貴子の場合〜 名前のない肩書き
貴子は、朝四時に目が覚める。
年齢のせいもあるが、習慣でもある。
静かな廊下を歩き、共同キッチンで白湯を作り、自室に持ち帰る。
窓の外はまだ暗い。
オンボロ館と陰で呼ばれているこの建物は、築五十年を超えている。
外壁はくすみ、階段は軋む。
だが、貴子にとっては、最も合理的で、最も大切な場所だ。
——執行役員。
会社での肩書き。
けれど、この寮では、ただの「貴子さん」。
それでいい。
むしろ、そのほうがいい。
二十代で入社し、三十代で管理職、四十代で役員候補。五十代で執行役員。順調すぎる出世。
ただし、独身。未婚。
結婚を考えなかったと言えば嘘になる。過去には付き合っていた男性とそういう話が出たこともあった。
仕事が好きで、仕事をしている自分も好きで、結婚したあとの具体的なイメージができなかった。
以前香織に「“逃げる”のと“選ぶ”のは違う」なんて言ったけど、私は逃げた。仕事に。
だから今でも少し、後悔している。
結婚しなかったことではなく、きちんと自分と向き合わなかったことを。
仕事を"選んで"いたら、あの時のことはもう忘れることができたのではないかと思う。
逃げた代わりに得たのは、決裁権と責任。
冷静さと、孤独。
会議室では、誰も本音を言わない。
「それはリスクがあります」
「前例がありません」
言葉は整っているが、心は見えない。冷たい声には心が通わない。
だから、ここに帰る。
ここでは、誰も貴子に忖度しない。
「その服、地味じゃないです?」
香織が平気で言う。
「貴子さん、もっと派手目な色の方が映えますよ」
美咲が笑う。「はえる」ではなく「ばえる」という言い回しも彼女達が教えてくれた。
結婚もせず子供もいない貴子にとって、莉音のかわいらしさは貴子の癒しだった。涼子は莉音の世話も進んで行っているようでとても懐かれている。私はそれなり。
そして早苗の子育てを間近で見ることで、育児中の社員が抱える問題への解像度が深くなった。
彩は無関心。二人でいても何もしゃべらない。
でもそれが心地いい。
茜はかつて貴子の部下だったことがある。
その頃からここで一緒に暮らしているけれど、彼女は公私の切り替えがはっきりしていて、ここでは上司ではなくただの年上の住人として接してくれているし、貴子が執行役員であることも誰にも言わないでいてくれる。
智美は飲み仲間。
食堂で晩酌をしていると隣に座ってくることもあれば、お互い一人で飲んでいることもある。
その距離感がちょうどいい。
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涼子とは、三十年来の付き合いだ。
若い頃、同じ部署だった。
貴子が仕事にのめり込み、涼子が家庭を選んだ。
道は分かれたが、縁は切れなかった。
オンボロ館の前の管理人が退職する時、離婚して職を探していた涼子を呼び寄せた。
数年前、このシェアハウスの存続が議題に上がった。
「利用率が低い。老朽化も進んでいる。閉鎖を検討すべき」
合理的な意見。数字だけ見れば、正しい。
そのとき、貴子は言った。
「維持します」
会議室が静まる。
「理由は?」
「必要だからです」
それ以上、説明せずに押し通した。説明できない価値もある。
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このシェアハウスには、事情のある者が集まる。事情のない者はすぐに巣立つ。来る者は拒まず、去る者は追わず。
誰も声に出さないだけで、ここにいる理由がある。
早苗は育児と仕事の両立。
彩は仕事にのめり込みすぎる。
智美は出張がちで帰る場所を求めてる。
美咲は節約。
香織は将来を決めかねている。
茜は老後の備え。
そして、果歩は空白。
空白。
それが一番、脆い。
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果歩が入ってきた春。
顔に「こんなところ嫌だ」と書いてあった。
壁の薄さ、住人同士の距離感。
少し話を聞いたことがある。
「人付き合いが苦手なんです」
家族との距離は薄く、友人とも淡白。
開発部の技術者にはそういう人も多い。例えば彩のように。
本来なら、マンションタイプの社宅の予定だった。
だが、手違いでこのオンボロ館へ来ることになった。
それはただの偶然。手違いがなければ、果歩は今ごろマンションで空白を抱えこんでいたのではないだろうか。
果歩と話してみて貴子は思った。
この子は、ここで良かったんじゃないかな。
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秋から冬に移り変わるある夜。
果歩がベランダに立っていた。
遠くのマンションの灯りを見ている。
「移りたい?」
声をかける。
肩がびくりと動く。
「……空くんですか?」
「年度の途中に空くかどうかはわからないけど、年度が変わる時には必ず空くわよ」
果歩は少し黙った。
「静かですよね、あっちは」
「ええ」
「壁も厚いし」
「そうね」
風が吹く。
オンボロ館の外壁が鳴る。
「……でも」
果歩が言う。
「静かすぎるの、ちょっと怖い気がします」
貴子は、何も言わなかった。
それで十分だった。
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執行役員の仕事は神経がすり減る。いや、ゴリゴリと削られていく。
重役会議、社外との調整、取締役への報告、親会社との折衝、労働組合との交渉。会議だけでスケジュールが埋まる。
重い決断も続く。頭にも肩にもずっしりと重りが乗っているようだ。
夜遅く帰ると、食堂に灯りがある。
涼子が鍋を温め直している。
「遅いわね」
「会議」
それだけで通じる。
椅子に座り、味噌汁を飲む。
肩の力が抜ける。
「今日、果歩がね」
涼子が言う。
「“ここ、悪くないかも”って」
小さく笑う。
「そう」
それだけ。
だが、胸の奥に灯りがともる。
この建物は、利益を生まないかもしれない。
だが、人を立て直す。
それは会社にとって、長い目で見れば最大の利益だ。
——と、役員らしく理屈をつけてみる。
本当は、もっと単純だ。
ここがなくなると、困る人がいる。
それだけ。
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春の足音が聞こえた頃、オンボロ館の外壁補修の見積書が届く。
思ってたより高い。会議にかければ、また議論になるだろう。
貴子はペンを取る。
決裁印を押す。
理由欄には、こう書く。
「福利厚生の一環として必要」
嘘ではない。でも、それが全部でもない。
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ある日の夜のこと。食堂には全員が揃っていた。
今日は鍋だ。彩もしぶしぶといった表情で食卓を囲んでいる。
笑い声。
湯気。
皿の音。
貴子はその光景を眺め、微笑む。
肩書きは、ここでは意味を持たない。
ただの一人の住人。
それでいい。
名前のない肩書き。
それが、ここでの役割だ。




