらもっと嬉しいんだけど。とロザ。
「俺は、殺し屋だ」
ぼそりと呟かれた、小さな言葉。
「優しすぎるのよ、あなたは」
「優しくなんてないさ。俺は、…俺はただ、美しいものが好きなだけだ」
視線を落とし、口をつぐんだ年上の男にロザは肩をすくめる。
実際、ロザは良くアレックスとサウロンに結婚しろとよく言った。
けれどそれは、彼らに家族と呼べる存在は無く、後ろ盾となる者もいないからだ。
自身が壮絶な一族との争いの末に駆け落ちし、幸せな家庭を築いているからというのもあるが、それ故に安心できる居場所を持って欲しいという願いからであった。因みに子供は上から五歳、二歳、九ヶ月の女の子がいる。どの子も目元のぱっちりとした可愛らしい子だ。
実のところロザやルチカには秘密だが、アレックスには恋人がいる。しかしながら彼女の出自が少しばかり複雑なため、彼女の父親に認めて貰うまでは公言しないことになっている。
サウロンですら紹介されていないのだ。なかなかに難儀な相手を愛したんだな、と親友の前途を祈るばかりである。
「あ、ルチカちゃん帰ってきた?」
小さく頷く。
「そう、良かったー!あーもう心配したんだから!」
ロザは明るくそういうと、空になったサウロンのカップを取り上げて、自分のそれと一緒に流しに持って行った。
本当に、此処の連中は自分に甘い。
「ごきげんよーう!あ、ロザー!」
時刻は午前十時半、本日のファッションはすっきりとしたシルエットの美しいロングコートにブーツを履いたルチカが出社してくる。
「あら、この放浪娘!」
両手を広げてロザはルチカを抱きしめて再会を喜ぶ。
「だって一人の方が効率よかったんだもんー!」
「だからって一週間も音信不通はやめてよー!心配するでしょー!?」
ぎゅっぎゅと抱き合ってじゃれている女性二人を眺め、サウロンは席を立った。
「サウロンまた下行くの?」
「ああ」
事務所は二人に任せておけばいいだろう。
「はーい。あ、サウロンお弁当!」
「注文しておいた」
「ありがとー!」
ひらひらと手を振るルチカに視線だけ返し、サウロンはまた地下に戻った。
地下三階に行き、そこで働いている技術部の人間に声を掛ける。
「採血を頼む」
技術部は実行部の武器のメンテナンスや改修開発、武器弾薬の確保などを行う部門だ。一分一秒を争う情報部とは異なりこちらも日勤夜勤はあるものの、きちんと定時で上がれる部署でもある。
「またですか、サウロンさん貧血になりますよ?」
「増血剤を飲んでいるから大丈夫だ。ひとまず100ml抜いてくれ」
顔なじみになった技術部の男はまだ若い、確か二十代半ばだったはずだ。
「はぁ…分かりました。今日は激しい運動しないで下さいね」
「ああ」
簡易的なベッドに横たわり、腕の内側に針を刺して血を抜いていく。いつもの慣れた感覚だ。
少し目を閉じて彼は微睡む。
今日は、あの店に自分は行けないだろう。
咲の笑顔が瞼の裏に浮かんで、ああ、まぶしいな、と彼は思った。
予想通りと言うべきか、昼の前にはレオンハルトもアレックスも戻ってきていた。
元がマフィアの自分もそうだが、アレックスは合衆国の貧しい農村部で生まれ育ち、沿岸部でギャングの会計士として働いていた過去がある。そのため、やろうと思えばどこまでもえげつない手を使えてしまう。
そういった非道な手段は時には必要だと分かっていても、育ちが良く優しいレオンハルトはどうしても忌避する傾向にあり、このリーダーの手を汚すまいと汚れ仕事は自分たちで片付けるのがこの二人の暗黙の了解だった。
逆説的に言うならばレオンハルトがいる前でそれほど非道な事は行われていないはずなので、今回情報を吐かせた相手は小物なのだろうという感想も生まれるが、やけにつやつやと血色の良いアレックスの顔を見るに、とても楽しくお話をしてきたのだろうと僅かにサウロンは情報源だった人物に同情した。
「こんにちはー!配達です!」
そしてまた子供達が配達に来た。
「あら、可愛いわねえ」
ロザは秋津の民族衣装を着た三人に目を輝かせる。
きゃあきゃあと声を上げて自分たちを見て回るロザに子供達は照れているようだが、今日は男の子が声を上げた。
「旦那様、きょうはもうちょっと頑張りました!」
少しばかり自慢げに、けれどやはり緊張を孕みながら少年レオンハルトの手のひらに折り紙を置く。
今日は昨日とはまた違った形に折られた折り紙のようだった。
「えっと、今日のはカブトと、シュリケンと、蛙です!」
レオンハルトの大きな手のひらに指さして少年は誇らしげな笑顔で説明を始めた。
「これは、秋津の兜の形で、こっちはニンジャの武器で、これはね」
うふふ、と笑った少年は蛙の尻の方を指で押した。
「おお!」
ぴょん、と蛙が跳ねる。
「すごいでしょ!」
満面の笑みで見上げる少年に、レオンハルトはその頭を優しく撫でた。
「ありがとう。また、作ってきてくれるかい?」
「うん!」
ついには砕けた言葉遣いになってしまったが、誰も気にしなかった。
「またね!」
料金と、少し多めのチップを受け取った三人は、手を振って去って行く。
「レオ、レオ、私にも見せて!」
それぞれの弁当を手渡し、自身のデスクに着くレオンハルトに目をキラキラと輝かせたロザが近寄って覗き込む。
「すごーい!これ、紙を折っただけなのよね?」
「ああ、そうだ。オリガミというのは…」
そういって嬉々としてロザに説明を始めるレオンハルトである。
「あ、アタシカプチーノね!」
席を立ち、飲み物でも淹れるかと給湯室に向かうサウロンに声を掛けるルチカ。
適当に手を振って了承し、それぞれのカップを取り出してサウロンは湯を沸かす。
「なあ兄弟」
「なんだ」
お先にとコーヒーミルで自分用の豆を挽いているアレックスがサウロンに声を掛ける。
「お前、また血抜いただろ」
「…」
「無理すんな、サウ」
とん、と軽く背中を叩かれる。
「まだジャックの案件が神話事象か確定していない。なら、用心に越したことは無いだろう」
「お前な…」
この頑固者、と親友に小突かれてサウロンは胸中で嘆息した。
果たしてと言うべきか、なるべくしてと言うべきか、秋津の料理はロザの興味を引いたようで、一口分けろと皆にせがんだ。
今日の中身は豚のネギと生姜を味噌で炒めたものを食べやすくするために薄切りの豚肉に巻いたもの、菜は花の形にくりぬかれたニンジンや飾り切りされたキノコと筍の煮物だ。
筍は季節外れだが、冷凍保存技術が発達した結果出回っているのだろうと予想が付く。
輸送に保存、それによって色んな味が楽しめるのは良いことだとサウロンは思う。
無論、輸送にも保存にもコストは掛かるが、それで誰かの口に食料が運ばれるなら幸福なことだと、幼少期常に飢えていた経験から彼はそう信じている。
他にも白菜のピクルスに、ほうれん草のソテー、そして甘いオムレツ。
このオムレツは必ず入っているんだな、と思うのと同時にこのほっとする味をいつも入れる心遣いが嬉しかった。
「しばらく此処の弁当の常連になりそうだな」
隣で同じく弁当を食べていたアレックスがそう呟く。
「かもな」
「しかしすごいな、毎日別の料理を出してくるし、全部旨い」
アルビオンは歴史的にあまり食材が豊かとは言えず、無論それでも美味い料理は存在していたが、それは裕福な貴族や王族に限った話であり、清貧を旨とする国教も相まってあまり食文化は発達してこなかった。
大衆の食文化が花開いたのはデウス・エクス・マキナ以降、世界中の食材が入ってくるようになってからだ。
その為珍妙な創作料理を出す店や、大して詳しくも無いのに各国の料理と称して似ても似つかぬ料理を出す店とニュー・ロンディニウムの飲食店は玉石混淆の有様となっている。
サウロンやアレックスは見た事は無いが、主婦でもあるロザは新しく出た料理の教本を買ってみたところ、「作った奴はちゃんと味見していない!」出来の料理が幾つもあったという。
「島国だからじゃないか?山のものも海のものもよく食べるんだろう」
適当に返すと胡乱な声がアレックスから漏れた。
「アルビオンも島国だぞ?」
それを言われてしまうとどうにも困ってしまう。
デウス・エクス・マキナが起こる前後では、水質汚染が酷いのも相まって工場労働者たちが口にするものはそれはそれは粗末なものだったらしい。
どこもかしこも料理に割ける余力は無く、上流階級は兎も角労働者たちの食い物はもっぱら砂糖を入れた紅茶に黒パンとジャガイモが常だったそうだ。
アレックスもだが、サウロン自身も幼少期は粗末なもので命を繋いでいたので、いざとなればどんなものでも口に入れるが、それ故に美味いものを食べて安心するありがたみを良く知っている。
「ああ、そうだ」
「うん?」
「その店、俺も行くから」
「…伝えておく」
何故今日も自分はあの店に行くことになっているのだろう?と思いもするが、実際美味い料理を腹一杯に詰め込める事を幸福に感じている自分がいた。
―………。
脳裏に、あの、へにゃりとした笑顔が浮かぶ。
昨日自身を戒めたのに。
ああでも、明日はセシルと会う約束だ。
だから、今日行って、伝えるしかないから。
胸の中に生まれた感情を踏みにじり蓋をする。
こういうことはこれまでもあった。
そのたびに踏み潰して消してきた。
慣れたことだ。慣れてしまったことだ。
なのにどうしてか、まだ、消えなかった。
午後に入りフルメンバーがそろった事務所は目下の案件である、『ジャック・ザ・リッパー』についての会議が始まった。
「さて、全員そろったところで楽しい楽しい仕事の時間だ」
アレックスが黒板の傍に立ち、コレまでの被害者の写真が並べて貼られる。
三人目の花売りの少女以降、幸いなことに被害者は出ていないことになっているが、サウロンが報告したグルル=マセクの件も合わさり事態は喫緊の状態になっている事は間違いなかった。
「グルルが出たってのは本当?」
確認するようにルチカが質問する
「ああ、場所は中央区端のマッケンジー地区三番通りの更に袋小路になっている箇所だが」
「地上に出たって事は地下でそれなりに増殖してるかあ…」
「今まで被害者は人気の少ない路地やら路地裏やらに捨てられていたが…」
「だよねー。捕食されて死体も残らない」
その可能性が出てきた。
「市警からの情報はどうなっている?」
「それなりに人員を割いているようですが、そもそもが人の流入流出が激しい街です。現状被害者はみな女性であり、深夜から明け方に殺されたと断定されていますが、そうなると夜の街にいる娼婦が聞き込みの中心になってくる。であれば、それこそ昨日いた女が今日いないなんてのはいつものことです」
その中で顔なじみは出来るだろうが、お互い詮索しないし名前だって本名を名乗らないだろう。
「有効な手段がない事がもどかしいな…今こうしている間にも被害者が出ているかもしれないというのに…」
沈痛な顔でレオンハルトが呟く。
「あ、そうだアレックス。被害者たちの傷の切り口ってどうなってた?確か縦に切られてたわよね」
「ああ、写真もあるが見るか?」
頷くルチカにアレックスは色こそ付いていないが生々しい写真を手渡す。
「検死官の見立てでは加害者は医師ではないかとの見解だ。理由は二つ、被害者の体を切り裂いたのがメスのような小さな刃物である事。もう一つは、傷が人体の正中線に沿って綺麗に入っていたこと。…拘束はしていたが麻酔はしていなかったみたいだがな」
「【クソ野郎】」
小さくルチカが舌打ちする。
「そうね、アタシの見立ても同じだわ」
まじまじとその凄惨な遺体を見つめ、ルチカが頷いた。
「ねえ、サウロン。アンタはどう見るの?」
ルチカに水を向けられ、彼は遺体と発見現場の写真や記憶から被害者の動きを想起する。
街灯の無い細い道を少女が歩いている。
背後から、誰かが近づいてくる。少女が振り返り逃げだそうとした瞬間、手で口を塞がれた。
悲鳴を上げられない少女の上に馬乗りになり、抵抗を受けるがそれはそいつにとっての障害にはならなかった。
やがて、呼吸が出来ずに意識がもうろうとなった少女の腕は落ちる。
そこを見計らい、拘束したそいつは彼女の衣服を乱雑にどけ、白い肌に刃物を突き立てた。
「駄目だな。追って見たが、犯人は男だろう位しか分からない。無論抵抗に遭っただろうが、先に対策をしていれば単独での犯行は可能だ。…すまない」
組織の猟犬としての技術を叩き込まれてたサウロンは、僅かな痕跡からそこで何が起こったかをある程度予測することが可能だった。
だが、証拠が少なければ正確に思い描くことは出来ないし、雨が降ったり多くの人が通れば情報が消えて見える物も少なくなる。
少しばかり落ち込んでいる年上の男をルチカがぱしんと背中を叩いた。
「お医者様ねえ…」
顎に指をやり、ロザが呟く。
「まだまだ広いな…」
デウス・エクス・マキナ以降、飛躍したのは産業だけでは無い。医学もまた一気に発展した。東晨と西晨の医学は融合し、世界で共通の医療が生まれようとしている。それは確かに国々の制度によって万人が平等に受けられると言うわけでは無いが、知識や技術は徐々に均一化されて行っている最中なのだ。
それが意味する所は、医者と名乗る者は最低限統一された知識と技術を有していると言うことだ。
「こちら側の意見を言うならば、医学会を追われた異端の医者って所かしら?」
『神話事象』が絡むならばそうだろう。
「問題はこっちが絡まなくても異端の医者がいるんだよなあ…」
「女性に恨みを持つ医者?」
「娼婦を狙うならば堕胎請け負っていたか?」
「まだ娼婦と決まっている訳では無いだろう」
そんな意見が交わされるも、確証には至らない。
「情報部からの報告待ちだな、結局」
そうアレックスが締めて会議は終わった。
その後、それぞれ開発部に顔を出したり医療部門に顔を出したりして定時を迎えた。
荷物を持って帰ろうとするサウロンを、レオンハルトがとても寂しそうな目で見つめる。
自身に対して紳士であるようにと務めているが、こうして見ると子供みたいなんだよなと年下の上司にそんな感想を抱くサウロン。
「…………大将」
「な、なんだい?サウロン」
ぱっと慌てる様が微笑ましい。
「件の店は持ち帰りもやってるそうだ。朝食に食べると良いらしい。アンタの分を頼んどくよ」
「あ、ああ!よろしく頼む!」
心底嬉しそうな顔に、妙にくすぐったい気持ちになるのは、やはり弟でも出来た気分になるからだろう。
「アル」
その向こうで呆れた顔をしている親友に声を掛ける。
任せとけ、とアレックスは肩をすくめて見せた。
はてさて、それでもやはりサウロンは『ご飯屋さん』へと足を進めていた。
向かう目的はレオンハルトのためだ。
そうで無くてはならない。
だのに、胸の奥が暖かい。柔らかい気持ちでいられる。
「……………」
そんな自分が嫌になる。
そんな価値は自分には無いのに。
なのに、あの穏やかな日差しを求めていた。
「いらっしゃいませ!サウロンさん!」
オレンジ色の明かりが灯った店に入れば、彼女の声が聞こえてくる。
「どうぞお入り下さい。今日はお肉の日ですよー」
長閑な、平和な声が聞こえる。
既に入っていた客達のがやがやとした声。
守るべき、無辜の人々。
「おう、兄ちゃん。あんたも常連かい?」
酔っ払いがケラケラと笑いながら肩を叩く。
「どうだい、一杯。俺の奢りだから」
いかにも紳士然とした五十路がらみの男だ。白いものが混じった髪をきっちりなで付けていただろうに、少しばかり乱れている。
「もう、この人ったら。ごめんなさいねえ」
そう言って謝るは隣に座っていた紳士と同年代の淑女だった。
妻なのだろうその人は、夫の手を抓ると「こら、困ってるでしょう?」と酔っ払いを窘める。
「もう、このお店に来るのは良いけど秋津のお酒が美味しいっていって毎日飲みに行くんですよ?」
困ったものだと言いながらも嬉しそうなのは、それだけ夫婦の間で信頼関係が築けているからだろう。
「そうは言うがお前だってウメシュ?ってのを飲んでるじゃないか」
「炭酸で割ると美味しいもの」
和やか笑い合い、またグラスを傾ける夫婦。
微かに目を細めてサウロンはカウンターの席に着いた。
「『ウメシュ』とはプラムのことか?」
メニュー表に張ってあった華字を読み、そう尋ねる。
「ええ、まだ熟していない梅を砂糖とお酒で漬けるんです。うちはまだ一年ものからしかありませんが、これから毎年増えていきますよ」
飲みますか?と問われ、「一杯」と答えると湯で割られたそれが出てきた。
「外は寒いですから今は体を温めて下さい」
付け出しですと、揚げ豆腐が出汁と青ネギを掛けられて出てくる。
「オサキチャン!こっちにも豚のスープ!」
「はぁい」
そうこうしているうちにも他の客から声が掛かり、咲はくるくると料理を運ぶ。
「オサキチャンもう一杯!」
「今日はもう三杯目ですよ?娘さんとの約束はどうするんですか?」
ぴしゃりと額を叩く紳士のそこはやや薄くなっており、「それをいわれるとなあ」と笑っていた。
そんな、賑やかな声を聞きながらサウロンは梅酒に口を付ける。
こちらでは李も梅もプラムと呼ぶが全く違うものであるのは龍港で生まれ育ったサウロンはよく知っている。
すっきりとした酸味と、黒糖だろうか、コクのある甘さに酒気の強い酒が合わさって美味い。お湯で割ったのもあって体が一気に温まった。
―ああ、良いな。
此処は、暖かい。
咲という優しい日差しに照らされて、誰も彼もが柔らかくなれる。
「サウロンさんはご飯どうしますか?」
「ああ、そうだな。肉が食いたい…な」
微睡むような心地だったから、咲に尋ねられて当たり前のようにそう答えてしまった。
「はい、お肉ですね。かしこまりました」
にっこりと微笑んだ咲は厨房の中に戻っていく。
そして火をおこして、ごま油をフライパンに垂らした。
強く香るのはニンニクの香りで、その横で咲は生姜だろう、すりおろしたそれを調味料と合わせていく。
香りが移ったならばニンニクをどけて薄切りの豚肉を焼いていく。
じゅうじゅうという音が美味そうだ。
そして焼けた豚肉に合わせた調味料を回しかける。香りが一気に広がって、腹が減っていたことを酷く自覚させた。
「サウロンさん。おまちどおさまです。豚肉の醤油焼きとご飯です」
四角い皿の上にはつやつやと照りのある豚肉とキャベツの千切り、椀に盛られた米の量は多い。
「疲れてるって顔してらっしゃいますよ。たんと食べて下さいな」
顔を上げると悪戯が成功した様な顔で咲が笑っている。
「お疲れ様です。サウロンさん」
ことり、と菜や煮物が入った小鉢も置かれ、温かな緑の茶もいつの間にかそこにあった。
椀を持ち肉と一緒に米を口に入れる。
甘辛い肉は米によくあった。
やや脂っ気が強いがそれは付け合わせのキャベツと一緒に食べると上手い具合にさっぱりした。
煮物は根菜を炊き合わせたもので、菜はほうれん草を辛子と醤油で和えた物のようだった。
茶で時折喉を潤し、黙々と食べる。
「おかわり要りますか?」
米と肉が少なくなってきていると咲がほかの注文に対応しながらもそう尋ねた。
「ああ」
頷くと嬉しそうに彼女は微笑む。
次に出てきたのは鶏肉の味噌だれ焼きで、白髪ネギと唐辛子が散らされていた。当然美味かった。
「オサキチャン!」
「はーい!」
くるくると彼女はよく働く。
気付けば今日も腹一杯に食事をしていた。
暖かい茶を飲み、息を漏らす。
陽だまりみたいな、優しい場所。
自分なんかがいて良い場所じゃ無い。だのに、離れがたい。
「すまない、咲嬢。朝食用の軽食を二人分包んでくれ」
「はい、かしこまりました」
茶の入ったカップを手のひらで遊ばせながら、人数分の弁当と同時に朝食を頼む。
「サウロンさんの所は皆さん綺麗に食べて下さりますから、作りがいがありますよ」
嘘偽りなどひとかけらも無い顔。
美しいな。と思う。
美しいものは好きだ。
雨の雫が落ちるのも、昨日芽を出した双葉が開くのも、雲間から見えた青空も。
世界は美しいもので溢れている。
その中で、彼女は一等美しかった。
「はい、おまちどおさまです。こちらの犬の柄がサウロンさんの朝ご飯でこちらの猫の柄が上司さんの朝ご飯になります」
まだほのかに暖かい包みを二つ渡される。秋津の染めだろうか、子犬と子猫の柄が可愛らしかった。
「気をつけてお帰り下さいね」
へにゃり、と気の抜けた顔で彼女が微笑んだ。
まぶしいものでも見た様に、サウロンは目を細めた。
美しいものが好きだ。
幼い頃からずっとそうだった。
美しいものを見つめることが出来るだけで、幸福だった。




