エピローグ 涼子の場合〜 明かりを灯す人
「涼子さん、元社員だったんですか?」
夕食の支度。豚汁に使う野菜の皮剥きを果歩に手伝ってもらっていた時に聞かれた。
「そうよ。もう三十年くらい前の話だけどね」
「貴子さんと同期だって聞きました」
「美咲が喋ったのね。そうよ。貴子と同期で営業だったの」
「えっ、すごい」
「すごいのは貴子。私は普通の営業よ」
少しだけ自分を卑下する。
もしあの時退職していなければ、貴子のようにバリバリ仕事に邁進するキャリアウーマンになれていたかしら……それは無理ね。貴子と私は違うもの。
「なんで辞めちゃったんですか?」
今時の若者らしい無遠慮さで果歩が聞く。
でも全然嫌じゃない。果歩がやっと周囲に興味を向け始めた証だから。
「寿退社――って言っても若い子にはわからないか。結婚を機に退職したの」
「えっ、でも……」
果歩は言い淀むが、続く言葉は言わなくてもわかる。
「離婚したの。出戻って実家で肩身狭く暮らしてたのを貴子に拾われて、ここの管理人をすることになったの」
「お子さんは?」
「いないわ」
つとめて明るく言う。
「……なんか、すみません」
果歩が申し訳なさそうにぺこりと頭を下げて言う。
「いいのよ。今はここのみんなが娘みたいなものだから。莉音ちゃんは孫かしら」
「そうですね。涼子さんはこの家のみんなのお母さんって感じです」
「ありがとう」
「貴子さんは……お父さん?」
首を傾げながら果歩が言う。思わずプッと吹き出して、笑いが止まらなくなる。
「ちょっと!包丁持ってる時に笑わせるのはやめてちょうだい!」
これまでに何度もこのオンブローム館は廃止が検討され、そのたびに貴子が守ってきた。
貴子はこの家を守り、支える大黒柱のような存在だから、あながち「お父さん」も間違っていないかもしれない。
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涼子は二十二歳で就職した。 配属は営業部。 同期に、貴子がいた。
「私たち、絶対トップ取ろうね」
貴子は負けず嫌いだった。今もそうだけど。
涼子もまた、負けず嫌いだった。
二人でよく飲みに行った。
どちらか大きな契約を取るか、どちらが先に主任になるか、どちらが先に結婚するか。
時には熱く、時には笑いながら語り合った。
「私は結婚しても仕事は続ける」
貴子は迷いなく言った。
「私は、子供が欲しいかな」
涼子はそう答えた。
二人の人生はその後大きく分かれていった。
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涼子は二十六歳で結婚した。 相手は取引先の二つ年上の男性。 穏やかで、真面目な人だった。
「家庭に入ってほしい」
そう言われて、迷わず頷いた。 仕事は好きだったけど、家庭も欲しかった。 両方は無理だと、当時はそう思っていた。
退職の日、貴子が言った。
「もったいない」
「そう?」
「涼子、数字持ってたのに」
「数字より欲しいものができたの」
貴子は、それ以上は何も言わなかった。 ただ、こう言った。
「困ったら、いつでも言いなよ」
その言葉を、涼子は長い間、忘れていた。
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子どもが欲しかった。
早く。 自然に。 そう思っていた。
でも、できなかった。
病院に行ってみると、できにくい体質だということがわかった。
不妊治療を始めた。注射。 薬。 タイミング。
「今回も残念ながら――」
医者の言葉に、慣れていく自分が怖かった。
夫は優しかった。 でも、優しさは、いつからか「気遣い」に変わった。 気遣いは、いつからか「距離」になった。
「無理しなくていいよ」 その言葉が、一番つらかった。
無理をしているのは、私だけなんだ。 そう思うようになった。
夫とはどんどん距離が広がっていった。
夕飯を二人で食べても、話すことがない。 同じ部屋にいても、隣にいる気がしない。
——壁がないのに、遠い。
四十歳で離婚した。
不妊が理由ではないし、浮気も、暴力も、借金もない。 ただ、すれ違った。 それだけだった。
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離婚してすぐ、貴子から電話があった。
「元気?」
「まあまあ」
「今、時間ある?」
「あるも何も、暇よ」
呼び出されたのは、会社の応接室。
貴子は四十歳にして部長になっていた。ただし古巣の営業部ではなく総務部長。
「うちの社宅の管理人、辞めるの。涼子、やらない?」
唐突だった。
「私、管理人の経験なんてないけど」
「経験より、人柄よ。涼子は綺麗好きだし料理も上手いし」
貴子は、いつも通り強引だった。 でも、その強引さが、ありがたかった。
「実家暮らしは居づらくない?」
図星だった。
「社宅に住み込みでいいから」
畳みかけられて、断る隙がなかった。
「……やってみる」
そう言うしかなかった。
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正式に会社と契約を結んだ後、貴子に聞いた。
「いつ引っ越せばいい?」
「いまリフォーム工事中で、再来月に終わる予定。工事が終わったら入ってほしいな」
「何人住んでるの?」
「今は三人。リフォーム工事中は別のところに住んでて工事が終わったら戻ってくる感じね。あともう一人増える予定だけど」
「新しく入る人がいるの?」
「私」
「部長なのに?」
「いいでしょ、ここに住めば会社も近いし涼子の手料理が食べれる」
そう言って貴子は本当に引っ越してきた。
オンブローム館はリフォームされたとはいえ、建物自体は古い。あちこちガタが来ていて管理業務もなかなか忙しかった。
住人はいつしかオンブローム館をオンボロ館と呼ぶようになっていたけど、私だけでもオンブローム館と呼ぼうと決めていた。
私より若いのに、オンボロだなんて嫌よね。
オンブローム館に住み始めてしばらくして、貴子に聞いた。
「住人目線でも、友人目線でも、総務部長目線でもいいんだけど、何か要望ある?」
貴子は少し考えてから、言った。
「ここを帰りたくなる場所にして。シェアハウスだけど住んでるみんなが家族、みたいな」
その一言が、今も涼子の中に残っている。
貴子が役員になるという話が出た時に
「さすがに役員になったら月五千円で住み続けるのは無理ね」
と言ってたから出ていくのかと思ったら
「正規料金払うわ」
と言ってまだ居座っている。
「だってここ、居心地良すぎるんだもん。私の帰る場所はここなの」
十数年前の貴子の要望は叶えられたらしい。
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貴子とは、今も友人だ。 役員と、社宅の管理人。 肩書きだけ見れば、差がある。
でも、食堂で顔を合わせるとき、そんなものは関係ない。
「今日、疲れた顔してるわね」
涼子が言うと
「会議」
貴子が答える。
「味噌汁、飲む?」
「もらう」
三十年前と同じ、飲み仲間のような空気。
貴子は、ここでは「貴子さん」。
涼子は、ここでは「涼子さん」。
肩書きも役職もない、ただの二人のおばさん。
でも、涼子は知っている。 貴子が、ここを守るために、どれだけ会議室で戦っているかを。
そして貴子も、知っている。 涼子が、ここの全員を、どれだけ見ているかを。
言葉にはしない。 必要ないから。
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夫との思い出は、時々、思い出す。 恨んではいない。 ただ、違う道を選んだだけ。
離婚を決めた日のことも、今は静かに思い出せる。 あの頃は、失ったものばかり数えていた。
でも今は。
得たものを、数えられるようになった。
いまここにいる子たちの笑顔、巣立っていった子たちの笑顔、たくさんの思い出。
それで、十分だ。
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朝五時。涼子は毎日、その時間に起きる。
誰かに言われたわけではないし、契約で決まっているわけでもない。
涼子が委託されているのは、古びたオンブローム館の管理業務と朝夕の食事作り。
肩書きも、昇給も、賞与もない。
それでも涼子は朝五時に起きる。
理由は単純だ。
おはよう、を誰かに言いたいから。
鍋に出汁を取る。 味噌を溶く。 匂いが、廊下に流れていく。
誰かが起きてくる足音。
「おはよう」
声をかける。
「おはようございます」
返ってくる声。
それだけで、今日も、この場所に灯りが点る。
「涼子」
「涼子さん」
「おはよう」
「行ってきます」
「ただいま」
声をかけられるたびに、涼子は思う。
——ここに、私の居場所がある。
オンブローム館の灯りは、今日も、涼子が点している。




