智美の場合〜 金曜日の灯り
月曜の朝五時、智美は寮を出る。
まだ誰も起きていない時間。食堂の電気も消えている。
玄関で靴を履きながら、ほんの少しだけ振り返る。
古い廊下に薄い壁。階段の手すりの傷。
管理人室から涼子さんが出てくる。
「おはよう」
「おはよう涼子さん」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「いってきます」
そう言葉を交わして玄関を出る。
——また金曜に帰る。
それだけを思って、スーツケースを引く。
⸻
出張生活は、慣れれば単純だ。
新幹線。
ホテル。
客先。
会議。
トラブル。
謝罪。
調整。
資料修正。
ホテル。
それを繰り返す。
出張手当は悪くない。ホテルのポイントも貯まるし、飛行機を使えばマイルも貯まる。
でも、どの街の夜景も同じに見える。
ホテルでコンビニ弁当を食べながら、スマホを見る。
オンボロ館のグループチャット。
【涼子】
今日は肉じゃが。智美いないけど写真送るね。
写真には湯気の立つ鍋。
思わず笑う。嫌がらせか。
——帰りたい。
そう思える場所があることが、少し不思議だった。
⸻
金曜の夜。
寮の玄関を開けると、匂いでわかる。
今日は焼き魚だな。
「おかえり!」
涼子さんの声。
「ただいま!」
大きな声で言うとスーツケースを放り出し、食堂へ直行。
「はい、まずはこれでしょ」
差し出される缶ビール。
「最高」
プシュッと開ける音。
一週間の緊張がほどける。
カウンターには茜。
「今週はどこ?」
「広島」
「お好み焼きは?」
「食べる暇なし」
「もったいない」
他愛ない会話。
でも、それがいい。
⸻
智美がこの寮を選んだ理由は単純だった。
「ほとんど家にいないんで、安いとこでいいです」
会社にそう言った。
どうせ月曜から金曜はホテル。家は寝るだけ。
マンションタイプも見た。
きれいで、静かで、完璧。
でも、金曜の夜に帰る部屋が真っ暗なのを想像して、やめた。
ここなら、灯りがある。
誰かの声がする。
それだけで十分だった。
⸻
ある日の金曜。
帰ると、食堂が静かだった。
「どうしたの?」
涼子さんの顔が曇る。
「果歩がね、ちょっと」
部屋で泣いているという。
理由は聞かなくてもなんとなくわかる。
新人。
慣れない仕事。
ミス。
叱責。
そんなところだろう。よくある。自分も通ってきた道だ。
でも、初めてのときは世界が終わるみたいに感じる。
智美は冷蔵庫から二本ビールを取り出す。
「ちょっと行ってくる」
廊下を歩く。
ノック。
返事はない。
「カホー、金曜だぞー」
沈黙。
「私のビール、一本あげる」
中で、すすり泣きが止まる気配。
ドアが少し開く。
目が真っ赤。
「いりません……」
「じゃあ、私が二本飲む」
無理やり部屋に入る。
部屋にはまだ段ボールが残っている。
「で?」
果歩はぽつりぽつりと話す。
仕様の認識違いがバグとなり、インシデントとなる。
上司の言葉。
自分の無力さ。
智美は黙って聞く。
アドバイスはしない。
説教もしない。
ただ、言う。
「私、三年目で大炎上やらかしたよ」
果歩が顔を上げる。
「マスタの設定ミスでシステムの一部が動かなくなった」
「……それで、どうしたんですか」
「私はひたすらリカバリ。マスタ戻して、データの整合性確認して、影響範囲の調査して。偉い人たちが頭下げに行ってた」
あはは、と明るく笑う。果歩はじっとこっちを見ている。
「でもさ、なんとかなったから」
「……なんとかなるんですか?」
「だいたいのことはなんとかなる」
しばらく沈黙。
「金曜はね」
智美は言う。「一週間、生き延びた日なんだよ」
果歩は、少しだけ笑った。
「……じゃあ、ビールください」
「ごめん。二本とも飲んじゃった」
果歩を食堂に連れていった。
涼子さんが黙って味噌汁を出す。
湯気が立つ。
果歩は、それを両手で包む。
その姿を見て、智美は思う。
——この家は、避難所だ。
戦場は外にある。
客先。
会議室。
数字。
評価。
でも、ここは違う。武器を置いて休んでいい場所。
⸻
ある日、美咲がぽつりと言った。
「智美さんって、家なくてもいいですよね」
「ひどくない?」
「ほぼホテル暮らしじゃないですか」
確かにそれは事実だ。
「でもさ」
智美はビールを揺らす。
「金曜の夜に“ただいま”って言える場所、他にないんだよね」
美咲は少し考えてから、頷いた。
「……わかる」
壁の向こうに人がいる安心感。
それは、出張続きの智美が求めているものだった。
⸻
智美に昇進の話が出た。
給料が増える。責任も増える。
それは、悪くない。
だが、それに伴ってここから少し離れた支社に行くことになる。
同じ県内だしオンボロ館に住み続けることもできるが、出社する時には少し時間がかかる。
上司からは支社の近くへの引越しを勧められた。
普通に考えて、出社する日が少ないとはいえ支社近くに引越しするのがベターだろう。
でも。
金曜の灯りは、なくなる。
涼子の味噌汁。
貴子の笑顔。
茜の小言。
美咲の愚痴。
早苗と莉音の笑い声。
香織のツッコミ。
彩の存在感。
果歩の不安そうな目。
どうする?
金曜の夜十時。いつものように食堂のカウンターでビールを飲む。
涼子さんはもう部屋に戻ったが、さっき帰ってきた貴子さんが背後のテーブルで夕食のおかずをつまみに晩酌中だ。
「どうしたいの?」
貴子さんが聞く。私の心の中を読んだような突然の問いに驚いて振り返る。
「出るの?出ないの?」
貴子さんは全てを知っているのだろうか。
貴子さんが実はお偉いさんだという噂を聞いたことがある。でもそんなお偉いさんがこんなオンボロシェアハウスに住んでるわけがないし、私のような末端の昇進の話を知ってるわけがない。
帰ってきたときに少し涼子さんの前で愚痴っちゃったから、そこから伝わったかな。
「もうちょい、ここに住もうかなって」
そう言って少し笑う。
「そう」
貴子さんからはそれだけ。
理由を聞かれたら答えただろうか。
金曜の灯りを、もう少しだけ守りたかった。
そんな感傷じみた言葉はお酒が入っていたとしても言えそうにない。
月曜の朝五時。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
今日もまた出張に向かう。
でも知っている。
金曜にはまた「おかえり」と迎えてくれる家があることを。
戻る場所があることを。
オンボロ館の玄関灯は、今日も消えない。




