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美咲の場合〜 鏡の中のわたし

 戦いは朝から始まる。

 このシェアハウスの共用スペースの洗面所は広くて鏡も大きい。

 美咲は洗面所の端を陣取る。


「そのアイシャドウ、新作?」

 後ろから香織の声。オンボロ館の中では年齢が近く、一番よく話すのが香織だ。

「うん、そうだよ」

「また買ったの?」

「これが私の仕事道具だから」


 即答。

 営業は第一印象が命だ。

 相手に軽く見られず、威圧もせず、話しかけやすく見える。その絶妙な(ライン)を狙う。

 身体に合わせて仕立てたスーツ。

 一日中歩き回っても足に悲鳴を上げさせないハイヒール。

 上質だがブランドを主張しすぎないバッグ。

 指先には控えめなベージュのフレンチネイル。

「素顔がきれい」と思わせるためにベースメイクだけで三十分かけたナチュラルメイク。

 

「仕事ができそうな女性」に見せるための、毎朝の戦闘準備。



 入社三年目だけど営業成績はなかなか良い、と自分では思っている。でも最初の一年は地獄だった。

 

「若いねえ」

「彼氏いるの?」

「今度食事でもどう?」

 商談の場で、そんな言葉を投げられた。

 笑ってかわす。けれど帰りのトイレで吐きそうになる。


 それでも、数字を出した。結果で黙らせるしかない。

 だから、外見も整える。お金と時間をかけて。

 親しみやすさを演出するが、舐められないよう甘さは見せない。



 オンボロ館を選んだ理由は、単純だ。


 お金。


 スーツも靴もバッグも高い。化粧品も消耗品だ。家賃に回す余裕はない。


「食事付きでこの値段は神ですよね」

 朝食を食べながら茜と話す。

「浮いた分、貯金すれば?」

 茜にそう言われる。というかみんなに言われる。でも

「投資してます」

 胸を張ってそう答える。

「何に?」

「自分に」

 茜はため息をついた。



 美咲は、よく夕食を抜こうとする。

「今日いりません」

 そう言って部屋に戻る。


 身体に合わせて仕立てたスーツだから太れない。常にベストな体重をキープしなくてはならない。

 それなのに。

「降りてきなさい」

 涼子さんの声。

 階下から聞こえていたはずの声は、ドアの向こうまで近づいた。


「いらないです」

 そう答えるけれど

「お味噌汁だけでも」

「……」

「食事抜いて倒れたら困るのは誰?」

 涼子さんも困るだろう。体調を崩した人が出たらいつも看病してくれる。

 でもそういうことではない。困るのは、自分。

ずるい。


 結局、食堂に行く。

 具沢山の味噌汁ときんぴらごぼうに薬味たっぷりの冷奴。ご飯はいらない。お肉もいらない。


「それでいい」

 涼子さんは、それ以上言わない。

 ありがたい。そして、少し悔しい。


 食堂には彩がいた。

「そのやりとり、何度目?」

 そう聞かれるが、数えきれないくらいしている。

 無言でいると、珍しく話を続けた。

「ここに住んでる限り、食事は絶対食べさせられる」

 それはわかっている。

 朝食だって「何か一口でも食べて行きなさい」と口に入れられる。


 それが嫌なら出ていけばいいだけ。

 出て行かないのは、このやりとりがどこか実家みたいで心地いいから。

 涼子さんに甘えているだけなのかもしれない。

 


 ある日、取れる手ごたえを感じていたはずの大口の案件が、競合に取られたことを知った。

 上司は言った。


「まあ、仕方ない」


 でも、その目は違った。

 きっと美咲に期待していた。

 美咲も期待していた。自分に。


 帰り道、ヒールがやけに重い。徒歩五分の道のりも普段より長く感じる。

 やっとのことで辿り着いたオンボロ館の玄関を開ける。


「おかえり」

 涼子さんの声。

「……ただいま」

 笑えない。取り繕えない。

 水を飲もうと食堂に入ると、早苗が莉音にご飯を食べさせている。


 いつもの光景。なのに、今日は刺さる。

 ——私は、ここで何してるんだろう。

 食堂を出て部屋に戻ろうとしたとき。


「美咲」

 涼子さんが呼ぶ。

「ちょっと手伝って」

 キッチンに入ると玉ねぎを渡され、みじん切りにするよう言い付けられた。手を洗って包丁を握る。

 無言。

「泣いてる?」

「玉ねぎです」

「そう」


 しばらくして、涼子さんが言う。

「営業はね、断られる仕事よ」

 手を止めて涼子さんの顔を見る。

「何も知らないくせに知ったようなこと言うなって思った?こう見えて私、昔は営業部にいたのよ。貴子には勝てなかったけど、それなりの成績だったんだから」

「知らなかった」

 涼子さんが元社員だったことも、貴子さんが営業にいたことも。

 みじん切りを再開する。

「誰にも言ってないもの。ーー今日は大きな案件を失注したのかしら」

「なんでわかるんですか」

「ただいまの声を聞けばそれくらいわかるわよ」


 再び目の前が歪む。


「営業はね、断られた数だけ強くなれるのよ」

「なんですかそれ」

「若い頃の貴子の口癖」

 そう言って涼子さんが「ふふふ」と笑う。つられて私も笑顔になった。涙も止まった。

「私から言えることはひとつだけかな」

 また手を止めて涼子さんを見る。


「戦うには、食べること」

 それだけ言って、涼子さんは鍋をかき混ぜる。

 説教ではない。でも、しっかりと刺さった。


 その日の夕食は珍しく、全部食べた。

 ご飯も。肉も。味噌汁も煮物も。

 みじん切りにした玉ねぎは、トマトと一緒にサラダになっていた。


「珍しい」

 香織が笑う。

「明日は商談?」

 ひとつ逃してもまた次の案件が待っている。

 明日からはまた新たな戦いが始まる。

「うん」

「がんばれ」

 軽い。

 でも、温かい。


 翌日。

 美咲はいつもより少しだけ自然に笑えた。

 完璧じゃなくてもいい。失敗しても、帰る場所はある。

 それを知っている営業は、少し強い。



 冬。

 オンボロ館でクリスマス会をやった。


 莉音のため、と言いながら、全員が少し浮かれている。

 美咲はケーキを買ってきた。

 少し高いやつ。それを見て香織が言う。

「あれ?予算オーバーじゃない?」

「オーバー分は私の自腹」

「おぉ〜さすが営業のエース!太っ腹!」


 写真を撮る。撮った写真を見ながら笑う。

 写真の中のみんなも笑っている。春にはあれだけ暗かった果歩も笑顔だ。

 美咲はふと思う。


 写真の中の私の笑顔は営業用じゃない。作っていない。

 毎朝見る鏡の中の自分より、少し柔らかい。

 悪くない。



 新しい案件を取った。大口だ。

 帰ってきて、玄関で叫ぶ。


「ただいまー!取りましたー!大きいやつ!」

 食堂から拍手。

 涼子さんが笑いながら食堂から出てくる。

「おめでとう」

 その瞬間、思う。

 ——ここでよかった。

 マンションタイプは、きれいかもしれない。

 でも、契約に成功しても誰も一緒に喜んでくれない。

 拍手も「おめでとう」もない。

 

 このオンボロ館は、古くて、壁も薄い。

 でも。

「ただいま」と言えば、「おかえり」が返る。


 鏡の中の自分だけじゃない。弱い自分も、涼子さんに甘える自分も、泣く自分も。

 全部、ここでは否定されない。

 

 美咲はヒールを脱いで靴箱にしまう。靴箱はいつも美咲の場所だけぎゅうぎゅうだ。

 素足で廊下を歩く。少し冷たい床が、現実に引き戻す。


 戦場は外。

 でも、ここは補給基地だ。

 

 明日も、戦える。


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