果歩の場合〜 人の気配
タクシーから降りて呆然と建物を見上げていると、五十代くらいの女性が玄関から出てきた。
「内田果歩さんかしら?」
「はい。そうです」
「私はこのオンブローム館の管理人の高田涼子。引っ越しの荷物は?」
「あ、えっと、昼過ぎに到着予定で」
「じゃあ先にお部屋を案内しますね。こちらにどうぞ」
玄関の左右の壁には大きな靴箱があった。
「右側のこの段、横一列が果歩さんの302号室用ね。ここに収まりきれない場合は部屋で管理してね」
一段に七〜八足は置けそうなので、たぶん問題ない、かな。
スペースに余裕のある段もあれば、みっちり詰まった段もある。一番下の段には小さな子供の靴。
ん?子供?子供もいるの?単身者用じゃなかったっけ?
「今日は来客用のスリッパだけど、必要なら自分で室内履きを用意してね」
「……はい」
混乱しつつ、管理人さんの後をついて歩く。
総務の女性が言っていたように、古いけれど清潔感のある室内。廊下は軋むけどピカピカに磨き上げられている。
「一階は共同で使う場所になっているの」
管理人さんの案内で設備の説明を受ける。
リフォームされているのか、古臭さは感じられない。建物の外側は昭和なのには内側は平成――令和ではない。やっぱりどこか古い。
三階の302号室。
そこが果歩の部屋だった。
廊下を歩いていると、どこかの部屋から笑い声が聞こえた。
部屋に入っても壁の薄さが気にかかる。
「隣の音とか、聞こえますよね」
「そうね。古いから。あまり騒がないようにしてもらえるとありがたいわね」
嫌だな、と思った。壁があるのに距離が近い。
――私、ここでやっていけるのかな。
果歩はそう思った。
午後二時。引越しのトラックが来て荷物を運び入れる。
もう少し、荷物を少なくすれば良かった。
果歩はそう思いながらダンボールを開けて服を取り出す。
隣からは音楽が聞こえる。
どんどん落ちていく気持ちに比例するかのように、動きが鈍くなる。のろのろと服をクローゼットにしまい、またダンボールを開ける。
早くマンション空かないかな
初日からそう思った。
夕方、夕食を食べないかと涼子に誘われた。
「今日は初日だから料金は取らないわ。私の味を確認して、自分で作るかどうか決めてね」
そう言って食卓テーブルに料理を並べる。
シェアハウスの住人たちも続々と食堂に集まってくる。
「あれ?彩は?」
「あー。今日くらいはみんなで一緒にって言ったのに。呼んでくる」
みんな、仲がいい。疎外感を覚える。
ご飯を食べながら、ひとりひとり自己紹介していく。
同じ三階に住む貴子さん。涼子さんと同じくらいの年齢に見える。
隣の部屋の智美さん。「システム部でSIしてます。アラサーです」と言うと誰かから「三十代の方ね」と声がかけられる。こういう馴れ合いが、苦手だ。
智美さんは月曜から金曜まで出張で週末しか部屋にいないという。助かった、と思った。
反対隣の部屋は美咲さん。営業部のキラキラした美人だ。こういうタイプの人がオンボロ館に住んでいるのは意外だった。
二階に住むのは早苗さんと莉音ちゃんの親子。シングルマザーだそうだ。
靴箱の小さい靴の謎が解けた。
香織さんは経理部。智美さんに「アラサー」と言われて「私は二十代なんで」と言い返していた。ズバズバ物を言うタイプのようでちょっと苦手だ。
茜さんは総務部。どうやら電話でこのオンボロ館を勧めたのが彼女らしい。年齢は言わなかったけれど、四十代くらいに見える。
そして最後に食堂に来た彩さん。名前だけ名乗って自己紹介が終わった。無愛想で馴れ合わなさそうなタイプ。みんなが楽しそうに喋る中で、我関せずというように黙々とご飯を食べている。少し、心強い。
住人たちはみんな、この家を「オンブローム館」なんて呼んでなかった。やっぱり「オンボロ館」だった。
そしてみんな口を揃えて「壁が薄い」という。
「くしゃみの音も聞こえる」
「智美のくしゃみはオッサン臭いのよ」
「笑い声もね」
なんでみんな笑っていられるのだろう。
自分の生活音を聞かれるのも、他人の生活音を聞くのも、なんで気にせずにいられるのだろう。
わいわいがやがやと食事の時間が流れていく。
涼子さんには味を確認してって言われたけど、味が感じられないくらい、緊張していた。
愛想笑いで顔の筋肉が痛い。
早く部屋に戻りたい。一人になりたい。そう思った。
――
やっとのことで部屋に戻る。
一人になっても一人じゃない。
人の気配を感じる。
実家にいた時だって部屋に篭れば一人になれた。
でもここは違う。
隣から聞こえる生活音。
笑い声。
廊下の軋む音。
もう嫌だ。
ここから出たい。
荷解きが済んでいないダンボールに囲まれたまま動けない。
涙が出てきた。
声を出さないように泣く。声を出したらきっと隣に聞こえてしまうから。
ここから早く出て行きたい。




