彩の場合〜 壁の向こう側
彩は、静かな部屋が好きだ。
八畳の部屋はベッドとデスクが大半を占める。
デスクにはノートPCが一台、外付けモニターが二台。デュアルモニターにして画面を広く使う。
椅子は奮発した。長時間座っていても疲れないという視点で選んだ。
キーボードの打鍵音だけが、世界のすべて。
オンボロ館に来たのは三年前。
理由は単純だった。
「安い」「ご飯が出る」「人とあまり話さなくていい」
理想的だった。
オンボロ館は朝夕二食しか出ないため、昼食は外に食べに行くか自分で作るかということになっているが、涼子さんに事前に頼んでおけば別料金で昼食も作ってもらえる。
食堂も時間をずらせば空いている。
買い物も涼子さんにメモとお金を渡せば済む。
けれど、壁は薄い。
良くも悪くも。
彩は、ヘッドホンを外した。
午後三時。
リモート会議が終わったばかり。
「彩さんのコードはわかりやすいしカスタマイズもしやすいです」
さっきの会議で若手から言われた。
画面越しなら、話せる。目を合わせなくてもいいから。
マイクを切って、深呼吸。
人と話すと、どうしても疲れる。
言葉を選ぶのに時間がかかる。
目線を合わせるのが苦手。
冗談のタイミングがわからない。
三年前にここに住んでから、ずっとフルリモートで仕事をしている。
それで問題はない。
——はずだった。
⸻
ある日の夕方。
ノック。
「彩さん?」
果歩の声だった。
新入社員。
四月に入ってきたばかり。
正直、最初は面倒だと思った。
新人は話しかけてくる。
距離を詰めようとする。
でも彼女は用事のある時くらいしか話しかけてこない。
「……何?」
ドア越しに答える。
「Wi-Fi、切れちゃって……」
ああ。
このシェアハウスのルーターはたまに機嫌が悪くなる。
「今、直す」
ルーターを再起動して五分で復旧。
「ありがとうございます!」
ぺこりと頭を下げる。
果歩の目は、まっすぐだ。
距離が近い。
彩は少し後ずさる。
「……別に。いいけど」
それだけ言って、部屋に戻ろうとした。
そのとき。
「彩さんって、なんでここにいるんですか?」
唐突な質問。
「安いから」
即答。
「それだけですか?」
うるさい。
三年前、職場で倒れたことをふいに思い出す。
急に目の前が暗くなったと思ったら、体から力が抜けて床に崩れ落ちた。
救急搬送。そのまま入院。
過労だと言われた。
過労、というほど働いていただろうかと今でも思う。
もちろん忙しかったし、残業もしていた。
納期が近くて少し無理もした。
でももっと忙しい時はあったし、もっと無理をした時もあったけど、その時は倒れたりしなかった。
でも医者からは寝不足であったり、食事も摂ったり摂らなかったり、栄養補助食品で済ませてたり、そういう生活の乱れも倒れた原因のひとつだと言われた。
退院して帰ってきた一人暮らしのマンションは広すぎた。
静かすぎた。
冷蔵庫の音だけが響く夜。
誰にも気づかれず、また倒れるかもしれない。
それが、怖かった。
「……ここ、壁薄いでしょ」
彩はぽつりと言う。
「はい」
「だから」
それ以上は言わない。
果歩は少し考えてから、小さく笑った。
「わたし、早く出ていきたいって思ってました」
「……そう」
「でも、なんか」
言葉を探している。
「音がするって、安心しますね」
彩は返事をしなかった。
でも、その言葉は、部屋戻ってからも彩の頭の中に残った。
⸻
数日後。
深夜二時。
莉音の泣き声が遠くで聞こえる。
いつもより切迫している、気がする。
彩はベッドから起き上がる。
迷う。
出るか。
出ないか。
——関係ない。
そう思う。
でも泣き声は、止まらない。
ドアを開けると廊下には、すでに茜が立っていた。
「莉音、救急行くって」
「車で?」
「貴子さんが出すって」
階下に降りて玄関を見ると、貴子が真剣な顔で鍵を持っている。
「彩、早苗の部屋、少し片付け手伝って」
自然な指示。
逆らえない声。
「……はい」
気づけば、涼子さんと一緒に早苗の部屋にいた。
タオルをまとめる。
共用の氷嚢をキッチンの冷凍庫に戻す。
床の玩具を端に寄せる。
見られたくない、触られたくないものもあるだろうから、自分がやるのは最低限の片付けとも言えないような片付け。涼子さんに指示されたことだけ。
でも――
帰ってきたとき、少しでも楽なように。
それは、昔、誰かにしてほしかったことだ。
⸻
翌朝。
莉音は無事。ただの風邪だったようだ。
「昨日、ありがとう」
早苗がわざわざ部屋に来て頭を下げる。
彩は視線を逸らす。
「……別に」
本当は、少しだけ眠い。
でも、胸の奥は静かだった。
椅子に座る。
パソコンを開く。
キーボードを叩く。
いつもの世界。
けれど、何かが違う。
莉音の笑い声が聞こえてきた。
今日は保育園に行ってないようだ。
笑い声が重なる。涼子さんか、早苗か。
彩は、ヘッドホンをつけないまま、作業を続けた。
音がある。
生きている音。
一人ではない音。
それが、思っていたよりも、悪くなかった。
⸻
ある日、食堂に行くと果歩が一人で夕食を食べていた。
納期が近くて仕事に集中していたら涼子さんに「ご飯食べちゃって」と呼ばれた。
ここに住んでから食事を摂るのを忘れたことがない。必ず涼子さんに呼ばれるから。
いつもこの時間なら食堂には誰もいないのに、と思ったけれど、果歩も誰もいなくなったのを見計らって食べに来たのかもしれない。
少し、気まずい。食べるスピードを上げる。
夕食を食べながら、果歩がぼそりと呟いた。
「彩さんって、かっこいいですね」
「……は?」
「仕事できるし。一匹狼って感じで。孤高っていうか」
違う。
それは、ただの逃げ道だ。人付き合いを避けて、コードだけに逃げて、成果で黙らせているだけ。
「……かっこよくないよ」
小さく言う。
「そうですか?」
果歩は首をかしげる。
「私、彩さんがこの寮にいてくれてよかったです」
彩は視線を逸らす。
「……Wi-Fi、また切れたら呼んで」
それだけ言って席を立ち、部屋に戻る。
ドアを閉める。
背中を預ける。
静かな部屋。
でも、もう完全な孤独ではない。
壁の向こうに、誰かがいる。
それを知っている。
それだけで、世界は少しだけ、優しかった。




