早苗の場合〜 帰る場所
保育園の玄関先。4月は真新しい靴の匂いがする。
「ママ、きょうね、りおんね、おりょうりのえをかいたの」
小さな手に握られた画用紙を受け取りながら、早苗は笑った。
画用紙には皿と思われる大きな◯の上に乗った黄色い何か。オムライスかな。
そしてその横に立つ女の人の絵。
「そうなんだ。これは?」
私ではないんだろうなと思いながら莉音に聞く。
「りょうこせんせい!」
思わず吹き出す。
「先生じゃないよ。涼子さん」
「りょうこせんせい!」
訂正する気はないらしい。
園庭の桜はもう散り始めている。夕方の光の中で、早苗は娘の手を引きながらオンボロ館へと歩いた。
古びた鉄骨三階建て。シェアハウスとは名ばかり女子寮のような場所。
外壁は色あせ、郵便受けは斜めになっている。
——本当は、ここに住むつもりはなかった。
二年前、離婚してシングルマザーになった時、子どもを抱えて実家に戻ることも考えたが、今の会社をやめて実家のある田舎に戻ったとして就職先があるのか。あったとしても今より給料は下がるだろう。
今の会社はそれなりに給料が良く、福利厚生も充実していた。
今どきの会社では珍しく社宅もあるのだが、マンションタイプは満室だった。
代わりに紹介されたのが、ここだった。
女性専用。小学生までの子供なら同居可。
風呂トイレ共同。
壁は薄い。
でも食事付き。
そして何より——
「おかえり」
玄関を開けると、エプロン姿の涼子さんが出迎えてくれる。
「莉音ちゃん、今日は何描いたの?」
莉音の持つ丸めた画用紙を見ながら涼子さんが言う。
「りょうこせんせいとめだまやき!」
画用紙を開いて自信満々に涼子さんに見せる。
「わぁ、上手!」
大げさなほどに褒める涼子さん。
そうか、目玉焼きだったのか。白い◯は皿じゃなくて白身か。
早苗はそのやり取りを見て、肩の力が抜けるのを感じた。
ここに住んで一年半。この建物は、いつの間にか「仮住まい」ではなくなっていた。
⸻
夕食は鯖の味噌煮とほうれん草のおひたし、里芋の煮付けに味噌汁。
食堂には数人の姿。
金曜に出張から帰ってくる智美が缶ビールを開けている。
「お、リオンちゃんおかえり!」
「ともみー!」
抱きつく莉音。ここに住む子供は莉音だけで、泣き声とかでたくさん迷惑をかけていると思うが、みんな優しく接してくれてありがたい。
「早いのね。出張どうだった?」
早苗が尋ねると、智美は肩をすくめる。
「今週は名古屋。名古屋メシよりここのご飯のほうがうまい」
「またそんなこと言って」
涼子さんが笑う。
食堂のテレビではニュース。
彩の姿はない。いつものことだ。
「彩さん、今日も部屋?」
「納期が近いんだって。降りてこないようなら後で呼ぶよ」
涼子さんが答える。
早苗は少し羨ましいと思う。
ひとりで集中できる時間があるということが。
平日も休日も、社会人の自分と母親である自分の境界線は曖昧で、本当の意味で一人になることは難しい。
夕食後、莉音が涼子さんの膝で眠りかけている。
「ごめんなさい」
「いいのよ。莉音ちゃん、いい子だもの」
「……迷惑じゃない?」
ぽつりと出た言葉。
涼子さんは少しだけ真顔になった。
「迷惑なら、最初から受け入れてないわ」
その声には揺るぎがない。
早苗は、目の奥が熱くなるのを感じた。
⸻
ある夜、莉音が熱を出した。
三十九度。
夜中の二時。
タクシーを呼ぶか迷っていると、ノックがあった。
「大丈夫?」
隣室の茜だった。
「声、聞こえたから」
壁は薄い。
でもそれが救いになる夜もある。
「私、車出すわ」
貴子さんが車の鍵を持って玄関にいた。
結局、三人で病院へ行った。
翌朝。莉音の熱は下がったけれど、まだ体調は良くなさそうだ。
「今日はリモートにしたら?」
涼子さんが言う。
「でも——」
「会社に行っても集中できないでしょ?私が部屋で莉音ちゃんを見てるから、食堂で仕事したら?」
食堂で仕事をしていたら同じ経理の香織からTeamsでメッセージが届く。
『莉音ちゃん大丈夫?』
――大丈夫。迷惑かけてごめんね
『お互いさまだよー。気にしないで』
香織が迷惑かけることなんて、ここでも会社でも全然ないのに。
涙で画面が歪む。
みんなの優しさにどう恩返ししていけばいいんだろう。
夜。
莉音が眠ったあと、早苗は三階のサンルームという名の物干し部屋からベランダに出る。
経理の早苗でもお母さんの早苗でもなく、ただの早苗になれるほんのわずかなひととき。
遠くに光る夜の街。
高層マンションの明かりが見える。
あっちはきれいで、静かで、プライバシーも守られている。
でも――
「移りたい?」
背後から声。
貴子さんだった。
部屋着にカーディガン。
「え?」
「家族向けのマンション。空いてるわよ」
さらりと言う。
貴子さんは情報通だ。
社内のことに妙に詳しい。
早苗は少しだけ考える。
「……いいえ」
小さく、でもはっきり。
「ここがいいです」
貴子さんは微笑む。
「そう」
それ以上何も言わない。
風が吹く。
オンボロ館の外壁がきしむ。
早苗はその音が、なぜか好きだった。
帰る場所がある音だと思った。
⸻
保育園の発表会。
莉音は舞台で大きく口を開けて歌を歌っている。
客席には早苗の隣に、涼子さん。後ろには智美。隣の席には香織。
「ご家族ですか?」
受付で聞かれたとき、少し迷った。
「……はい」
嘘ではない。血縁ではないけれど。
オンボロ館は古い。
壁は薄い。
部屋も狭いしプライバシーも曖昧。
でも。一人で子どもを育てるには、広すぎる世界よりも、少し狭いくらいのほうがちょうどいい。
今日はみんなで一緒に帰ろう。
オンボロ館の灯りは、今日も消えない。
帰る場所がある限り。




