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香織の場合〜 出ていくはずだった部屋

 香織は、入居して最初の半年間、毎日思っていた。


 ——こんなところ、早く出たい。


 五年前、入社一年目の時。

 配属は経理。数字は好きだった。整っているから。


 でも、この寮は整っていない。


 廊下は軋む。

 風呂は順番待ち。

 隣のくしゃみまで聞こえる。


「無理……」


 初日の夜、そう呟いた。

 住人たちはみんないい人。それはわかる。でもこんなところ無理だ。

 一人、部屋にこもる。孤独なのに、静かじゃない。

 最悪だと思った。


 入居して三ヶ月後、退居する人の送別会があった。

 羨ましいと思った。

 結婚を機に出ることになったようだが「まだここに住んでいたかった」と泣いていた。意味がわからなかった。

 代わりに私が出て行きたい。そう思っていた。

 


 転機は、一年目の秋だった。

 残業続きで、半期決算前の修羅場。

 数字が合わない。


「もう一回確認して」


 上司の声は冷たい。

 ミスではない。でも、原因がわからない。

 日付が変わる頃に帰る。足が重い。


 食堂はまだ明かりがついていた。


「おかえり」

 涼子さんが言った。


「……ただいま」

 その声で、涙が出た。

 驚いたのは自分だった。

 泣くつもりなんてなかったのに。


「何かあった?」

 頷く。

 言葉にならない。

 涼子さんは、何も聞かずに味噌汁を温め直した。

 湯気が立つ。


「飲んでから考えましょ」

 それだけ。

 その夜、香織は初めて「ここにいてもいい」と思った。



 香織には彼氏がいる。付き合って三年。


「そろそろ一緒に住む?」

 そう言われている。普通なら、嬉しい言葉だと思う。私も嬉しかった。でも、迷っている。


「まだあのシェアハウスにいるつもり?」

 彼は言う。

「うん」

「不便じゃない?」

 少しだけ、棘がある。

 彼は悪くない。ただ、知らないだけだ。


 オンボロ館の、夜の匂いを。

 金曜の笑い声を。

 涼子さんの味噌汁の温度を。


 付き合い始めたばかりの頃、彼がオンボロ館の前まで迎えに来たことがある。

 古い外観を見て、少し黙る。


「……ここ?」

「うん」

「思ってたより……」

 言葉を濁す。


 恥ずかしい、と思う自分がいる。

 でも同時に、腹も立つ。

 ここは、簡単に見せたくない場所だ。



「そろそろ一緒に住む?」と言われてから数日後のある夜、貴子さんに呼び止められた。


「悩んでる?」

 鋭い。

「顔に出てます?」

「少し」

 観念して話す。


 同棲の話。

 将来のこと。

 ここを出る日が来るのが怖いこと。


 貴子さんは静かに聞く。

「出ていくのは悪いことじゃないわ」

「……はい」

「でも、“逃げる”のと“選ぶ”のは違う」

 胸に落ちる。

「あなたはどっち?」

 即答できない。



 今年もまた、決算に追われる日々を過ごす。入社して五年も経つと決算期の忙しさにも慣れる。

 彼のこと、同棲のことは忘れて仕事に集中する。

 早苗も莉音ちゃんの保育園のお迎えを涼子さんに頼んで残業している。

 数字はぴたりと合った。

 達成感。


 早苗と喋りながら帰る。

 オンボロ館の玄関を開けて「ただいま」と言うと「おかえり」の声。

「ままー!」

 と莉音ちゃんが玄関まで走って出迎える。早苗はそのまま莉音ちゃんと手を繋いで階段に向かって行った。

 

 香織はそれを見送ってから食堂に入る。

 食堂の椅子にドスンと腰を下ろし、「やっと終わったよー」とため息混じりに言う。

 食堂にいたみんなに拍手された。


「よっ!経理の女王!」

 智美から声が上がる。

「やめて」

 笑う。


 その夜、彼からメッセージ。

《物件見に行かない?》

 香織は、少し考えてから返信した。

《まだいい》

 送信。

 不思議と、後悔はなかった。



 四月末。

 今年の新入社員の果歩が昔の自分と同じ顔をしている。

 少しだけ、お節介を焼きたくなった。

「ここには慣れた?」

 その問いに黙って首を横に振る。

「わたし、やっぱり無理かも」

 ぽつりとこぼす果歩。

 入居したばかりの頃の自分と同じ。

「何が?」

「距離感とか……壁薄いし……」

 笑う。

「わかる」

「え?」

 即答すると果歩が驚いたようにこちらを見る。

「私もこんなところ出ていきたいってずっと思ってた」

 果歩は驚く。

「そうなんですか?今は?」

「出たくない」

 本音だ。

「なんで心変わりしたんですか?」

「居心地いいから」

「……居心地、いいですか?」

「壁が薄くてプライバシーもないのに、どこが居心地いいんだって思う?」

 果歩は目を伏せる。同意したいけど、居心地がいいって言い切ってる私の前で頷くのは躊躇っているのだろう。

 周囲に気を遣えるいい子だ。


「私もそう思ってたからよくわかる」

 少し考えて果歩に問いかける。

「自分の弱いところ見せるの怖いでしょ」

「……そう、ですね」

 果歩は黙る。

「マンションだとね、泣いても誰も気づかないよ」

 壁は厚い。プライバシーは完璧。


「でもここはね、泣いたら味噌汁が出てくる」

 果歩が笑う。

「すごいシステム」

「でしょ」


 建物の古さや壁の薄さで、入居してすぐ「早く出て行きたい」と思う人は少なくない。

 茜さんがそう言っていた。

「香織のように住み続ける人もいるけど、すぐ出ていっちゃう人の方が多いわね」

 それはここに住んで五年の香織でも、何度か見てきた。


 果歩は“逃げる”だろうか。それとも“選ぶ”だろうか。



 彼とは、まだ付き合っている。

 いつか出ていく日も来るかもしれない。

 でも、それは「寂しいから」でも「恥ずかしいから」でもない。

 自分で選ぶ日。


 それまでは、この八畳は、香織の城だ。

 出ていくはずだった部屋。

 でも今は、帰りたい部屋。


 廊下の軋む音が、今日もする。

 それが、安心の音だと知っている。


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