茜の場合〜 老後と味噌汁
茜は、合理的とか効率的という言葉が好きだ。
総務という仕事柄もあるが、それ以上に。
四十二歳。独身。結婚願望なし。
結婚しない理由は特にない。
「いい人いなかったの?」
よく聞かれる。
「優先順位が違っただけです」
そう答える。
若い頃、母が言っていた。
「女は最後、自分の足で立てるかどうかよ」
その言葉が妙に残った。だから、自分の足で生きていけるようにお金を貯める。
数字は裏切らない。積み上げれば、確実に未来になる。
財形貯蓄。
NISA。
iDeCo。
定期預金。
個別株。
無駄遣いはしない。
そして、このシェアハウス。
「食事付きでこの価格、奇跡」
初めて見学したとき、本気でそう思った。
古い?
壁が薄い?
問題ない。
⸻
茜は知っている。
貴子の正体を。
十数年前、貴子が総務部の部長になり、茜の上司になった。
その後、十年ほど親会社に出向していた。
親会社の本社はここからそれほど離れていない。出向中も貴子はずっとオンボロ館に住み続けていた。
そして三年前、出向から復帰すると同時に執行役員に就任した。
仕事中に役員人事の書類を扱った時に二度見したのをよく覚えている。
ある日、廊下で二人きりになったとき。
「おめでとうございます」
そう貴子に告げた。
「ありがとう。でも――」
貴子から圧を感じる
「みんなには内緒ね」
笑顔。でも目は笑っていない。
「はい」
それ以来、茜は余計なことは言わない。
合理的だから。
一年前の春。
決算報告の会議。
貴子は執行役員の顔をしていた。
背筋が伸び、声が低い。
誰も逆らえない空気。
茜はその姿を見ながら思う。
——この人も、あの場所に帰る。
会議後、オンボロ館で顔を合わせる。
「ただいま」
「おかえり」
ただの住人の声。
役員の顔は消えている。
不思議だ。
肩書きも、年齢も、立場も、ここでは少し薄まる。
⸻
朝六時。
食堂でコーヒーを淹れる。キッチンでは涼子さんが朝食の支度をしている。
早起きするとその日一日が上手くいく(気がする)。
「おはようございます」
早苗がひとり、眠そうに現れる。莉音はまだ寝ているのだろう。
「昨日遅かった?」
「ちょっと……」
目の下にクマ。
茜は何も言わず、コーヒーをカップに注ぐ。
「どうぞ」
「え、でも」
「余ったから」
嘘だ。自分のおかわりの分。余ってなんかいない。
でも私は頭の中で計算する。
早苗が倒れたら、オンボロ館全体の士気が下がる。
——半分本気、半分冗談。
若い子たちを見るのは、嫌いじゃない。
美咲は無理をする。
香織は悩んでいる。
彩は孤独を選んでいるふりをしている。
智美はすぐに強がる。
早苗は背負いすぎ。
放っておけない?
違う。
放っておくと、効率が悪い。
——そう言い聞かせている。
⸻
茜は入社時は経理を希望していたが総務に配属され、それから二十年、ずっと総務だ。
総務の仕事は合理的や効率的という言葉と実は相性が良い。そう思えるようになったのは何年目だったか。
後輩たちにも、総務に配属されてガッカリしている子がたまにいる。
私のように総務の仕事にやりがいを見つける子もいれば、異動希望を出す子もいるし、辞めていく子もいる。
オンボロ館も似たようなもので、私と同じように希望してここに入ってくる子もいれば、他が空いてなくて仕方なく入ってくる子もいる。
前者でも「なんか違った」と出ていく子もいれば、後者でも「ここがいい」と住み続ける子もいるのがおもしろい。
二月。
翌月に空く予定だった社宅の一室が空けられなくなったという知らせを受けた。
調べてみると、新入社員が入居予定となっていた。入居予定者は女性。それならオンボロ館に入れる。
ただオンボロ館に馴染めずに入居してすぐ転居というのは効率が悪い。
人事に事情を話して面接記録を見せてもらった。学生時代に運動部だったり、寮生活を送っていた人であれば比較的オンボロ館に馴染みやすい。
残念ながら、彼女はそのどちらでもなかった。面接記録から受ける印象は、人付き合いが苦手な彩に似ていた。
電話で話した印象は彩とは違って人と話すのが苦手な感じはしなかったが、実際に入居してきた果歩は「こんなところすぐ出て行きたい」と顔に出ていた香織や、本当にすぐ出ていった子たちによく似ていた。
大丈夫かな、と思ったけれど入居から半年が過ぎて少しずつここに馴染んでいっているようだ。
ある日、果歩に聞かれた。
「茜さんって、ここを出たいと思ったことあります?」
「ない」
即答。
「これからずっと住み続けたいと思いますか?」
「そうね。定年まで住み続けるわ」
果歩が目を丸くする。
「飽きません?」
少し考える。
飽きる、という感覚はあまりない。
日々は淡々と進む。
貯金は増える。
仕事も安定。
「味噌汁、飽きる?」
そう問うと果歩は首を振る。
「飽きないです」
「そういうこと」
寮の夕食は、特別豪華ではない。
でも、毎日、温かい。
それで十分だ。
⸻
冬のある夜。
茜は珍しく、部屋に篭っていた。
腰痛。たいしたことはない。
部屋で寝ていればいい。そう思っていた。
ノックの音がしてドアが開く。
「大丈夫ですか?」
香織だった。何も言えないでいると、「聞こえたから」と、続ける。
壁が薄いから、痛みにうめく声も筒抜け。
「平気」と言う前に、腰に痛みが走り無言で耐える。
「たいしたことない」
やっと絞り出した声に
「たいしたことあります」
香織の声が大きくなった。
ドアを開けっぱなしで会話をすると他の部屋にまで届く。わらわらと住人が集まってきた。
「どうしたの?」
早苗が言う。
「……腰痛」
答えると
「いたいの?」
と莉音。いたい。痛いから触らないで。
「病院行く?」
「湿布は?」
「あったっけ?」
「貼ろうか?」
口々に問いかけてくるが「大丈夫だから」としか言えない。
涼子が最後に言う。
「とりあえず寝てなさい」
布団に沈みながら、茜は思う。
——非効率だ。
私のためにこんなに人が動くなんて。
でも。
胸の奥が、少し温かい。
貯金は数字で増える。
でも、こういうものは、数字にならない。
それでも確実に、積み上がっている。
⸻
夕食。
食堂で味噌汁を飲む。
「定年後もここにいたいですか?」
果歩が聞く。
「さすがにそれは無理ね。ここは社宅だし」
と言って笑う。建物はいつか壊れる。人も、散る。
「でも今ここにいることは、老後の自分を助けるわ」
「どういうことですか?」
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと笑う。それの繰り返しを体が覚えるの」
それが、一番利回りがいい。
茜は味噌汁を飲み干す。
合理的だけど感情的で。
オンボロ館は、今日も黒字だ。




