果歩の場合〜 消えない灯り
果歩は、ずっと「薄い」人生を生きてきた。
家族との距離は薄い。たまにLINEのやりとりをするくらい。
地元とのつながりも薄い。友人関係も、浅く広く。
喧嘩もあまりしない。深く傷つくこともないし深く踏み込むこともない。
それが普通だと思っていた。
だからこのシェアハウスは、うるさすぎた。
壁が薄い。
音が近い。
匂いが混ざる。
人の気配が常にある。
最初の夜、眠れなかった。
隣の咳。廊下の足音。どこかの笑い声。
「無理……」
布団の中で呟いた。
早く出たい。マンションタイプに移りたい。
もし空いたらすぐにここを出ていく。
そう決めていた。
⸻
九月。
仕事で初めて大きなミスをした。
仕様の確認不足。仕事にも少し慣れて慢心していたのかもしれない。
チームに迷惑をかけた。
「次から気をつけて」
上司の声は穏やかだった。
でも、自分の中では上司の声が何度もリフレインする。
帰り道、スマホを見ながら考える。
友人に話すほどでもない。親には言えない。
言葉にするほどの関係が、なかった。
寮の玄関を開ける。ただいま、という声すら出ない。
「おかえり」
涼子さんの声が聞こえた。
ただそれだけで、涙が出そうになった。
——なんで?
わからない。ここは仮住まいのはずなのに。
部屋で泣いていたら智美が乗り込んできた。
そうか。今日は金曜日だった。
勝手に部屋に入られるのは嫌だったけれど、追い出す元気もなかった。
友人に話すほどでもないと思っていたけれど、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
話が終わっても、慰めの言葉や励ましの言葉はなかった。
自分の失敗談と「だいたいのことはなんとかなる」という言葉。
いいかげんな人だな、と思ったけれど少しだけ心が軽くなった。
食堂に連れて行かれて味噌汁を飲む。
――「ここはね、泣いたら味噌汁が出てくる」
以前香織から言われた言葉を思い出して笑ってしまった。
味噌汁と「だいたいのことはなんとかなる」という言葉が体に染み込んでいくのを感じた。
⸻
少しずつ、音の意味が変わっていった。
早苗の「いってきます」は、朝の合図。
莉音の笑い声は、夕方の終わり。
智美のスーツケースの音は、週末の始まり。
美咲のドライヤーは、夜の一区切り。
香織の深夜帰宅は、月末。
彩のキーボードは、静かな支え。
茜の早起きは、安心の証。
そして、貴子さんの足音は、重心。
最初は騒音だったものが、だんだんと生活になった。
⸻
秋の夜。
ベランダで、遠くのマンションの灯りを見る。
きれいだ。静かだ。
そう思う気持ちは春先と変わらないけれど、焦燥感のようなものは無くなっていた。
「移りたい?」
背後から貴子さんの声がした。
年度末には必ず空く、と。
選べる。
その瞬間、胸がざわついた。
静かな部屋。誰にも聞かれない泣き声。誰にも知られない失敗。
他人に気を遣わない生活は楽だ。
でも、楽って、なんだろう。
他人に気を遣わない生活は、他人に気を遣われない生活だ。
⸻
冬。
果歩は風邪をひいた。
頭が痛い。咳が止まらない。鼻水も。
でも寝ていれば治る。そう思って布団をかぶる。
ノック。
「薬、ある?」
香織。
「カホちゃーん!だいじょうぶー?」
「しっ!静かに!」
莉音と早苗。
「スポドリ置いとくね。ゼリーもあるよ」
美咲。
「加湿器貸す」
彩。
「明日の朝、病院行く?」
茜。
「お粥できたわよ」
涼子さん。
ドアの向こうに、気配が積み重なる。
泣きそうになる。
――こんなにいらない。
そう思いながら、嬉しい。
矛盾している。
でも、それが本音だった。
⸻
春が近づく頃。
総務の茜さんが部屋に来て教えてくれた。
「マンションタイプ社宅に空きが出たよ。詳細はメール送っておいた」
心臓が跳ねる。
ノートパソコンを開き、メールをチェックする。
添付ファイルで物件が確認できた。
条件もいい。静かで、きれいで、快適。
申請フォームを開く。
情報を打ち込んで送信ボタンをクリックしようとしたときに指が止まった。
この一年を思い出す。
味噌汁の湯気。
金曜のビールの音。
あの部屋で泣いた。
あの部屋で笑った。
「ただいま」と言えば「おかえり」と返ってくる。
送信ボタンを押さずにフォームを閉じる。
代わりに、廊下に出る。
食堂には全員がいた。
珍しい。
「どうしたの?思い詰めた顔しちゃって」
智美が言う。
果歩は少し息を吸う。
「マンション、空いたみたいです」
一瞬、静まる。
誰も何も言わない。
決めるのは、自分だと知っているから。
果歩は続ける。
「でも……」
視線が集まる。
「まだ、ここにいます」
沈黙のあと、美咲が大げさに拍手した。
「ようこそオンボロ館へ!」
「最初からいるでしょ」
智美が笑う。
「気持ちの問題よ」
美咲がまじめくさった顔で言う。
彩は小さく頷く。
香織はほっとした顔。
早苗は「よかった」と呟き、莉音は美咲につられて拍手をしている。
茜は「合理的判断ね」と言い、涼子さんは味噌汁をよそう。
貴子さんは、ただ微笑んでいた。
⸻
夜。
自分の部屋。
八畳で壁は薄い。
でも、もう怖くない。
隣の物音は、誰かが生きている証。
果歩はベッドに横になる。
スマホを手に取り、久しぶりに母にメッセージを送る。
《元気だよ》
短い。
でも、前より少しだけ本当。
薄い人生だと思っていた。
でも違った。
深くなかっただけだ。
ここで、少しずつ、染み込んだ。
人の声。湯気の匂い。
「おかえり」という言葉。
オンボロ館は、きれいじゃない。
古いし狭い。壁も薄い。
でも、灯りがある。
壁の向こうに、誰かがいる。
果歩は目を閉じる。
廊下のきしむ音。
遠くで誰かの笑い声。
それを聞きながら、思う。
——ここで、もう少しだけ、生きてみよう。
オンボロ館の灯りは、今日も消えない。




